飢えの話

空殻

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雲切山の山道入口に、ひっそりと佇む鳥居がある。朱塗りは剥げ落ちて、木の地色が見えている。

鳥居をくぐるとすぐに二十段ほどの石段がある。一段一段が不揃いで登りにくいその階段を登り切った先に、生い茂る木々に囲まれて小さな社が建っている。一辺がせいぜい5メートルの、ほぼ正方形の社で、正面には賽銭箱が置いてあるが、雨風でとうに腐りきっている。社自体も既に朽ちかけていて、屋根が斜めに傾いている。

ここに祀られているのは水の神で、かつては人々が雨乞いのために参拝に訪れた。

しかし、今はもう訪れる人はなく、ここにはもう神もいない。



かつて、雲切山の裾野には、昔小さな農村があった。

村人は合わせて百人程度で、田畑を耕して作物を作ることで生活していた。


ある年、村は日照り続きになり、農作物が次々に干からびていった。

飢えを恐れた村人たちは、皆がこの社に参り、神に雨を乞うた。

だが、祀られた水神は『またか』と思った。

この村は数年に一度は日照りに見舞われ、その度に雨乞いが行われてきた。そして、神は人々の願いを聞き届け、雨を降らせてきた。

そのような経験があるために水神に対する信仰は篤かったのだが、神はその繰り返しに飽いていた。そう考える神の眼には、人々の表情も深刻さを欠いているように見える。『神様に願えば、この日照りもすぐに収まるだろう』というように思っているのだろうか。

その態度に神は少しばかり苛立った。思えば雨乞いの際にも、供え物がいつもよりも少しばかり増える程度だった。その程度の差異しか無いことが、自らの存在に対する軽視のように感じられた。

そこで神はこの年、雨を降らすことを躊躇した。いつもであれば人々が雨乞いに参拝してきた数日後には多量の雨を降らせてやったのだが、今回は十日経っても雨を降らせなかった。

初めのうちは農村の人々も『待っていればきっと雨は降るだろう』と思っているようだったが、十日経ち、十五日経ってもほとんど雨が降らないことで、次第に焦り始めた。

既に食べるものが不足していた。子供や老人、体の弱い者から倒れていった。飢えて弱った状態で、病にかかり死ぬ者も出始めた。

人々は神に必死で雨を祈願したが、神はまだ雨を降らせない。人が何人か死んだ程度では神は何も感じない。神は人を群体としてしか認識していないからだ。

二十日経っても日照りは続いた。


だが、神にとって予想外なことに、状況が苦しくなるに従って、人々は神に祈らなくなっていった。日照りになるたびに、神に祈ってはすぐに雨を降らせてもらった人々は、祈れば報われるのが当然だと思っていた。そのため、雨を降らせてくれない神に対して早々に見切りをつけた。社に参る人の数は日ごとに減り続け、やがて誰も訪れなくなった。供え物も無くなった。

そして、神が予期していなかったことがもう一つ。人々の信仰が薄れるに従って、神の力は弱くなっていったのだ。

神自身も認識していなかったことだが、神は人々の信仰心によって成立していた。信仰が無くなれば神の力も無くなっていく。

神が焦り始めたころにはもう、雨を降らす力は失われていた。


村では、飢えで次々と人が死んでいった。神も急速に弱っていった。

人々は神に向けて怨嗟の言葉を放ちながら死んでいく。

その声を聞きながら、神は思い返す。

人々に崇められていたことを当然とみなし、不満を感じたために、神は今、人々からの信仰を失った。

飽きるほどに存在していた信心はもう無い。

飢えながら、神もまた死んでいった。



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飢えの話 空殻 @eipelppa

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