第2話 傷だらけの少女
森に入ってしばらく経ち、太陽が丁度真上を通り越した頃、クリスは川沿いの木陰に腰を下ろした。
「ふう」
太い木に背中を預け、リュックから弁当箱を取り出す。
春先の少し冷たい風が汗の滲むクリスには心地よい。
弁当は先生の奥さんが作ってくれたものだ。
1人で暮らしているクリスは仕事の後によく、先生夫妻とその一人娘のエマと4人で食卓を囲んでいる。
だから入っているおかずはどれもクリスの好物で、体力を使うことを見越した濃いめの味付けがされていた。
小鳥たちが
「ごちそうさまでした」
食べ終えた弁当箱をリュックに戻す。
(この調子なら夕方までかからないな)
リュックの中は半分ほどが薬草で埋まっていた。
ふと緑の葉に埋もれる可愛らしい装飾が目に入り、エマお手製のクッキーを取り出した。
そして昨日のエマとのやりとりを思い出す。
***
先生の診療所で仕事を終えた帰りがけ、エマはクリスに声をかける。
「明日、山へ行く前に僕の家に寄ってよね」
普段から山へ行く日は奥さんが弁当を作ってくれるからエマの家に行っている。
こうして改まった要求をエマからされることをクリスは不思議に思った。
「なんでわざわざ?」
「なんででも! いいものあげるからさ、必ず来てよね。それと僕、10時には家を出ないとだから、それまでに来てね!」
エマは少しだけ顔を赤らめると、有無を言わせぬ勢いで約束を取り付けた。
その反応にクリスの謎はさらに膨らんだが、そもそも寄る予定だったし、断る理由もないので明日を待つことにした。
***
そうして今朝、エマの家を訪ねた時に渡されたのが、このクッキーだ。
その後、荷物や靴紐の確認まで世話を焼いてくれたことも思い出しながら、クッキーをリュックにしまう。
(これは後で食べよう)
満腹になりすぎるのもよくない。
クリスは再びリュックを背負い、立ち上がった。
ザッ。
背後から不自然な音が聞こえ、振り返る。
(今、何か物音がしたような……)
生い茂った草の中から生き物の気配を感じ、身構える。
小動物ならともかく、熊のような大きな動物相手では歯が立たない。
まだ肌寒く冬と春の境目にあるこの季節ならば熊は冬眠しているはずだが、用心するに越したことはない。
クリスはジリジリと後退りをする。
(エマの言う通り、2人で来た方がよかったかな……)
騎士を志し、日夜鍛錬に励む幼馴染を思い出す。
そして今朝一人で大丈夫とその誘いを断ったことも思い出し、こう言うところが頼りなく思われるんだと自省する。
それ以上深くは考えず、頭を目の前の異音とそれの対処に回す。
相変わらずガサゴソと物音がしている。
クリスは背後を見て逃走経路を考える。
(最悪の場合、川に飛び込むしかないか……)
ガサッ。
今度は確実に何かが動いた音が聞こえた。
と同時に長く美しい銀色の髪を振りまきながら、1人の少女が倒れ込んだ。
クリスはその姿を見てたじろいだ。
うつ伏せに倒れた少女の体の大部分はマントに覆われていたが、手や横顔など見える部分だけでも多数の擦り傷、切り傷、打撲があった。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて立ち寄るが少女は気を失っているようで返事はない。
他にも傷があることを確信したクリスがマントを捲ると、マントの下にも傷は無数あった。
大怪我というほどではないがいくつか出血があり、身体中がボロボロで土埃に汚れていた。
「止血しないと……それに傷口から雑菌が入ると厄介だな….」
幸いにも近くには澄んだ川がある。
クリスは少女を抱えて川岸まで運ぶことにした。
少女はエマ以上に小柄で、簡単に持ち上げることができた。
傷口を綺麗な水で洗い流し、応急箱から傷薬を取り出す。
慣れた手つきで傷薬を塗り、包帯を巻きつける。
続いて先程採ったばかりの薬草をすり潰し、打撲痕に塗る。
ありあわせの素材でできる限りの治療はしたものの、必要な治療には足りないものが多い。
クリスは彼女への対応について思案した。
ここでは必要な治療を施すための薬も設備もない。
かといって少女を抱えて山を降りるのは時間がかかり過ぎてしまう。
いっそクリスだけ山を一度降りると言う案も考えたが、それこそ動物に襲われる危険があって選択肢にはならなかった。
結局、時間をかけて彼女と山を降りる以上に良い案は思い浮かばず、クリスは少女を背負うためにリュックを体の前側に背負いなおす。
そして少女を背負うため、少女を一度木にもたれかからせた。
できる限り優しくしたつもりだったが、小さな衝撃に少女は目を覚ましたようだ。
「んんっ……くっ……いたい……」
か細く今にも消えそうな声で少女は呟いた。
クリスはすぐさま少女に声をかけた。
「目が覚めた? 痛いところはない?」
「……ない……です。これは?」
少女は混乱したように自分の腕や足に巻かれた包帯を珍しそうに見る。
「とりあえずの応急手当てはしておいたよ。勝手にごめんね。でもひどくボロボロだったから」
「ありがとうございます」
少女は伏し目がちにお礼を述べる。
「大変
少女は
少女の大きて吸い込まれそうな紅い瞳にドキッとし、慌てて目線を逸らす。
「何かあったかなぁ」
クリスはリュックをゴソゴソと漁り、エマから貰ったクッキーを取り出した。
『帰ったら感想聞かせてよね!』
エマからの言葉を思い出し、申し訳なさを感じながらも、心優しい彼女ならきっと許してくれるだろうと少女にクッキーを手渡した。
少女はクッキーを受け取ると夢中で頬張る。
「……美味しい」
ぼりぼりとクッキーを食べながらボソリと感想を呟く。
本当に美味しかったのだろう、僅かに少女の口角が上がる。
その表情は控えめながらもあどけない少女の笑顔そのものだった。
よほど空腹だったのか、瞬く間にクッキーは消えていった。
「動けそうなら一緒に山を降りよう。もっとしっかりと手当てしないと」
「そのことなのですが」
少女はクリスの顔を見つめて、丁寧に話した。
「手当てをしてくれたこと、食料を分けてくれたこと、本当に感謝しています。しかし私、山を降りることはできません。なんの恩も返せず申し訳ないのですが、ここで私と会ったことは忘れてください」
クリスの返事を待たず、少女はくるりと振り向いた。
「えっ?」
「それでは」
言い切ると同時にクリスから逃げるように一目散に走り出す。
それはつい先程まで気を失っていたとは思えない勢いだった。
クリスは呆気に取られ、一瞬反応が遅れてから少女を追いかけた。
いくら大きな怪我がないとはいえ、全身傷だらけの少女を放っておくことはクリスにはできなかった。
少女は足下など気にも止めず、枝で引っ掻いたり砂利で滑ったり、さらに傷を増やしながらも止まることなく走っていく。
躓いて転んでも転んだ勢いのままに立ちあがり更に駆けていく少女に、大きなリュックを背負ったクリスが追いつくことは不可能だった。
遠ざかっていく少女の動きを見て、クリスは彼女が傷だらけだった理由に合点がいった。
やがて少女の姿が見えなくなるとクリスはその場に立ち止まった。
そして、息を整えながら考える。
このまま山奥へ進んでしまうと、日没までに下山することが難しくなるだろう。
それはクリス自身の遭難にも直結する危険な行動だ。
だからクリスは、姿を完全に見失った少女を追いかけることは諦め、明日村の人たちと共に改めて捜索することに決めた。
春先の山の夜はかなり冷え込む。
ボロボロの服に頼りないマントを一枚羽織っただけの彼女が今夜を乗り越えられることを祈りながら、クリスは来た道をとぼとぼと引き返した。
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