第2話 朝の夢
綺羅は夢を見ていた。
まだ自分には父も母も兄もいて、もうすぐ弟が生まれるという、最も幸せな時の夢だった。
国も、民も、城も、森も、山も、何もかもが美しく、潤い、豊かだったころでもある。
家族は綺羅の部屋に集まって、今にもはち切れそうなお腹を抱えた母を囲んでいた。加羅の名前を考えているのだ。
兄の
七つ違いの兄、九羅は幼い時から聡明で、家臣たちらは神童と称えていた。このころはまだ十を過ぎたばかりのはずだったが、すでに父と共に国政に参加し、才能の煌めきを見せはじめていた。いつも穏やかで優しく微笑み、決して怒ったところなど見たことがない兄だった。
九羅が瞳を細め、優しく綺羅に問いかける。
「綺羅は、どんな名前がいいと思う?」
九羅が問う。
綺羅が何かを答えると、皆が一斉に笑い出した。
だが何を答えたのか綺羅は思い出せない。
ただ思い出すのは、大きく明るい窓から差し込む穏やかな午後の日差し、優しいみんなの笑い声、手を乗せた母の大きなお腹、ぽこぽこと時々動く不思議な感触。
次に気がつくと、瑪瑙と森の中を歩いていた。
短刀投げの練習に来たらしい。
綺羅は剣術や武術の一切を瑪瑙から習った。
最初に習ったのは護身術で、とても大きな声を出す、という練習だった。
次に習ったのが短剣投げで、安全な場所から、力の弱い綺羅でも十分な殺傷力が出せるから、というが瑪瑙の説明だった。
もともと瑪瑙は、裏工作を専門とする影の一族で純粋培養された生粋の暗殺者である。それゆえに、彼が教えることはとにかく実用主義で、練習にも一切の妥協がなかった。
ひとしきり短剣を投げ続け、綺羅の腕があがらなくなったころ、翡翠が手荷物を片手にやってきた。
「瑪瑙はやり過ぎです。綺羅はまだ子供ですよ」
疲れて腕をぶらぶらとさせる綺羅を見て、心底呆れた様子で大きなため息をつく。
「敵はいつ来るか分からないだろう。疲れている時こそ実力が出せるように練習するんだよ」
瑪瑙は至って真面目に反論する。
翡翠は瑪瑙の反論を無視し、せっせと持ってきた荷物を広げる。どうやら昼食を持ってきてくれたようだ。ふわりとあたりにいい匂いが広がる。
「ほらほら、暖かいうちに」
何処からか小皿を取り出して、どんどんと綺羅にすすめてくる。
「綺羅はもっと食べて体重を増やさないと駄目ですよ。女性は痩せ過ぎは、色々と体に良くないんです」
いかにも医者らしく翡翠が小言をいう。
だが、綺羅も瑪瑙ももう翡翠のことは眼中にない。すっかり翡翠の用意した手作り弁当に夢中だからだ。
「ああ、ほらこぼれてますよ、そこ。もう、本当に二人はしようのない。そんなに急がなくても、お弁当は逃げませんから」
せっせと二人の世話を焼く翡翠の、しかし瞳はどこまでも優しく微笑んでいる。
春の森の奥深く、さわさわと木々がそよぎ、ほころびだした花が香る。
三人で思い思いに腰を下ろし、翡翠の手作り弁当に舌鼓を打つ。
そうだ、午後は翡翠と薬草探しに行くんだったな、と青い空を見上げなが綺羅は思い出した。
綺羅が目を覚ますと、朝だった。
隣で翡翠が脈を測っている。
「気分はどうですか?」
翡翠は目を細めて綺羅に尋ねる。
少し疲れているのか目の下に隈がある。だが声の調子も、優しい笑顔も、いつもと変わらない。
手に触れる乾いた絹の敷布団、羽根のように軽い柔らかな上掛け、上等な淡い若草色の寝間着。薄い帳の向こうから差し込む明るい日差しに、うっすらと漂う上等な香の薫り。
そうか、自分は宮城に戻っていたのだな。
目を閉じると、綺羅の胸にじわりと温かいものが広がる。
そして目を閉じたまま、今日は何をするのだったかとぼんやりと思考を巡らせる。
瑪瑙と森で短剣投げの練習の続きをするのだったか、翡翠と歴史の勉強だったか、それとも加羅としてどこかの国の賓客を出迎えるのだったか……。
だが、ふと違和感に気づいてもう一度、翡翠を見る。
翡翠は側机の前に立ち、手慣れた様子で水薬を用意している。いつもと変わらぬ医師としての翡翠の姿。
いや違う。
綺羅は目を見開く。
衣装が変だ、いつもの翡翠の服じゃない。
寝台の上で半身を起こすと、酷く体が重かった。
くらくらと酒に酔ったように視界が揺れる。すかさず翡翠が綺羅の背中に手を添えた。
見回せば、至極上等だが、全く見知らぬ部屋に寝かされていることに気づく。
一瞬の内に先夜の出来事が鮮明に蘇り、綺羅の全身から血の気が引いた。肺が凍りついたかのように胸が苦しくなる。
「翡翠……、お前たち、何を……」
「時間がありませんので、よく聞いてください」
翡翠が綺羅の耳元に口を寄せ、聞こえるか否かの小さな声で囁く。子供に言い聞かせるようなゆっくりとした声。
「私と瑪瑙はあなたの味方です。決して忘れないで」
一音一音の強く確かな発音が、綺羅の耳に染み込むように降り注ぐ。それはどこか懇願するようでもある。
いついかなる時も冷静な翡翠にしては珍しい、とぼんやりと霞む頭の片隅で、もう一人の綺羅が冷静に考える。
「これから、ちょっと驚くようなことが起こりますけれど、決して早まってはいけませんよ?」
「……」
綺羅は訳が分からず、ただ呆然と翡翠を見上げた。
「絶対に、余計なことを言わないように。そして、加羅様であることを忘れないように。いいですね?」
綺羅が問い返そうとした時、扉を開く音がして、翡翠が素早く綺羅に上着を羽織らせた。
「ああ、よかった。起きたんだね」
瑪瑙の声がする。
彼独特の常に内容とは裏腹な抑揚の少ない話し方。
だか綺羅が視線を向けた先にいたのは、綺羅の知らない誰かだった。
年は三十ごろ。西国人らしい白い肌に、明るい茶色の髪。面長のすっと整った顔立ちに、目尻の少し垂れた琥珀色の瞳が笑んでいる。
波打つ癖の強い髪は襟足あたりで長めに切りそろえ、油で丁寧に整えられている。すらりとした細身の長身に、上品で動きやすそうな服。いかにも世馴れた、古参の側仕えと言った風情だ。
しかし、さっきの声はどう考えても瑪瑙だった。まじまじと見つめる綺羅に、相手が居心地の悪さを感じて頭をかく。
「そんなに見ないでよ、恥ずかしいじゃん」
そう、声は何度聞いても瑪瑙だ。
「こんなに髪を短くしたのって久しぶりだから、あー、なんか首がすーすーする?あはは〜」
と、全く緊張感のないことを言う。
それで、ようやく綺羅にも分かった。
綺羅が知り合った時から、瑪瑙はいつも顔を覆い隠すほど髪がぼさぼさだった。だから瑪瑙の顔を、こんなにもまじまじと見たことがなかったのである。
ものすごく違和感がある。
なんとなく声から想像していた瑪瑙と違う。
しかしよく見れば、優しく笑むのは慣れ親しんだ琥珀色の瞳。抑揚の少ない声も、全く緊張感の話し方も、瑪瑙に違いなかった。
そんな瑪瑙に慣れないうち、瑪瑙の後ろから三人の侍女が現れた。
彼女たちは綺羅を見ると、息を飲んで固まる。
綺羅はしまった、と思い急いで周囲に視線を巡らすが、当然にここには覆面などというものはない。
はじめて綺羅を見る者は、みな目の前の侍女たちと同じ反応をする。すぐに気を取り直す者もいれば、しばらく使い物にならなくなってしまう者もいる。圧倒的に後者が多い。
しかし彼女たちが呆けていたのはわずかな時間だった。先頭にいた年嵩の侍女頭らしい女が、はっと我に帰り礼をとると、半歩後ろに控える二人も取り繕う様子ではあったが慌てて頭を下げる。
余程よく躾けられているらしいと、綺羅は関心した。
「ああ、ようございました!」
礼から上げた顔をくしゃりと歪ませて、侍女たちが綺羅の元に駆け寄ってくる。
綺羅が呆気に取られている間に、彼女たちは甲斐甲斐しく綺羅の世話を焼きはじめた。
「道中で、馬車が事故に遭ったとお聞きして。なかなかお目も覚まされず、とても心配しておりました」
馬車の事故?一体、何を言ってるのか?
彼女たちの話は、綺羅の記憶とは少しも一致しない。
戸惑いながらそっと翡翠に目をやったが、翡翠は侍女たちの話に、その通りとばかりににこやかに相槌を打っている。
仕方なく綺羅は心中の混乱をぐっと飲み込むと、どうとでもとれるような静かな表情を作った。
長い宮中生活ではこのような処世術も身につく。
侍女は視線を上げると瞳を潤ませる。
「ああ、なんて酷い……。こんなに美しくて見事なお髪ですのに……。馬車の下敷きになったとはいえ、このように無残にお切りなるなんて。酷いことを……」
髪? ……事故で髪を?
まさか、髪は自分で切り落としたのだ、出陣の前夜に。
綺羅の肩口で切りそろえられた髪を、酷く痛ましそうに侍女が見る。
綺羅は気力を振り絞り、人形のようにほとんど表情を変えず、静かに枕に寄りかかる。
内側に吹き荒れる嵐を何とか制御しようと自制心を最大限に発揮させているが、そう長くは持ちそうにない。
全くもって、何一つ、自分が置かれた状況が理解できないというのは、恐ろしく心の平穏に支障をきたす。
一見、至極平和な日常に思えるところも、恐ろしさを増す。
翡翠もいて、瑪瑙もいる。広い部屋の豪奢な寝台に寝かされ、侍女たちに甲斐甲斐しく世話もされている。体には大きな怪我もなく、まだ身を暴かれた様子もない。大きな窓からは清い朝の日差しがそそぎ、小鳥が囀っている。
まるで波乱に巻き込まれる前の、燦の宮城に帰ってきたような平和な朝。
だが、よく見ると違う。
とても似ているようでいて、何かが少しずつ違っている。
まるで、鏡の向こうの側の世界に入り込んでしまったかのような違和感がある。
自分の記憶とは、全く辻褄が合わない彼らの話。
綺羅の目眩は頭痛に変わり、眉間に指を添えて目を閉じる。
先夜、綺羅は翡翠と瑪瑙に裏切られ、敵国の将の罠に堕ちた、はずだった。
まだ生きているのは、その場で殺さず囚われたからだろう。
綺羅は敗国の将や王族が、どのような末路を辿るのか、戦場で嫌というほど目にしてきた。
基本は処刑、よくて幽閉、見せしめに奴隷、というのが最もよくある処遇だ。概して言えることは、彼らはみな人間としての尊厳など存在しない、そういう世界に堕とされるということである。
敗国の、それも滅亡した国の皇子など、当然に人以下、場合によっては物よりも軽い。それが分かっているからこそ、この状況はあまりにも異様に感じられた。
一体何が起こっているのか、必死に考えを巡らせようとするが、綺羅の思考は空回りし、途中で雲散霧消してしまう。
叔父に押し付けられた無理難題をこなし、宮城での迫害に耐え、戦場で長い時間を過ごしたことで、大分肝も座ってきたと思っていたが、まだまだだったらしい。綺羅は密かに溜息をついた。
ふと、慌ただしかった侍女たちが静かになる。
綺羅が顔を上げると、今度は部屋の入り口に男が立っていた。
気怠げに腕を組み、半開の扉枠にもたれかかっている。
年は二十の半ば、長身に、滑らかな象牙色の肌、鮮やかな紺藍の髪、切れ長の青灰色を持つ、美しく雅な男だった。
長めの髪を片方の肩に流して緩く結い、白銀色の上等な寝間着の肩に水色の上着を引っ掛けた、至極寛いだ姿。
いかにも寝起きのそんな姿で歩き回れるのは、屋敷の主人以外にはいない。
「おはようございます、殿下。朝から騒がしゅうございましたか」侍女頭が丁寧な礼をとる。
侍女頭は、ふふふと含みのある笑みを漏らした。
男も特に気にする風でもなく、軽く手を上げて応じる。
混乱した綺羅の頭の中を、でんか、という侍女の言葉がぐるぐると巡る。
「ああ、おはよう。いや、かまわぬ。様子を見に来ただけだ」
「ようございました。丁度、お目覚めになられたところでございます」
「そうか」
男は腕を組んだまま軽く頷くと、視線を綺羅に移した。
男の視線は遠慮がない。
綺羅の頭の先から足の先まで、ゆっくりと順に視線を巡らせているのが分かる。
が、かといって敵意や殺意があるわけではない。
その証拠に、殺意に敏感な瑪瑙が、眠たそうな目をしたまま壁に寄りかかって動かない。
「食事をたのめるか」
男が綺羅を見たまま侍女に命じる。
「畏まりました」
侍女頭は礼をとると、他の二人の若い侍女たちを連れて、静々と退出していった。
部屋に四人が残される。
扉が閉まると、男は大股で綺羅に歩み寄り、綺羅が身を預ける寝台の縁に腰を下ろした。
滑るように滑らかな足運びは、ほとんど音がしなかった。
綺羅の寝かされた寝台はかなり広い。だがそれでも縁に腰掛けた男との距離は、手を伸ばせば届くほどとなる。
男は腕を組んで首を傾げると、再び遠慮のない視線で綺羅を見回した。
綺羅は身じろぎしたい衝動を必死で抑え込み、静かに枕にもたれる様子を維持した。上掛けの下に隠れた方の手を強く握り、掌に爪を立てる。そうしないと、反対側の壁まで飛び退いてしまいそうだった。
「斥候の話では、燦の皇子は薬の副作用で、二目と見られぬ姿になったという。だが、そうは見えぬな」
男が不意に手を伸ばす。
綺羅は反射的に後退ったが間に合わず、顎を掴まれた。
咄嗟に手をかけたが、鍛えられた男の腕はびくともしない。
「凄いな、まるで春の森に金の蝶が舞うようだ」
男はぐっと顔を近づけると、綺羅の瞳を覗き込んだ。
男の飲んでいた茶が香る。恐ろしく高級な茶葉だ。
覗き込まれた綺羅からも、男の瞳がよく見える。冬の湖に張った氷のように、冷たく澄んだ青灰色の瞳が。
「なぜ、覆面など纏っていた?」
「……」
「まあ、男とはいえ、これほど美しければ、素顔を晒す方が面倒か」
男は一人で納得すると、掴んだ顎を左右に動かして、色々な角度から綺羅の顔を眺める。まるで芸術品でもら鑑賞するかのようだ。
「覆面だから替玉の可能性も考えたが、ははは、このような美麗な替玉など、探しても見つかるまい。まあよい、いずれ分かる。違っていれば始末するだけだ」
始末、という不穏な言葉が、綺羅の腹の底にざらりとした跡を残す。やはりこの男は……
だが一方で安堵もする。ようやく話の辻褄が合いはじめた。どうやら自分の記憶は間違いっていなかったらしい。
だが、わざわざ偽の理由を用意していることに、そして侍女たちがその偽の理由に全く疑問を持つ様子のないことに、嫌な予感が騒いだ。
「で、具合はどうなんだ?」
男はちらりと翡翠に目をやった。
「まだ少しふらつくようですが、二、三日でおさまるでしょう。ただ、長い戦場暮らしで体がかなり消耗していますので。滋養のあるものをとって、半月ほど静養するのがよいかと」
「藪医者のわりには、真っ当な返事だな」
「恐れ入ります」
翡翠は澄まして応える。
「それで、お前はここが何処か分かるか?」
男が綺羅を覗き込むように問う。
「……そなたの、宮か」
もう綺羅にも分かっていた。
目の前の男が誰か。
日の下ではっきり見たのがはじめてだったのと、あまりにも雰囲気が違うので戸惑ったが、目を見てすぐに気が付いた。
厳冬の凍える湖のように冷たい瞳。
男は自分を捕らえ、国を滅ぼした張本人。煌国の第三王子の紫条である。
綺羅の記憶はやはり正しかったのだ。
先夜、自分は腹心に裏切られ、敵国の皇子の罠に落ち、囚われ人となっているのである。
「俺が誰かも分かっているか。ふうん、記憶もちゃんとしているのだな」
それはなかなかすごい、と男はさも感心したように腕を組んだ。
「……兵たちは、国はどうなった」
綺羅は務めて平静を装って尋ねた。
目が覚めてから、最も気になっていることだった。
紫条が綺羅の心の内を見透かすように身を細める。
「投降した者は全て捕虜とした。燦の宮城は一日足らずで落ちた。ふん、城はほとんどもぬけの殻だったが」
要点のみ、実に簡潔に告げる。
大国の煌からすれば、小国である燦のことなど、村や藩の問題程度に過ぎないのだろう。
綺羅は何も言えず、ただ男を見る。
「お前の叔父は、あれは最低の男だな。従者も妻子も自ら斬り殺して、自分だけは助かろうとしていた。あそこまで徹底した下衆も珍しい。民は抵抗する体力もないようだった。立て直すのは大仕事だな。右潭のやつはしばらく戻れまい」
「……投降、しなかった者は?」
「知りたいか?」
男は面白そうな顔で首を傾げる。
綺羅は小さく頷いた。
知りたくない!と心が悲鳴を上げている。紫条が口を開くたびに短剣で抉られるように胸が痛い。だが、それでも聞かなければならない。どんなに辛くとも、悲しくとも、それが統べる立場であった自分の役目なのだから。
「投降しなかった者は、いない」
「……いない?」
「お前の首を見せたら、皆その場に泣き崩れて武器を捨てた」
「私の、首……?」
「あ、一人だけいたな」
紫条はわざとらしく自分の顎に指を当てて思案顔をする。
「右将軍だったか、一人だけ逃げようと最後まで抵抗していた。あれはお前の叔父の子飼いだろう?そういう意味では、投降しなかった者は死んだ」
「私の……」
「お前の首は偽装しやすい。あの覆面を巻き付ければ、すぐに出来上がる」
「そんな……、おかしい、そんな時間は……」
そうだ、時間がおかしい。
綺羅の感覚では、この男に捕らえられたのは前夜、せいぜいそのもう一日前だ。だが男の話し振りでは、すでに宮城も落ち、後始末の目処もたっている。そしてなにより、男は煌にある自身の宮まで戻ってきているのだ……。
「半月近く経っている。お前を捕らえてからな」
紫条は実に楽しそうな笑顔で告げる。
綺羅は瞳を見開いた。そして翡翠を見る。
「翡翠、お前、まさか……」
驚きに、平静の仮面が綻ぶ。下に隠れていた、混乱に憔悴しきった幼児の綺羅が垣間見えてしまう。
それを見て、さらに紫条が唇の端を歪めた。
「薮医者は、なかなかどうして腕が立つ。半月もの間、どうやってお前を昏倒させていたのか、皆目見当もつかぬ。宮城の医師にも見せたが、すぐに匙を投げた。しかも意図通りに再び目覚めさせるなど、全く正気の沙汰ではないな」
「お褒めに預かり光栄ですね。私も裏切り者の身ゆえ、慎重にならないといけないものですから。殿下がきちんと約束を果たしてくださるのか、この目で確認するまでは、加羅様の髪の毛一筋お渡しするつもりはありませんので」
わざと仰々しく澱みのない翡翠の返答が綺羅の耳を通り抜ける。
「翡翠、なんてことを……、私に薬を盛ったのだな」
「でもさすが、紫条殿。たった半月で、私の出した条件をきちんと満たしてくださるとは、噂に違わず優秀でいらっしゃる」
少しも悪びれた様子なく、わざとらしい世辞を述べた。
「ああ、なぜ、こんなことを……」
問いながらも、綺羅は心の内に思い浮かんだ恐ろしい考えに口元を手で覆い隠す。
「なぜ?」
紫条が俯いた綺羅にぐいと顔を近づけて鼻を鳴らす。
「お前を手に入れる以外に何があると?死んだことにするのが、一番後腐れがないだろう。戦場なのだから必ず人死はあるしな」
綺羅が唇を手で覆ったまま固まる。
「お前が眠っている間に、全て終わった。皇子のお前は死に、戦は終わり、燦は滅び、戦後処理も進み、燦は新しい領主が治める煌の属国となった。俺に囚われるのは嫌か?だが、今更騒いだところでどうにもならぬぞ。俺の元から逃げたところで帰る場所もない。抵抗するだけ時間の無駄だ」
「何てことを……」
「燦の皇子は死んだ。その証拠に覆面を纏った首もある。では、お前は一体何者だろうな?」
紫条は腕を組み、にやりと笑う。
綺羅の全身を稲妻のように恐怖が走り抜けた。
恐ろしいことに、この男の言う通りだった。
今の綺羅にあるのはこの体だけ。しかし綺羅の素性と素顔を知る者は、この世には綺羅自身の他はここにいる三人だけだ。その三人が手を組んで綺羅を罠にはめているのだ。もはや綺羅には自分が誰かを証明する手立てはない。
他の三人が口裏を合わせて最もらしく綺羅の素性を講じれば、それがそのまま綺羅の素性となる。疑うものなどいるはずもない。なぜなら相手は大国の皇子なのだから。
だから侍女たちも、移動の途中で事故に遭い意識が戻らぬ、馬車の下敷きになって髪を切った、という説明を何の疑いもなく信じているのだ。
ふと、綺羅はその、偽りの説明に違和感を覚える。しかし、その正体を突き止める前に、思考を遮られてしまう。
「いいか、今のお前は俺の庇護なく生きてはゆけぬ。間違えても、ここから逃げようだなどと馬鹿なことは考えるなよ。燦の宮城で暮らしていた時ですら、素顔を晒すこともままならなかったのだろう?そのような者が市井で生きて行けるはずがない。例え敵に囚われて、自由を奪われ、閉じ込められていようとも、ここの方が余程安全で良い生活ができるというものだ。次第よっては、燦にいた時よりもずっと快適で、贅沢な暮らしをさせてやれるぞ」
紫条がわざとらしく、艶めいた含みのある笑みを作る。
隣の翡翠が咳払いをした。
「加羅様、このように考えればよろしいのです。もし第二皇子のままであれば、いずれは政略結婚し、他国に婿入りされることも十分にありえたこと。それは姉上様とて同じです。そう考えれば、こちらの紫条殿は、多少手段は強引で、手荒で、無粋なところはありますが、身分やその他色々考すれば、私としてはそれほど悪い相手ではないかと」
「翡翠……、私は皇子なのだぞ!」
「ええ、もちろん分かっていますとも。でも加羅様、あなたほどの美しさであれば、性別など大した問題ではないものです。それに紫条殿の言うことは一理ある。今までもその美しさのせいで、一体どれほど危険な目に遭われたと?とても市井で普通に暮らすようなことはできない御身です」
「だから……、だからこの男に、祖国を滅ぼした男に囲われろと……」綺羅の語尾は小さくなる。
参戦した時から、すでに覚悟はできていたはずだった。戦場ではもっと悲惨なことも数え切れないほど目にしてきた。あのまま戦を続けていれば、いずれ綺羅には、本当に敵に首を落とされるか、それとも自害するかの二つの道しか残されていなかった。
これほど民を、兵を苦しめておきながら、自分だけがのうのうと生き延びるようなことは綺羅にはとても耐えられない。
だからといって、生涯幽閉され体を弄ばれるだけの運命にも耐えられるとは思えない。
何より、どうしても生きて帰りたいと思えるほどの拠り所が、もう綺羅にはない。
だから、勝てる見込みのない戦になった時から、綺羅の運命は定まっていた。あの戦が終わっても自分が生きているなどとは、少しも考えていなかったのである。
それが、敵国の皇子に囲われて、何不自由なく贅沢な暮らしができるなど、なんと有り難くて、迷惑で、そして残酷な仕打ちなのか。
一人だけ安全な場所に隠れ、のうのうと生き続けるなど。考えるだけでおぞましさに総毛立ち、首を絞められたように息苦しくなる。
「ああ……翡翠、お前までそんなことを……。なぜ、なぜ裏切った? なぜあのまま私を死なせてくれなかった……、こんなことをして、一体何になる……」
綺羅は力なく首を振る。
「加羅様は、私を買い被っていらっしゃる。まさか私が、大義などという実態のないくだらないものに突き動かされていたとでも?私にとっては加羅様の命こそ至上、御身の安全こそ使命。戦には貴方を守るために、渋々手を貸していたにすぎないのですよ。貴方の安全のためならば、国など何度でも売りますし、敵国にだって喜んで尻尾を振りましょう。そんなことぐらいで貴方が守れるならば安いものです。例え貴方が望まなくとも、貴方にもっと安全で快適な暮らしができる方法があるのなら、貴方を騙してでも、薬を盛ってでも、無理矢理攫ってだって、私は迷わず選択するのですよ。それは瑪瑙も同じでしょう」
視線を向けると、瑪瑙は相変わらずのほほんとした笑顔をし、片手をあげて応える。翡翠に一票、と言葉がなくても分かる。
「あのまま戦を続けていれば、いずれの道を進んでも、加羅様に残されていたのは死か、それに準ずる運命のみ。ならば、たとえ裏切り者と罵られ、生涯あなたに恨まれようとも、私はあなたに新しい道を与えるのみ」
「俺とて、単なる慈善でお前を囲ったわけではない。わざわざ偽装工作してまでお前を手に入れたのは、十分に見合う益があると判断したからだ。その利害が、たまたまこいつらと一致したというだけだ」
そこで紫条は言葉を切った。改めて綺羅の瞳をひたと見つめる。新緑の煌めきと、厳冬の凍てつきが衝突し、火花が散る。
「俺はお前の加護が欲しい」
綺羅は今度こそ、零れ落ちそうなほど瞳を見開いた。
「愚かなことを……。強い加護があったところで、加護は自由に操れるようなものではない。私を、私の体を捕らえたところで意味はない」
「分かっている、俺の加護もまあまあ強い。だがこの国には新しい加護が必要だ。そしてそれに、お前ほど条件の合う者はいない」
「お前も強い加護を持つのなら分かるはずだ。加護がいかに気まぐれで無慈悲か。加護を持つ者を捕らえたとしても、益になるどころか、恐ろしい厄災をもたらすこともあるのだぞ。精霊は加護する者への仕打ち容赦ない。それは、私にもどうにもしようのないことだ……」
燦が滅びたのは綺羅のせいだった。
父を殺され、弟を人質に取られてから、綺羅の叔父や国に対する失望は強まった。精霊たちはその綺羅の気持ちの変化に敏感に反応したのである。
幾度も、幾度も祈りを捧げ、気持ちを変えようと努力を尽くしたが無駄だった。綺羅の気持ちに呼応するように、日に日に国は痩せ衰えていった。
「分かっている」
紫条は一際落ち着いた声で言った。
綺羅は項垂れた首を振る。この男は分かっていない、何も分かっていないのだ。綺羅がいかに危険な存在であるか、厄災をもたらす存在か。
「加護の危険は十分に知っている。精霊たちは無慈悲で、人がどうこうできるようなものではない」
「だったら……」
「それでも、この国はお前の加護が必要だ。ここ数年で急激に加護の力が弱まっている。強い加護を持つ者の出生も減っている。このまま行けば、いくら大国といえど燦の二の舞になる日は遠くない」
言葉を切った。
「だから、お前が俺の提案を受け入れやすいように、交換条件をだそう」
綺羅が顔を上げる。
紫条は綺羅の耳元に顔を寄せて囁く。
「これはな、取引だ。俺はお前の加護が欲しい。お前には安全に暮らせる場所が必要だ。利害が一致しているだろう?お前は残された民や兵のことが心配ではないか?お前が俺に従うならば、燦に残された民や、捕虜となった者達に、相応の慈悲をかけられるよう取り計らってもよい。兵士たちには略奪を厳禁し、横暴な振る舞いをさせないようにすることもできる」
綺羅は細い眉を寄せて目を逸らす。
「疑うか?だが俺には十分にその力がある。あとはお前次第だな」
紫条が綺羅の耳に囁く。
紫条も、燦の残された皇子が、精霊の稀子ではないかという噂は聞いたことがあった。
古い歴史を持った閉鎖的な王国の燦には神秘的なところがあり、元々、強い加護を持つ者が多いという。
それでも実際に目にするまでは、眉唾とほとんど信じてはいなかった。
しかし行軍し、より近くで戦況を知るにつけ、その力を目の当たりにするようになった。
森か植物か動物か、それとも他の何かなのか、とにかく加羅皇子に対する精霊達の溺愛ぶりは凄まじいの一言に尽きる。
少しでも皇子に害を及ぼそうものなら、森は怒り、凶暴な獣たちをけしかけた。鳥は嘶いて伏兵を知らせ、崖は崩落して岩を降らせ、木々は枝を揺らして道を塞ぐ。敵兵は道を失い、行き倒れるまで森の中を当て所なく彷徨うことになる。燦国軍に辿り着くこともできないのだ。
加羅は煌の繁栄のために、必ず重要な駒となる。
一方で、強い加護のもつ危険性に理性が警鐘を鳴らした。加護の力は人知を越え、国を滅ぼすこともある。燦のように。しかし紫条はその二つを天秤にかけ、前者を選んだ。
加羅を手に入れられなかったとしても、急速に加護の弱まっている煌は、遅かれ早かれ、まさに今目の前で滅びかけている燦のように凋落し、立ちゆかなくなるだろう。少しでも可能性があるのなら、それにかける。工作のために接触した、加羅皇子の腹心であると言う男達とも思惑が合致した。
それに、多少は勝算もあった。
斥候に綿密に調査させ燦の国情はよくわかっていた。叔父による転政で行き場を失った加羅皇子たちは、かなりの不遇を強いられていた。
特に病で全身の皮膚が醜く爛れた皇子は、常に覆面を纏わなければ人前に出られない体の上に、強い加護を持っており無闇に害することもできない。一層疎まれ冷遇されていたに違いない。
ならば、自分の入り込む隙はある、と紫条は冷静に分析した。
母に似た自分の顔と体に思い入れはないが、男女を問わず、人を垂らし込むと言う点においてはなかなか役に立つ。
益のためならば、皇子の耳元でいくらでも優しい言葉を囁き、必要とあらば褥も共にできる。
そうやって少しずつ蜜を注ぎ込めば、不遇の皇子はいずれ紫条に心を開き、受け入れるようになるだろう。体の関係を持たずとも、頼れる者のいない環境に長く置かれれば、触れ合うものとは自然と親しくなる。
そして紫条を受け入れれば、いずれは紫条の属する煌家を、煌家が治める国に情を抱くようになるだろう。そうすれば、もはやこの憐れな皇子は煌の要として、国や民を守護することになる。
「それと言い忘れたが、当然、自害など考えるなよ。お前が自身を傷つけたのと同じだけ、そこの藪医者か、捕虜でも侍女でもよい。とにかく他の者に罰を与えるからな」
紫条の口元には笑みが浮かんでいる。だが瞳は凍えるように冷たい。
綺羅は、今までの何よりも傷ついた顔をする。
何か言いたくて震わせたが、結局は何も言えずに視線を逸らした。
稀子である綺羅の強大な加護を生かすには、まず本人の意思で従わせる必要がある。すぐに心は変えられずとも、行動を従わせれば次第に心も動き出す。
精霊は加護を与えたものの感情に聡く、無理矢理閉じ込めたり、何かを強制するのは逆効果だと、自身も強い加護をもつ紫条にはわかっていた。
例え取引を持ち出したとしても、それが渋々であったとしても、本人の選択で従わせることが重要なのだ。
しばし俯いたのち、加羅はゆっくりと顔を上げた。
蒼白な顔で、それでも健気に紫条を見つめ返してくる。
「……分かった。私は……、私は、お前の言う通りにする。だから、他の者には手を出すな」
紫条は満足そうに頷いた。
「いい子だ」
手を伸ばして、大きな手で綺羅の頭を包み込むように撫でる。
美しい黒髪がさらさらと指の間を流れ落ちた。自分にも、人の美醜にもそれほど関心のない紫条ですら、短い髪を惜しいと思う。
綺羅は驚いて身を引くと、再び零れそうなほど大きく瞳を見開いた。
「おや、俺の言う通りにするのではなかったのか?」
紫条は意地の悪いことを言う。
綺羅は唇を噛んだ。瞳が紫条の課した無体な要求に、煩悶する綺羅の心を映し出すかのように揺らめく。
「ほら、唇を噛むなよ」
紫条は綺羅の顎を捕まえると、長い指を割り込ませて唇をこじ開けた。
今度は、綺羅は身を固くはしたが、後退りもせず、紫条の手を振り解こうともしなかった。目を伏せてただじっと耐える。
「自分を傷つけることは許さぬと言ったろう」
紫条は傷がないか確かめるように、そえた指で唇を二、三度、ゆっくりとなぞった。小さな桃色の唇は見た目の通り羽のように柔らかい。
紫条の無遠慮な振る舞いに、それでも綺羅は身を固くしたまま、一切の身じろぎもしなかった。
民や兵のことを持ち出され、もはや逃げ道はないと観念したのだろう。だが、状況は理解できても心まですぐに変われるわけではない。
綺羅は苦行に耐える僧のように、表情を消して息を殺し、ただゆっくりと一定の速度で瞬きを繰り返している。
紫条は、笑いながら手を離した。
目の前の皇子は、たった十五、六の子供にしては、いじましいほどの健気さで、自身の置かれた境遇に耐えようとしている。
深夜に突然攫われた上、無理矢理囚われて、母国を破滅させた仇敵の言いなりにさせられるなど、大の大人でも泣き喚いて取り乱してもおかしくない状況だ。
紫条の笑みが自然と深まる。
これはしばらくは飽きずに済みそうだ。
「名はどうする」
紫条は斜め後ろに立つ翡翠に声をかける。
「そうですね……、綺羅様はいかがでしょう?亡くなられた姉上様のお名前です」
綺羅が目線だけを動かして翡翠を睨んだ。亡くなった姉の名、即ち綺羅の本来の名前だ。なんてややこしいことをするのか。藪医者!と心の中で翡翠を誹る。
「綺羅か、悪くないな。少ないが全くないと言うほど珍しい名でもない。それにお前に似合いそうだ。お前たちの呼びやすい名の方がよかろう」
「そうですね」
「藪医者、お前達はどうする?」
「私は翡翠のままで。医師は不殺生の不文律がありますから、変えると逆に不都合がありましょう。脅されて仕方なく働かされているとでもしておきます」
「影は?」
「
「では、決まりだな」
紫条が弄んでいた唇を離し、綺羅の顎を上向かせる。否が応でも紫条と正面から見つめ合うことになる。
朝の日差しを浴びて、紫条の青灰色の瞳が煌めいている。中身は外道のくせに、見かけは極上の貴公子然としているから余計に腹が立つ。
「大事にしてやるぞ、綺羅」
綺羅は紫条を見つめたまま、何も言わない。
明らかに怒りと分かる感情が、燃えるような新緑の瞳の中で渦を巻く。
感情を隠しきれない自分の未熟さに腹が立つ。
罠に落ちた自分にも、戦に勝てない自分にも、民を兵を守れない、国を守れない、大切な人を守れない自分に腹が立って仕方がない。
奥歯を噛み締めないと、大声で喚き立てて、身近にあるものを全て投げつけてしまいそうだ。今すぐ紫条に飛びかかり、袈裟懸けに斬り殺してしまいたい。
そんな綺羅の心情などすっかり見通しているかのように、紫条は心底楽しそうに笑っている。
程なくして、部下と思しき男が迎えにくると、仕方なさそうに出かけていった。
扉の向こうから音が聞こえなくなったのを確認すると、綺羅は枕に倒れ込んだ。それから二、三日の間、起き上がることができなかった。
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