第8話 かつての居場所

 刻は夕方。三人と別れた後、不知火はとある場所に来ていた。いや、知らず知らずのうちに足が向いていた、という方が正しいか。

 児童養護施設、みんなのいえ。不知火が二年前まで生活していた場所である。築数十年は立っていそうな古びた古式民家で、庭には一本、大きな桜の木が立っている。


 不知火は六歳の頃にここへ預けられた。理由は母の育児ノイローゼだった。元々、母は子供が好きではなかったらしくそれでも表面上はうまくやっていたように見えたが、ある日突然爆発したかのようにヒステリーを起こし家庭は簡単に崩壊した。不知火は親戚への引き取りを拒否され、また両親も離婚はしなかったため、児童養護施設へ預けられたのだ。


 今は自立して父の仕送りを受けながら一人暮らしをしている。母は相変わらずヒステリーが酷く家に帰る事はできないが、時々父とは連絡を取り合って外で会っている。家族としてはとても歪だが、自分や母を捨てずに頑張ってくれた父を、不知火は心の底から尊敬している。


 かつての古巣に来た不知火だが、入り口の前で足を止めていた。どうしようかと迷い、やっぱり帰ろうと踵を返した瞬間、元気で明るい声が不知火にかかる。


「あれ、雪ねーちゃん? ……やっぱり雪ねえちゃんだ! 雪ねーちゃーん!」

「え! あー、ほんとだ! 雪ねえちゃんだ!」


 みんなのいえの中から、一人の小学生くらいの少女がこちらを見つけて飛び出してきた。続いて、同じくらいの年頃の少年も飛び出してくる。二人は不知火の所まで走ってくると、それぞれ両足に抱き付いた。

 二人共、不知火がみんなのいえに住んでいた頃、一緒に住んでいた子である。

 少女の方は春日井春香かすがいはるか。くりっとした目が特徴的で、昔はツインテールだったのが、今では大人びてきたのか腰ほどのロングに伸ばしている。

 少年の方は岸田和樹きしだかずき。こっちは相も変わらずの丸刈りだ。あっちこっち傷だらけなのも変わらない。


 不知火は両手で二人の頭を撫でた。


「久しぶり。二人とも大きくなったね」

「でしょー。でも和樹ったらまだ虫取りとか木登りとかまだまだ子供で……」

「うっせーぞブス!」

「何ですって! このイガグリ!」

「ああ、もう……」


 少しは大人になったかと思えばこの調子だ。昔からこの二人は何かにつけてすぐ喧嘩をする。しかし翌朝けろっとお互いに忘れてしまっているので基本的に誰も真面目に相手をすることはない。しかし足元で始められてしまうとそうもいかず、何とかなだめようとした時だった。


「あら、本当に雪ちゃんじゃない」

『あ、せんせー!』


 二人は声を聞くとすぐに喧嘩を止めて、先生と呼ぶ声の主に振り返った。そこには白髪をした老齢の女性が腰を曲げて立っていた。みんなのいえの主、羽川幹恵はねかわみきえである。その姿を見て不知火は思わず涙が出そうになったが、ぐっと平静を努めて涙を堪えた。


「お久しぶりです。先生」


 不知火は両手を前に揃えて深々とお辞儀をする。


「本当にねえ。あなた、ここを出てから連絡の一つもなくてみんな心配してたのよ。さ、お上がんなさい」

「い、いえ。今日はたまたま近くを通りがかっただけで……」

「なんでだよ雪ねーちゃん! 遠慮なんかすんなよ!」

「そうそう! ほら、雪ねーちゃん!」


 踵を返そうとする不知火の両手を、春日井と岸田が強引に引っ張る。がっちりと掴まれて抵抗も虚しく、不知火はずるずると家の中に引き込まれていった。

 家の中は何も変わっていなかった。石畳の玄関に長い渡り廊下、きれいに貼られた障子の引き戸。それらは夕日の朱に彩られてとても暖かく感じる。不知火は毎日、ここに帰ってきていた事を思い出していた。


 四人は台所についた。ここは皆で食事をしたり団欒をする共同スペースであり憩いの場だ。真ん中の四角いテーブルに、我先にと春日井と岸田が座り、テーブルに置かれているお菓子に手を伸ばした。


「ほら、雪ちゃんもお座んなさい」

「あ、はい」


 自分がいつも使っていた席は今も残っていた。不知火は椅子を引き、少し縮こまるように座る。その間に羽川はポットから急須にお湯を入れ、それぞれの湯呑みにお茶を注いて、コトンコトンと皆の目の前に置いていく。そうして配り終えると、自分も不知火の向かい側に座って一息お茶に口をつけた。


「ほっ。それで今はどんな感じ?」

「どんな感じと言われても普通、としか」

「あらそう。髪型が変わってるからイメージチェンジでもしたのかしら?」

「そうそう、それで私も最初雪ねーちゃんって分からなかったもの。へんなの。前の方が似合ってたのに」

「別に良いじゃないですか。私の髪の話なんて」


 先生や子供達は不知火の左目がない事を知らない。それを隠すためにとっさの判断で不知火は話題を逸らす。


「そういえば相馬くんがいないね。まだ帰ってきてないのかな?」


 相馬くんとは不知火の一つ下の男の子、吉部相馬よしべそうまのことだ。ここのいつも騒がしい二人とは相対的に、物静かでいつもここで本を読んでいた。彼も今は高校生のはずだ。

 だが、手を上げた岸田から出たのは意外な言葉だった。


「相馬にーちゃん、この前出てっちゃった」

「え?」


 羽川が続きを話し始める。


「中学卒業と同時にね、働き始めたの。高校の学費は払えないからって」

「そんな……」


 驚きながらも不知火はなぜそうなったか理解していた。

 ここにいる子供達は全員親無しだ。つまり、誰の援助も受けることができない。奨学金で高校に行く道もあったはずだが、働き始めたという事はつまりそういうことなんだろう。それに比べて何と自分の恵まれた事か。

 押し黙った雰囲気を察したのか、すぐに羽川が明るい声で語る。


「安心なさい。今でも時々顔を見せに来るし、ちゃんと元気よ。それに進学の道も諦めてないって」

「それ、本当ですか?」

「ええ。働いてお金を貯めた後、改めて高校へ進学するんだって。大学も考えてるそうよ」

「そう、良かった」


 その言葉に救われた気がして、不知火はほっと胸を撫で下ろした。


「雪ちゃん。あんまりここに囚われる必要なんて無いのよ。あなたはあなたの幸せのために頑張りなさい。ほら、ここにもよく来てた、くーちゃんだったっけ。あの子とも一緒の学校なんでしょう? 元気かしら。仲良くやれてる?」


 その問いに、思わず不知火は下唇を少しだけ噛んだ。しかし、すぐに笑顔を作って返した。


「はい。私の一番の友達ですから。先生こそちょっと心配しすぎじゃないですか? 私は大丈夫です。お父さんのおかげで学校にも行けてるし、何の問題も無いですよ」

「……そう。それは良かったわ」

「じゃあ私はそろそろ帰ります」

「あらそう? せっかくだし夕飯でも……」

「いえ、今日は遠慮します。ハルちゃんにカズ君。あんまり喧嘩ばかりしちゃ駄目だからね」

『はーい』


 元気良く答える二人だが、きっと明日には忘れて他愛もないことで喧嘩を始めるのだろう。

 不知火は椅子から立ち上がり、床に置いてあったカバンを持って立ち上がる。


「先生、いつまでもお元気で」

「ええ。雪ちゃんもね」


 挨拶を交わした後、不知火は踵を返してみんなのいえから出ていった。

 自分の一番大切な場所。改めてそれを認識し、不知火は改めて胸に覚悟を秘め、自宅への帰路につくのだった。



「……以上が不知火が学校を出てから帰るまでの出来事だ。その家に入ってから何を話していたのかは分からんが、友達とやらかした後のしょぼくれた感じは無くなってたな」


 九十九が椅子に座って、目の前に立っている如月に話す。実は不知火が学校を出た後、九十九は不知火を尾行していた。その結果、何やらただならぬ様子だったので、如月に今日の経緯を話している。

 そしてここは如月の自宅だ。二人は何かある時には如月の自宅を話し場所として使っている。


 神妙な顔で如月が口に手を当てた。


「まさかそんな事になっていたとは。なぜ不知火はそんな頑なに、友人達を拒んでいるのでしょう?」

「……推測の域を出んが、不知火が一回目に拐われた件が大きく関わってるのかもしれんな。わざわざ隠している自分の無い左目を見せるぐらいだ」

 九十九達は不知火が一回目に拐われた時の経緯を知っている。犯人は愉快犯で、最終的に不知火は左目を潰されてしまった。その時に不知火が受けた恐怖は筆舌に尽くし難いものだっただろう。


「しかし、私達にはどうしようもない事ですね。心苦しいですが」


 如月は苦々しく言葉をつく。しかし、九十九はあえて食い下がった。


「如月、この件だが俺に任せてくれないか?」

「しかし、これは不知火のプライベートに深く関わりすぎています。私達が余計な事をするのは……」

「なんとなくな、今の不知火の気持ちが分かる気がするんだ。それに俺は、」


 そう言い、九十九は自分の右目を指した。


「あいつと同じだ。同じ目線から話してやれると思う。大体、俺達はチームなんだ。お節介だろうがなんだろうが、苦しんでるあいつをここまで知っちまったら見過ごすなんてできん」

「……そう、そうですね。分かりました、九十九。よろしくお願いします」

「任せとけ、と言いたいがあんまり期待はすんなよ」


 頼りない返答とは裏腹に、九十九の目は真剣に何かを見据えていた。

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