末期の一振り

夢空

第1話 序章

 刻は午後一九時を過ぎた頃。仕事帰りの労働者が乗った車で車道はごった返し、遅々として進まない列に苛立ちを覚えたのか、時折クラクションが鳴り響く。

 その渋滞の中に、白いベスパに乗った背広姿の男がいた。

 眠たげに垂れた目。眉間には一筋の皺が微かに刻まれている。少し痩けた頬に無精髭と、見た目は中年半ばといった風体だ。身長は一見普通に見えるが、ベスパにまたがる姿勢が猫背のため、実際は一八〇㎝近くあるだろう。スラリとした痩せ型の体格であるため、それなりに身なりを整えれば映えるかもしれない。


 男はぼんやりと、十分前から動く気配のない列を眺めている。その気になれば車と車の間をすり抜けられるぐらいの隙間はあるがする気は無いようだ。

 その時、着ていた背広の胸ポケットから一九八〇年代に流行った歌謡曲のメロディーが鳴り出した。いかにも面倒くさそうに顔をしかめるが、小さくため息を吐くと、ポケットから掌に収まるサイズのスマートフォンを取り出して通話ボタンを押下し、耳に押し当てる。


「はいよ」

『随分と余裕ですね。確か、一九時に来るように言ったはずですが?』

「しょうがねえだろ、道が詰まっちまってんだから。随分前からピクリともしねえときたもんだ」

『……あと五分だけ待ちます。さっさと飛んできてください。さもないと、ねじ込みます』

「お、おい! ねじ込むって何をどこに……!?」


 不穏な言葉に血相を変えてスマホへ怒鳴りかけるが、無情にもすでに通話は切れてしまっていた。

 スマホをしまい、恨めしそうに行列を睨みつける。今から隙間をぬって行ったとしてもおそらく待ち合わせ場所には間に合わないだろう。


「飛んでこい、ね。しゃあねえか」


 男は右腕を斜め下に突き出した。すると、まるでさも最初からそこにあったかのように剥き身の日本刀が男の手に握られていた。棟と刀身は漆黒。刃文は濃紫の波模様を描いている。禍々しくも、ひと目見る者を惹きつける妖艶な美しさがあった。

 男は刀を天上へ掲げる。


「浮舟」


 男が唱えたその瞬間、突然周りを風が包み込む。そしてベスパと共に男の体はふらりと浮き上がった。

 喧騒渦巻く都会の空を、まるで自転車に乗って空を飛ぶ某映画のようにゆっくりと、優雅に男は飛んで行く。それに気付いた道行く人は見上げて騒ぎ、時折罵声が響いた。



「で、わざわざ人目に付く形で文字通り飛んできた、と」


 空を飛んできた男が降り立った先に、一人の若い女性が腕を組んだ仁王立ちの状態で待ち構えていた。スタイリッシュな赤が映える楕円型フレーム眼鏡の奥の眼差しは、無表情ながらも目を槍で貫かれたかと錯覚するほどの怒気と殺意を秘めていた。

 だが矛先を向けられた男はどこ吹く風か。意にも介さずベスパから降りてヘルメットを脱ぎ、だるそうに頭を掻き毟って大あくびをする。


「お前が飛んでこいっつうからやったんだろうが。まあ、そうでもしなきゃあと二時間は足止めを食らってただろうけどなあ」


 全く悪びれる様子がない態度だが、女性は表情を微塵も変えなかった。


「だからといって公衆の面前で末期まつごの一振りを抜いて力を使うのはどうかと思います。騒ぎの声がここまで微かに聞こえてきましたよ。スクーターを路肩に停めて、どこか人目に付かない場所でやることもできたのではないですか?」

「ああ悪い悪い、そこまで頭が回らなかったわ。なんせ誰かさんに脅されてたもんでなあ。遅れてたらどんな拷問が待ってたやら。おおこわ」


 大げさに両肩を抱えて身震いする男。ここまで舐められた態度を取られれば普通の人間なら大激怒だろう。だが女性は小さく息を吐き、態度が怒りから諦めへ変わった。


「ふう、まあいいでしょう。時間には間に合いましたし、騒動に関しては後で貴方が上からこってりと絞られるでしょうから。さて、状況ですがこちらの動きにはまだ気付かれた様子はありません。対象周囲は包囲、常時監視済みで、特に動きはないようです」


 仕事の話に切り替わると、男の眼の色が僅かに変わった。だらしない態度はそのままだが、その場に緊張感が生まれる。


「OKだ。手筈てはずは事前に打ち合わせた通り。俺が一気に切り込んでかき回すから、奴らを逃さないよう後詰めをしっかりやるよう連中に言っといてくれ。今分かってるのだと、使い手は一人はいるって事だったよな?」

「はい。銘は頑鉄がんてつ、自身や触れたものを硬質強化するのが主な技になります。他にもまだ隠し持っているかもしれません」


 それを聞いた途端、男は嫌そうに口をへの字に曲げた。


「うへぇ、使わせちまったらめんどくせえなあ、それ……。全く、俺なんかより適任がいるだろうに」

「他は他で手一杯なんです。暇なあなたと違って」


 女性が右手に付けられた細身の腕時計を見る。


「そろそろ時間です。準備を」

「オーライ」


 男は右手を上に掲げる。手にはあの漆黒の刀が握られていた。それをトントンと肩たたきのように刀の棟で左肩を二度叩いてから肩に乗せる。


「そんじゃいっちょ給料分は働くとするかね」


 男は眼前十メートルにある雑居ビルに向かってゆっくりと歩を進める。相変わらず弛緩した緊張感のない顔立ちは少しも変わらない。しかし、男から漂う雰囲気が僅かに真剣味を帯びた。

 雑居ビルの入り口から堂々と入り、上下の階段を迷いなく下を選んだ。つま先から足を付け、土踏まず、踵と足音を立てないようまるで忍者のごとく降りていく。そうして一番下まで降りると、そこには錆びた鉄製のドアがあった。表札や看板は何もない。

 男は刀の切っ先を片手でドアの前に向ける。


「諜報」


 ぼそりと小さく呟くと、男の耳に先程までは聞こえなかった音が聞こえてくる。ドアの先からニュースを読み上げるテレビの音声、そして数人と思われる規則正しい呼吸音が聞こえた。


(情報通り、中にいるのは四、五人程度ってとこか)


 そしてすっ、と軽く息を吸って吐いた瞬間、そのドアを二度、刀で✕を描いて斬りつけた。鉄製であるはずの扉はまるで紙であったかのように安々と切り裂かれ、続く男のヤクザキックによって簡単に蹴破られた。ガラガラと雷のように耳をつんざく金属音が地下一帯に響き渡った。


 扉のすぐ前はリビングのようなワンルームになっていて、そこにはソファーをコの字型にして四人の男が座っていた。体格の差はあれど誰も目つきは悪辣で顔立ちは粗暴。明らかに堅気ではない。

 突然の出来事に全員一瞬だけ目を点にしてこちらを向いていたが、すぐに敵意を露わにしてソファーから立ち上がり、着ていた背広の懐に手を入れる。


「何者だてめえ!」


 男達の懐にはベレッタM92が隠されていたがそれを抜く前に男が刀の切っ先を男達に向け、聞き取れない程の早口で唱えた。


「霧氷雪華」


 そして刀を左から右に一閃すると、男達の体の表面が一瞬で僅かに凍りついた。突然の出来事に数瞬、男達は逡巡する。


「なっ!」


 動きが止まったその隙を見逃さない。男は走りだしてソファーが向かい合う中心に止まり、男達を鮮やかに切りつけた。


「ぐ……ぅ!」


 呻き声を上げた男達は血を流して前のめりに倒れ込んだ。急所を外しているため大した血の量は出ず、この程度では死にはしない。

 あっという間に場を制したが、男は警戒を解いていなかった。


(こいつら、全員銃を撃とうとしやがった)


 銃を使う。それはすなわち使い手では無いということだ。たまたま留守にしているのか、それとも……。


「――一つ振るっては岩を砕き、二つ振るっては鉄を打ち……」


 その時、部屋の奥にある通路から微かに聞こえる声を男は聞き逃さなかった。すぐさま通路をキッと見据えて一つ唱える。


跳梁ちょうりょう!」


 同時に男は走りだす。その速さは人間業とは思えないスピードで、一秒たたずに声の主の前に距離を詰めた。


「ぐ、ぬ!」

「その先は言わせねえよ」


 隠れていた主は虚を突かれ、完全にその場に居付いてしまった。男はその隙を逃さず、右腕に浅く刀を突き刺し、抜く際に返す刀で左腕も斬り付けた。

 隠れていたのは厳ついスキンヘッドに大きな目玉の刺青をした男だった。右腕には黄土色に鈍く光る刀を持っていたが、切られた痛みに耐えかねたのかぶらりと両腕を垂らし、刀を地面に落としてしまった。男は素早く刀を部屋側に蹴り飛ばし、そのまま対面の男に体当たりをかましてその場に倒れ込ませた。大の字になって倒れる男の両腕に自分の膝を乗せ、抵抗出来ないようにぐっと体重をかけて、刀を喉元に突きつけた。


「いいぞ、入って来い!」


 制圧が完了したと男は判断し、背広の左前を開いて指示を出した。背広の裏ポケットには予め小型通信機が付けられていて、それを通して外の仲間に伝えたのだ。

 間髪入れず騒がしい足音が聞こえたかと思うと、五人の武装をした男と先ほどの女性が部屋の中に入ってきた。武装した男達は倒れている男達を手際よく拘束していく。


「俺は奥に行って探してくるからこいつを頼む!」


 簡易的に押さえ込んでいた男が他の男達に拘束されたのを確認すると、男は女性とともに通路の奥へ駆けて行った。奥には部屋が幾つかあり、武器がしまわれていたり、何かの作戦を立てていたであろう文字や図が描かれたホワイトボードがある会議室があった。しかし、二人の目的はそれらではない。


 そして通路の突き当りにある最後の部屋を見つける。男は軽く女性に目配せをすると、ドアノブをゆっくりと回してドアを開ける。

 部屋の中は真っ暗だったため、手探りで電飾のスイッチを探して明かりを付けた。部屋の中は殺風景で何も物は置いておらず、ブレザーの制服を着た一人の少女が両目両手両足を縛られて猿ぐつわをされていた。二人は急いで少女に駆け寄り拘束を解く。拘束されていた少女は最後に猿ぐつわを外されると小さく咳き込んで、二人を訝しげに見つめ小さく震えていた。


「大丈夫、もう心配いらないわ。あなたは助かったの」


 震える少女に優しく声をかけ、スーツの女性は女性の正面に座り両手を肩にかけて落ち着かせるように抱き寄せた。人心地ついたのか、少しだけ少女の震えが止まる。


「まだ怖いだろうけど教えて。あなたをさらった連中に何かされなかった?」


 問いかけにビクッと少女の肩が跳ねた。しばらくオロオロと落ち着かない様子だったが、やがてすっと自分の右手を二人の目の前に差し出した。そこにはいつの間にか、深緑に輝く短刀が握られていた。


「……クソ、すでに憑いちまってたか」


 苦々しく男性はその短刀を見つめた。それは二人が想定していた最悪の事態を示していた。

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