アイバイマンダークネス

大那 幻

第1話 忘れ去られたヒーロー

「アイパンチ」

「パイパイキン」

「アイパンチ」

「パイパイキン」

「アイパンチ」

「パイパイキン」


何度繰り返しただろう。

アイバイマンは温くなったウイスキーを一息に飲む。

アルコールが餡に溶け、視界がどろどろに歪む。どろどろの世界で輪郭のぼやけた女が何か言う。

「アイバイマン、もう飲み過ぎじゃない? 顔がふやけてきてるわよ」

「ウサミ先生、黙っててくれ。どの道、僕はいずれ死ぬんだから」


その名で呼ばないでちょうだい。

厳しい語感を持ってウサミ先生が僕を睨み付ける。

「ここではイザベラって源氏名で働いてるんだから。先生だったのももう昔の話」


イザベラが煙草を咥える。カプセルを潰すタイプの細長いメンソール。

何度か吸うと灰皿に乗せて、隣の客に媚を売り始める。白いフィルターに紅い口紅がついている。

「イザベラって顔(ツラ)かよ」

アイバイマンはそう唾棄するとウイスキーを乱暴に注ぎ、また幾らか飲んだ。仄かに芽生えた劣情の炎を掻き消す様に。


「ばほほほーい、アイバイマンじゃん」

馬鹿に素っ頓狂な声が入り口から聞こえた。振り向かなくても声の主は分かる。ロバオ君だ。

無視して煙草に火をつける。僕の過去を知る人間と話をしたい訳はなかった。

「ばほほーい、アイバイマン、ちょっ、おまっ、シカト? ったはぁー、アイバイマン! そりゃないよアイバイマン! あ、ウサミ先生こっち生くれる? 元気出せよパイパンマン、元気100倍パイパンマン! だははっ!」

「……、ロバオ君、酔っ払っているのかい?」


ロバオ君の焦茶色の肌がにわかに血色を帯び、鼻の穴がふんふん呼吸を荒くしている。


「当たり前だよアイバイマン! ハナキンくらい飲むよアイバイマン! ねえミミ子先生ーっ! アイバイマンの顔ちょっと齧っていいかなー?! 俺ちょっと腹減っちゃったよー! アイバイマン、いいよねー!?」


その名前をここで出さないでちょうだい!

遂にイザベラが怒号をあげた。場は一瞬静まり返ったが、忙しなく店内に流れる天丼君のBGMを先頭にほどなく喧騒は戻る。

「悪かったよぅ、イザベラ。ちょっと甘えたかっただけなんだ」

ロバオが僕の顔をちぎるジェスチャーをする。

「食べてもいいけどさ」

「はえ?」

「食べてもいいけど、僕はもう20年も顔を交換していないんだ」

「ええーっ、そうなの!?」

「ああ。シャムおじさんとの契約が切れてね。つまり僕はこの顔が駄目になればそれでもうお終い。皆んなで言うところの『死』という化学現象を味わう事になるだろうね。そして、多分だけど今の僕の顔は美味しくないばかりか、高度の食中毒を引き起こすと思うんだ。僕の死と、ロバオ君自身のデメリットをロバオ君が飲み込めるんなら、是非食べてよ」


どうせ生きてても、大した事はないから。

アイバイマンは他人に自分の負の感情をぶつける事によって、他人が消沈する事を期待した。幼児が物をねだる時に得てして泣き叫ぶ様に。


「いやいや、だったら食わないよアイバイマン。そもそもジョークじゃん。へー、アイバイマン死ぬんだ。大変じゃん。まあ今日日アンパンてのもねえ。金払っても食べたいなんて思わないからね」

ロバオはあっけらかんと答え、生ビールを飲んだ。

アイバイマンは、自分の渾身の皮肉をこの若造に華麗に受け流された事に憤りを感じていた。

あの日ヒーローでなくなってから、一度も使っていないアイパンチ。


腕力に訴えれば今の僕でも、ロバオを殺害し、イザベラを力ずくで犯す事くらいは容易だろう。

代償が仮に死だとして、アイバイマンにはさほど痛い問題ではなかった。

だって、ほっといてもその内アイバイマンは死んでしまうのだから。


そんな事が餡裏に何度もよぎり、決まって実行に移せない自分に疑問を抱いた。

命が惜しくないならば、快楽に身を委ねられないのは何故ーー。

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