掌編小説・『哲学』

夢美瑠瑠

掌編小説・『哲学』

(これは、2019年の「哲学の日」にアメブロに投稿したものです)




       掌編小説・『哲学』


 哲学者の、麝香根澄(ジャコウネズミ)氏は、もう老境に差し掛かっていて、自身の構想考案した「関係人格哲学」の大体系を死ぬまでに一つに纏めるべく、その冒頭を書き下ろしにかかっていた。

 もちろんこれは氏のライフワークであって、余人の追随を許さないと衆目が認める氏の強靭な思考力を、存分に発揮したユニークで究極的な著作物になる予定であった。


「第一章 人間とは


 人間とはつまり人間関係の網の目の中に泡沫的一回的にあやふやに存在するだけのまったく意味だとか有効性だとかそういう確実な根拠のない漠然とした現象であって、時間と空間の中の様々な条件の函数として、運命的な固有のアイデンティティを把持させられるのであるが、しかし動物とははっきりと違う高い知性という厄介なものを宿命的に十字架として背負っているために、私にはその意味も来歴も不明なのだが、その知性や悟性ゆえに、人間は様々に苦悩をして、人生は誰にとっても地獄の様相を帯びる。

 人間関係は桎梏であって、逃れることのできないアリ地獄のようなもので、そこから規定されていく人間の固有の人格や、運命の辿り着く先もやはり結局は地獄への一里塚なのである。

 そうした、人々から見るとペシミスティックな哲学を抱いているので、私は仕事もしないし家族も持たない。人生とは地獄だ。そう観念することで、やっとのことで呼吸をしていることができるのだ。

「人間の絆」というサマセットモームの名高い小説があるが、これも要するに人間関係の網の目から逃れようがない運命的な不幸な我々の存在形態について、逆説的な表現を結論的にまず表白して、それを全巻の、タイトルとしているのであって、そもそも社会とか関係というものが一種の不可避的な災厄だという、アイロニカルな人生や人間についての絶望が、人生の達人の作家の悟達の境涯として、一つの芸術的なエスプリになっているのだ。

「無駄じゃ、無駄じゃ」という私の口癖は、説明するとこういうことなのである。…」


 そこまで書いて何だかよくわからなくなってきたので、いったんハンモックに寝そべって休むことにした…


「第2章 人格とは  


 人間はほぼ二十年近くにわたって,様々な社会体験を通じて、人格の形成という極めて中心的で一回的な重要な過程を経験する。

 これも生物一般とはまるで異なった精神的成長の複雑な要素の集大成であり、やり直しも、ごまかしも不可能な一種の全存在を賭けたシーケンスのトライアルともいえる。

 その偶然的な達成の結果がその後の全人生を左右するのであって、人格というものがいかに能力や個性の全的な解発の結果でありうるかという、振られた賽子の目の転がった先が、幸福とか職業的な成功とか、人間の人生において最も重要な、様々な枢要な出来事を恰も、歴史を夜作る女性のごとくに、裏書きする脚本家として、形成された人格の変数は、機能するのである。

 それは、もとより予定調和ではなくて、そう誤解されがちかもしれないが、寧ろ白紙の上に流されたインクブロットの如きもので、その上に様々な精神現象が千変万化に投影され、百花繚乱に展開して、曼荼羅の如き様相を呈する、複雑で抽象的な、それ自体は完全な解釈の不可能な、無意味なパターンかもしれない。

 日々の種々様々な末梢的な事件やら他人との交流という膨大な偶然の累積の結果の、長年の錯雑したフラクタル的な構成が、人格という自然現象の総体であり、そこには人間的な恣意や運命以外の個人的な得手勝手な介入が入り込む隙は無いのだ。

 全ては時間という大いなる謎の気まぐれな産物で、だから運命というものもそこに追随せざるを得ない不条理な力動の全く無意味な賜物であって、要するに人生そのものも結局は人格というできそこなった神のできそこなった被造物であって、全ては基本的に無意味なのだ・・・」


 そこまで書いて、もう飽き飽きしてきたので、麝香根澄氏は、毒杯を呷って、自殺をした。

 フリードリヒ・ニーチェのひそみに倣ったのかもしれない。


<了>








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