第250話 どうしても流す
学校が終わってから、すぐに家に帰った。いつもなら夜まで学校に残るが、今日はルーシが気がかりだった。
家に帰ると、案の定ルーシの姿が見当たらなかった。フィルの姿もない。空っぽのリビングに、空っぽの空気だけが停滞している。硝子戸から橙色の光が差し込み、ヒグラシの鳴き声が闇に溶けていた。
部屋の中央に立って、ぐるりと周囲を見回す。ぐるりを見回す、という表現ができるのはなぜだろう。
何かに見つめられているような気がした。
それは、いつも自分の中にあるもの。
唐突な目眩。
四角いはずの天井が円形に見える。
バランスを崩し、ソファに凭れかかる。脚の力が抜けて、床にぺたんと座り込んだ。
今日学校で学んだことが、頭の中をぐるぐると駆け回っていた。色々な文字や数式がすべて統合されたかと思うと、今度は限りなく分裂され、もとの姿が見る影もなくなる。
リビングのドアが開いて、誰かがこちらにやって来るのが分かった。紙みたいな足音。軽快な摩擦音は、溶け出した世界にむしろ新鮮だった。
月夜の傍までやって来ると、その誰かは彼女の身体に触れた。顔を上げて朧気な目で相手を見る。
なんとなく、それがルーシだと分かった。
さらに、背後から黒い四肢を纏った動物の姿。
「やはり、お前のせいだったか」フィルの声が聞こえた。「何とかしなければ」
「何とか、とは?」ルーシが尋ねる。
「何でもいい。眠らないようにするんだ」
「眠らないように?」
フィルが月夜の前に来て、彼女の掌に噛みついた。手の表面から甲にかけて、パイプで突き抜けられるような痛みを覚える。
痛くて、月夜は、痛い、と零した。
考えて発したのではない。
おそらく、反射。
ルーシが月夜の肩に手をかけ、身体を持ち上げる。その力は想像以上に強く、彼女は一度に床から引き剥がされた。
「やりすぎだ」フィルが呟く。
「なるほど」ルーシの応答。
ルーシは月夜をソファに座らせた。それから、両手で彼女の頬を挟む。何の陰影もない瞳で見つめられた。鋭い眼差などではない。鈍すぎて、色がなく、生きているとは思えない。
「僕のせいらしい」ルーシが言った。「ごめん」
「……何が?」月夜は小さな声で尋ねる。
「色々」
色を失いかけていた世界に、少しだけ色が戻った。しかし、少し気を抜けばまたすぐに失われてしまいそうだ。
雷が鳴れば良いのに、と思った。
それから、自分にしては素直な発想だ、とも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます