第236話 街は街、棟は棟
太陽が消え、代わりに月が昇った。正確には、地球が回転することで、それまでそこにあった月が見えるようになった、といった方が正しい。
日中の茹だるような暑さが消え去り、それまで忘却の彼方に沈んでいた冷たさ、静かさが街を包んでいた。校舎の屋上に立ってそれらを眺めている意識。目の前に大学のキャンパスが見える。自分もあと三年もしたら、大学に通っているのだろうか、と想像する。
すぐ傍にルーシが立っている。彼は月夜が向いているのとは反対を向いていた。そちらには基本的に何もない。基本的というのは、空間の性質上、物理的に何もないということはありえないということを意味する。ただ、特筆するようなものは見つからない。人間にとって重要なものは何もない。
「何を見ているの?」
月夜が尋ねると、ルーシはネジを巻き損ねた人形のようにこちらを見た。
「何も」彼は首を捻る。「君は?」
「月夜」
「何を見ている?」
「今は、貴方」
日中でなくても空は高い。むしろ夜の方が高いように思える。瞬く星々を見ていても、感傷的な気分にはならないが、少々不思議な心持ちにはなる。自分がこの星に生まれてきたという奇跡、あるいは必然が、何を意味するのか考えたくなる。
考えても仕方がないというブレーキが、利かないこともある。そういうとき、人はフリーズする。フリーズが起こる主な原因は、膨大な量の演算を求められたか、想定されていない問いに対する答えを求められたかのどちらかだ。今の月夜は後者の状態だった。人間は、無限に広がる宇宙について、明瞭な見解を述べる術を持っていない。
内と外を区切る銀色の柵に手を触れる。熱がまだ少し残っていた。熱とは、すなわち原子の振動。つまり動き。この辺りになると、ものと動きの境目が曖昧になる。言葉は、ある対象について、それをものとして表すことも、動きとして表すこともできる。特に動きはものにしやすい。
ルーシがその場に座り込んだ。座り込むというよりも、何かに引っ張られるような動作だった。自然と月夜は彼に目を引かれる。それまで隣に屹立していた大木が、根もとから地下へと吸い込まれるように見えた。
「どうかした?」
月夜の問いに、ルーシは答えない。
座り込む動きを忠実に逆に辿り、ルーシがまた立ち上がる。
闇に赤い光の尾が引いた。
光る瞳が、月夜を見つめる。
彼は、腕を伸ばし、月夜の首へと触れる。
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