第237話 崖は崖、峰は峰
触れられる前に身体を捩り、掴まれるのを阻止した。一歩後ろに足をずらし、飛ぶようにして後退する。
ルーシはすぐに月夜との間合いを詰めたが、月夜もそれに合わせて後退した。その繰り返し。しかし、屋上は有限の空間であるため、いつか必ず柵に阻まれて後退できなくなる。
柵から飛び降りるか、とも一瞬考えた。このまま彼に殺されるより、自ら命を絶つ方が合理的ではないか。何が合理的なのかは分からない。こういうのを、プライドと呼ぶのかもしれない。
硬質な柵に背が当たるのが分かる。金属製のそれはまだ夏の温度を残しているかもしれなかったが、背負っている鞄に阻止されて分からなかった。
ルーシが手を伸ばし、月夜の首へ再度触れる。
彼に躊躇はなかった。もう片方の手も伸ばし、左右から挟むようにして彼女の首を絞める。
光る瞳。
赤く、強く、それは月夜を見つめている。
遠のきかける意識。
しかし、それをなんとか繋ぎ止めるように、自分へと指示を出す。
そうだ。こんなふうに、自分の中にもいくつもの自分がいる。
垂れ下がっていた手を持ち上げて、月夜はルーシの胴に触れた。そのまま、腕を背後へと回す。身長差のせいで距離をつめることはできなかった。
鼓動。
自分のものか、相手のものか、分からない。
物の怪に鼓動はあるのか。
死んでしまって、それでも残るものは何だろう。
人々に残された、記憶?
世界に働きかけた、影響?
背負っていた鞄の中から、暗闇に向かって、黒い何かが飛び出した。それは目の前の少年と対照的に黄色い光を宿し、空間に小さく尾を引く。
フィルがルーシの手に噛み付いた。それに気がつき、ルーシは自分の手を見る。赤い光。
鋭い牙に引き裂かれ、ルーシの腕が悲鳴を上げる。黒い色をした奇怪な液体が零れ落ち、闇に溶けるように滴った。
皮膚が割け、骨が溶け、手先が手首から両断される。
何の衝撃もなかった。
手は、とさ、と、静かに音を立てて、屋上の硬質な地面に落ちた。
ルーシは、それを見る。
フィルは、手が落ちるのと同時に空中へ飛び上がり、月夜の頭の上に乗る。
首を掴んでいたもう片方の手を離して、ルーシは一歩後退した。なくなった手の先を見つめ、それから地面に落ちた手をもう一度見る。
手は形を崩壊させ、あとには黒い染みだけが残った。
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