第213話 取るか否か

 太陽に見守られながら洗濯物を干した。見守られながら、というのはあまりにも観念的な表現かもしれない。午後へと向かうにつれ、太陽の光線は次第に強くなっていく。今はそのピークに向かう最中だったから、見守られるというよりも、むしろ攻撃を受けているような感じだった。


 月夜は、基本的に、洗濯物は一階に干す。一階というのは庭のことで、そこに物干し竿がある。一人分だから大層なものは必要ないが、どこに行っても大層な物干し竿しか売っていない。


 蝉の声が耳に煩かった。いや、別に煩くはない。やはりそれも観念的な表現で、事実と差がある可能性がある。蝉の声は一般的には煩いものとして認識されているが、鳥の声はそうではない。それは、鳥の声は美しいものだという一般的な観念があるからだ。


 夏。


 去年の今頃は何をしていただろう、と月夜は考える。しかし、考えても何も思い出せなかった。そもそも、自分は去年も生きていただろうか? この家で、こんなふうに過ごしていただろうか? 人間の場合、思い出せないことがあるのは普通だ。一週間前の晩ご飯を思い出すことも難しい。


 忘れることで生きていける。


 もちろん、忘れることができないこともあるし、忘れてはいけないこともある。


 寝坊してしまったから、少々の心配はあったが、どうやら洗濯物はすぐに乾きそうだった。手に付着した洗剤混じりの水が蒸発して、皮膚の水分を奪っていくのが感じられる。そうして、また濡れた洗濯物に触れて水分を取り戻す。その繰り返し。


 ものから完全に水分をなくすことはそう簡単にできない。


 フィルが今どこにいるのかは分からない。家の中にいるのかもしれないし、外へと遊びに行ったかもしれない。いずれにしろ、遙か遠くの彼方まで、たとえば、日本列島を横断して、ブラジルに向かった、というようなことはない。だから、会おうと思えばすぐに会えるし、全然寂しさは感じない。


 けれど、月夜は、自分の中に一種の寂しさがあることに気がついていた。


 それに気がついたのは、もう随分と昔のことだ。


 随分と昔というのは、去年の夏よりも前だろうか?


 ……分からない。


 特定の何かに対して寂しさを感じる、というわけではない。それはいつも自分の内側にあるが、蜃気楼のように見えたり見えなかったりする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る