第209話 桃現響

 階段の踊り場は暗かった。階段以外に踊り場を持つ場所はあるのだろうか、と月夜は考える。頭上から微かに光が差し込んでいた。しかし、それだけだ。それだけというのは、オンリーという意味で、オンリーというのは、限定されているという意味になる。


 フィルが手摺りの上を歩いている。先ほどから、下から上ったり、上から下りたりを繰り返していた。何が面白いのか分からないが、その様を眺めているのは面白かった。そして、その様を眺めて面白いと思っている自分を自覚するのも、また面白い。そんなことを面白いと思っている自分を見て、フィルも面白いと思っているだろうか。


「今日はどんな一日だったんだ?」


 フィルに尋ねられ、月夜は現実から乖離しかけていた視線を彼に向けた。


「至って通常の一日」


「つまり、さぼり魔の一日ということか」


「さぼってはいない」


 フィルは手摺りを滑る勢いのままに空中に飛び上がり、硬質な床の上に静かに着地した。それから、階段を上って月夜の傍へと近づいてくる。腕の中に飛び込んでくるかと思って身構えたが、フィルは高く飛び上がると、月夜の隣にある手摺りの上に大人しく座った。どうやら、今日は手摺りとデートがしたいらしい。


「単刀直入に訊こうか」フィルが言った。彼はくりくりした目を月夜に向ける。


「今の一連のやり取りがあったから、もう単刀直入ではない」


「ルゥラとの別れは、辛くなかったのか?」


 フィルの質問の意味を理解して、月夜は一度口を閉じた。いや、今はフィルが話すターンだったから、少し前から口は閉ざされている。


 ルゥラというのは、月夜と知り合いだった物の怪のことだ。食事をとらせることで月夜を殺そうとしたが、それが上手くいかず、結果的に自らの命を失うことになった。物の怪はもともと命を失っているから、それは比喩的な表現にすぎないが。


「分からない」


 暫くしてから、月夜は答えた。


 答えてみると、なんともチープな答えだと思った。


 いや、答える前からそう思っていた。


 口にしてみることで、改めてそのチープさが分かるようになったという意味だ。


「まあ、そうだろうな」フィルが言った。「お前にとって、あいつがどのような位置に存在していたのか、俺にはよく分からないが」


 月夜は少しだけ上を向く。


「大事ではあったかもしれない」


「それは、自分がか? それとも、相手がか?」


 月夜は答えを口に出さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る