僕の義理の妹がひきこもりでヤバい。

@kazen

僕の義理の妹がひきこもりでヤバい。


 けばけばしい極彩色のマジックで描かれた、たどたどしい筆致の『れいなのへや』というネームプレートがぶら下げられたドア。

 ドア前の廊下にラップの掛けられた白飯とみそ汁、目玉焼きがのった盆と洗濯済みの衣類を置き、その代わりに、おそらく深夜に廊下に出されたのであろう、空になった昨日の夕飯の食器と密封された黒いビニール袋3つを手に取った。

 その拍子に積み重ねられた食器の隙間から1枚のメモ用紙がはらりと落ちた。

 一昔前に流行した『みなごろしパンダ』が隅にプリントされたピンク色のメモ用紙には、筆圧の強さが特徴的な筆跡で『オムツがそろそろ無くなりそうです』と書かれていた。

 スマホのスケジュールアプリを立ち上げ、今日の予定の部分に『オムツ』と入力してから、そう言えば入浴剤もなくなりそうだったということを思い出して追加する。どちらもドラッグストアで買えるものだから手間がかからなくていい。

「礼奈、お兄ちゃんこれから仕事に行ってくるから。帰りは6時を過ぎると思う。母さんはいつも通り、マンションの方だって。朝食、置いておくよ」

 部屋の中に向かって声をかけると中で衣ずれと床のきしむ音がしたが、気にとめず階段を下り、戸締りと火の元を確認してから家を出た。

 玄関の鍵がきちんとしまっていることをしつこく何度も確かめ、2階を見上げた。

 家の前の道に面した礼奈の部屋の窓は鎧戸で閉ざされている。外からはわからないが鎧戸の下には鉄板があり、窓は完全に塞がれている。まあ、それは礼奈の部屋に限ったことではないが。

 インターホンの電源が切れていることを確認した僕は、出勤前にもう1度礼奈の、もう5年も顔を見ていない義理の妹の部屋を見上げた。

 当然、何の変化もなかった。




「おい、設計報告書まだか」

「2件まとめて、午前中には完成させます」

 スマイルで上司の催促をいなし、PCに向き直る。デスクトップの右下の時計で時刻を確認すると現在11時22分。仕事の方は問題ない。どうせ、過去の報告書をコピーしてきていくつかデータを貼りかえるだけの簡単なお仕事だ。

 10分で報告書を仕上げ、お昼休み直前まで仕事をしている振りをすることに決めた。余裕が出来た時にふと思い浮かぶのは、やはり礼奈のことだった。


 僕と礼奈の関係を、微に入り細を穿って説明するのはちょっと面倒くさい。

 簡潔に言ってしまえば、僕が8歳の時に父が宝石店を経営する実業家の義母と再婚し、僕には3歳年下の義理の妹が出来た。

 それから何やかやあって、5年前に父が死に、そして義妹はひきこもりになった。

 5年、それは決して短い時間ではない。

 僕は親のすねをかじり倒していたお気楽大学生から会社員になった。

 礼奈も5年分、歳をとった。とっているはずだ。

 僕が最後に礼奈を見たのは、礼奈が17歳だった頃だ。

 当時我が家で飼われていたチワワのアインシュタインを抱えた、泥だらけの制服姿の礼奈。それが僕の記憶に焼き付いている礼奈の最後の姿。

 華奢で、華奢で、抱きしめれば折れてしまいそうだった礼奈。

 礼奈は、どんな22歳になっているのだろう。




 ドラッグストアでオムツと入浴剤を購入し、帰宅した僕は真っ暗なリビングの電気をつけた時に、室内の物の配置が微妙に変わっていることに気がついた。

 本当に微妙な、リクライニングチェアが1センチずれている程度の違いだった。それに気づくことが出来たのは僕が家具の類の位置をミリ単位で把握してから家を出るように努めていたからこそだ。

 家具の移動、それが意味していることはただ一つ。

 

 僕はスーツの上着をソファの上に放り投げ、礼奈の部屋以外の、地下室を含む全室を点検して回った。

 浴室に行くと入浴剤の数が1つ減っていた。日中に礼奈が風呂に入ったのだろう。

 トイレットペーパーのロールが1ミリほど細くなっていた。日中に礼奈が使ったのだろう。

 冷蔵庫の中の麦茶がコップ1杯分ほど減っていた。日中に礼奈が飲んだのだろう。

 点検を終え、長いため息をつきながらソファへと身を沈める。

 記憶が確かなら、礼奈が僕のいない日中に部屋を出たのは4カ月と3日ぶりのことだ。

 その前は6カ月と12日だった、その前は9カ月と25日。礼奈が自室を出る間隔が少しずつ短くなってきている。

 目頭を揉みながら再び嘆息する。

 もしかすると、礼奈が部屋から出てくる日が近いのかもしれない。

 ならば、兄としての役目を果たさなければならないだろう。


 礼奈の好物であるカレーライスとサラダ、それにゆで卵を乗せたお盆とオムツをパッケージごと礼奈の部屋の扉の横に置いて、ふと思った。

 もう5年も礼奈の顔を見ていない。

 この部屋の中にいるのは、本当に礼奈なのだろうか?

 もしかしたら、礼奈はもうすでに何らかの理由で死んでいて、僕は別の人間に毎日朝夕の食事を運んでいるのではないだろうか?

 ほんの一秒ほどで妄想を頭から振り払った。

 そんなわけはない。この部屋の中にいるのは、間違いなく礼奈だ。僕の義妹である礼奈。間違いない。

 吐きだされる乾いた嘆息。

 疲れているのだろうか。多分そうだ。

 僕の前に礼奈の世話をしていた義母も、こんな益体もない妄想に疲れ切ってしまったのだろう。

 礼奈が部屋にひきこもり、父が死んでからずっと義母は甲斐甲斐しく礼奈の世話をやいていた。同時に、僕らを困窮させないために母はそれまで以上に宝石店の経営に注力せざるを得なかった。

 朝、礼奈の食事を準備し、夕方に礼奈の食事を準備してから店に戻り、帰宅するのは深夜。

 当然のことだが、そんな生活、いつまでも続けられるわけがなかった。

 僕が地元の化学企業に就職した年の夏、珍しく早く帰宅した義母はワインを浴びるように飲み、トイレに行こうと立ち上がったところでソファにひっくり返った。

 慌てて駆け寄った僕の頭を引き寄せ、抱きしめた義母は、思わず身を固めた僕の耳元でぽつりと呟いた。

『あなたもきちんと就職したし、もう、思い残すことはないわね。あの子を、礼奈を連れてあの人の所に行こうかしら』

 冷たい声だった。感情がかけらも感じられない、シリコンのような声。

 その時にはじめて、義母はとっくの昔に限界を超えていたのだということに気がついた。

 義母の腕を振り払い、マネキンのように表情の消えている義母を抱きしめ、僕は泣いた。あの日以降、義妹から目をそらし続け、義母の心労を見て見ぬふりをしてきた自分の不甲斐なさに泣いた。

『ごめん……母さん、ごめんなさい』と繰り返す僕の頭を撫でながら、『ごめんね、こんな母親で……』そう義母は繰り返し、2人で泣き明かした。

 それから2人で話し合い、分担を決めた。

 今後は僕が礼奈の面倒を看る。母は宝石店の経営に専念し、家庭にお金を入れる。母の稼ぐ額は僕より遥かに多かったし、礼奈の面倒を看るのは男である僕の方が都合が良かったからだ。

 あの日、それまでどこか他人行儀だった僕と義母が本当の親子になってから、もう3年が経とうとしている。

 礼奈、お前はいつまで部屋に閉じこもっているんだ。

 礼奈の部屋のドアに向かって声をかけようとして、思いとどまった。

 いつも通り、夕飯を運んできた合図としてノックを3回して階下へ向かった。

 僕の耳に、礼奈の部屋の中からがたがたと何かが揺れる音が響いてきていた。




 礼奈が泣いている。

 当時通っていた高校の制服であるセーラー服を身にまとった礼奈が泣いている。

 老衰で死んだアインシュタインをその両腕に抱えて泣いている。

 ああ、これは夢だ。

 礼奈がひきこもりを始める原因となった事件が起こった日。

『おにいちゃん……私、私……』

 しゃくりあげなら繰り返す礼奈。

『アインシュタインを、公園に埋めてあげようと思ったの……うちの庭にいるより、子供の多いとこの方がアインシュタインは喜ぶと思って……』

 礼奈。僕の大事な義妹、礼奈。

『公園にいたらね、変な男の人2人にからまれて……腕を掴まれて暗がりに引き込まれそうになったの……もってたスコップで、私……でも、私……お兄ちゃん、お兄ちゃん……私……』

 泥で汚れ、袖の引き裂かれたセーラー服。真っ赤になった瞳で礼奈は僕の胸に飛び込んでくる。

 泣きじゃくる礼奈、混乱して目を泳がせる僕の間に挟まれ、亡きアインシュタインは何を感じているのだろうか。

 ふと視線を落とすと、アインシュタインが濁った瞳でこちらを見ている。

 いつもだらしなく口の端からこぼれ落ちていた舌がずるりと落ちる。

 飛びだし気味だった両目はぼろりとこぼれ。

 真っ赤な口腔を背景に鋭い牙がぞろりぞろり。

 身を引こうとした僕の腕を、礼奈が掴む。ぎりぎりと、骨がきしむほどの力で。

『礼奈……』

 離して、そう叫ぼうとした僕の唇を礼奈の唇が塞ぐ。

『お兄ちゃん、お兄ちゃん……私、お兄ちゃんのことが好き……だから、汚れた私の側にいてね……捨てないでね……お兄ちゃん、お兄ちゃん……』

 言葉とともに僕の口の中に注ぎ込まれた何かが、ぐねぐねと舌の上をのたうちまわる。

 礼奈を突き飛ばし、口の中のものを床に吐き出す。

 蠢くそれは、粘液まみれの幾多の毛虫。アインシュタインの顔をした毛虫。

 声帯が引きちぎれんばかりに絶叫し――




 ベッドの上で、ばね仕掛けの人形のように体を起こした。

 嫌な寝汗が全身を包んでいた。

 袖口で額の汗をぬぐい、パジャマを脱ぎながら、僕は思う。

 あの日の僕たちの行動は正しかったのだろうか。

 父の決断で、僕らは全てを闇に葬り去ることにした。

 それは、果たして正当であったのだろうか。

 もし僕らが、法廷に引きずり出される礼奈を全力で支える決断をしていたのなら、もっと違った未来があったのではないだろうか。

 栓ない。いまさら、栓ないことだ。

 でも、そんな風に考えてしまうことを止めることはできなかった。


 シャワーを浴びて朝食を準備し、いつも通り礼奈の部屋の前にお盆を運んでいく。

 いつものように部屋の扉に声をかけようとしたときに、今朝の夢が思い起こされ、ほんのわずか躊躇してしまった自分を恥じる。

 改めて息を吸い込んだ所で、

「……お兄ちゃん……」

 部屋の中から聞こえてくる、礼奈のか細い、震える声。

 室内で音はしなかった。だから、多分礼奈は部屋の扉に張り付いて僕が来るのを待っていたのだろう。

「……お兄ちゃん、助けて……私を、助けて……もう、限界……」


 ドアノブが。

 礼奈の部屋の、レバー型のドアノブが、動き始める。

 かたかたと。ぎりぎりと。

 礼奈の部屋のドアが、開こうとしている。


 礼奈……!

 身動きすらできず、立ちつくしたまま心の中で絶叫する。


 ドアノブの動きはちょうど45度ほど動いた所で止まる。

 後は、ほんの少し力を加えて押すだけで、ドアは開くはずだ。


 礼奈……

 祈るように胸中で呟くと、ドアノブは逆再生のようにゆっくりと、緩慢に元の位置に戻っていく。


 そして、部屋はまた閉ざされる。


「……お兄ちゃん、助けて……」

 絞り出すような声を最後に、礼奈は沈黙する。


「ま、待っていろ、礼奈!」

 階段を駆け降りる僕は、きっと必死の形相だっただろう。

 まず会社に病欠の連絡を入れ、棚から青いファイルを引っ張り出す。

 表紙には『ひきこもりカウンセラー一覧』と書かれており、これまで接触したことのあるひきこもり支援の学生ボランティアの情報を顔写真入りでファイリングしたものだ。

 その中から大学の心理学部に在籍している学生に目をつけ、スマホをタップする。




「任せてください!」

 礼奈をどうにかして社会復帰させたいという僕の話に耳を傾けながら、緑茶とお茶請けを見ていて気持ちいいくらいの勢いで平らげた彼はドンと自分の胸を握りこぶしで叩いた。

 見た目は軽薄、話してみた感じ中身も軽薄で、心理学の知識もはっきり言ってあまりないようだったが、重要なのはそこではない。

 もっとも大事な基準を満たしている彼を手配できたことに、ほっと安堵する。

「宜しく頼むよ」

 真摯に頭を下げる。

「はいっ!」

 外見から受ける印象と違い、苦学生である彼に提示した報酬10万円の効果だろう、満面の笑顔で2階へと続く階段を上っていく。

 時折ふらつき、『あれぇ?』と首をかしげる彼の後姿を見送り、彼が飲んだ湯呑を台所でざっと洗う。

 布巾で湯のみを拭っていると、頭上から小さな振動が響いてくる。

 二、三度続いたそれが途絶えたことを確認して、睡眠薬のPTP包装と彼の個人情報をプリントした用紙を大型の電動シュレッダーに放り込み、がりがりという破砕音に背を向けて地下室へと向かう。

 コンクリート打ちっぱなしの地下室は、いつものように刺すような冷気で満ちている。

 排水口のある部屋の中央に向かって伸びる、真っ赤な染みの跡。

 床の上に無造作に投げ出された、のこぎりや鉈や大振りのナイフ。

 不用意に礼奈の部屋に足を踏み入れてしまった父を――をこの部屋で処理してからもう5年か。

 ああ、感慨にふけっている時間はない。

 ビニール袋の山の中から寝袋のような形状の納体袋を引っ張り出し、引きずりながら2階へ向かう。


 おそらく学生が蹴飛ばしてしまったのだろう、礼奈の部屋の前には今朝運んできた朝食が散乱している。

 それを片づけ、納体袋と清掃・消臭用具一式を、湿った音が響いてくるドアの前に置く。

「礼奈、飽きたら中に入れて部屋の前に出しておいて。片づけておくから」

 ぴったりと閉じられたドアに、声をかける。

 背を向け、立ち去りかけた僕の鼓膜を、

「ありがとう、お兄ちゃん! 大好き!」

 礼奈の屈託のない言葉が震わせる。


 リビングに戻り、冷蔵庫から取り出したビールを一息で半分以上飲み干して、呟く。




 僕の義理の妹がひきこもりでヤバい。

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