第75話 (閑話)董青伝その2
※後世の歴史家視点です
光和六年まではその1を参照。
光和七年*1 董卓、黄巾討伐のため広宗に出陣し、功なくして河東にて謹慎を命ぜらる。
※歴史家の注 このころは洛陽の董旻のもとに預けられていたと思われる。董木鈴という同名の兄と思われる人物が董卓に同行し、兵糧の手配を行い曹操に称賛されている。兄は劉備や匈奴とも交友があったと思われる。その縁で劉豹から董青が求婚されたが、董卓は董青を後宮に入れると言って断っている。
※歴史家の注 董卓の息子はすべて早逝しており、兄がいるのはおかしい。
中平二年*2 董青は後宮に出仕し、劉弁に仕える。点心づくりに才があり、何皇后や趙忠に称賛され湯官に任ぜられる。しかし、劉弁が洛陽城内の道士の家にあずけられたため、官を辞し長安の父の元に戻った。
※歴史家の注 このころ白黒を発明したと言われる
※歴史家の注 劉弁が宮廷から出された背景には張譲趙忠の宦官主流派と新興の蹇碩派の争いがあった。張譲趙忠は何皇后を皇后に推薦した何進派閥であり劉弁派であったか、蹇碩は霊帝の意を汲む劉協派である。このころ張譲趙忠は黄巾党への内通を疑われて霊帝の信頼を失っており、蹇碩が霊帝の内意を受けて劉弁を宮廷の外にだすことで後継者から外す意図があったと言われている。
※歴史家の注 劉弁が宮廷から出されたのは宮中で皇子が早逝しやすいことを懸念した霊帝の配慮とされている。むしろ後継者として大事にしていたのではないか?
董旻は前から何進に仕える。黒山賊を降伏させる案を上奏し、劉備を派遣して朝廷に帰順させた。また曹操、袁紹、張邈、孫堅など名士と交わり、孫堅を董卓の幕僚に推薦した。
※歴史家の注 このころ河伯教団の活動が活発化しており、河東では白波賊と合流し、河東太守に降伏。製鉄の権利を得るなど広範な自治権を認めさせている。また洛陽郊外の孟津にも支部を建設しており、嵩山の道士と抗争。河南尹の命令で討伐に向かった孫堅に降伏するも逆にこれを懐柔し味方につけ嵩山を脅迫した。この河南尹は何進の弟の何苗であり、何苗に降伏を仲介したのが董旻、もしくは董青の兄の董木鈴とされる。以後の河伯教団は何進派閥として活動。劉弁と何進に宮殿修復の勅命があったときに教団が人員と予算を拠出している。
※歴史家の注 同年、司馬朗とお見合いをしたが気が合わずに成立しなかった。代わりに兄が応対し政治に関する談義をしたと言われる。この兄は前出の董木鈴であろう。この時点でこの兄は河東郡の破賊校尉を名乗っているがこれは河東の河伯教団に与えられた官位であり、董家と河伯教団との関係性はかなり早期からあったと思われる。
*1 西暦184年
*2 西暦185年
※・原文が簡素すぎて、後世の歴史家の注ばかり長い列伝あるある
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