セックスしないと出られない部屋殺人事件~観月蒼志の場合~

ぐるぐる

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「相談したいことがあります。火曜の十五時、一号館五階の一番端の教室で待ってます」

 火曜の昼、十一時五十分、まだ混雑のピークちょっと前の大学食堂。蒼志のスマホに表示された文字列を読み上げて、俺は首をひねる。

「一号館の五階って何があるんだっけ」

「今はほとんど使ってない小教室があるはずだな」

 さっさとスマホをテーブルに戻し、蒼志はその手を箸に持ち替えた。彼の前にはいつものA定食。今日のおかずは煮込みハンバーグ。てろりとかかったデミグラスソースを眺めながら、俺はうどんを啜った。今日はかけじゃなくてきつねだ。辛うじて。

「そんなとこに呼び出しとか、珍しい」

「そうか?割とあるぞ、空き教室の指定は」

 涼しい顔でハンバーグ(と書いて贅沢品と読む)を口に運びながら蒼志が言う。

「テツと会ってからはないかもだけど」

 伏し目になると睫毛の長さが際立ち、俯いてさらさら流れる前髪やハンバーグをつまむ箸使いまで何もかもサマになって見えるこの美丈夫――観月蒼志は、俺がこの夏出会った〝名探偵〟だ。高校の時からあちこちでいろいろな事件に関わっていたとかで、その業界ではちょっとした有名人らしい。ついたあだ名が“A市のホームズ”。めっちゃローカル。割とダサい。もちろん、県外から進学してきた俺はこの街にそんなやつがいるなんて知りもしなかった。

 大学に進学してからはそのあだ名は“A大のホームズ”とさらにローカル化し、その結果、彼の学内アドレスのメールボックスにはしょっちゅう“名探偵”宛ての依頼が届くようになったのだ。蒼志はその依頼を割とまめにこなしている。依頼料は取ったり取らなかったり。

 ひょんなことで蒼志と知り合い、その事実を知った俺は、なんやかんやで彼のワトソン役の座に収まることになり、いくつかの依頼――そして事件に同行している。蒼志が解決した事件を小説化するという俺の野望は未達成のままだけれど。

「講義と講義の合間に五号館の教室とかだったらわかるけどさ。一号館って俺、一度も行ったことないぜ」

「ほとんど引っ越しも終わってるからな」

 このキャンパスは一号館から七号館の建物で構成されていて、古い建物ほど数字が若い。当然一号館は最も古い棟で、確か来年度には完全に取り壊される予定のはずだ。俺が入学したときにはもう一番新しい七号館への引っ越しが始まっていた記憶がある。

「まあ、使われていないわけでもないし。あんまり人に見られたくないとかじゃないか。俺にメールくれるやつにはよくある」

「わざわざ一号館に入っていくってだけで目立ちそうだけどな…」

「そうでもないだろ。すぐ隣に二号館もあるし。それに、あそこ、最近はカップルに人気らしいぜ」

「カップル?」

 急に予想しないワードが出てきて俺は首をひねる。あんな古くさくてそっけないコンクリート建ての建物になぜカップルが?

 蒼志はパックの野菜ジュース(これまた贅沢品)にストローを差し込みながら、何でもないことのように続けた。

「入っていくだけで目立って噂されるようだったらそういうことには使われないだろ」

「そういうこと?」

「相変わらず婉曲表現が通じないな、テツは」

 じゅー、とジュースをすすり、蒼志は呆れた顔で俺を見た。

「どっかの空き教室がヤリ部屋にされてんだよ」

「うげっ」

 俺は思わず眉を寄せる。蒼志の美貌と美声でさらっと下世話な話をされると、妙にダメージがでかい。元々あんまり、そういう話は得意じゃないのだ。あの古ぼけた建物が浮かれポンチな大学生にホテル代わりに使われると思うとぞっとしない。ほとんど麺がなくなったどんぶりの中を箸でぐるぐるかき混ぜる。

「……俺もう二度と一号館に近づきたくないかも……」

「今日行くんだろ、十五時」

「十五時にも人間ってそういうことしたりする?」

「おまえの人生を振り返って考えてみろ」

 ……果たして俺の十九年の人生にその答えはあるのか?

 迷宮に放り込まれてしまった俺をよそに、テーブルの上ではあっという間に空になった野菜ジュースのパックが、きれいに折り畳まれている。蒼志はトレーの上をさっさと片付けて立ち上がった。俺とこれ以上雑談をしてくれる気はないらしい。

 クールなまなざしが俺を見下ろす。

「とりあえず、五分前には一号館な。遅刻厳禁。遅れたら……」

「わかってる、わかってる。橘哲也は観月蒼志をお待たせしません。一生の約束です」

「ならいい」

 これまたクールなお返事。どうやらジョークに付き合ってもくれる気もないと。まあ、いつものことだけど。俺もテーブルを片付ける。

「……ていうか、そこで俺らが待ち合わせてたらそれ目的だって思われねえかな……」

「人間はおまえほど他人に興味ないから大丈夫だよ」

 ……俺は蒼志の他人への関心の少なさの方が少数派だと思うけど。そう返す前にはもう奴は俺に背を向けていた。


 ○


 そして十五時ちょっと前、俺たちは約束どおり一号館の五階に向かった。一号館は上から見ると漢数字の一に見える作りのくせに出入り口も階段も一方の端にしかない建物だ。だから「一番端の教室」とは階段から一番遠い教室を指すのだろう。なんて推理するまでもない話だけど。

 窓が大きく思ったより明るい廊下を、蒼志がずんずん歩いて行く。俺はその後をだらだら追いかけた。階段側から順番に501号室、502号室、……と確かに小教室が並んでいる。どの教室も入り口は開き戸ひとつだけ。廊下側に窓がないので教室の中は伺えなかった。

「……一番端って何号室なんだろ」

「構内図の上では505号室だな。見てこなかったのかよ」

 独り言に返事をされた。しかも結構な呆れ声で。一気に居心地が悪くなって、俺は視線を床の方に落とした。見ないだろ、構内図とか。だって外から見れば大体建物の中の構造はわかるし、一番端なら部屋の番号なんて確認しなくたってたどり着けるだろって思うじゃん……。

「ここかな」

 内心で言い訳をしているうちに、蒼志が足を止めた。別にそんなに大きい建物じゃないのだ。俺も蒼志に倣って足を止めて、教室のプレートの方に顔を上げた。

「……506じゃん」

 どう見たってそう書いてある。隣の教室の方にも一応目をやるが、そこには確かに505の文字。

「やっぱり、そうなんだよなあ」

 蒼志はしれっと言うが、何が〝やっぱり〟なんだよ。あんな自信満々に「構内図の上では505だ」とか言っておいて……。俺は蒼志の横顔を少し睨み付けた。つうか、本当に構内図見たのか?疑いのまなざし。

 しかし名探偵様は愚鈍な助手の視線なんて全く意に介さない様子で、迷いなくそのドアに手を伸ばした。謎の506号室に、だ。

 おいおい、と俺が声を掛ける前に蒼志はさっさとドアを開けてしまう。せめてノックするとか俺に声を掛けるとかしてほしかった。外開きのドアにぶつかりそうになり、俺は後ずさる羽目になる。蒼志はスムーズに教室に滑り込んだが、自ずとそれにも出遅れてしまう。

「そんないきなりわけわからない部屋に入って行くなよ……」

 文句を言いながらドアを押しのけ、蒼志の後に続こうとした。が、その前に場違いにデカい笑い声が部屋の中から溢れてきてぎょっとする。

 蒼志の声だ。やたらボリュームがデカいが無駄に爽やかな笑い声は、別に珍しいものではない。しかし、嫌な予感は伴うものである。

 俺はおそるおそる506号室の中を覗こうとしたが、教室に入ってすぐのところに蒼志が立ち塞がっているせいで良く見えない。

 ちょうどそこで、蒼志が満面の笑みを浮かべ、こちらを振り向いた。

「なあテツ、これは結構おもしろい事態だぞ」

「……おまえの言う〝おもしろい〟は大体〝ろくでもない〟って意味だと思うんだが……」


「いいからおまえも入ってこい。ほら、早く」

 言いながら蒼志が更に数歩室内に進む。口ぶりからすると、室内には他の誰もいないようだ。呼び出した奴がいるはずなのに?俺はもの凄く嫌なものを背中に感じながら、渋々教室に足を踏み入れた。

 ガチャン。

「……は?」

 俺が両足を部屋に踏み入れたのと、背後でその音がしたのはほとんど同時だった。もちろん、ドアノブに手を掛けたままだったわけではない。蒼志が開け放したドアの間をそのまま抜けてきたのだ。それなのに、いきなりあのドアが閉まるなんていうのは妙な話だ。

 室内に目をやる前に、俺は振り向く。そして唖然とした。

 ――背後にあったはずのドアがない。それどころか、振り向いたところには何もなかった。文字通りの空白。壁とも認識できないような〝白〟がそこに広がっていた。

「なるほど、こういうシステムになってるんだな」

 愉快そうな蒼志の声が響く。今度はその声のほうに慌てて振り向いた。

「オイ蒼志!どうなってんだよ、これ……」

 声のトーンがみるみる落ちていくのが自分でもよくわかった。

 振り向いたところの光景が、さっき見た空白よりもよっぽど異常なものだったのだ。絶句するくらいに。

 その光景の中央で立っている蒼志が腰に手を当て、にやにや笑って言った。

「そりゃ、見てのとおりだよ。わかるだろ?」

 いつの間にか真っ白に塗り変わった部屋の、蒼志の背後に広がる空白にはデカデカとゴシック体でバカの文字列が浮かんでいた。

 ――セックスしないと出られない部屋。

 そして、蒼志の足下にはごろりと大きな物が転がっている。もの凄く不自然な格好で仰向けになった男がひとり。

 俺は自分の顔が引きつるのを感じたが、一体見る物のどれが一番影響しているのかまでは判断ができなかった。ただ、もの凄くろくでもない状況に陥っていることだけがひしひしとわかる。一気に口の中が渇く感覚。俺は引きつる唇をどうにかこうにか動かした。

「……おまえ、今この状況の何が一番おもしろいと思ってる?」

 わは、と、蒼志がまた声に出して笑った。

「そんなの全部まとめてに決まってるじゃないか。この部屋も、この死体も、どっちかだけじゃあ大しておもしろくないよ」

「掛け合わさったって面白くはねえよ‼」

 俺の渾身の大声は存外部屋に反響することなく、どこかに吸収されていった。「防音になってるのかな」と蒼志が辺りを見回したが、こっちはシンプルに気分が悪い。両手で頭を抱えた。

「何なんだよセックスしないと出られない部屋って……全然意味分かんねえよ……」

「テツはインターネットとか二次エロコンテンツとかに興味ないもんな」

 まるで自分は興味あるかのような口ぶりだが、別に蒼志もそういうたぐいのものに用事はないはずだった。こいつはリアルでセックスが好きだと言って憚らないし、実際その相手に不自由してない。

 無駄に筋肉の乗った腕を組みながら、蒼志はその無駄に整った顔で、無駄にこちらに微笑みかける。

「インターネットミームというか、創作のネタのひとつみたいなものだよ。セックスしないと出られない部屋。文字通りでシンプル」

「……なんでそれがうちの大学に……?」

 言いながら、あまりの意味不明さに頭痛がしてくる。なぜうちの大学に?どころの話ではない。こんなものがこの世に実在していいのか?悩む俺に対して蒼志はあっけらかんと言い放つ。

「こういうガチの不条理事象の発生要因とか理屈なんて考えたって無駄無駄。何かよくわかんねーけどうちの大学にはセックスしないと出られない部屋があるんだよ。どうも今年度の初めくらいに発生したらしいな。取り壊しと引っ越しのストレスでどっかひずんじゃったんだろ」

「いやマジで全然意味がわからん。ひずみって何?何がどうひずんだらこんなものが発生すんの?つうかおまえはうちにこんなもんがあるって知ってたの?」

「結構有名な話だけど。言ったじゃん、カップルに人気だって」

「え、それってこういう理由だったの……?」

 ただあんまり人が来なくて部屋が空いてて便利とかそういう理由じゃなく?みんなこんな得体の知れないギミックで遊ぶためにここに来てんの?頭湧いてんのかよマジで?

「まあ、俺も本当にあるとは思ってなかったし、確かめる気もなかったんだけど……巡り合わせってやつだな、これは」

「マジで何の話してんの?」

 つーか、あのメールの時点で蒼志はこの部屋に察しがついてたってことだよな?その上でこんな無防備にノコノコ乗り込んできたってことになるよな?しかも連れの俺には何も言わずに……。

 深く考えるのが恐ろしくなったので、俺はもうこの部屋のことについて深く考えるのは止めた。大きな問題はもうひとつあるのだ。

 俺はおそるおそる、蒼志のほうに歩を進めた。床に転がった〝それ〟をきちんと見下ろす。

 ド派手なオレンジのTシャツに中途半端なダメージ加工のジーンズが、中肉中背の身体を覆っている。それにくっついた頭の、見開かれたままの眼。だらりと垂れ下がったままの舌。首から顔にかけて色の変わった肌に、喉をかきむしるようなかたちで固まったままの手。脈を確かめるまでもない。男はどうみたって絶命していた。

「つうか、これって……」

「見てのとおりの他殺体だね」

「クイズにしようがないレベルの絞死体だな」

 俺は顔をしかめる。顔をしかめるだけで済むようになってしまったことを、成長と言っていいのかどうか悩む。蒼志とつるむようになって俺はこんな死体にも慣れてしまったのだ。

 慣れるとか慣れないの次元を通り越してどうかしている蒼志は、躊躇なくその死体のそばに腰をかがめた。そして俺のほうを見上げてにやにや。

「どう思う?セックスしないと出られない部屋に死体がひとつ」

「どうもこうもねえよ。ただでさえろくでもねえ部屋なのになんで死体まで転がってんだよ」

 蒼志は愉快そうだが、俺にはこの状況をおもしろがれる要素が本当に微塵も思いつかない。俺は心の底から正直に言ったのに、蒼志はそれを軽く笑い飛ばした。そして頼まれてもいないのに勝手に死体の検分を始める。いつの間にか手袋を装着して、まず勝手に男の履いているジーンズのポケットをまさぐりだした。

「所持品は財布とスマートフォンくらいか。学生証が入ってる。うちの学生だ。理学部二年の大山某。テツって理学部に知り合いいる?」

「いない」

「俺もいない。この状況じゃあんまり情報にならないな。うちの学生がここで死んでたって別に珍しいことでもないし。外部の人間だったり身元がわからないほうが面白かったな」

「そもそも珍しいとか珍しくないとかの次元の話じゃねえんだけど」

「死後硬直はしてるけど、こっから死亡時刻を推定してもあんまり意味がなさそうなんだよな。この部屋時間の流れが変っぽいし。さっきから腕時計とスマホで時間が合わないんだよ。こいつのスマホも違う時間だし」

 ほら、と言いながら蒼志が大山某と自分のスマホをそれぞれ見せてくる。……確かにてんでバラバラの時間を指している。俺も自分のスマホを一応確認した。午前八時四十七分。さっきまで確かに十五時だったはずだからどう考えたっておかしな話だ。おかしいのは本当に時間の流れなのかどうかは自信がないが。

「こういう不条理は考えたって無駄だからスルー」

 言いながら、蒼志は死体のスマホだけを放り投げた。スマホが床にぶつかる音も変にどこかに吸収される。

「これじゃあ殺される!って叫んでも誰も気づいてくれないだろうな」

 うち捨てられたスマホを見ながら蒼志がしみじみと言った。まあ、どう考えてもそれ以前の問題だと思うが。

「死因はどう見たって絞殺。見た感じ凶器っぽいものは転がってない。犯人が持ち去ったんだろう。この格好だとネクタイはしてないだろうし、革ベルトって感じでもないな。革紐のネックレスとか着けてた可能性も否めないけど……まあ、犯人が良い感じのものを身につけてたんだろうな」

「良い感じって」

「別にここで凶器を断定したってあんまり意味がないんだよ。でもなんとなく犯人はいわゆる女ものの服を着てそうだなって感じがするな。大学にネクタイなんか絞めてくんのは研究発表のときか就活がらみくらいだろ。そんな予定のやつがわざわざこんな部屋にこいつと入ってくるとは思えない。女ものの服は結構無駄にリボンとか飾り紐とか布ベルトとか付いてるし……」

「メンズでもフードの紐抜くとかあるだろ」

 俺はなんとなく可能性を口に出してみただけなのだが、蒼志がもの凄く呆れきった目でこちらを見てきた。

「目の前の奴がいきなりフードの紐抜き始めたら怪しいだろうが。そこから更に首締めにかかるとか不自然がすぎる」

「急にベルト外し始めたり服の紐ほどき出すのもまあまあ不自然だと思うけど」

 蒼志の反論は完全に正論だったが、なんとなくムッとして言い返す。

「もうこの部屋のこと忘れたのかよ」

 白手袋に包まれた蒼志の指が壁(っぽいもの)のほうを差した。デカデカと掲げられた「セックスしないと出られない部屋」の文字。俺はこめかみを押さえる。頭痛がしたからだ。

 蒼志は言って続ける。

「服に付いてる紐っぽいものはほどいてナンボだ。……だからまあ、凶器のことなんか考えてもしょうがないんだよ。大して絞り込めないし。そもそも俺らはこの大山の人間関係を知らないんだから、無駄な妄想が広がるだけだ」

「……つーか、犯人については考えるまでもないんじゃねえの」

 俺も蒼志のそばにかがみ込む。死体のそばなのに存外死臭がしないのも、この部屋が妙な仕組みでできてるからなのかもしれなかった。同じ目線の高さで、蒼志が俺を見た。大して感情の見えない瞳で。

「俺たち、っつーかおまえをこの部屋に呼び出した奴が犯人だろ」

「なぜ?」

「なぜって……だって、呼ばれて来たら、この死体があったわけだし……」

「犯人がわざわざ俺にこの死体を見せてどうすんだよ。事件を解決してほしいわけ?だったらさっさと自首しろって話だし」

 それもそうだ。俺は自分の膝の上で頬杖をついて考える。

「……探偵への挑戦状的な?」

「一体この状況で何を挑戦したいんだよ」

「そりゃあ……この死体の謎を解いてみろっつー……」

「テツはこの死体の何が謎だと思う?」

 考えながらしどろもどろで話す俺に対して、蒼志の切り返しはいつもどおりに明朗で簡潔でクールだった。

「身元もわかるし、死因も明らか。犯人は俺にメールを送ったやつっていうのが前提条件だろ。じゃあ一体何が謎なんだ?」

「……なんでこいつはここで殺されたか?とか」

 俺は哀れな大山のほうを見た。セックスしないと出られない部屋だなんて馬鹿げたありえないところで殺されるなんて。

 ――セックスしないと出られない部屋?

 この馬鹿げた名称を頭の中でくり返し、俺はようやく重要なことに気づいた。慌てて蒼志のほうに向き直る。

「なあ、蒼志……。この部屋ってマジでその……、セッ……、しないと出られないのか?」

「おまえももうすぐ二十歳なんだからセックスくらい口ごもらずにはっきり言えよ」

 まためちゃくちゃ呆れた顔をされた。

「そりゃ、セックスしないと出られない部屋なんだから、セックスしないと出られないんだろ。現にドアもなくなってるし。壁という概念すら曖昧だし。ちなみにあっちのほうにちゃんとローションとかコンドームとか備え付けられてた。白くて見えないだけでベッドとかもあんのかも」

「……」

 蒼志は当たり前のように言い切ったが、自分が何を言っているのか本当に理解しているんだろうか?

 俺は声を荒げる。

「セックスしないと出られないって、じゃあ俺たちはどーすんだよ⁉」

「今その話してないだろ、バカ」

「バカはどっちだよ⁉俺とおまえと死体しかいねえぞこの部屋⁉途中参加機能とかあんの⁉」

「俺とおまえでヤレばいいじゃん。そういうルールなんだし。別に初めてってわけでも……」

「わーーーーーー‼‼‼」

「うるさっ!大声出しても事実は変わらねえぞ!」

 それはわかってるから大声を出したんじゃないか。事実は変えられないにしても思い出したくないことはある。その口から聞きたくないことだって。俺は膝の中に顔を埋めて丸まった。頭を抱える。

「うう……だめだ……脱出方法のことを考えるのはやめよう……」

「だからそこは考える必要ないとこだって。おまえはこの死体の謎のことを考えてるんだろ」

「そう、死体だよな、死体……犯人は何でこんなとこでこいつを……」

 そこまで口に出して、妙なことに思い至る。

「……犯人はどうやってこの部屋から出たんだ?」

 顔を上げると、蒼志と目が合った。ムカつくにやついた顔。いつもこういうツラだったら、たぶん女にはモテていないだろう。

「それはさっき話しただろ。セックスしないと出られない部屋なんだぞ、ここは」

「じゃあ犯人は大山とセックスして、出口が……どういう風に出れるようになんのかわかんねえけど、とにかく外に出れるようになってからこいつを殺したってことにならないか」

 もう一度死体のほうに目をやる。無残な姿だが、しかし彼は服だけはきちんと着ていた。

「しかも、ちゃんと服を着たあとで。もしくはわざわざ殺したあとで服を着せ直してる」

「着衣プレイでもチャック下げる必要はあるもんな」

 蒼志は完全に俺を馬鹿にしている。その証拠に目が楽しそうにギラギラし始めた。

「まあ、そういう方向のことを考えるのは悪くないんじゃねえの。でも、それだったらまず、この部屋の定義を考えないと」

「定義?」

「ルールだよ。セックスするってひとくちに言ったっていろいろあるだろ」

 言いながら、蒼志は白手袋でオレンジのTシャツを軽くめくり上げた。

「屍姦だってセックスといえばセックスだ」

「しかん」

 弛緩私感史観歯間仕官……俺は頭の中でできる限り多くの漢字変換を想像したが、蒼志の言わんとするところにたどり着くのは結構時間がかかった。その間に蒼志は死体のジーンズと下着を剥ぎ取ってしまっている。

「この状態じゃ挿入はできないかな。尻も傷ついてなさげだし。死体の口に突っ込んでセックスカウントは……されないだろうな。それだと普通のカップルが前戯の時点で部屋が解放されて終わりになる。そんな設定の部屋が流行ると思えん」

「……殺してからしたってのはなさそうってことでいいか……」

「そうなるな」

 蒼志はしれっと言って手袋を放り捨てた。さすがに死体の下半身を触りまくった手袋に抵抗感はあるらしい。そして、死体に下着とジーンズをはき直させてやるつもりはないようだった。俺はいよいよ哀れな大山からできる限り目を逸らす。

「じゃあやっぱり、これだよ。『なぜ犯人は大山と寝たあと、この部屋の脱出が確定してから大山を殺したのか?』その謎を解いてみろって挑戦なんだ」

 俺はそもそもの話の流れをがんばって思い出しながらそう結論づけた。

「大山と犯人が仲良しのカップルだったらまずそこで殺人が起こること自体が謎だろ。もし大山と犯人がそういう仲じゃなくてこの部屋に入って、本当はしたくないことをすることになって、結果として殺人が起こったとしても、わざわざ死体の服を整えてやってから出て行くってのは謎になるんじゃないか?挑戦状として成立しそうだろ」

「それが論理的思考でたどり着ける話だったらおもしろいかもな」

 蒼志が立ち上がる。

「でも、残念ながらこの死体はそんな謎を抱えてない」

 そして芝居がかった口調で続けた。これは「おまえの回答は不合格」って、そういう意味だ。こちらを見下ろす笑みのかたちで、俺はようやく、蒼志が〝こたえ〟を知っているんだということに思い当たる。俺は負け惜しみのような気持ちで蒼志に問うた。

「……謎は解けてる、とかじゃなく?」

「ない。初めっから。別にこの死体は哀れな他殺体ってだけで、別になーんにも不思議なことなんてない」

「おまえ、死体の検分してたじゃん……」

「それはテツが知りたそうだったから教えてやっただけ」

 こうもあっさり言われるとツッコミづらい。俺が黙りこくると、蒼志は辺りをうろうろし始めた。真っ白な部屋をあちらこちら。さっき言っていたように、ベッドか何か探しているのかもしれない。

「さっきおまえが言ったとおり、この部屋って、ちゃんとしたカップルが使えばちょっとしたアトラクションみたいなもんだろうけど、そうじゃない関係のふたりが突っ込まれたら地獄だよな。実際、悪い感じの使い方してるやつらもいるっぽいし」

 蒼志がどんな情報網で何を知っているのか、わからないけれど、あんまり想像したくない話だ。俺は地べたに腰を下ろした。真っ白な床は座ってみると存外にやわらかい。うろうろする蒼志の足音も吸収されているようだった。

「まあ、犯人がどういうやつで、大山とどういう関係だったのかは知らないけどさ。とにかく、そいつは大山とセックスするのがもの凄く嫌だったんだろ。んなことするくらいだったらおまえを殺す!ってくらいに」

 こん、と蒼志が蹴る素振りをした空白に、急にぼんやり何かのかたちが浮かび上がる。キングサイズはありそうなベッドだった。不条理を目の当たりにして俺は顔をしかめる。なんでベッドがそんな状態になってるんだよ。意味不明だ。

「大山が何か動く前に、犯人は……まあ、どうにかして首を絞めて殺した。それでそのまま部屋を出て行ったって、それだけの話だよ。別に死体には何にも手を加えてない。脱いでなけりゃ着せ直す必要もない」

「それはそれで謎が出てくるだろ。セックスしないと出られないんだろ、この部屋」

「だから、定義を考えるところから始めなきゃって、言っただろ」

 空白から発生したベッドに腰掛け、蒼志がこちらに手招きした。俺は見ず知らずの男の死体から離れることを選ぶ。ベッドの脇で蒼志のことを見下ろした。ことさらやわらかい笑みが見上げ返してくる。蒼志はベッドの上の自分の隣の辺りを軽く叩き、俺にも腰掛けるように促したが、俺は首を横に振った。なんでこの状況でこいつとベッドで並び合って座って話さなきゃならないんだ。

 断られてもさして残念そうな素振りを見せるでもなく、蒼志は話を続けた。

「最初から明らかなルールがひとつあった」

「セックスしないと出られないってこと以外に?」

 俺の問いに、蒼志が軽く頷く。その目が俺を映す。

「……死体をカウントしない?」

 一瞬意味がわからず、眉を寄せる。今回は呆れた顔を返されなかった。蒼志はひどくやさしい微笑のままでおれを見上げている。

「この部屋、最初、俺がひとりで先に入っただろ。そしたらそこに死体が転がってて、壁にはあの字があって、おっ、て思ったんだよね」

「おっ、ていうかめっちゃ笑ってたけどおまえ……」

「それで、あとからテツが入ってきたじゃん」

「おまえが入れって言うから……」

「そしたら急にドアが閉まった……っていうか、なくなって、俺たちはここに閉じ込められた。そこからがゲーム開始。わかるだろ?。俺とテツがふたり揃って初めて、〝セックスしないと出られない部屋〟になったんだ」

「……確かに」

 言われてみればそうだ。俺が部屋に入った瞬間、初めて、この部屋はこの得体の知れない密室に変化した。

「さっきは一応屍姦の可能性を考慮したけど、最初からこの部屋はそれを想定していない。生きているふたり――もしかしたらそれ以上でおこなう行為だけをセックスって定義してるんだろうな。だからそれをクリアできる状況じゃないと作動しない。

「ふたり揃ってゲームが始まっても、ひとりが死ねばゲームはなかったことになってドアが開くって?」

「別にこの部屋も人間を閉じ込めるのが目的じゃないだろうからな。……まあ、そういう事態を想定もしてなかっただろうけれど。だから死体を吐き出せなくて、転がり続けてるんだろうし」

 蒼志はこの部屋をどういうものだと思ってるんだろうか。その口ぶりではこの部屋が意志を持った存在のようにも、プログラミングされたシステムのようにも取れてしまう。

「ま、だからこの部屋の現状に謎なんてひとつもないんだよ。不条理ではあるけどね」

 しかし、おそらくこの結論が正解だ。

 犯人はセックスの代わりに殺人を犯して、ゲームの前提をひっくり返して、この部屋を出て行った。もの凄くシンプルな話。

 俺は深くため息を吐いた。

「……でも、そうだとすると、蒼志に来たあのメールは?」

「犯人が送ったやつじゃあない気がするな。まあ、誰がどういう意図で送ったメールでも何でもいいよ。もしかしたらただ俺をこの部屋に誘い込んで良からぬことをしたかっただけの人かもしれないし。先入りしようとしたら死体を見てびっくりして出て行ったあとに俺たちが入っちゃったとか。そうじゃなく、ただただ俺に嫌がらせをしたかっただけとか。最近は大体テツと一緒に行動してるって、有名だろうし」

 それは俺と蒼志をこの部屋に閉じ込めたかったやつがいるかもしれないってことか?はた迷惑な話だ。苦い顔をした俺がおもしろいのか、蒼志がくつくつ笑う。

「あのメールもこの部屋と同じで何か不条理な存在だって可能性もあるしな。考えたって意味ねえよ」

「そんなに何でもかんでも不条理でたまるか」

「そしたら俺の存在意義もなくなっちゃうかもだし?」

 そういう意味で言ったんじゃない、と俺には言い切れなかった。蒼志にはバレてしまっただろうか。

「とにかく、これでもう考えるべきことはなくなっただろ」

 蒼志の手が俺の手を取る。その目が俺を見上げて、きゅっと細められる。ものすごく楽しそうな、このツラの出来じゃ許されないような、例の嫌なにやにや笑いだ。

「俺に抱かれて部屋を出るか、俺を殺して部屋を出るか。テツはどっちのほうがいい?」

「……おまえ、最初からそれを俺に訊くつもりだったな……」

 少なくとも、この部屋に入ってあの死体を見た瞬間からは。

 ふつふつと胸からせり上がってくるこの感情は何だ。怒りなのか呆れなのか他の何かなのか、自分でもよくわからない。ぶくぶく溢れる感情をどうしようもなく、衝動のままにその手を握り返すと。あはは、と蒼志が高らかに笑った。

「テツがどっち選ぶか、楽しみだなあって思って」

「クソ野郎……」

「さすがの俺も死体の横でヤるのは初めてだから、それも楽しみで」

「本当にクソだな‼いい加減にしろよ‼」

「で、どっちにすんの哲也くん」

「決まってるだろ⁉ローション持ってこい!ローション!こんなバカな流れで友だち殺してたまるか!」

「セックスはするけど友だちなんだ俺ら……」

「そうじゃなかったら何なんだよ‼」

「さあ?」

 笑う蒼志に握った手をそのまま引かれて、俺は空白から発生したベッドにそのままダイブする。デカくて真っ白なベッドは、見た目と裏腹に激しく軋み、うるさくて最悪の寝心地だった。



 俺たちが出くわす事件ときたら大体がこういう代物だから、俺の小説はいつまで経っても完成しないのだ。

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セックスしないと出られない部屋殺人事件~観月蒼志の場合~ ぐるぐる @suzushi211

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