月と薄と狼と
fujimiya(藤宮彩貴)
曠野
今日の務めを終えたのち、走りに走って、おれは薄野原を抜けた。
明るい月に照らされた、川べりに出る。ひんやりとした、少し冷たい風が頬を打ってくるから、思わずぶるると身震いがした。
台風が去ったばかりとあってか、空が澄んでいて月がひときわ輝いて見える。満月だった。思わず、息を止めて見入ってしまう。
まじまじと月を眺めるのは、いつ以来だろうか。
届くわけがないのに、月に向かってそっと手を伸ばしてみる。
そして、誰かに見られてしまっていやしないか、あわてて周りを確認する。
もちろん、誰もいなかった。
失笑。
滑稽。
おれは、この眺めが気に入ったので、今夜は飽きるまで川べりで過ごそうと決めた。
風に遊ぶ薄。冴え渡る満月。
俳句のひとつでも詠みたくなる。若いころのおれは、俳句をやっていたんだ。ひねりもない下手な句だと、よくからかわれたが、おれはそこそこ自信があった。『
花見の月。夏祭りの月。中秋の月。いろんな月があった。好んで月を題に選んで詠んだ。
なのに。
ああ、仲間と見た、楽しい月の思い出よりも、あのときに見た月を思い出してしまった。
ふるさとの武蔵野より遠く離れた辺土の冬、残酷なまでに冷えた皓々とした月のことを。
***
戦い続けて流れ着いたのは、蝦夷地・箱館。
あの年は閏月があったから、上陸したのは十月とはいえ、もう寒くて仕方がなかった。これが海の向こうの土地なのかと、関東生まれのおれはぞっとした。
多くの仲間と別れ、おれは北の大地にいた。身体の芯から凍える冬だったが、転戦を繰り返して蝦夷を手に入れた、この冬。
十二月十五日に祝宴が開かれた。
宴会場は、市内の『武蔵野楼』という店だった。おれは驚いた。蝦夷まで来て、武蔵野の名を耳にするなんぞ、予想もしていなかった。
意味もなく照れる。郷愁にかられてしまうではないか。狐にたぶらかされているのかと思った。狐狸のたぐいはまだ多い。狼はめっきり数を減らした。たまに出くわすのは野犬だ。あいつらは飢えたような暗い目をしていて、気味が悪い。見てはいけないようなものを見た気にさせる。
蝦夷を手に入れた、といっても函館や松前など、南の先端の、ほんの一部でしかないのに。だいぶ遅れて行ったのに、ばかげた祝宴は終わりそうな気配すらない。
今日の祝いなど、誰も信じていやいない。こんな宴を張る時間があるならば、次のいくさのことを必死に考えればいいのに。
……そんな野暮なことを言える立場でもない、おれは、壁に背中を預け、宴の次第を見守っている。
どうやらこの楼は、おれと同郷の者がこの地に流れ着いて建てたようだ。進んで蝦夷地の開拓に行った者たちがいたと聞いたことがある。同情するような、しないような。慣れないワインやビールが入ったグラスなんぞを傾け、軽く明るくうわべだけ談笑する冬の夜。
こういう、表面だけのお付き合いの会は、おれが苦手とする集いだ。『酔った』と称し、早々に見切りをつけて武蔵野楼を出ることにした。
酔ってはいない。酔っている場合じゃない。少しでも、次のいくさのことを考えなければ。時間はいくらあっても足りない。考えろ、もっと考えるんだ。
「お待ちくださいませ、お武家様」
おれが、無言で帰り支度をしていると背後から声がかかった。面倒な、と思ったけれど、この地で生きてゆくには愛想も必要。
追いかけてきたのは、武蔵野楼の女将だった。ドレスとかいう、洋装に身を包んでいる。黒い布地に、表面に光沢があってつややかだった。地味ではない。歳は三十がらみといったところだろうか。額が清々しい、小柄な人だった。
「おもてなしが行き届かなくて、申し訳ありません」
自分の不手際で、今夜の客がさっさと帰ってしまう、そう感じたのかもしれない。おれはおれの意思信条で去るのに。なんだか、悪いことをした。
「いや、酔っただけだ。俺の都合だから気にしないでほしい」
「ぜひ、また起こしください。お待ちしています。あなたさまは、武蔵野のご出身と聞きました。私も同郷なので、おもてなしさせてください」
やっぱり、同じ土地に生まれ育ったらしい。だが、足を止めている場合ではない。立ち話が長くなるのを嫌い、おれは軽く会釈する程度にした。
屯所には、新選組のやつらが待っている。こんなところで気取った酒を飲むよりも、あいつらと安酒を茶碗で酌み交わしながら戦策を練ったほうがよほどうまい。おれは黙って、首もとのマフラーを巻き直した。
扉を押して外に出ると、積もった雪の上に楼の影が浮いていた。月あかりだった。
「まあ、みごとな満月!」
わざわざ見送るためか、女将がついてきた。誰かに見つかったら引き戻されてしまう。それだけならまだいい。おかしな邪推をされたらどうする。
「……外は寒いから、早く中へ戻れ」
「雪と月と。素敵な組み合わせですこと」
ほほ笑みをたたえながら、女将がおれに近づいてきた。
「あいにくだが、おれの好みは春の月だ」
おれは月を見上げた。
生まれ故郷や、京で見上げた月と寸分の狂いもなく、同じ月だった。
けれど、真冬の月は明るすぎて痛い。春の、少しおぼろげな月のほうが、あやしくてあやうくて風情を感じるのに。光源氏が朧月夜の君と出逢ったのも、相手がはっきり見えなかったからだろうに。お互いの素性が、分かっていたら契らなかった。
冬の月は、恨み月。凄惨月。死んでいった者の声が響いてきそうなほど、鋭い。
「よく整っていますが、怖いお顔ですね」
素っ気ない態度で振り切ったつもりだったが、まだいたのか。
「……よく言われる」
やれやれ、とおれは首を垂れた。
すると、視線の先に、おかしなものを見つけた。
女将には、影がない。そんなことがあるのかと、おれは自分の影のあるなしを見た。もちろん、ある。穿いているブーツのかかとから、くっきりとした黒い影が伸びている。これだけ月明かりが強いのに、影が出ないなんておかしい。
「お前、ここの女将ではないな。どこの誰だ」
驚きを隠そうとしたがつい、地が出てしまった。そんなおれを、女将は艶冶にほほ笑んで返した。
「ここの女将でございます。名前は、たま。武蔵野といっても広うございます。『たま』は『多摩』。あなたさまと同じ」
影のない女に同郷ですと言われても、ちっともうれしくない。だが、なにかことばを返さないといけないような気がした。
「そいつは重畳。縁を感じるな」
「また、おいでくださいませ。昔語りをしましょう」
「ああ。
「楽しみにしています、
おれの返答に満足したのか、女将は安堵したかのように笑った。そして、月明かりに溶けるかのようにして白っぽい光の粒に姿を変えると、地面に伸びているおれの影にすうっと入り込んだ。
「たま……多摩……玉?」
故郷のことを指しているのかと思ったが、おれのかつての俳号『豊玉』のことかもしれない。豊を略して『玉』とだけ記名するときも多かった。となると、
***
北の大地で、おれは死んだはずなのに。
目が覚めたら、曠野に倒れていた。
嗅覚が格段に鋭くなっていた。風の匂いで、故郷のそれだとすぐに気がついた。
死ぬ間際に、故郷のことを、武蔵野のことを強く思ったからかもしれない。故郷の村までは、匂いを辿って駆けた。意外だが、おれの足でも、すぐにたどり着けた。
おれがいなくても、故郷の村は昔のように息をしていた。畑を耕し、お蚕さんを育てる。みな、笑っている。そこには、変わらない日々があった。のこのこと、今さらおれがしゃしゃり出る余地はなかった。
おれがいなくても、この世は回っている。変わらずに。
気が抜けた。けれど、ほっとした。
もう、夜明けが近い。
朝の匂いがする。
おれは、小川を、跳んだ。
台風のせいで水かさは増していたが、こんなのどうってことはない。
全身が真っ白い毛で覆われた、狼になったおれの姿が水面に映る。
月に照らされた白毛は、銀色に輝いていた。今のおれは、神社の神使になった。白いだけでも珍しいのに、神使だなんてさらに珍しいだろう。まあ、毛の珍しさを買われて拾われた、というのが正しいところだが、おれはこの神社が気に入っている。神々は敬虔な存在だが、基本はおおらかで寛容だし、訪れる者たちはみな同じように願いや悩みをいだいている。小さく、しかしいとおしく感じた。
今のおれも、きらいではない。そこそこ満足している。
昼間はしおらしく、神に仕えていればいい。夜は、気ままに動ける。
ぴちゃりと水が撥ね、月が滲んだ。
おれは目をこすった。泣いてなどいない。さあ、神社に帰るとするか。今のおれは、二体いる神使の一体。そして、もう一体は……あいつだ。
『月と薄(芒)と狼と 曠野を彷徨う令和三年のシロオオカミ』(了)
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