41・悪人

 体が痛い気がして目を覚ますと真っ暗だった。瞬きをしても暗闇。深呼吸をしようとしたら口に猿ぐつわらしきものをされていて、できない。

 混乱しかけたけれど目をつむり、落ち着けと唱えていたら、思い出した。礼拝堂で激しい眠りに逆らえなかったこと。パウリーネの声が聞こえたこと。黒い靴の先が見えたこと。


 どうやら私は両腕を背中側に縛られ、足も膝下で縛られ、石の床に転がされているようだ。

 石の床となるとここは、礼拝堂の地下かもしれない。幾分か涼しいし。パウリーネも存在を知っていたのだろうか。


 ふつふつと体の奥底から恐怖がやって来る。彼女の目的は何なのか、私はどうなるのか、ムスタファがまた酷い目に遭わないか──。


 だけど大丈夫なはず。クローエさんが異変に気づいている。助けがきっと来るからそれまで落ち着いて行動するのだ。

 まずは魔石を灯す呪文を唱えてみる。が、暗闇は変わらない。この場所に魔石はないらしい。次はどうするか。


 と、背後で何かが動く気配がした。

「んんっ!」と声も。

 私の他に誰かいる。まさか、と最悪の事態が思い浮かぶ。

『クローエさんですか』

 と尋ねるけど、口をふさがれているからうなり声にしかならない。


 次の行動は決まっている。少し怖いけれどそんなことは言っていられない。なんとか起き上がり、体育座りのような形になると目をつむり両腕を縛っている縄をイメージする。それから炎。

 火をつける呪文を心の中で唱える。

 ボッと音がして手首に熱と痛みが走る。


「んっんっ!」

 背後でバタバタと激しく動く気配。火が見えて慌てているのかもしれない。

 予想以上の痛みに涙が浮かぶけど、必死に両腕を動かしていたら、縄が外れて自由になった。

 急いで手を前に持ってくると、袖が燃えている。火を消す呪文。

 次は猿ぐつわ。手を伸ばすが、結び目が異様に硬い。何度も何度もチャレンジをしてようやく解ける。最後は足。手探りで結び目を見つけるが、やはり硬い。ただ手の時とは違って結び目の場所が分かったからそこだけを燃やす。焼け落ちたところで火を消して、残った縄を足から外す。


 全てが自由になり、ほっとした。

 大丈夫、私は冷静だ。

 胸元をさわる。防犯ブザーのブルーサファイアがない。しかも鏡のブローチも。血の気が引く。ムスタファに借りた髪飾りもない。きっと警戒して全ての装身具を取り上げたのだろう。

 息を吐き、気持ちを落ち着ける。しっかりするのだ、マリエット。ここにいるのは私ひとりじゃない。心強いではないか。


「今、助けますね」

 そう言って四つん這いになって進み、声を見当にもう一人を探す。

 すぐに見つかり、抱き起こす。触れた感触からして女性だ。硬い結び目に苦労しながら猿ぐつわを外す。


「マリエット!」

 上がった声は、やはりクローエさんのものだった。

「ケガは!?」

「ご心配には及びません。ちょこっと火傷をしたかもしれませんけど」

 ちょこっとどころではないけど、どうせ見えない。

「……分かったわ。まずは逃げることを考えましょう。あなたが中に入ってすぐ、私は気絶させられたの。人を呼べていないのよ」

「自力でできることをしないとですね。ケガは?」

「ないわ。私の縄も燃やして構わない。お願いできる?」


 火傷をさせてしまうかもとためらったものの、時間を無駄にしたくない。今度は呪文を口にする。クローエさんに火がつくタイミングが分かるように。

「あなた、無詠唱で魔法が使えるのね」

「はい。まさかそれが役に立つ日が来ようとは思いませんでした」

 パウリーネたちは知らないから、物理的に私の口と手を封じておけば逃げられないと考えたのだろう。伏せておいて良かった。


 クローエさんの手、足と順番に縄をとく。


「クローエさんは犯人を見ましたか」

 否との返事。

「私は声だけですけどパウリーネ様でした」

 息をのむ音がする。

「他にもうひとりいました。クローエさんを襲った犯人は別でしょうから、少なくとも敵は三人です」

「三人ね。協力者は誰かしら。ここの結界を解けるだけの実力者がひとりはいるということよね」

 はいと答える。

「私の魔力は一般的なレベルしかないの」

「無理せず、慎重に逃げましょう」


 それから暗闇の中をゆっくり動き周り、木製の扉を見つけた。少しだけ外側に動くが開かない。

「鍵ではないわね。きっと外に何かを置いているのよ」

 このシチュエーションには覚えがある。ゲームで私が閉じ込められるのと同じ状況だ!


「すみませんが扉を押さえていて下さい」

 手探りで蝶番を探しあて、金属を顆粒状にする呪文を唱える。すぐにさらさらと砂がこぼれるような音がする。成功だ。続いてもうひとつ。

 終わると扉がガタリと傾いた。


「何をしたの?」とクローエさん。

「蝶番を壊しました。ノブを持ってゆっくり引っ張って下さい」

 更に傾くそれを手と肩で支え、音を立てないよう外し、そばの壁に立て掛けた。ぐっしょりと汗をかいている。

 外した扉の先も暗闇だった。


「クローエさん、おケガは?」

「ないわ。あなたは?」

「ありません」


 闇の中、灯りがありそうな方向に向けて呪文を唱える。

 と、ぽわんと小さな灯りがともった。

 魔石にしては珍しい、淡い光が周りを照らしている。扉の外に置かれたものの輪郭が見えた。卓のようなものと、その向こうには人くらいのサイズのもの。

 動かすより卓を乗り越えるほうが断然簡単だ。

 私、クローエさんと順に越えた。


 幸いなことに魔石の灯りはランタンのようなものに入っていた。手にとり周りを照らす。

 雑多なものが置かれている。

「何なのかしら」とクローエさん。

 と、今乗り越えたばかりの卓の前のものに光が当たった。ずんどうで人型。

 はっとした。

 これはきっと鉄の処女だ。卓に見えたものもおかしな装具がついているし、他のものも恐らくは拷問器具だ。


 背中を冷たい汗が流れる。

 これを誰に使ったのだと考え吐きそうになった。

 必死にこらえて、使い道を知らないらしいクローエさんに

「何でしょうね」

 と答える。早くここを出たい。

 扉のない出入り口を見つけたので、そちらに進む。

 するとそこは見覚えのある四方にアーチ状の開口部がある部屋だった。やはり礼拝堂の地下なのだ。左の先が明るい。あそこが図書室への通路かもしれない。


 同じような広間をひとつ通り抜け、灯りのある場所に出た。そこはやはり通路で左手の先に開いた青銅の扉と鳥かごのような檻が見えた。

 胸がざわつく。

 まるで罠かのように開いた扉。今そこに誰がいるのだろう。パウリーネと……。


 つんつんと服を引っ張られる。見るとクローエさんが口パクで『早く逃げましょう!』と言っていた。


 当然だ。私は逃げなければいけない。ムスタファやみんなに心配をかけたくない。私を捕まえたのなんて絶対にムスタファに何かをするためだろう。早く戻らなければ、彼が大変なことになる。防犯ブザー宝石も鏡もないし、私が勝てる相手でもないだろう。だけど……。


「すみません。先に行って助けを呼んで下さい。私は確かめたいことがあります」

 クローエさんが目を見開き、頭を左右にぶんぶん振る。私はぺこりと頭を下げ、図書室に向かった。

 足音を立てないよう集中する。緊張と不安で心臓が爆発しそうだ。


 パウリーネは一体どこまで関わっているのだろう。ファディーラ様の殺害、フーラウムの記憶喪失。全て彼女の仕業なのだろうか。ロッテンブルクさんは彼女が侍女見習いを監禁するような人物だと、知っているのだろうか。

 私が眠りに落ちる寸前に見た靴先。あれには見覚えがある。




 青銅の扉前にたどり着いた。深呼吸をしてから息を潜め、陰からそっと中を覗く。

 パウリーネがいた。

 腰かけて、激しいキスに夢中になっている。彼女が座っているのは、そしてキスの相手は──。


 と、相手の男がこちらを見た。目が合う。続いてパウリーネも。

「あら、丸一日は目覚めない魔法なのに。どうやって逃げてきたの」

 悪びれた様子がこれっぽっちもないパウリーネは横座りした男の膝の上で、可愛らしく首をかしげている。

「眠っていれば何も知らないうちに死ねたのに、おばかさんね」

「もう一度、眠らせてやれ」

「イヤよ、面倒だもの。そんなことを言うなんて、情がうつっちゃったの? 浮気はダメよ」

 パウリーネは男の額にキスをしてから再び私を見た。

「ショック? あなたは彼のことも、ものすごく好きですものね。でも残念でした。私のものなの。カールが愛しているのも私だけ」


 私が見た靴先は黒い近衛のブーツのものだった。パウリーネと近衛。この組み合わせで連想されるのは、ここ数日の出来事からはカールハインツしかいない。

 やっぱりという思いと、何かの間違いだという気持ちがせめぎ合う。


 パウリーネを膝に乗せ腰を抱いているカールハインツ。黒髪黒瞳の王家に忠実な黒い騎士。無表情で何を考えているのかさっぱり分からない顔だった。


「目覚めてあの部屋から逃げ出してきたということは、仲間が助けに来たか、彼女がこちらが考えている以上に魔法が使えるかだぞ。状況からして、後者だな」

 カールハインツがパウリーネに向かって言う。

「まだ生かしておくのだろう?」

「そうね。ならもう一度」

 とパウリーネが腕を上げ指先を私に向けた。


「……どうしてですか」

 カールハインツに向かって問いかける。

「王家に忠誠を誓っているのではないのですか。真面目な近衛なのではないのですか。──レオンはあなたを尊敬して、役に立とうとがんばっているのに!」


 ほんの少し前の、誇らしげに胸を張るレオンが脳裏に浮かぶ。隊長の仕事環境を整えるのだと嬉しそうな顔をしていた。あのレオンを、カールハインツは裏切っているというのか。


「カールが忠誠を誓っているのは私だけよ」

 パウリーネが腕を下げてまたカールハインツの額にキスをする。

「可愛いカールは私が全てだから。それに真面目な近衛であることには変わりないわよ。職務には忠実、部下の面倒見もとてもいい」

「レオンには感謝している」とカールハインツ。「おかげで余計な女に煩わされなくてすんでいる」

 彼の顔は無表情のままだ。

「彼の好意を利用しているだけじゃないですか!」


 思わず叫んでから、フェリクスの言葉を思い出した。彼はレオンに『浮気者。ムスタファだけにしておけ』と言った。

 ムスタファが私を撫でようとしたカールハインツに怒鳴ったときは『汚い手でさわるな』だった。

 もしかしたらあのふたりは、パウリーネとカールハインツの間柄に気づいているのかもしれない。


「あらあら泣いちゃったわ」とパウリーネ。

 私の頬を涙が伝っていた。

「どうしてですか」もう一度同じ質問をする。「誇りある黒騎士なのではなかったのですか」

 ゲームのカールハインツはそうだった。王宮に上がり、実際に見た彼もそうだった。あれは全て、偽りだったというのか。


「あなたを純粋に慕うレオンを騙して、なんの後ろめたさも感じないのですか」

「……そもそも俺を尊敬するのが間違っている」カールハインツは平坦な声で言う。「俺には誇りなんてない。ただの人殺しだからな」

「カール!」

 パウリーネが声を上げて彼を見た。


「人殺しって。どういう意味ですか。まさかファディーラ様を殺したのは……」

 だけどあれは二十年も前のことだ。カールハインツは八歳。さすがに難しい気がする。そうか、比喩だ。きっと。

 そうにちがいない。

 すがる気持ちで彼を見る。だけどカールハインツは


「兄をな。うっかり衝動的に殺してしまったのだ」


 と言った。

「何で言ってしまうのよ」

 パウリーネが頬を膨らませている。

「誰かに話したいとずっと思っていた。全て終わったら彼女を殺す気なのだろう? それならちょうどいい」

 カールハインツは王妃の後頭部を優しく撫でる。

「仕方ないわねえ」彼女は甘い声を出した。

 私は耳に入った言葉を理解したくなくて、また涙がこぼれそうになる。


「……お兄様を、なんて?」訊き返す声がまた震えてしまった。

「俺が殺した。八年前のことだ」

「あなたが?」

「そうだ。あいつが憎くて仕方なかった。ずっとな」


 カールハインツが素早く腕を動かした。

 キラリと光るものが一直線に飛んで来て、避ける間もなく足に当たった。悲鳴を上げてうずくまる。左の膝上に短剣が刺さっていた。


「魔法が使えるのはもうひとりのほうか?」

 そう言いながらカールハインツが歩み寄って来て、短剣を抜くと私を抱き上げた。

「安心しろ。まだ殺しはしない」

 そのまま部屋の中央に連れていかれる。

 そこにあるのは鳥かごの形をした狭い檻。

 カールハインツは私をその中に座らせて扉を閉めた。

 パウリーネが呪文を唱え、扉が輝く。揺すっても開かない。魔法で鍵を掛けられたのだ。


 カールハインツが檻の隙間からハンカチを差し出す。

「傷口を縛っておけ」

「優しいわね。怒っちゃうわよ」

 パウリーネがまた頬を膨らませている。

 もう彼のことをどう捉えていいのか分からない。だけれど素直に受け取り、スカートをめくり上げ傷口を縛った。痛いけれど幸い大量に出血はしていない。──腕に足に胸にと痛いところだらけだ。


「俺は」とカールハインツが檻の前から動かないまま、口を開いた。「必死に立派な騎士になるための努力をした。誰よりも剣の鍛練をし、体作りもし、食生活にまで気を配った。それなのに兄にどうしても勝てなかった。あいつは俺の半分も真面目にやっていないのに、だ。祖父の厳しい命令だって俺は全て守り、あいつはまるっきり無視。だというのに祖父のお気に入りも、認めているのもあいつだ。おかしいではないか」

 無表情な顔の中で、黒い瞳が底無しの沼のように見える。一切の光がなく、何も映していない。


「……だから殺してしまったのですか?」

「いいや。兄は祖父だけでなく、近衛の幹部からも若手からも人望があった。みないずれは兄が総隊長になるだろうと信じていた。なのにあいつは近衛を辞めると言い出した。

『王族は守るに値しない。弱い立場の人たちを守りたい』突然そんな世迷い言をエーデルは、この俺に向かって言ったんだ。

 ふたりで巡回をしているときのごとだった。『シュヴァルツの当主も総隊長もお前が継いでくれ。俺には近衛は向いていない』とな。エーデルは晴れ晴れとした顔をしていた。散々俺の前に立ちはだかっておきながら、俺が欲しいものをごみ屑のように捨てる。ふざけるなと、一瞬のうちに頭に血がのぼった」


 いつの間にかパウリーネがそばに来て、カールハインツの頭を撫でた。

「それで殺しちゃったのよね。よりによって王宮の庭で」

 うなずくカールハインツ。

「正気に戻って、場所を選ぶべきだったと後悔したがもう遅い。途方にくれていたときに彼女が」とパウリーネの手にキスをする。「現れた」

「私の温室の前だったのだもの。ちょうど中にいて、ベレノとふたりで帰ろうとして外に出たら、カールがいたの」パウリーネもカールハインツの手にキスをする。「あの時のカールは可愛かったわ。血まみれの剣を構えたまま呆然としていたのよね。全身返り血まみれで」


 にこにこと、普段の笑顔で話すパウリーネ。あまりに不気味で背中を冷たい汗が流れ落ちた。


「あんまり情けない顔をしていて可愛かったから、助けてあげたの。浴びた血を消して、これからどう行動すればいいか教えてね」

「彼女の指示に従ったら、全てが上手くいった。俺を疑う者はひとりもいなかった」

「あら、それはちょっとちがうわ。カールの敵は私が潰してあげたのよ。──あの頃からずっとね」

 パウリーネの目も奥底に暗い影があるように見えた。

「私たちの仲に気づいた人たちもね。ああ、そうだ。あなたと仲良しだった侍女もそうよ。もしもこの秘密を漏らしたらその瞬間に死ぬ呪いをかけてあげたの。恐怖で大泣きしていたわね」

「……ルーチェのことですか?」

「名前なんて知らないわ」とパウリーネ。

 だけどカールハインツは無言でうなずいた。


 なんてことだ、ルーチェ!

 ここを出たら呪いを解く方法を考えないと。

 ……呪い?


「もしかしてリーゼル──フェリクス殿下の従者の呪いは」

「私よ」とパウリーネ。「温室を貸したとき、あなたとムスタファに催淫魔法が効かなかったから、魔法の得意な協力者がいるのだろうと思って探していたら偶然、あの従者に呪いが掛けられていることに気づいたの。どんなものかと思っていじったら、うっかり解いてしまったのよ」


 つまり彼女は魔力が強く、呪いぐらい簡単に扱えるのだ。

「彼女は世界で一番の魔術師だ」カールハインツが暗い目をして言う。「逃げようとは考えるな。お前たちに勝ち目はない」


 私はパウリーネを見た。

「もしかして彼を操っているのですか」

「まさか。彼は心底私を愛してるいるのよ」

「そうだ」とカールハインツ。

「それならどうしてそんなに暗い目をしているのですか。ちっとも幸せそうじゃない」

 カールハインツの無表情がやや崩れた。

「よく分かっているじゃない」とパウリーネ。「私たち、もう限界なの。正々堂々と一緒にいたいのよ。限られた時間だけだなんてガマンできないの」

「その通り。俺も彼女といたい。彼女を幸せにしたい」

「夫がいるのに!」

 それもあんなにラブラブな様子の!

「あんな男っ」パウリーネが吐き捨てるように言った。「利用しているだけよ。いくら誘惑したってちっとも私を愛さない、バカ男!」

「彼女の価値が分からないようなぼんくらだ。だが俺なら分かる」

 カールハインツは王妃の腰に手を回して引き寄せ、その額にキスをした。

「彼女のためならどんなことでもできる。誰よりも何よりも愛しているのだ」

 パウリーネが私に顔を向けた。勝ち誇ったような笑顔だった。


 王妃と近衛隊長は体を寄せあったまま、踵を返そうとした。

「私をどうするのですか」

 パウリーネが足を止めて、振り向いた。

「決まっているじゃない。あなたをエサにしてムスタファを捕まえるのよ」

「なぜ!」

「『なぜ』ね」

 パウリーネは笑みを浮かべたまま、入り口そばの巨大な珠を見た。

「あなたたちはどこまで知っているのかしら。ファディーラの額飾りのことは話して、明らかに異質な角のことは言わなかった」

「妃殿下もこの地下を知っていたのですね」

「いいえ。あなたたちが礼拝堂にこもっていたから何かあると考えたの。私がここに降りたのは昨日が初めて。素敵な場所よね」

 彼女は私を見た。

「どんな気分かしら。そこはきっとファディーラが氷漬けのまま何百年も閉じ込められていた檻よ」


 また、背中を冷たい汗が流れる。

 彼女はファディーラ様のことを詳しく知っているのだ。


 手が震える。抑えるために檻を握りしめた。

「彼女を殺害したのは妃殿下ですか」

「そうよ」

 パウリーネはあっさり肯定した。

「心臓と血を抜いたのも」

「そうよ」


 どうしてと問おうとしたとき、正面に伸びる通路の先に人の姿が見えた。それと宙に浮かぶ──。

 パウリーネが私の視線に気づいたのか、振り返る。

「あら、来たわ。お喋りはここまでね」

 彼女はそう言って部屋の奥に進んだ。いつの間にか左手には開いた本がある。足を止めると右手を床にかざして、呪文を唱え始めた。耳馴染みのないフレーズが全くなくて聞き取れない。


 カールハインツを見る。

「ムスタファに何をするのですか」

「……諦めろと言ったはずだ」

「まさか、彼の心臓と血も取るのですか?」

 カールハインツはしばしの間のあと、うなずいた。

「予定ではもう一、二年ほど先だった」

「何故早まったのですか? 取ってどうするのですか?」

「質問ばかりだ」


 そう言ったカールハインツは片膝をつき、檻の隙間から手を入れて私の首に触れた。

「気絶させることなら俺でもできる。何も見ないほうがいい」

「……それは」

 もしかして親切で言ってくれているのだろうか。

「私は、何も知らないまま死ぬなんてイヤです」

「そうか」

 彼の手が去って行く。気のせいか、顔には翳りが見える気がする。

「……俺はカルラを悲しませたくない。だけど彼女は娘がお前を慕っていることも気にくわないらしくてな。せめて苦しまないようにと思ったのだが」

 カルラ?

「到着」と声がした。わざとらしい陽気さがある。「どけ、カールハインツ」

 それはバルナバスだった。彼の背後、中空にふたり、人が浮いている。


「ムスタファ! クローエさん!」

 カールハインツが横にずれると扉が輝き、勝手に開く。すぐさまクローエさんが空中を滑り、中に飛び込んできた。再び閉まる扉。

「クローエさん!」

 床に落ちた彼女はぷはっとした。その様子に覚えがある。バルナバスに動きを封じられ、その術を解かれたときだ。

「大丈夫ですか!」

「ごめんなさい。上に出たところで捕まってしまったの。殿下が眠らされて」


 ムスタファを見る。目をつむっている。

 だけど眠っているだけなのか。ひとまずはほっとする。だけどブルーサファイアの指輪もその他の装身具も、なにも身につけていない。私と同じように取り上げられたらしい。


「ムスタファ、起きて!」

 声の限りに叫ぶ。だけど目覚めない。

「無駄だ。魔法だからな」とバルナバス。「……いや、お前はどうして起きている。母上は魔法を使っただろう?」

「バカ木崎っ! それでも第一のエースか! 宮本に売り上げ三千万も負けてるぞ!」

 第二王子を無視して負けず嫌いの木崎が反応しそうなことを叫ぶと、ムスタファがぴくりと動いた。

「起きてってば木崎!」

 その時突然、雷に打たれたかのように閃いた。

「木崎爽真!」木崎のフルネームを叫ぶ。「聞き逃していいの? 二度と呼んであげないよ!」

「うるさいな」バルナバスが視界の端で片手を上げる。

「そうま!」

 次の瞬間体が吹き飛び、檻に叩きつけられる。衝撃に息がつまり床に倒れ伏す。

「マリエット!」

 クローエさんが抱き起こしてくれる。と、

「宮本!」

 ムスタファの叫び声がした。

 顔を上げるとムスタファが宙に浮かんだまま、目を開いて私を見ている。

「バカ木崎! 何で捕まっているのよ!」

「お前こそ!」

「ひとりなの?」

「いけないかっ。ひとりで来ないとお前を殺すと脅されたんだよ!」

「バカじゃないの、そんな古典的な手に引っ掛かるなんて!」

「……下劣で知能の低い会話だな。兄上はいつからそんな乱暴な口調になったのだ」

 バルナバスが呆れたように訊く。


 ムスタファはああ言ったけど、あの木崎が策もなく罠に飛び込むとは思えない。


「できたわ」とパウリーネが声を上げた。「到着していたのね、バルナバス。いやだ、ムスタファまで起きているじゃない。早く魔法陣の中央に彼を。完全に魔法を封じられるから」


「何が目的だ!」ムスタファが叫ぶ。

「何も知らないのね」とパウリーネが答える。「あなたの母親は魔王よ。そして魔王の心臓から迸る生き血を飲むと、不老不死になるの」

 彼女は無邪気な笑みを浮かべた。

「半分人間のあなたにそこまでの力があるかは分からないけれど、まずは試さないとね。ムスタファはファディーラのように殺されるかもと心配しているのでしょ。安心して。答えはイエスよ。あなたの生き血はバルナバスとカールハインツがいただくわ。みんなで不老不死になるの。そのためにあなたを生かしてきたのだから」


 ムスタファが宙を動く。そして魔法陣の中央で止まった。直立不動の格好だ。彼の体が七色に輝く。


「これで準備は完了。ふたりとも、こちらに。血が溢れ出たら、すぐに飲むのよ。服の汚れなんて気にしていたら駄目よ。鮮度が大切ですからね」

 笑顔のパウリーネに狂気を感じた。

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