Lime Light
@freelyy
第1話
秋晴れの朝,私は仕事道具を持ってカフェへ出かけた.休日であったが,特別な予定が入ることはまれであり,こうして落ち着いた店内で流れる音楽を聴きながら仕事を進めるのが最近の定番となっている.今日もいつもと同じ近所のカフェで,いつも通りブレンドコーヒーを注文し,受け取るまでの間に窓際の隅の席が空いていることを確認する.通りを眺められる席はひそかなお気に入りで,忙しなく歩く人々や空を飛ぶ鳥を見ると平和な気分になる.この店のコーヒーは,香り豊かで,日によって豆の種類を変えているから来るたびに微妙に味が違う.店員はカップを渡すときに豆の種類を教えてくれるが,実はほぼ覚えていない.南米のどこで収穫された豆だろうが,半透明の液体になってしまえば,気になるのは味と香りくらいだ.むしろ,今私の意識のほとんどは店員の方に向けられている.彼がカップを渡すときに,まっすぐに自分に向けられる孤を描く瞳,きれいな歯がのぞく口元,安心感を与える穏やかな声.カップに添えられる指は長く爪の先まで整えられている.肌は白く滑らかで,細いが筋肉が程よくついた腕は健康的である.髪の毛は小さな顔の周りを無造作に,しかし絶妙なバランスで取り囲み,非の打ちどころの無い輪郭を作っている.背の高い彼に対し,私はその顔を見上げる形でしばし見とれた.内心の動揺を悟られまいと平静を装い.お礼を言ってカップを受け取る.モデルのようなこの店員はひと月ほど前から見るようになったが,接客を受けるのは初めてだった.真正面から見た彼には,人を惹きつける雰囲気が漂い,初対面であっても好感を抱くには十分な魅力を持っていた.席についても,しばらく今見た男の印象が頭から離れなかった.若かったが,大学生だろうか.コーヒーを煎れる手つきや接客の仕方には慣れと余裕が感じられたから,仕事の経験は長いのかもしれない.そんなことを考えながらPCを起動しようとカップを横に置いたとき,隣のテーブルを拭きに来た先ほどの美形の店員と視線がかち合った.一瞬,呼吸を忘れ,頭が真っ白になる.そらせない目をどうすることも出来ないでいると,店員はすぐに目元を緩ませ,爽やかな笑顔を浮かべた.
「いつもご利用頂きありがとうございます.ごゆっくりどうぞ.」
そう言ってカウンターへ戻っていった.歩く姿も優雅だな.手足が長く姿勢の良い後ろ姿を目で追いながら,また男のことを考えていることに気づく.普段仕事で中年の男ばかりと接しているから,若さが印象的に感じるのだろう.変わらない日常で美しく咲き誇る花を見つけた気分になり,その日の仕事はいつもより捗った.
翌週,また同じカフェに行くと,店内がいつもより混んでいることに気づく.いつもと同じ時間に来たはずだが,何故だろうと思いながら,レジに向かう.
「いらっしゃいませ」
耳に心地よい声に顔を上げると,例の美形の店員が魅力的な笑顔を向けていた.
「ご注文は,お決まりでしょうか?」
「…あ,はい.ブレンドコーヒー,ホットで」
頼む物は決まっているが,目をそらすためにわざとメニューを見て注文する.
「ホットのブレンドコーヒーですね」
軽やかな声で復唱し,スムーズな動作でレジを打つ姿を見つめる.会計をしながら,店員の胸元についた金色のネームタグが見えた.「Jin Watanabe」ジンと言うらしい美形の店員は店内に視線を巡らせ,
「今日は近くのS大でイベントがあるみたいですね.いつものお席は埋まってしまっていますが,カウンター席は比較的空いています.ぜひ.ごゆっくりしていって下さいね」
そう言って人懐こい笑顔を向けてきた.眩しい笑顔にドキドキしながら,常連の客として認識されていることにじんわりと喜びがこみ上げる.嬉しさと気恥ずかしさを感じながら,薦められたカウンター席に腰を下ろす.習慣的にPCを起動しても仕事が手につかないのは,賑やかな店内にいるせいではない.自分の心がざわついているからだと自覚している.懐かしさを伴う始まりの予感.いや,もう既に手綱を切って走り出している感情は,この年になると言葉にするのも恥ずかしい.「はぁ」と静かに息を吐き,窓の外を見やる.ひつじ雲を眺めながら頭の中でつぶやく.「さて,どうしようかな」
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