三途の川のこちら側
るら
雨と猫と
チューブを押しつぶすと白い液体が手のひらに広がった。日焼け止め特有のあの鼻につく匂い。
空は今にも雨が降りそうな灰色だけれど、曇りの日の方が晴れてる日よりも紫外線が多いというし。一二月の風が耳を刺して寒いけれど、日焼け止めは毎日塗るべきって美容系ユーチューバーは言うし。
どうして焼けたくないのかなんて、そんなことは考えてはいけない。どうして肌が白い方が可愛いと思うのかなんて、考えたら私のアイデンティティを失ってしまう。
常識には脳死していないと、この世界では生きていきにくいのだ。
天気予報通り、昼から雨が降り出した。
それは放課後まで続いて、私は鞄に入れていた折りたたみ傘をさして帰路を歩いた。
ただでさえ冷たい空気に冷たい雨が重なって、手足は今にも凍えてしまいそうだ。アスファルトが跳ね返した水が靴の中に溜まって気持ち悪い。
折りたたみ傘は例に漏れず小さいから肩は濡れるし、そもそも湿気で髪の毛はクルクルだし、やっぱり雨は嫌いだなあと思う。別に晴れの日が好きって訳じゃないけれど。
電車の中は雨で濡れた人でいっぱいで、他の人の水滴でさらに肩が濡れた。屋根のあるところにいるのになんだか馬鹿らしいなと思う。
社会は、こういう我慢のことを公共の福祉と呼んで正当化させているらしい。
やっぱり、なんだか馬鹿みたいだ。
政治に文句があるとかそんな大層な話ではないけど、普通に、単純に、簡単に、生きるのがダルいなと思ってしまうだけ。死にたいとかそんな大層な話ではないけれど。
最寄り駅から家までの道のりを歩いていて、ふと道の片隅に目が行った。
雨はまだ、しとしと傘を叩いている。
家と駅の丁度中間地点くらい、丁字路のつきあたりにダンボールが一箱置かれていた。
小さなしろい毛皮が中身を埋めている。
近づいてみて、その白が動物だと気付くのに時間は要らなかった。
とんがった耳と細い前足、くりくりした瞳にみゃあという微かな鳴き声。
捨て猫なんだなあと、脳の端っこで理解した。
お情け程度に毛布が掛けられていて、雨はなんとか凌げているようだった。
それでも傘を持っていない左手で撫でた背中は冷たくて、どうにかしなければと危機感が高まっていく。
どうしよう、どうしよう、私はこの子に何をしたらいい?
漫画かアニメでしか遭遇しないようなこんな状況が、私にも訪れるなんて思ってなかった。
何をしたらいい? 持って帰る? 家に?
……だめだ。
「だめだよ」
左の人差し指を舐めようとする子猫から手を引いて、そっと呟く。
「家に来たら怒られちゃうよ」
私のお父さんは動物が嫌いだ。だから私は小さい頃動物園に連れて行って貰えなかった。
「もっといい飼い主がいるはずだよ」
折りたたみ傘でダンボールを雨から守る。ごめんね。
そのまま傘を置いたまま、私は家へ走った。
私の折りたたみ傘はまた買えばいいけど、あなたの命に「また」はないんでしょ。だから、いいや。
きっと素晴らしい誰かがあなたを拾ってくれるから、それまでもうちょっと我慢してよ。ごめんね、ほんとに。
「今日はどうだった?」
向かいで夕食のカキフライを食べているお母さんが徐に聞いてきた。お母さんは私に、いつもこの質問をする。これは小学生の頃からずっと変わらない。
「別にいつもどおりだよ」
私がこうやって返事をするのは、中学生の時から変わらない。
「そっか」
「うん」
こうやって会話が終わるのも昨日と同じ。
「あ」
でも今日だけ、頭で考えるより早く言葉が出てきてしまった。
「うん?」
「猫がいた」
「どこに?」
「三田さん家の角のとこ。見たことない猫が捨てられてたっぽい」
「あら」
きっとこれは罪悪感で、きっとこれは承認欲求。
猫を見捨てた自分を、肯定してほしかった。だって自分ではそんなこと、到底できそうにないから。
「拾ってこようかと思ったんだけど、お父さん動物嫌いだから無理かなって思って、折りたたみ傘だけ置いて帰ってきちゃった」
お母さんの隣の空席に目を向ける。壁のアナログ時計が示す、七時十分と少し。まだお父さんは帰ってこない時刻だ。だからこんな、湿ったことを言える。
「あぁ、でも拾ってきても良かったのに。飼うのは無理だけど、雨の日の一日くらいなら家に置いてても大丈夫なんじゃない? 今日、お父さん帰ってくるの遅いし」
「……」
自分の体温が急に下がった心地がした。心が、体の隙間に寒風が入り込んだみたいに冷えている。
いつもこうだ。
結局物事を重く受け止めて必要以上に心配しているのは私だけで、現実は案外考えない方がうまくいくのだ。
きっと衝動的に生きるのが一番幸せになれるし一番賢い生き方なのだ。
でもそれなら、できない人はどうしたらいいのだろう。考えて考えて、予防線を張って生きている。そうやって生きていくのが一番しんどくてどうしようもないのにやめられない。
……ああもう。
別にそんな気分ではなかったのだけれど、半ば癖でインスタを開いた。日々のルーティーンに追加されてしまっている。無意識で指が動き、タイムラインがスクロールする。目に入ってくる知り合いのなんでもないような投稿をダブルタップして、そのまま次はストーリーを表示。
くるくると切り替わっていく画面の中に、無視できないものがあった。
それは同じ中学出身の誰かがあげたストーリーで、白い子猫の写真を背景として文字が並んでいた。
家の近くで子猫拾って飼うことになった~‼名前募集中‼‼‼
その子猫は数時間前に私が見た子猫とあまりにもそっくりで、「似てる猫だ」と片付けるには瓜二つすぎて、私はそっと息を吐いた。
「あぁ」
なんだ。やっぱりいるんじゃん、素敵な飼い主が。
私の間違いはきっと彼女にも子猫にとっても間違いではなくて、でも私の後ろめたさは消えてなくならないから、人生は面倒くさいなと思う。
正解も間違いも存在するし、正解すれば褒めそやされて間違えれば糾弾される世界だけれど、その基準は不変的なものではなくて人それぞれだし、本当に面倒くさい。自分の間違いが他人にとっての正解だったからって自己を肯定できるほど私は私のことが好きじゃないし、ああ、私が一番面倒くさい!
「……」
なんだかスマホで時間を潰すことさえ面倒くさくなって、画面を閉じた。そのまま充電ケーブルに繋ぐ。
充電中と表示するロック画面に設定した友達との写真が、いやに馬鹿馬鹿しく見えた。
朝日が眩しい。
灰色だった空は一転して真っ青になっていた。ところどころ黒く染みになったアスファルトだけが、昨日の面影を残している。
気分爽快とはならないけれども、少しは陽気に過ごせそうだ。
今日はいつもより早く起きれたから、家も早く出ることができた。最寄り駅までをゆっくり歩ける。
昨日ダンボールが置いてあった角にはもう何も残っていなかった。私の折りたたみ傘も、例の彼女が一緒に持っていったのだろう。放課後どこかに寄って新しいのを買ってこないと。
駅が近くなるとサラリーマンや高校生が増える。いつも同じ電車に乗る人達だから、なんとなく顔を覚えてしまった。あの背の高いJKは、今日は黒いコートを着ている。
そんなことを思った矢先、私の左側を小学生が走って抜かした。彼もいつも見かける子だ。隣の駅で降りているから、どうやら遠くの小学校に通っているらしかった。まだ電車の来る時間じゃないからそんなに急がなくていいのに。
小学生は駅に向かってどんどん走っていく。風が耳の横で鳴って、寒くないのかな。
その瞬間、少年の片足がまだ乾いていないマンホールの上に乗った。
濡れたマンホールはよく滑る。
片足が安定しなくなった少年は絶妙に保たれていたバランスをあっという間に崩して、尻もちをついてしまった。
少年は起き上がってランドセルを持ち直して、汚れたお尻を叩いている。
通行人は彼を横目で見ながら通り過ぎていく。そうだ、世間ってこういうものだ。何も与えてくれないくせに同情だけはしてくれる。
少年が立ち止まっている間にも歩き続けていたせいで、自分を追い抜かしたはずの少年とまたすれ違いそうになっている。少年は未だに立ち止まっている。手をじっと見つめて何かをしているから、手を後ろについた時に怪我をしてしまったのかもしれない。
「どうかしたの?」
気がつけば、声をかけていた。少年がこちらを見る。
「……ころんだ」
「大丈夫だった?」
「大丈夫だけど、血が出た」
少年は右の手のひらをパーにして私に見せた。
「あー、ほんとだ。ハンカチ使う?」
「いらない」
「そっか」
「うん」
「電車、来ちゃうよ」
「行く」
少年は私をまた抜かして歩いた。左右に振っている腕が勇ましい。
ああ、と思った。
ああ、なんだか今なら、日焼け止めを毎日塗る理由だって、肌が白いほうが綺麗に思える理由だって考えられる気がする。
何か自分以外ものにアイデンティティを頼らなくたって生きていける、そんな気が、した。
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