無題
本当に、今日で終わりにしようと思ったのだ。
兄弟は元からいなくて、親も早くに亡くして、嫁もいなくて、俺がいなくたって世界は回るから、そんな世界で特別生きる意味を見出せないから、とうとう終わりにしようと思ったのだ。
ずっと昔から趣味も特技もなかったし、適当にでっちあげたプロフィールでいつも空欄を埋めてきた。そんな人生が嫌いで仕方がなくて、終止符を打とうと思ったのだ。
やりたいことをやって成功をしている人も、将来の夢のために頑張っている人も、幼い頃の本気を馬鹿にして笑うのも、夢を諦めるしかなかった人の哀愁でさえも羨ましかった。一生を捧げられるものに出会っていることに、ずっと憧れていた。でも、俺はどうしてもそれにはなれなくて、ただ憧れているだけの自分が空虚で、だからいなくなろうと思ったのだ。
好きでもない仕事の為に早起きをして、満員の電車に押し込まれて息が詰まりそうになって、愛妻弁当を食べる同僚を横目にコンビニ弁当を食べて、特に予定がないからと誰もやらない仕事を任され定時に帰ることは出来ず、人がまばらになった電車の中を座る気にもなれなくてただつり革に縋りつく毎日だ。
ふと目にしたネットニュースで夕焼けの写真を見た時に、最後にこの目で夕日を見たのはいつだったのだろうかと考えて、涙が出た。いつなのかも思い出せない自分にも、綺麗だと最初に感じることができなくなった自分にも。小学生の、辺りが暗くなっただけで親に怒られると思っていた頃が懐かしくて堪らなくて、もうやめようと思ったのだ。
実はずっと、人生が嫌いだったのだ。
ずっと昔から、いつか死にたいと願っていた。
そりゃあいつかは死ねるのだけれど、周りの人より早く自分にその時が訪れますようにと密かに祈っていたのだ。それは希望の祈りでもあった。自分が病気を発症するとか、事故や事件に巻き込まれて死ぬなどとは、到底思っていなかった。そんなに運が良いのならばこんな厭世観は育っていない。
いつかちゃんと勇気が出ますようにとの、自分へ向けた祈りだったのだ。
しかしどうやら俺は社会では少数派にあたるらしく、大半の人は死にたいと願うことさえなく死んでいくものらしい。それがどうにも妬ましくて悔しくて許せなくって、だから、何も悪くない人を嫌いになる前に死んでしまおうと思ったのだった。無関係に楽しく生きている人のことを攻撃するようになってしまったら、俺は本当に自分のことを肯定できなくなる。
本当に、本当に、今日で終わりにしようと思ったのだ。
会社を無断欠席する覚悟も、この世からおさらばする覚悟も決めた。
自殺の仕方だってちゃんと決めた。流石に最期まで殺風景なアパートの部屋なのは虚しいから、せめて綺麗な場所で死のうと思って、海まで行くためにレンタカーを借りる準備もしておいた。
出来るだけ人に迷惑をかけたくないから、死ぬのではなく消えるようにと、何日もかけて吟味した計画だ。
こんな人生だったけれど、きっと俺が死ぬことで滞る業務は存在しているから、それ以上の迷惑をかけたくなかった。だって、迷惑をかけたら俺が非難されて、もっと自分のことを嫌いになるから。勿論、その時には既に死んでいるのだけれど、嫌われることを厭う気持ちはそんなことではきっと消えてくれない。例え自分がその場にいなくたって自分のヘイトが向くのは心地よいものではないし、そんなことを気にしない神経の持ち主だったならば、俺は死にたいなどとは決して思わない社会の多数派になれていただろう。
学生の時以来の二度寝は気持ちの良いものだった。
少しの背徳感はショートケーキに添えるコーヒーのようにただ愉悦を際立たせるだけで、やはり生きたいという感情は生まれてこなかった。
業務スーパーで買った十個入り一パックの卵の最後の一つで、目玉焼きを作った。幼い頃に母が作ってくれたような半熟の目玉焼きだ。中濃ソースをかけて、ジャンクな味にした。
コンビニで買った分厚い食パンは、トースターで二度焼きした。いちごジャムを端までたっぷりと塗って、いちごジャムを使い切った。まるで幼い子どもみたいに、使用済みのスプーンを舐った。甘ったるい香料が鼻腔に充満して、訳もなく笑いそうになった。
もしかしたら、こんなに丁寧な朝食を採るのは家を出て初めてだったかもしれない。
社会人になったばかりの時に買ったTシャツとジーンズを穿いて家を出た。鍵は閉めなかった。戻るつもりのないそこは、俺にとって守る場所でなくなっていたから。
太陽は既に地平線から四十五度を越えていて、清々しい陽気だった。
アパートの外の駐車場を大家さんが掃き掃除をしていて、目が合った。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
「今日は良い天気ですね」
「……そうですね」
通勤や通学のピークを越えた平日の昼間はやけに空いていたから、思っていたよりも早く目的地の断崖に着くことができた。
遂に、終にだ。
ようやく、死ぬことができる。
崖の先端に立って、下を見下ろした。蒼い碧い、青。
綺麗だ。
風がさあと吹いて俺の体を揺らすから、咄嗟に身を固くして両足で踏ん張った。
――そして瞬間、気付いてしまった。
ああどうしよう、怖い。
もうこの世界に未練などないのに、全てを捨てる覚悟も決めたはずなのに、どうしてか酷く怖い。産み落とされて何も成さないまま消えていくことが、なぜか悔しい。醜くて汚くてゴミみたいな世界で成し遂げたいことなど何もないのに、訳もなく涙があふれてくる。
これはきっといつか捨てた自尊心の成れの果てで、自愛の歪んだ姿だ。
脳内に蘇る。
――――良い天気ですね。
なんでもない会話が、俺をまだこの世に縛り付けている。俺が相手じゃなくてもいい会話。誰とでも出来る会話。その会話を、五十半ばのあのおばちゃんは俺としてくれた。その他大勢のマジョリティの中から、俺を選んでくれた。
死にたい。死にたい。消えてしまいたい。生きていたくない。逃げ出したい。
でも、このまま死んでいくのだけは嫌だ。
緩やかな慟哭だけが響く。
ようやく俺は、生きる理由の一端を掴んだ気がした。
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