第37話 時間稼ぎ
「おかしいです……」
屋敷の中に戻り、びくびくしながら誰かの気配を窺っていたプリシラだったが、静かすぎる廊下といくつもの部屋を見て回った後に困惑の声を上げた。
「父が出かけた様子はなかったのに」
首を傾げている彼女の視線の先には、食事の途中で席を立ったのだろうか、と思える光景があった。さっき、俺たちも食事をした部屋だ。
お茶の入ったカップ、お菓子が乗っていただろう皿。しかし、それを片づける召使の姿はない。
「すみません、調理場に行ってきます。テレンスさんがいると思うので……」
テレンスとは俺たちを案内してくれた使用人の男性のことだろうか。
彼女は眉間に皺を寄せ、不安げに俺たちの顔を見ている。だからつい、レスリーを見てお願いしてしまった。
「何かあると大変なので、付き添ってもらえますか?」
「え? それで、あなたは……」
無表情レスリーは、僅かに警戒したような光を俺に向けた。だから、腕の中で大人しくしているイヴを少しだけ指先で撫でて笑う。
「俺は何かあったらこの子に守ってもらいますし、あなたたちも呼びにいきます。俺一人だったら屋敷の中を調べるのはあっという間ですから、すぐに合流できると思います」
「……解りました」
レスリーが不承不承といった様子で頷き、プリシラの後について廊下を歩いていくのを見送ると、俺は自分の魔力を練って辺りに広げていった。
「……ああ、やっぱり」
そして俺は今、屋敷の一階の外れ、廊下の突き当りに立っている。
掃除が行き届いていないせいで、隠し通路があるらしい場所はさらに解りにくくなっている。微かに感じる空気の流れも、普通だったら古びた屋敷にありがちな隙間風くらいにしか思わないだろう。
俺もここを見つけるのに少し時間がかかった。
姉は気配を消すのが得意だし。
だが。
――血の匂いがするんだよなあ。
俺はがくりと肩を落として、少しだけその場で考えこむ。俺の視線の先、俺の足元でイヴがぐるぐると歩き回っているのが見えた。どうやらこの小さな契約獣も異変を感じたらしく、前足で壁を叩いている。
「多分、邪魔したら俺も殺される。お前もだぞ?」
ぽつりと呟き、イヴを抱え上げてその毛皮に顔を埋める。毛皮の香ばしい匂いも、今の俺には何の癒しにもなりやしない。その後、じたばたと足を動かすイヴを宥めつつ、場所を移動することにした。
まあ、ある程度予想はできていたから諦めるのも簡単だ。
多少の罪悪感はあるし、申し訳ないと心の底から思うけれど――。
「身から出た錆って言葉もあるし、諦めてもらおう……」
ちらりと隠し扉の方に目をやってから、俺はプリシラたちがいるであろう方向へ向かった。
「申し訳ありません。私は……その」
痩せた男――テレンスが俯き加減で身体を震わせ、唇を噛んで沈黙していた。その彼の前に立っているのは、プリシラとレスリーだ。
調理場らしき扉が開け放たれていて、近づくと三人の声が聞こえてきていた。俺がわざと足音を立てつつ近づくと、怯えたようにテレンスがこちらを見たが――俺だと気づいて安堵したのだろう、小さな吐息が彼の口から漏れた。
「すみません、いくら訊かれても答えられないんです」
すぐにでも俺たちから逃げたくなったようで、彼はぼそぼそと言葉を続ける。「あの、仕事がありますから」
調理場から出て行こうとする彼の手首を、プリシラが慌てたようにそっと掴んだ。
「お願いします。父のやっていることがゴールディング様に伝わりました。わたしが助けを求めに行ったら、協力していただけることになって。だから、近いうちに捕まると思います」
「捕まる?」
どこか焦点の合わない彼の目がプリシラに向けられる。「旦那様が、ですか?」
「はい。わたしも……きっと何らかの罰が与えられると思います。父の命令で……やってはいけないことをしましたから」
「お嬢様も?」
「お嬢様なんて呼んでくれたのはあなただけです、テレンスさん」
彼の手首を掴むプリシラの手にさらに力が込められたのが解る。元々白い指先がさらに色が失せた。
「わたしはこの家では、父の命令を聞くだけの奴隷ような存在だったから。だから、父の血を引いた人間とは思えないような扱いをされていました。そんなわたしに関わりたくなかったのか、いつの間にか……いなくなってしまう使用人の人たちだって、わたしと目を合わせようとはしなかったし話しかけてもくれませんでした。でも少なくとも、あなたはわたしの名前を呼んでくれていたし、お嬢様なんて言ってくれた。口調は素っ気なかったけど、本当は優しい人だって思っていたんです」
「優しい?」
そこで、テレンスが顔を歪めてプリシラの手を振り払った。そのまま頭を抱え込み、ぎりぎりと歯を食いしばるようにして低く唸ってから、泣きそうな声で続ける。
「優しくなんてありません。わた、私は。いくら命令だったとはいえ、それに従った自分は、自分は」
彼は少しだけ過呼吸になったようで、喉をぜいぜい言わせながら何か言葉を探したようだったが――。
急に、彼は身を翻して調理場の奥へと走った。虚を突かれて俺たちは一瞬だけ反応が遅れる。そして、流し台の近くにあった調理用の刃物を手に取った瞬間、俺の足が動いた。
「死ぬなら事情を説明してからにしてください」
俺は彼の右手を捻りあげ、持っていた刃物を床に落とさせる。今にも自分の喉にそれを突き立てようとしていた彼だったが、すぐに絶望したような視線を俺に向けた。
「わ、私は……死体の処理を請け負っていました……」
震える声で言った彼の手首は、まるで骨と皮といったくらいにまで痩せていた。「庭に埋めていましたが、もう無理だと思って……一度は、屋敷の外に捨てにいきました。誰かに見つけて欲しかったし、とめてもらいたかった。死のうとも思いましたが、私の得ている給料は家族への仕送りにしていたし、結局はお金が。お金がなくて。妹の病気の治療が。私はこんな身体だから、働く場所が他になくて」
がたがたと震え続ける彼の呼吸が落ち着くまで待っていた俺だったけれど、我慢ができなくなったであろうレスリーが俺の後ろから声をかける。
「死体の処理とは?」
「それは」
テレンスが何かを思い出したかのように、手で口を覆いながら吐き気と戦っている。でもすぐに、限りなく少ない言葉で俺たちに言ったのだ。
この屋敷の中にある隠し部屋で、プリシラの兄が召使に性的な乱暴を加えた後、殺害していること。その死体の処理は自分がやっていたこと。
「隠し部屋? 案内をしてもらっていいですか?」
レスリーが強張った口調でそう言って、俺は慌ててしまった。
まだ子供だっていうのに、レスリーは落ち着きすぎだ。というか、多分……惨劇を見慣れていないんだ。だから恐れを知らぬままそんなことを言える。
「待ってください。隠し部屋とやらに何か罠とかあったらどうするんです? まずは応援を呼びましょう?」
俺はそう言いながら、何とか時間を稼ごうと思っていた。
多分、レスリーやプリシラが見てはいけない光景が隠し部屋の中にあるはずだ。だから何とかして邪魔をしておかないと。
俺はすぐ近くの床の上で、行儀よく座っているイヴに話しかけた。
「団長を呼んできてもらっていいかな? 多分、急がなくてもいいと思うし……」
「急がなくても?」
レスリーが俺の言葉に反応して言うと、俺はそっと苦笑した。
「だって、二人の気配、この屋敷の中にありませんよ? お茶を飲んでいた途中で消えたって感じだったのも、もしかしたら俺たちの正体に気づいて、慌てて逃げたんじゃないかなって思うんです。こうしている間にも隣国に向かっているのかもしれませんし、この屋敷の中の捜索よりも、外の捜索を急いだほうが」
俺は考えてもいないことを適当にでっち上げて言うと、テレンスが困惑したように首を傾げる。
「逃げた? 旦那様たちが、ですか?」
「ええ、どこにもいる気配がないのは間違いありません。だから、あなたが証言をしたとしても後でアボット男爵に何かされるとか、そういったことはないんじゃないでしょうか」
「逃げた……。本当にそれなら……」
「多少は安心ですよね? だから、この件について調べている人をこの場に呼びますので、改めて説明してくださいませんか。そこに嘘がなければ、あなたがやったことに対しても何か考慮されると思います」
「でも」
どうせ許されるはずがない、とか、もっと早く死んでいれば、とか、でも死んだら妹が、とか。
ぶつぶつ言う彼の様子を横目で見ながら、改めてイヴにジャスティーンを呼ぶように促したのだ。
少なくとも、彼女がこの場にくるまでは時間がかかるだろう。その間に全部『片付いていて』くれれば……と祈りながら、俺は調理場にあった窓の方へ目をやった。
そして。
俺が考えていたよりもずっと早く、ジャスティーンがアボット男爵家に魔術師たちを連れてやってきた。
早いというか、早すぎる! 全く時間稼ぎになっていない!
そして、姉はまだ隠し部屋の中にいるのだろうかと、背中に冷や汗を流しながら考えたのだった。
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