ノワール 夜は密かな戦場
和泉茉樹
第1話
◆
尾行していた男が不意に路地に入った。
こういう場面が最も難しい。飛び込むと罠があるかもしれない。尾行を確かめるには格好の道筋だ。
俺は歩きながら呼吸を整え、踏み込んだ。
無人。夜の闇に抗うように、路地を形成する古い建物の一つ、居酒屋の表の提灯が、ほのかな赤い光を放っている。
足早に奥へ進む。足音がしない。居酒屋も客がいないのか、静まり返っている。
嫌な気配だ。
路地と路地の交差点。右、左、いない。前もいない。
見失ったか。
瞬間だった。
頭上でかすかな音。服のはためき。
横に体を投げ出す。寸前まで俺がいたところに長身の男が舞い降りている。
その体が一瞬の屈伸の後、低空てこちらへ突っ込んできたのは、はっきり見えた。
かすかな光の中で、長い鋭利な爪が閃き、刹那、輝く。
立ち上がる間もなく、爪が深々と俺の胸を刺し貫き、背中へ突き抜ける。
目と鼻の先で、真っ青な瞳が嗜虐の色を浮かべる。
連中特有の、得意満面、踰越そのものの顔。
俺の足から力が抜け。
ぐっと持ち直した。
事態に気付いた男が離れようとするが、一瞬早く、俺の両手が男の首を掴んでいる。
「混血の執行人め!」
くぐもった声で、あやふやな発音で男が唸る。聞き取りづらいが日本語ではない、英語だった。
構わず両手に力を込める。
強化された握力の全てで、俺は男の首をへし折り、握り潰す。男は最後に奇妙な声を上げ、体を脱力させた。
念のために地面に叩きつけた拍子に、俺の胸から長い爪がいっぺんに抜けた。
くそ、肺をやられた。しかし、まぁ、なんとかなる。
咳き込んで飛び散る血を手で抑え、懐から拳銃を抜く。銃声がほとんどしない超高圧ガス銃だ。
「え? え?」
突然の声。
そちらを見ると、さっき前を通り過ぎた居酒屋の戸が開き、女性、いや、少女がこちらを見ている。年齢は十五、六か。物音に気付いたらしい。
状況は異常だっただろう。
男が倒れていて、そのそばで拳銃を持っている男がいる。
事態の変転はやはり唐突だった。
俺が首をへし折った男の手が跳ね上がり、俺の手から拳銃を弾き飛ばす。
反射的に爪の先を避けた俺の眼の前で、首が不自然に曲がったままの男が、超高速で少女の方へ突っ込んでいく。
仕方がない。
俺は「力」を解き放った。
路地を青い光が吹き抜ける。
男が悲鳴をあげた。みっともない、絶叫だ。
その声も仕方あるまい。
男の全身が燃え上がっているのだ。真っ青な炎が男を焼き尽くすのに、半秒しか必要なかった。
なかったが、それでも間に合わなかったことになる。
男の爪の先が少女の首元を抉り、その爪も灰になって消えた。
少女が引きつった悲鳴をあげ、血の一筋を引いて倒れる。受け身を取っていない、危険な倒れ方だった。
こいつは、かなりマズイ。
駆け寄って生死を確認する。
出血がひどい。あっという間に俺の手が赤く染まる。痙攣が始まる、ショック症状だ。
居酒屋から老婆が顔を顔を覗かせ、絶叫する。
「大丈夫です。救急車を呼びます。すぐ来ます」
俺がそう言っても、老婆がかがみこみ、娘の名前を繰り返し呼んでいる。反応はないが、俺の手には呼吸の感触がある。
これはまた、参ったことになったな。片手で携帯端末を取り出し、事前に設定していた番号へかける。
最悪な事態をさらに最悪にしているのは、娘の傷口が少しずつ塞がり始めていることだ。
すぐに連絡した相手が出た。
「怪我人がいる。すぐに回収に来て欲しい」
電話の向こうからは「了解」という短い返事だけがあった。
やれやれ。
少女が急に小さく呻いた。意識が回復されると厄介なので、首筋をさっと抑えて動脈を圧迫し、無理やりに再度、意識を奪う。しかしこんなことを続けるわけにはいかない。
救急車のサイレンが近づいてきた。
(続く)
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