小説『痛快!透析奮闘記』1

@ogitsucho127

第1話

1、元気だったはずが、一転


このおれが病気?

「どれどれ。うん、うん。糖尿病と・・・それにあれっ。こっちの方が問題だな。

腎臓か。これは、いかんな。腎臓が悪いと言われたことは」。

すると、脇にいた看護師が、自分の出番とばかりに。

「この方、これまで健診の記録、一切ありません」。

「まったく、もう。余計なことを言ってくれたもんだ」。




男はちょっとおかんむりながら、「腎臓・・・ですか。ありません」。

そう、言い切った。

老医師は、にんまり。“含み笑い”というやつだ。

ここは、茨城県の最北部に位置する茨北市の市立茨北総合病院。

人口8万人の静かな純農村地域。医療機関は、このまち唯一の大規模病院。

まちの医療を一手に、担っている。

しかし、都市部に比べ整備が立ち遅れているのは、事実だ。

その病院1階の診察室。夏の西日が、これでもかと差し込んでいた。


老医師の前に座っているのは、橋本太郎。62歳。

これまで仕事にかまけて、健康診断を1度も受けたことがなかった。

「健診なんて、まだ早い。おれは健康だ。飲みに行くぞ」。

若いころから、そんな思いだった。

特に、営業職では、健診を無視する同僚が多かった。

当然、営業課の受診率は、お粗末だった。

そして、還暦を過ぎても、その人間性は変わっていなかった。

「一応カルテは回しておきますから。そのまま、腎臓内科窓口に来どうぞ」。

看護師が事務的に説明。

さらに医師も一言。「橋本さん。悪いことは言いません。腎臓専門医の診察受けて」。

『でたー。医者の殺し文句。“悪いことは言いません”。これを言われちゃなあ』。

心の中で、そうつぶやく橋本。

「わかりました。そこまで先生がおっしゃるなら、きちんと診てもらいます」。

この男、いったいどんな性格なのか。老医師はあきれ顔に。

平成25年7月4日。猛暑の1日。これが透析への第一歩だった。 

          

ショックだった同僚の死

橋本は茨北市生まれ。地元の校卒後、太陽光発電システムの販売会社に入社。

営業課一筋に生きてきた。妻とは別居中。1人娘は、結婚独立。

橋本は、会社を早期退職して現在、気ままな一人暮らし。

さて、健康には無頓着だった橋本。どうして今回、健診を受け入れたのか。

それは、ある友人の死。

この春、同い年の同僚が肺がんで逝った。最後に会ったのは、その2ケ月前。

元気だった。「なのに、どうして」。ショックだった。

落ち込む橋本にアドバイスする男がいた。同期入社の木田勇。

「なあ、橋本。お前、健診に行ってくれ。頼む。もう、友人と別れるのはいやだ」。

この言葉が突き刺さった。

「そうか。わかった。行くよ」。

こうして、橋本は、腎臓専門病院『ひかり内科病院』に足を運んだ。

老医師の紹介で、腎臓内科の飯村明医師を訪ねた。

窓口で受診の旨を話した。

「橋本さんですね。はい。カルテがこちらに回っています。申し訳ありません。

再度、胸部レントゲン、血液検査を受けてください。

ここを出てすぐ右側の検査室前でお待ちください」と事務員。

橋本は、言われるままに検査室に。

間もなく、「橋本さん。どうぞ」と呼ばれた。

まず、看護師が慣れた手つきで採血。担当部署所に回した。

「橋本さん。検査は以上です。腎臓内科の診察室前でお待ちください」。

「ふーう。ちょっと疲れた。これだから病院は嫌なんだ」。

約30分後。診察室から、「橋本さん、中へどうぞ」。

そこにいた飯村医師は、まだ若そうだった。

「検査ご苦労様でした。結果が回ってきてます。

いまはまず、血糖値とクレアチニンの数値改善を目指します。

正直、両方とも深刻な事態です。

糖尿、腎臓とも自覚症状がないんで、検査データで判断します。赤信号一歩手前です」。

飯村医師は、丁寧に現状を説明した


栄養指導。頭がぼんやり

飯村医師の報告は、内心、穏やかではなかった。

主治医は続けた。

「1週間後に、また来てください。さらに、詳しい検査をします。

きょうは、これから栄養指導を受けてください」。

橋本は憂鬱だった。「栄養指導か。おれが聞いても無駄なのに」。

栄養指導室で待っていると、管理栄養士が来た。

そして、橋本が一番、嫌う質問。

「きょうは、お一人ですか。奥様は?栄養指導は、奥様が受けることが多いのですが」。

橋本は、辟易だった。「いまは、一人暮らしです」。

「そうですか。失礼いたしました。では、栄養指導を始めます」。

管理栄養士は、書類を示しながら聞いてきた。

「いま、食事はどうしてますか?」。

「ほとんど外食。ときとき自分で作ります」。

「この資料をご覧ください。一般的に外食は塩分が多いのです。

糖尿病、腎臓病の方には、あまりおすすめできません。食事管理が大事です」。

管理栄養士は、模型のごはん、おかず類をだして、カロリー計算など食事指導。

橋本は、話を聞いているうちに、頭がぼんやりしてきた。

元々、関心のないこと。さらに、事務的な抑揚のない説明。

睡魔と必死に闘う橋本だった。

「説明は、以上です。何か質問は」。

『質問なんて、あるわけないでしょ』。心の中でつぶやく橋本。

口から出た言葉は、「いえ。ありません」。眠気冷ましの大きな声。

橋本は、約40分で“解放”された。「あーあ。疲れた」とぽつり。

この先、一体どうなることやら。

                                   (つづく)






小説『痛快!透析奮闘記』2

1、元気だったはずが、一転



腎臓が、悲鳴を

1週間後。橋本は、再度、『ひかり内科病院』に足を運んだ。飯村医師の指示通り病院にいた。

すぐに検査室へ済ませ腎臓内科。

「腎臓が悪いって言われてもな。おれ、なんともないしな。困ったもんだ。

何かの間違いじゃ」。

まだこんなことを言っている。おめでたい男だ。

10分後に、呼ばれた。

そこには、検査データに目をやりながら、渋い表情の飯村医師。

「橋本さん。残念ですがすぐに入院してください。

腎臓が悲鳴をあげています」。

「あらら。本当ですか。いきなりですか。そんなに悪いんですか」。

橋本はさすがにうろたえた。

「はい。良くありません。すぐに治療に専念しないと。大変なことになりますよ」。

飯村医師は、真剣だった。

それを察知した橋本。素直になった。

「そうですか。分かりました。あす入院します」。

お調子男・橋本も意気消沈。

翌日、身の回りのものを大きなバッグに詰め込み、タクシーで病院に。

入院受付でまたあの苦々しい質問だ。

「きょう、ご家族の方は」。

「一人で来ちゃ、まずいのかい」。いつものように心の中で叫んだ。

が、口から出たのは、「私、一人身ですから」。


橋本、ついに入院

そんなこんなのあと3階の病室に案内された。303号室。

間もなく、看護師がきた。

「橋本さん、きょうから入院ですね。

一応、入院生活についてご案内します」と手元の資料を説明した。

「以上です。じゃ、お熱と血圧計りますね」。

手早く仕事をこなして戻った。

次に主治医の飯村医師。

「病気の現状を説明します。まず、クレアチニン値が7です。

5以上が透析の目安ですのでオーバーしてます。

すぐに透析を始めましょう。

血糖値も高目です。これは食事療法と投薬で改善します。

明日から透析の準備に入ります。それと、摂取カロリー、水分を制限します。看護師に、その説明をさせます」。

飯村医師は滑らかな口調で報告し、戻った。

ややあって、看護師が資料を手に、再度、やってきた。。  

橋本は、ベッドに腰かけていた。

「橋本さん。もうすぐ夕食ですが、カロリー制限があります。

1日1600キロ㌍です。水は自由に飲めません。

1日に飲める量が決まっています。700CC以下です。

これは腎臓に負担をかけないためです。

平均すると毎食時に飲めるのは200CC。薬を飲む際の水も含めます」。康護師は事務的に説明した。


本当の苦しみは、これから

自由に水を飲めないとおっしゃいましたか」。

「はい。そう言いました。なにか」

「いや。“なにか”じゃなくて」。心の中で絶叫する橋本。

でも、実際は、困った表情で、すがった。

「本当ですか。この暑いときに。水を飲めない。私、どうしたら」。

「あれ、先生に言われませんでしたか?」。

「そういえば・・・。このことでしたか。」

この看護師とやりあっても良知(らち)は開かない。このへんで止めた。

看護師は、何事もなかったように、平然と戻った。

「700CCって、どのぐらいだ。大変なことになったぞ。こりゃ」。

橋本は、水分制限の本当の苦しさは、まだ知らなかった。

7月15日、盛夏。  

                                    (つづく)     






小説『痛快!透析奮闘記』3

1、元気だったはずが、一転




これが200CC

入院初日の夜は、自分でも驚くほど良く眠れた。快眠だった。

自分がいま、どこにいるのかも忘れて。

現実に戻されたのは朝6時だった。

「橋本さん、橋本さん。おはようございます。血糖値、血圧を計ります。

起きてください」。

橋本はまだ夢の中。身体を揺さぶられ、やっと“お目覚め”。

「ここは、どこだ」。

「橋本さん。ここは病院ですよ。昨日、入院したでしょ」。

「そうか。おれは入院したんだ」。

目の前の看護師は、やさしそうなベテラン。

「はい、はい。いま起きましたよ」と橋本。

ベテランは、にっこり。

体温、血圧を計り、「ちょっと血圧が高目ですね」。

そう言い残し、303号室を出ていった。

身支度をして朝食を待つ。朝食は8時だ。時間はまだある。

「寝るか」。得意の2度寝。

4人部屋にいまのところ2人。もう1人は歳のいったおじいちゃん。

ぐっすり寝込んでいる。

「橋本さん。白湯もってきました。200CC入れておきますよ。

薬の分、残してくださいね」。

今度は、新人らしい看護師が湯呑にお湯を注いだ。

反射的に、その湯呑をのぞき込む。

「ねえ。これだけ。これが200CC」。

「はい。そうです」。若い看護師は、屈託なかった。

がっくりだ。


味噌汁がないぞ

“ガラガラ”。運搬車の音だ。ちょうど8時。

「はーい。橋本さん。朝食ですよ」。

担当者が、元気に朝食を運んできた。

「ありがとうございます」。

橋本はお箸を強く握りしめた。トレーの朝食に目をやった。

がく然とした。

家での、ごはんの半分ぐらいだった。

「えーと。名前がわからない魚。ポテトサラダに、おひたしか」。

これが噂のカロリー制限食。

「心していただきます」。でも、大好きな味噌汁がない。

「そうか。塩分制限か」。

お湯も薬のことを考えると、一気には口にできない。    

「おかずが少ない。ごはんはそこそこの量だ」。

食べ始めると、おかずがあっという間になくなった。

「考えて食べないとな」。

そのおかずは薄味。「味噌汁がほしいな」。

ゆっくり味わう間もなく、ごはんもおかずも消えた。

「ごちそうさま」。

薬を飲むと200CC入った湯は空っぽ。

 

み、水を。蛇口に右手

辛い1日のスタートだった。これといった治療はなかった。

ただ食事制限。塩分、水分量の上限があるだけ。伴い時間をもてあます。

そして、この入院生活。2、3日過ぎると苦しさが。

特に、長い夜が辛かった。

のどが渇いてどうしようもない。眠れない。

ベッドを離れ、廊下を歩く。気を紛らせるために。

「みず、みず」。夢遊病者のようだった。

ミニキッチンがそこにあった。当然、蛇口が。

ここを、ひねれば、水が出る。右手をかけた。でも、でも。我慢した。

ここで飲んでしまったら、きっと一気飲みだ。

700CCなんて軽くオーバーだ。検査結果に出てくるぞ。

最低の自制心はあった。

やっとの思いで303号室に戻った。

ベッドに滑り込む。

「お腹もすいたな」。悶々とした時間が流れた。

寝返りも何度、打ったことか。

同室のおじいちゃんが、気持ちよさそうに軽いいびき。

この経験が、夜間用にとできるだけ水を残すようになった。

ゆっくり安心して睡眠を取るための“魔法の水”だ。

ここで一句。

『こんなにも、のど乾きし長い夜

一滴の水に 命助かる想い』

(つづく)




小説『痛快!透析奮闘記』4

1、元気だったはずが、一転




「血糖コントロール」と「水分規制」の2つ。

これが入院で取り組むこと。

「これは、何だな。病院にいるからこそできること。自宅では無理」。

まだ、こんなことを言っている。状況はそう甘くはないのに。

その試練はすぐに訪れた。

「水が自由に飲めないのは入院中だけですよね」。

橋本は一番気になっていたことを看護師に聞いた。

すると、即座に、「いえ。先生から聞いてないですか。

退院してからもずっとですよ。一生です」。

無表情で悪魔のような言葉を発する看護師だった。

「ちょ、ちょっと待って。冷静になろうね」。冷静になるのは橋本の方。

「えーっと。確認しますよ。それは、退院して家にいても」。

「はい。そうです」。

『この看護師に情けはないのか』。いつものように心の中で叫んだ。

ショックだった。人生エンドレスで続くのか。 

「こりゃ大変だ。そんなこと、ありかよ」。落ち込む橋本。

人生、最後の晩餐は。

冷たく、おいしい水を遠慮なく腹一杯飲むこと」。

                                



1、元気だったはずが、一転




いざ、透析開始    

当初、苦しいだけの入院生活だった。

それが2週間も過ぎたころから辛さにも慣れてきた。人間の対応力はすごい。

検査結果も幸い改善傾向だ。

ところが、腎臓機能だけは、クレアチニン値が相変わらず透析のボーダーライン5以上。 

食事、塩分・水分制限しても腎臓は悪化。

主治医の飯村医師は、「橋本さん。残念ですが、腎臓はもう限界です。

透析を始めた方がいいと思います。

透析は“じゃ、あしたから”というわけにはいきません。準備が必要なんです。

まず、3日後にシャントの手術をしましょう。透析に耐えられる太い血管を作るものです」。

「はい。お願いします」。橋本はもう“まな板の上の鯉”だった

シャントの手術は7月13日。部分麻酔での手術。午後1時、準備担当の看護師が来た。

「それじゃ、行きますよ」。

透析センター内の手術室に運び込まれた。手術台に乗るともうどきどきだ。

準備はすでに整っていた。

「それでは、これより橋本太郎さんの透析のためのシャント手術を行います」。

飯村医師が静かな口調で言った。手術台を囲んでいた看護師が、「よろしくお願いします」。

手術が始まった。

橋本はやや興奮していた。

手術器具の乾いた金属音、医師と看護師とのやりとり。その“ライブ感覚”が興味深い。

「だれでもが経験できることじゃない。しっかり覚えておこう」。

時折、「橋本さん。大丈夫ですか」の問いかけ。小声で「はい。大丈夫です」。

しかし、いつしか睡魔に襲われ不覚にも熟睡してしまった。

そして、「はい。橋本さん、終わりましたよ。お疲れ様でした」。医師の声で目が覚めた。  

そのまま病室に戻った。看護師、飯村医師が次々と病室に。

「橋本さん。痛みはありませんか。ちょっと傷口診ますね」。

右肘の部分の大きなガーゼを取って診察。シャントに聴診器をあて、「はい。大丈夫ですよ」。

そして、2日後に早くも1回目の透析を行うことになった。

「そうか。いよいよ透析か」。     

透析初日は8月2日。

この日、目覚めた橋本は、右腕のシャントをじっと見つめた。。

確かに血管が太く浮き出て、“ドクドク”と力強く脈打っている。

「これから末永くお世話になります」。橋本はそのシャントに語りかけた。

朝食後の9時過ぎ。透析の準備が始まった。

看護師は淡々と右腕の針を刺す部分に麻酔効果のある小さなパッチを貼った。

そして、「橋本さん。紙おむつはどうしますか。一応付けますか」。

その言葉に橋本はたじろいだ。

「おむつですか。透析始まったらトイレはどうなるのかな」。

「担当の看護師に話してください。紙おむつを付ける人もいるみたいです。

「そうですか。じゃお願いします」。

とは言ったもののさすがに恥ずかしかった。

看護師はナースステーションから紙おむつを持ってきた。

「それじゃ、付けますよ」。有無を言わさず身体を反転させられた。

パジャマを引き下げられ、慣れた手つきでおむつを装着。

「はい。終わりましたよ」。

「はやっ。さすがだ。よし、これで万全だ」。羞恥心はどこかへ吹き飛んでしまった。

透析センターに移動。

部屋に入ると透析センターの金成洋子師長が笑顔で迎えてくれた。

「橋本さん、きょうからですね。よろしくお願いします」。

「はい。こちらこそ」。

あいさつもそこそこに体重測定。このあとベッドに案内された。

ベッドは、左右2列で全20床。すでに多くの患者が透析を受けていた。

「静かだ」。第一印象だった。

ベッド脇にあるのはコンパクトな透析機器(ダイアライザ)。

「はい。橋本さん。こちらです」。看護師に促されて自分のベッドに。透析の前に簡潔な説明。

左腕には血圧の自動計測器が巻かれた。30分間隔で血圧を測るらしい。

そして、いよいよ透析開始。緊張の一瞬だった。

看護師がシャントに聴診器を当てる。「はい、けっこうですね」。麻酔のパッチをはがす。消毒と続く。いよいよ太い注射針の登場だ。 「はい。それじゃ刺しますよ」。橋本は目を閉じた。

刺した注射針が奥へと突き進む。ぐりぐりという感じで。橋本は思わず、「いっち」。言葉にならない悲鳴。

「ごめんなさい。もう終わります」。看護師は冷静な対応だ。

はっきりとは確認できなかったが、太い針はリード役で、刺したあと引き抜く。残ったのは、細い医療用チューブ。老廃物のたまった血液を体外に出して、きれいにして戻す2本だ。この2本を固定すると、赤黒い血液が巡り始めた。

「はい。それじゃ透析始めます。なにかあっ

たら声かけてください」。3時間ぐらいです」と看護師。記念すべき1回目の透析が開始された。

“透析マシーン”に目をやると、何本もの

チューブの中を血液が走る。自分の血がいったん身体を出て、機械で老廃物が取り除かれて戻ってくる。信じられない光景だった。

緊張感がほぐれた。・

「さてと。3時間も何をする?」と言っても選択肢は2つしかない。テレビを見るか“ふて寝”かだ。小型のテレビモニターがベッドに付帯。

家では、テレビを見ながらお菓子を食べたり、電話をかけたり。CM中には、洗濯物を取り込んだり。けっこう忙しかったが、ここではそうはいかない。

そこに“ながらテレビ”はなかった。寝返りもできず、手足は自由がきかない。こうした状況でのテレビは辛かった。

家では時計代りのテレビ。番組内容なんて気にも止めなかった。しかし、透析だと画面に集中して見入ってしまう。これが、まずい。「テレビがつまらない」と感じてしまった。

どこのテレビも“ワイドショー”だらけ。午前、昼、午後とどの時間帯にも登場する。ところが、司会者を中心に評論家、芸能人が陣取りあれやこれや引っ掻き回すだけ。まさに、“わいわい、がやがや”の井戸端会議だ。 同じ話題に、取材テープも同じ。その繰り返し。「わかった。もう勘弁して」だ。

容疑者の顔写真も何度も見せつけられる。悪い夢を見そうだ」

 こうなるとあとは“ふて寝”しかないが、寝返りができないと首、肩、腰が凝る。特に腰が痛む。

「これが人生エンドレスで続くのか。どうしておれが、こんな目に。もう勘弁してくれ」。橋本はいつものように心の中で叫ぶ。とにもかくにも初日が終わった。橋本は肉体的、精神的にもくたくただった。

「はい。橋本さん。ご苦労様でした」。看護師に見送られ、透析センターを退出。

時刻は昼1時過ぎ。お腹はぺこぺこだ。お昼ごはんを一気にかけこんだ。

この日、「あとは退院して家から通院してください」と主治医の飯村医師。

「了解しました」と橋本。翌日、退院した。

4恐怖。別居中の妻“来襲”   

さて、その橋本。退院し自宅でゆっくりしていると、「こんにちは」と玄関から女性の声。

「うん。どこかで聞いたような声だな」。そんなことを思いながらも面倒なので“居留守”を決め込んだ。

ところがだ。「こんにちは。いるんでしょ」。その声はさらに大きくなり、ついには玄関開けた。至近距離だ。「あの声、だれだっけ。必死に思い出した」

すると事もあろうに、「あがるわよ」。“敵”は、すぐそこまで来ている。そこで声の主がやっとわかった。

「おいおい。別居中の妻じゃないか」

1年前に別居した妻佐和子が目の前にいるのだ。“敵機来襲”だった。

「ねえ。居るんでしょ。どうして返事しないのよ」。目と目が合ってしまった。あいさつ抜きで“おこごと”だ。性格は変わってなかった。

「おまえ。ど、どうしてここへ」。橋本は怯え切っていた。

「娘から聞いたのよ。ほら、あんたが入院するときに、娘が保証人になったでしょ」

「そうだった。でも、お前が来るとは夢にも思わなかったよ」

「それで、返事しなかったわけ」

「勘弁してよ、もう。それで用件は」

「まあ。そう急がないで。外は猛暑なんだから、冷たいお茶でもだしてよ」

「おれが・・・」

「わかったわ。私がやるわよ。どっちがお客さんだか」

 佐和子は“勝手知ったる”で、冷たいお茶を入れて差し出した。

「お前のお茶も久しぶりだな」

「でさ。私たち別居して1年なの。そこでさ。これからどうするか、考えないとね」

「うん。そうだな」

「あんたはどう考えてるの」

「うん。急に言われてもな」

この2人。同じ太陽光システム販売会社の上司と部下だった。上司は佐和子の方。部下は橋本だった。

歳は橋本が2つ上。佐和子は入社後、すぐに営業職としての才覚を発揮。特に、企業向けのプレゼンテーションには定評があった。営業成績も常にトップランク。会社では花形営業マンだった。

一方の橋本はというと“押し”が弱く営業は相手ペース。無理強いは決してしなかった。“営業は人柄”を地で行くタイプ。営業実績は並み。会社では“宴会部長”として名を馳せていた。最終的には佐和子が営業第2課長。橋本は第2課の平社員。上下関係は、はっきりしていた。つまり、橋本は後から入社した佐和子に追い抜かれたのだ。


しかし、橋本はそのことを一向に気にしていなかった。大物なのか?佐和子に叱咤激励されても、暖簾に腕押し。そんな橋本。これまで一度たりとも酒席を断ったことがなく、自慢にしていた。一方の佐和子も酒で仕事のストレスを発散していた。結構な酒豪だ。

2人は新入社員歓迎会で最後に残ってしまった。



「おい、橋本。カラオケで飲み直しだ」

「望むところだ。お付き合いしますよ」

 2人は酔っていた。ひとときカラオケで盛り上がり、気がつくと橋本の自宅でごろ寝。翌朝、はだけた洋服を直しながら「ゆうべ私に何かした?」

「記憶にございません。課長殿」

橋本はまだ酔っていた。真相のほどは藪の中だが、以来2人は男女の仲に。2年後に結婚、娘をもうけた。橋本は営業1課に転属。夫婦が同じ部署にいることはできなかった。

佐和子は部長職まで上り詰め昨年、退職。

役員待遇で留意されたが、後輩に道を譲る形で固辞した。会社にとって営業的に大きな損失だった。

    ♦

「ねえ。あなた。選択肢は3つに1つ。離婚か、復縁か。もうひとつは、このままズルズルか。さあ。どうするの?」

 橋本は「うーん。そうだな。迷っちゃうな」。本当に悩んでしまった。悩んでいる場合じゃないだろう。ここは復縁しかない。

「相変わらず優柔不断ね。それじゃ、ゆっくり考えて。帰る」

「その前に、カラオケ行かないか。おれ、透析始まってストレスたまってさ」

「仕方ないね。じゃ、行こうか」

あれー。どうしてそうなるの。2人は近くのカラオケ店に出かけた。

「覚えてる。2人で初めてカラオケに行ったときのこと」。橋本は聞いてみた。

「そりゃ。覚えてるよ。けっこう酔っていたわ。最初に歌ったのは“酒よ”だった。思い出すな。あのころは、若くてよかったわ」

「そうだね。なんでもできるような」

「そうね。あのころね・・・」

「あのさ。おれのことどう思ってた」

「正直に言うと好意はあった。仕事はダメだったけど、その人間性に魅かれてた」

「へー。そうなんだ。おれはね。佐和子がまぶしかった。後輩だけどいきいきと仕事する姿がね」

 2人は思い出にふけった。

「じゃ。私たち、相思相愛だったんだ」

「かもね」。この後、小1時間、昭和の名曲を歌い上げた。そして、佐和子が「ねえ。もう一度、やり直そう」。その目には涙が。

「分かった。お願いします。部長殿!」

5汗、おしっこがでない         

透析が始まって2ケ月あまり。残暑もようやく落ち着いた。清々しい秋風が吹き始めた。橋本は透析にも慣れてきた。

火、木、土曜日の週3日、透析を行っている。朝⒑前、病院からの迎えの車が来る。あとは流れ作業のように1日が過ぎていく。透析が終了するのは午後2時。遅いお昼ごはんを食べて帰宅する。

これからの人生、“生きる”ためにこの透析が最優先だ。果してどんな人生になるのか、いまは分らなかった。。

そして、⒑月4日の火曜日。金成師長から告げられたのは。

「橋本さん。これまで透析時間、3時間だったけど、きょうから4時間になります。

 これ以上、3時間は無理。身体に負担がかかってしまうの。以上です」

 なんとも、重要なことをさらりと言ってのけた。さすがは師長だ。

「えー。4時間ですか」。橋本は観念してたがが、手短に“抗議”の表示。しかし、金成師長は「相手にしていられない」とばかりに立ち去った。 

この1時間延長の精神的なダメージは小さくなかった。「4時間か。⒑時に始まって終わるのは2時。うーん。なかなかだな。これは」

好きなことをしているときと違って、“耐える”1時間は辛い。そんな愚痴を言えるのは同じ透析患者だ。

橋本には、その相棒がいた。送迎時、いつも一緒の英子ばあちゃんだ。80歳。まだまだ元気いっぱいだ。家が近いため、同じ送迎車に乗り込む。まずは、お天気談話から。

「きょうは、かなり暑いね。寝れなくて困っちゃう」

「ほんとだね。早く涼しい風が吹いてこないもんかね」

 他愛のない会話だが、心が和む。橋本にとって大きな存在だ。ときには悩みも聞いてくれる。

「最近、血圧が高くなって」と橋本。すると、とんでもない返事が。

「大丈夫さ。1日置きに病院なんだから」

 なるほど。さすがは人生の大きい先輩。そう言われると心が落ち着くものだ。人間にとって相棒は必要だ。その英子おばあちゃんもときに弱音を吐くことも。

「あたしさ、もう80でさ。あちこち痛くなってね。どうしよう」

 橋本は自信に満ちた言葉を返した。

「大丈夫ですよ。1日おきに病院行ってるんだから。検査もしてるしね」

 いい具合の2人だ。

さて今年の夏は暑かった。梅雨明けから連日うだるような猛暑続き。こんなに暑い夏は異常だ。蚊も飛んでこない。暑さで動きが鈍いごきぶりも。セミさえも鳴いていない。

気象庁は“命に関わる危険な暑さ”と警告。実際、各地で子どもやお年寄りが熱中症で亡くなっている。しかし、この重大な気象状況に政治は動いていない。考えたら対策はある。       例えば、35度を突破したら会社、学校の昼休みを2時間に延長するとか。お年寄り、子どものいる家庭の電気料金をこの期間だけ、大幅に割引く。エアコンを存分に使用してもらうとか。

「こうしたことを実施してくれないと、行政指導するぐらいでないと、国を信頼できない。空調の効いた地域の公共施設もどんどん開放して住民に涼しさを提供してほしい」。橋本は久しぶりに怒っている。

働き方改革も大事だろう。議員定数の是正もしかり。でも目の前で助けられる国民の命があるのに、国はなにもしない。

さて、今夏の猛暑はこたえた。朝、目覚めた時点ですでに25度を突破。エアコンをフル回転だ。  

しかし、橋本はいつもと違うことを感じ取っていた。

それは、汗。例年だと“滝のような汗”で不快だった。それが今年の夏はその汗がでないのだ。もちろん、暑さは感じたが、伴う発汗がなかったのだ。

「考えたら汗は水分。透析患者は、日ごろから水分量に注意する。で、発散する水分が蓄積されていないのだろう」。橋本はそう結論付けた。テレビでは連日、「水分のこまめな補給。塩分の摂取」をアドバイスしているが、我ら透析患者はどうすればいいのか。

 また、身体の変調としてあらわれたのが、おしっこだ。普通、1日5,6回はトイレに行く。ところが橋本は、この回数が激減。最近では、1回も行かないことも。

そんな折、看護師から「橋本さん。おしっこでている?」と聞かれたので、「でていません」と返事。

「透析をすると、おしっこが出なくなるよ。そんなに気にしないでね」と看護師。

「“気にしないで”と言われてもね。なにか気持ち悪くて」。橋本がいま一番、気になっていることだ。

6園児との交流   

「あの子どもたちは?」。橋本は、朝の送迎時、病院の近くで目にするかわいい子どもたちが気になって仕方なかた。

 送迎車の運転手は「あれはうちの病院の系列幼稚園の子どもたちです。みんな元気でかわいいですよ」

「そうですね」。このとき橋本には、ひとつのアイデアが浮かんだ。透析のとき、看護師に聞いてみた。

「この病院でものを頼むとき、だれに会えばいいの」と。この突拍子もない質問に、看護師は「だれだろう。私、そんな経験ないし。まずここの師長に相談かな」

「その上は」

「病院の事務局長だと」

「その上は」

「トップ病院長ですかね」

「どうすれば病院長に会える」

「まず事務所を通さないと・・・」

「ありがとう」

 この日の透析後、橋本は、病院の事務所に足を運んだ。

「すいません。私、透析を受けている橋本です。病院長にお会いしたいのですが」

 対応した事務員はちょっと驚いた表情をした。そして「どのようなご用件ですか」。当然のことを聞かれた。苦情があると勘違いされたらしい。

「えーと。近くの幼稚園のことで」。事務員はますます混乱した。

「えっ。おそれいります。どのようなことでしょう」。再度、用件を聞かれた。

「透析患者と子どもたちの交流できないものかと思って」。事務員は、ほっとしたような笑顔で、「それでしたらまず、事務局長にどうぞ。いま呼んでまいります」

 事務員は席をたった。5分後、「どうぞ、こちらへ」。応接室に案内された。事務局長はすぐにやってきた。

「どうも加藤と申します。なにか幼稚園のことで」

「突然申し訳ありません。実は、幼稚園の子どもたちと透析患者さんとで交流できないかと」

「透析している方と園児ですか。なるほど。具体的には」

「詳細はまだですが。例えば透析センターに来てもらって。音楽の発表とが、似顔絵を書いてもらうとか」

「なるほどね。個人的には賛成ですが、ご父兄のこともありますし。ちょっと難しいかも知れません」。透析を受けている方のこともありますし」

「分かります。でも近くにいることですし、おじいちゃん、おばあちゃんもきっと喜ぶと思います。子どもたちにとっても良い経験になるかと」

「それじゃ、こうしましょう。幼稚園側には私から連絡します。橋本さんは金成看護師長と相談お願いします。良い結果が得られればいいですね」。加藤事務局長は理解してくれたようだ。

橋本は次の透析日に金成看護師長に時間を取ってもらった。

「相談があります。この病院の系列幼稚園児と交流できないものかと」

「突然、どうしたの、橋本さん」

「送迎のとき、いつもかわいい園児たちを目にして、交流できたら楽しいだろうなと。患者のみなさんもうれしいかと」

「あの子どもたちね。確かにかわいいよね。うーん。でもどうかな。透析をしている人みんながそう思っているとは限らない。

 子どもたちにしても同じ。まして母親の理解が難しいわ」

橋本は食い下がった。

「やってみないと分かりません。子どもたちにとっていい経験になるかも」

「でもね。透析患者さんは、あくまでも透析が目的。そこへ子どもたちが割って入るのはどうかな。準備も大変よ」 

 金成看護師長は立場上、当然の一言。

「ダメですか。いま加藤事務局長に、幼稚園側に提案してもらっています。父兄の理解も必要だと。OKがでれば師長も再検討を」

「うん。分ったわ。そのときね。だけど、どうしてそこまでやりたいの。教えてくれる」

 橋本はちょっと考えてから「実は、私には2歳上の兄がいたんです。頭脳明晰でイケメン。仲が良かったんです。でも心臓が悪くて、私が⒑歳のとき天国に」。弟思いのやさしい兄だった。親も、橋本のしつけは兄に任せていたほど。勉強も教えてくれた。ハーモニカも。夏休みの宿題も手伝ってくれた。橋本にとって兄は誇りだった。

しかし、ほかの兄弟のように外で一緒に遊ぶことはなかった。不思議に思った橋本は親に聞いたことがあった。

「どうしてお兄ちゃんと外で遊べないの」

すると母親はちょっと悲しい表情をして静かに言った。

「ごめんね。病気で、仕方ないのよ」。母親はそれ以上、話すことはなかった。橋本も以後、そのことを尋ねることはなかった。

「兄は病気のためずっと家の中でした。外で友だちと遊び回っている私がうらやましいと言ってました。そんな兄のことを思うと、みんなと友だちなりたいのです。兄の分も」

 さらに続けた。

「これまで仕事にかまけて兄への想いを忘れかけてしまいました。でも、人生も後半になったいま決めたんです。兄に代わってみんなと友だちになろうと」

 金成看護師長はじっと聞き入っていた。

「なるほど。分った。私にも手伝わせて。その想いを実現させるために」

「ありがとうございます」

 橋本は何かが変わろうとしているのを感じた。

7ボランティアに励む佐和子            

いま橋本は佐和子とよりを戻し一緒に生活している。娘たちはそれぞれ結婚して家を出た。そして、2人はいま新婚当初の気持ちでいる。

「1年も会っていないとよそよそしくなるね。なにを話していいのか」と佐和子。橋本は、

「まぁ、人生は長い。焦らずゆっくりと。これでいこうよ」。相変わらずマイペースだ。

佐和子はまだサラリーマン時代の“習性”から脱しきれていない。物事がきっちり運ばないと気になって仕方ない。橋本は、それを感じ取っていた。「問題にすることじゃない。時間が解決しれくれる」と意に介さなかった

「でさ。佐和ちゃんホランティア始めるんだって。すごいね」

「すごくないよ。ほら、いままでお金、お金の世界だったから。これからは違う見方でやろうと」

「へぇ。やっぱりすごいや。それでどんなボランティアを考えてるの」

「障害などで日常生活に困っている方をヘルプするの。でも、深入りしちゃいけないところもあって難しいわ。

会社員は契約できるか、できないかだけどボランティアは違う。心の部分があると思うの。白、黒じゃ割り切れない」

「なんか。変わったね。いい人になっちゃった」

「それはないでしょ」

    ♦

佐和子がボランティを始めて半年。当初は先輩と一緒に動いていた。家事一切の研修、介護、心理学など幅広い知識が必要とされた。現場でしか学べないこともあった。先輩とnoの活動は勉強になった。“付かず離れず”の環境をつくることを学び取った。

ある中年の主婦がいた。夫は退職後、家に閉じこもってしまった。仕事は営業一筋。毎日外回りでプレゼンの日々だった。人との関係を築くのは容易だった。明るい性格、やわらかい物腰。みんなから好かれた。

でもそれは仕事という現場でのことだった。夫はそれに気付くことはなかった。「定年後も近所の人と上手くやっていける」と単純に思っていた。妻もそう判断していた。「この人だったらだれとでも友人になってしまうわ」と楽観していた。

しかし、現実は厳しかった。仕事という共通項がない世界。夫は何を話していいのか分らなかった。近所の人もみんながサラリーマンあがりではなかった。夫は次第に家に閉じこもるようになった。

「あれ、うちの人。どうしたんだろう。あ姿な姿見るのはじめてよ」。妻は夫の変化に気付いた。でも対応が間違っていた。妻は無理やり夫を外に連れ出した。

「いいお天気ね。お昼なに食べる」。いろいろ話しかけたが返事はなかった。夫は妻の健診的な行動が煩わしかった。

 夫は1週間後、自ら命を絶った。当然、妻はショックだった。

「私がいけなかったの」。後悔の日々だった。

遺書はなかった。それもまた妻を追い込んだ。妻は毎日遺影の夫に向かって「どうして。どうして死んじゃったの」と問いかけた。外に出ることもなくなった。いつしかうつ病になってしまった。

外との接触を断ち、食事もしなかった。心配した身内が行政に相談。佐和子たちの出番となった。 

先輩は経験豊富だった。「まず、無理に近づこうとしない。相手のペースを尊重する。ゆっくり時間をかけて」とアドバイス。初めて訪問したとき玄関のカギはかかっていた。声をかけても出てこない。シャットアウトだった。先輩はポストに手紙を入れた。

「こんにちは」の一言。次の日、手紙は残っていた。

 先輩はこの日も手紙をいれ「ポストの中を見て」と声をはりあげ退去。次の日も、同じことの繰り返し。手紙は貯まる一方だった。

「先輩。これじゃだめじゃないですか」と佐和子。

「大丈夫、あと2,3日よ」、先輩は確信していた。2日後のこと。2人はいつものように玄関に立っていた。「佐和ちゃん、ポスト確認してみて」。佐和子はポストのふたを開けて驚いた。

「先輩、手紙の量が半分になってます。ここまできて取って行ったんです。すごいです」と大喜び。先輩は冷静に「ここからよ」。今度は手紙に「お願い。顔を見せて」と書き込んで撤退。これを数日続けた。そして奇跡が起きた。

翌日、2人が玄関に立つと、その玄関が開いた。中から妻が顔を見せたのだ。無言だった。先輩は思い切りの笑顔で「また来ます」と言い残し撤退。

「先輩どうしてもっと話さなかったのですか。チャンスだったのでは」と佐和子。

「焦ることないわ。出て来ただけで十分よ」。先輩は落ち着き払っていた。

その2日後。玄関を開けた妻は小さな声で「お入りください」。佐和子たちを迎え入れたのだ。「もう大乗だよ」。先輩は安堵した。

居間に入るとお茶の用意がされてあった。「私たちの話を聞いてくれる」。佐和子はそう直感した。妻は意外と落ち着いていた。身なりもきちんとしていた。

先が静かな口調で話し始めた。

「会ってくれてありがとう。おにぎりもってきました。どうぞ」。妻はぺこんと頭を下げて口にほおばった。

「おいしい。久しぶりです。おにぎり」。妻は笑顔になった。先輩が続けた。

「もしよろしかったら、私たちにお世話をさせてもらえますか」

「はい。よろしくお願いします」

先輩は日程、内容の打ち合わせをして席を立った。帰り際、先輩は「お茶ごちそうさまでした。また笑顔でお会いしましょう」

妻は笑顔で答えた。「はい」

2人は晴れ晴れとしていた。

「先輩、」良かったですね。うれしいです」

「そうね。佐和ちゃんもありがとうね」。佐和子は営業では感じられない人間の温もりを感じた。

「先輩、質問があります。あのときどうして手紙の量が減っていることが分かったのですか」

「長年の経験よ。佐和ちゃんもすぐに分かることよ」。先輩の答えは謎だった。実は先輩も当初はどうなるか心配だった。しかし、数日続けて確信していた。

「もし嫌なら拒否の気持ちを伝えてくる。ポストの口をテープでふさぐとか、“来ないで”といったメモを貼るとか。それがなかった。

あとは根気よく通い続け信頼されることだった。新米の佐和子には到底理解できないことだった。妻はその後、立ち直った。いまでは、佐和子と連れ立っての散歩を満喫している。

橋本は妻佐和子の話に聞き入っていた。

「すごい話だね。おれには無理だわ」

「そうね。ボランティアって、まず相手の気持ちちに寄り添うことなの。それが信頼を生む。なんて、偉そうなこと言っちゃったわ」

「ううん。その通りだよ。勉強になります。部長殿!」

佐和子は、当時の自分をさらけ出した。橋本もその気持ちをしっかり受け止めた。橋本は妻ながら佐和子に惚れ直した。

8園児との交流具体化へ      

 秋の色彩が濃くなってきた⒑月。茨北総合病院の加藤事務局長から連絡が入った。「ひかり幼稚園との交流のことでお話が。悪いけど事務室に来てくれる」

 橋本は透析後、事務室に出向いた。加藤事務局長が笑顔で迎えてくれた。

「橋本さん。どうぞこちらへ。うちの系列幼稚園との交流事業のことですが、基本的にはOKとう返事がありました」

 石川園長との話し合いが実を結んだらしいのだ。ただ、父兄側の了解を得てほしいとも。「いまは以前と違って親御さんの声が大きくなってまして。ある意味で顔色をみながら行事を計画している状況のようなんです」。加藤事務局長はすまなそうに説明した。

「なるほど。時代の流れですね。それで私、具体的になにを」

「父兄会長には、私から連絡しておきました。一度お会いしたいとのことでした。ぜひ橋本さんのお気持ちをお伝えください。そこで了解されれば日程、交流内容などを検討できる、と」

「加藤さん。いろいろありがとうございました。うまくいくように頑張ります」 

 ひかり幼稚園父兄会長は女性だった。地元企業に勤めており、2日後の日曜日に会うことになった。場所は茨北総合病院。事務局の許可は取った。約束の日、病院に出向くと玄関は開いていた。入院患者の家族が出入りしていた。事務室前で待っていると「橋本さんですか。私、遠井幸子です」

「はい。橋本です。きょうは、お休みのところ申し訳ありません。応接室借りてますので、こちらへどうぞ」

応接室にはお茶が用意されてあった。

「子どもたちと交流したいと。内容をお聞きしたいですが」。遠井会長が先に口を開いた。

「はい。私、透析の送迎時、かわいい園児のみなさんを見ています。せっかくお近くにいるのですから、透析センターの患者と交流してもらえないかと」

「透析って血液がぐるぐる回る、あれですよね。個人的には反対する理由はありません。でも園児たちにはショックかなとも思います。大丈夫でしょうか」

「正直、やってみないと分りません。でも私は、今の時期に透析を直視することで得ることもあると思います。子どもたちには理解力があると思います」

「でもね。いきなり目にするわけですから心配です」

「そのお気持ちは理解できます。当然のことです」

「ご主張は分るのですが、そこまでの必要性が果してあるでしょうか」

2人は冷静になろうとお茶を何度も口にした。静かな時間が流れた。そして、橋本。

「こうしていても打開できません。そこで一度見学にいらしてください。お子さんと一緒に。会長さんは透析を目にしたことは」

「いえ。ありません。想像はできます」」

「そうですよね。普通、目にする機会はないと思いますよ。でも、一度、ぜひいらしてください」

「そこまでおっしゃるなら。子どもとお邪魔します」

橋本は、すべてを金成看護師長に話して協力を求めた。

「橋本さん。あなたって人は。どうしてそんなに動けるの。すごいや」

「どうしてでしょうか」おどける橋本だった。金成看護師長は、まさか交流事業が実現するとは思っていなかった。でも、いまは「いいか、悪いか。やってみないとね」。意外と性格は“橋本似”。

さて、遠井親子は次週の土曜日に透析センターにやってきた。もちろん金成看護師長が対応してくれた。

「お待ちしておりました。こちらへ」。金成看護師長は、遠井親子を出迎えた。  

 会長の遠井は、金成看護師長の説明を受けた後、5歳の長男和宏と手をつないでセンターに入った。透析患者は寝ているか、テレビを見ているかだった。

 親子にとっては、もちろん初体験。やや緊張していた。遠井会長は、頭を下げながら歩を進めた。そして、驚いた。

「あら橋本さん。こんにちは。透析されてたんですか。知らなかった。ごめんなさい。てっきりお身内の方が透析をしているものと」

「これはどうも。そうなんですよ。私、透析患者の1人なんです。きょうは、ようこそ。あれ、息子さんですか」

「はい。和宏です。ごあいさつして」

「こんにちは。ぼく和宏です」

「はい。こんにちは。よろしくね」。橋本は自由な左手をあげてあいさつ。すると和宏が急に「どうして、こんなことしてるの?」と質問してきた。彼には目の前の状況が理解できなかったらしい。

「すいません」と遠井会長は恐縮顔。その和宏に橋本が「あのね。和宏君。転ぶと足から血がでるよね」

「うん」

「和宏君は、自分の身体の中でその血をきれいにしてるんだ。でもおじさんにはそれができないんだよ。血をきれいにしないと体に悪いの。だからこうして機械を使ってきれいにしてるんだ」

「ふーん。そうなんだ。それって大変なんですか?」

「うん。少しね。でもみんな生きるために頑張っているんだよ」

 和宏は目の前の透析システムをじっと見ていた。そして、突然、ほかの透析患者とひそひそ話。

    ♦

 数日後、橋本の自宅に遠井会長がやって来た。

「先日は、ありがとうございました。和宏にとっても、良い経験となりました。

あれから、“ぼく医者になる”って言うようになりました。“おじいちゃんたちを助けるんだ“って。ゲームに夢中だった子が、そんなこと口にするなんて。それで、自分から勉強するようになって。私、本当にびっくりです」

「そうですか。それは良かったですね。いい刺激になったんだ」

「それでお話のあった件ですが。正直、まだ迷っています。和宏の場合、良い方向に動きましたが、全部の子がそうなるとは限りません。 

注射嫌いの子もいるでしょう。お年寄りに慣れてない子もいるはずです。また、病院嫌いの子も意外と多いんですよ。いかがなもんでしょうか。橋本さんのお考えは?」

「会長さんのご心配は分ります。確かに、子どもたちにとって快適な場所ではないでしょうからね。

 うーん。どうしましょうか。ちょっと先走ったかも」。橋本も迷ってしまった。

 遠井会長はさらに「正直なところ、まだ幼い子には無理なような気もします。和宏は私と一緒だったんで安心してたようですが」

 すると、お茶を運び、脇にいた妻の佐和子が急に割って入ってきた。

「会長さん。それですよ。それ。親同伴にしましょうよ。親御さんには、事前に透析の実情をきちんと説明して判断してもらう。

そして、あくまでも希望者を対象にして実施する。これでいかがでしょうか」と提案した。

 じっと聞いていた遠井会長。

「そうですね。全員参加だと無理があると思いますが、きちんと説明して希望者を募るということでしたら。検討できるかと。奥さん、助言ありがとうございました」

 遠井会長は家に戻った。

「いやー。さすがだね。ポイントをしっかりつかんでいるわ。さすが、プレゼンの神様」

 橋本は佐和子をねぎらった。

「それはどうも。お世辞でもうれしいですよ。ほんとに」

「きょうは気分がいいや。どうカラオケ?」

「うん。いいね。行こう」

 2人は“昭和の名曲”を熱唱。気持ちの良い一夜だった。

9カレーライス大好き   

橋本は透析センターで昼食を摂っている。通常、朝の9時30分ごろ、送迎車がやって来る。準備も含めて透析がスタートするのは⒑時ごろ。4時間かかるため終了するのは午後2時前後。

「透析しながらお昼も大丈夫よ」。金成看護師長は、透析しながらの昼食をすすめたが橋本は「ゆっくり食べたい」と我慢することにした。

「贅沢かも知れないけど、透析が済んであの解放感の中での食事は、想像以上においしいのです。

 もちろん朝食後はなにも口にしないわけですから、嫌いなものもOK状態。本当に食事が楽しみですよ」

メニューの中での好物は“カレーライス”。幼いころのご馳走だった。母親の得意料理でもあった。透析センターのカレーライスが、母の味と同じなのだ。

子どものころは、必ず“おかわり”をせがんだものだ。いまも“おかわり”。大声で言いたいところだが、それは無理というもの。

ただ問題もある。橋本が透析を行っているのは週3日。もし、ほかの日にカレーをだされると逃がすことに。

「橋本さん。きのうカレーだったよ」。看護師にそう言われるのが一番辛かった。

「なんかカレーの夢をみそうだ」。大袈裟なことでは決してなかった。本心だった。

さて、今年もいよいよ年末だ。昨年のいまごろは忘年会のはしご。正直、酒浸りだった。年末年始を心から満喫していた。

しかし、今年はちょっと、いやかなり状況が変わった。糖尿病に透析だ。もちろん酒類は“ご法度”。食べる方も、カロリーを考えないと。それでなくても気が緩む性格だ。

“自分に甘い”橋本。自覚しているだけに心配が募るばかりだ。

「おれ大丈夫かな。これまで通りはまずい。かといって、なんでもだめでは味気ない。どうすりゃいいんだ」。橋本は駄々っ子のようだ。そんなときだった。金成看師長が、「橋本さん、年末年始のことです。透析は年末の31日、年始の元日だけはお休みです。橋本さんは、ちょうどいつものスケジュールでOKですからね」

「そうか。透析は年末も年始もありゃしない新年2日には透析スタートか。ちょっと気が重くなるよな」。でも冷静になって考えた。

「2日から出勤するのは看護師さん、機器のエンジニア、送迎担当者のみなさんも同じなのだ。「うわー。ご苦労様です。みんなに支えられているんだ。気持ちを入れ変えないとな」

 なんと殊勝なこと。これが続かないのが橋本だ。年末30日。この日が今年最後の透析日。いつもと同じ時刻に迎えの車。同じ時間に透析。年末というムードではない。

「看護師さんも大変だな」。透析後に、心から「今年1年、本当にありがとうございました」とあいさつ。返ってきた返事は「なに言ってるの」

自宅に戻ると、「ご苦労様でした。大変だったね」と妻の佐和子。

「うん」。橋本は短い言葉を残しベッドに横になった。するとどうだろう。気がつくと3時間も寝込んでしまった。

「最近、こうなんだよね」と妻に言った。すると「疲れているのよ、きっと。無理しないでくださいよ。もう若くないんだから」

「そうだね。ところで初詣はどこに行こうか。遠出はできないけど」

「一番近い神社に行こうよ。無理は禁物。それで十分よ」

 去年は寂しい年末だった。一人で何をするでもなく、時間を持て余した。それに比べたら今年は妻佐和子と一緒。なんと幸せなことか。

 大晦日は、年越しそばを食べ2人で紅白歌合戦を観賞。終わると予定した通り近くの神社に初詣。自宅に戻り新年を祝った。

「静かな1年になればいいね。今年もよろしくです」

⒑恵おばあちゃん           

橋本はなんとなく思っている。別になんの根拠もないが・・・。

「透析患者は長生きできないのかな、やっぱり」。いま63歳の橋本。平均寿命まで⒛年あまり。

「これはクリアしたいな。1日おきに病院に行ってるんだからな」。橋本の気持ちは十分理解できるが、さてどこまで生きるか。

担当の看護師里子に聞いてみた。

「ねぇ、里ちゃん。おれさ。どのくらいまで生きられる?」

 透析注射を刺しながら、里子は「橋本さんの場合、“憎まれっ子。世にはびこる”よ。いやというほど長生きするよ」。毎日のように顔を合わせているとこうだ。

さらに「長生きしたいのなら、きちんとした生活をしないとね」。藪蛇だった。

さて、この透析センターの患者さんで最高齢者は山田多恵おばあちゃん。何と94歳だ。

その姿をみると、もう小学生みたいな小ちゃな身体。いつも寝ている。病院に入院して透析を受けている。もう⒛年以上になるという。透析患者の大先輩だ。

 この多恵おばあちゃん、波瀾万丈の人生を生き抜いてきた。そしていま、その人生に幕を下ろそうとしている。

    ♦

「ねぇ橋本さん。行方不明の子どもを見つけるにはどうすればいいの」

 新年早々。まだ若い看護師の斉藤美紀が聞いてきた。多恵おばあちゃんの担当者だ。

「いきなりどうしたの。なにかあったの?」

 橋本は逆に質問した。若い人が口にする言葉じゃない。

「実はね。いま透析している多恵おばあちゃんにひとり息子さんがいるの。でもどこで何をしているのか分らなくて。

 おばあちゃんも危ない状況なんで、どうにか探し出したいの。方法はないかな」

「この子は真剣だ」と橋本は思った。

「おばあちゃんの戸籍をたどる方法があるよ。子どもを産んで届けてれば、その戸籍に残される。そこから子どもの戸籍を追えば、多分、分かると思うよ」とアドバイス。

「へぇ。橋本さんってすごいね。そんなこと知っているんだ」

「そんなことないよ。でも、美紀ちゃんの仕事じゃないでしょ」

「確かにそうですけど。私、おばあちゃん子だったんで。なんとか息子さんに会ってほしいの。それだけよ」

「そうか。偉いね。頑張って、応援するから」な」

「はい。ありがとうございます」。美紀はやる気でいる。

 多恵おばあちゃんは、青森県出身。父親は戦死。病弱だった母親もあとを追うように逝った。知り合いもなく、一人っ子だった多恵おばあちゃん。

「ここにいても仕方がない。東京に行けば、なんとかなる」と投げなしのお金を握って上京した。もちろんあてなどない。若さゆえの行動だった。

 夕暮時、上野駅あたりをぶらぶら。人の多さに圧倒された。頭には「今夜どうしようかな」との思いが。そのときだった。目の前に、「急募。工員。委細、面接にて」という張り紙が目に止まった。小さな町工場だった。

「こんにちは。すいません」

 迷うことなく工場の事務所に入った。だれもいなかった。すでに労働時間が過ぎていた。すると、たばこをくわえた男が事務所に入ってきた。

「あんた、だれ」。男はたばこを消した。

「あの。表の求人をみて・・・」

「なに。あんたが働くのか」

「はい。そうです」

 男はお茶をいれてくれた。

「悪いことは言わん。親が心配してるぞ。家に帰れ」

「帰る家はありません」

 少女多恵は、ことの子細を話した。

「そうか。おれも青森だ。懐かしいな。で、今夜泊まるところは」

「ありません」

「無茶な娘さんだ。とりあえず今夜はうちに泊まれ」

 男は社長の岩倉進だった。翌日、社長は、

「なあ多恵さん。うちで働くか。仕事は厳しいけど、ほかにあてがないなら」

「はい。お願いします」

 二つ返事だった。仕事は車の部品製造だった。周りは男ばかり。1日働くと作業服は油で真っ黒。とても若い娘の仕事じゃなかった。でも多恵は必死で働いた。まさになりふりかまわずに。仕事自体は簡単だったが、長時間労働に加え扱う部品、製品が重く重労働だった。社長は「いまあんたにふさわしい仕事探してるから。頑張れよ」と励ましてくれた。

 そして、1年が過ぎた。多恵はすっかり仕事に慣れ、一人前の職工に成長していた。

「まさか。ここまでやるとわな。もううちの貴重な社員だ」

 多恵の境遇は給料も含め改善された。さらに、同僚だった茨城県出身の野口太郎と知り合い、結婚。野口には鉄工所を営む父親がおり、いまは修業の身。いずれ茨城県に戻る予定だった。

 2人は結婚。多恵は仕事を辞め家庭に入った。長男も誕生して幸せな日々だった。

「いままでは苦しいことばっかりだった。でも、こんなに幸福な生活もあるんだ」親子3人の家庭生活は充実していた。

しかし、その幸せは続かなかった。夫の父親が病死。一家は、茨北市に移住した。受け継いだ鉄工所も不況のあおりで倒産。あんなに家庭想いだった野口はその家族を捨て、行方不明に。

多恵にまた試練の日々が。会社が背負っていた借金の返済のため3つの仕事をかけもった。心身ともに疲労困憊し身体もこわした。長男の聡を育てることもできず乳児院に預けた。まだ2歳だった。

だれも助けてはくれなかった。女一人、生きるために、なんでもやった。まさに歯を食いしばっての毎日だった。

そして、気がつけば70歳を過ぎていた。天涯孤独。温もりのある家族とは無縁だった。

「なんで、こんな人生になってしまったの。辛いのはいい、苦しいのも我慢できる。でもひとりぼっちは寂しい」

 悪いことは続き腎臓をいためてしまった。生活支援を受けながら生きるために透析を続けている。身体の割には大きな手。しわだらけだが、生きてきた証でもあった。人生の終焉を迎え、後悔しているのが息子のことだった。

 生き別れになってしまい、どうしているのかさえ分からなかった。「もう一度、顔をみたい」

 そんな思いを美紀に漏らしていた。

♦    

「橋本さん。分りました。多恵おばあちゃんの息子さん」。満面笑みの美紀が息せききって飛んできた。

「そうか。良かったな」

 橋本もうれしかった。美紀は焦っていた。

「あのね。おばあちゃん、危ないのよ。早くしないと間に合わない」

 息子は千葉県内に住んでいた。家族をもち70歳になっていた。美紀が連絡すると「母さんですか。私を捨てた母さんですか。顔もあまり覚えていません。いまさら会いたいとも思いません」

 電話は冷たい反応だった。美紀は息子に会うため千葉県に行った。息子の聡に会った。

「突然の話で気持ちの整理がつかないとは思います。でも、私は聞きました。あなたのことが邪魔になったのではありません。

 あなたが生きることを選んだのです。2人で餓死するなら、せめて子どもだけは助けたい。あなたを乳児院に預けたのは母親としての本能です」と訴えた。

「そんなこと一方的に言われても。私だって、施設育ちで苦労してきましたから。

 どんなに親がいたらと思ったこともありました。あなたに私の気持ちが分りますか。そんな簡単には会えませんよ」

 若い美紀には返す言葉がなかった。しかし、これだけは伝えようと決めていた。

「私は人生経験がないので分りません。でも、あなたの母親はもうすぐ人生を閉じようとしているんです。

 意識がない中で“聡はどこ”と口にしています。お願いです。お母さんの手を握ってやってください。しわだらけの手を温かく、しっかりと握ってください」。それでも聡はうつむいていた。

「それでは、失礼します」。美紀は、帰路に就いた。

それから2日後。多恵おばあちゃんは危篤状態に。呼びかけに反応もなく、意識もなかった。病院の担当医師、スタッフも覚悟した。あとは静かに、心やすらかに逝ってもらうだけだった。

美紀は、おばあちゃんの手を握り「よく頑張ったね。もういいからね」と最後のときを待っていた。

 そのときだった。

「かあちゃん。かあちゃんはどこだ」。息子の聡が駈け込んできた。美紀は驚いた。

「おばあちゃん、息子さん。来たよ」

 大声で呼びかけた。聡も母親の顔に手をやり「かあちゃん、かあちゃん」と叫んだ。しかし、反応はなくそのまま静かに息を引き取った。聡は美紀に向かって「あなたみたいに優しい人に看取ってもらい良かった。ありがとうございました」と深々と頭を下げた。

「多恵ばあちゃん。どうぞ、やすらかに」

 この間、美紀を見守ってきた金成看護師長は涙ぐんでいた。平成25年⒓月25日。クリスマスの日。多恵ばあちゃんは天に召された。⒒園児の訪問   

久しぶりにひかり幼稚園の父兄会長、遠井幸子から連絡が入った。

「ご無沙汰してます。子どもたちとの交流の件ですが、参加者がまとまりました。子どもが5人、父兄が8人です。

親が多いのはご夫婦での参加。もうひとりはおじいちゃんです。こちらの都合で申し訳ありませんが、1月9日の土曜日としたいのですが、いかがでしょうか」

「そうですか。ありがとうございます。さっそく9日の線で準備をすすめましょう」

「はい。金成看護師長さんには、ご連絡しましたので」

「それは、助かります」

「それと、子どもたちが笛を演奏したいと。ご配慮、お願いします」

「お待ちしています」

 2人の声は弾んでいた。橋本は次の透析日に金成看護師長と話した。概要は、すでに伝わっていた。

「橋本さん。やったね。すごいや」とにっこり。もちろん、透析センターでは初めての試みだった。金成看護師長が裏で相当動いてくれたようだ。透析患者には、事前にチラシを配布。どうしても嫌な人は透析日をずらすという対応策を練っていた。

しかし、だれひとりとして拒む人はいなかった。ちょっと心配していた金成看護師長は、ひと安心。

「どうなることかと思ったけど、やる価値はありそうだわ。笛を吹いてくれるみたいで楽しみね」。仕事のときと違って柔和な表情が印象的だった。

「はい。私も待ち遠しいです。きっと上手くいきますよ」。橋本の心も弾んだ。

 平成26年1月9日。その日がやってきた。ひかり幼稚園からのお客さんだ。ここはまず、金成看護師長の出番だ。

「これは、みなさん。ようこそ、いらっしゃいました。ここは、不必要な血液をきれいにして身体に戻すところです。 

 みなさんは、腎臓というところで自動的に行っているのですが、病気でこれが機能しない人に、機器が代わって血液をきれいにしています。難しいかな」。果たして子どもたちが理解できたか。父兄のみなさんは、大きくうなずいた。

 このあと、透析センターに入った。子どもたちは全員、手に笛をも持っていた。金成看護師長が「みなさん。きょうは、病院の系列幼稚園の子どもたちが来てくれました。はじめに、笛の演奏をしてもらえます」です」と呼びかけた。

ここで、大きな拍手を送りたいところだが何分、透析中は無理。代わって看護師たちが拍手した。

「いいぞ。頑張って」。そんな声も飛んだ。子どもたちが整列したが、やや緊張気味。代表の園児が「これから『象さん』を演奏します」とあいさつ。そして、見事に笛を奏でた。それに合わせて大きな声で歌うおばあちゃんも。かわいい姿に患者たちもにっこり。

「いい演奏だったわい」

「またお願いよ」

 “ちびっ子演奏会”は、大盛況だった。この後、園児たちはベッドを回り、患者と交流した。

「身体、痛いの」

「また、来るからね」

子どもたちは、楽しいひとときを過ごした。一緒に来た父兄たちからも「初めて来ました。勉強になりました」

「患者のみなさんの大変さが分かりました」といった感想。

 この間、必死で動いてくれた遠井会長が橋本のベッド脇に。

「橋本さん。お世話になりました。こんなにスムーズにできたのは橋本さんのおかげです。ありがとうございました。

 園児、父兄の理解も深まりました。とてもよいふれあい事業でした」と感謝。

金成看護師長も「橋本さん。どう。うまくいったよね」と評価。今後「定期的なふれあいも検討したい」とにっこり。 

 また、1週間後に、うれしいことが。子どもたちが描いたおじいちゃん、おばあちゃんの絵が届いたのだ。ひかり幼稚園では、絵画教育に取り組んでおり、それぞれ特徴ある笑顔が温かい。

 画用紙の裏には、書いた子どもの名前と「いつまでもお元気で」「また遊びにきます」などのメッセージ付き。

「長生きしてよかった」

「みんな上手いね。そっくりだわ」。涙を流す人も。

に もちろん贈られた絵は、ベッドに飾られた。

⒓希望の家演奏会

「橋本さん。今度の日曜日、時間あるかな」。看護師の倉本陽子が声をかけてきた。

「空いてるよ。どうして」

「知り合いの子どもが行ってる障害者グループの音楽会があるの。決してうまくはないようだけど一生懸命なの。

 お客さんが少なくてさ。お願いだからつきあって。私も行くから」

「いいよ。分った」。橋本はいつもの軽いのりで返事した。

「新春音楽会」は1月⒛日、茨北文化会館小ホールで開かれた。橋本は、陽子と一緒に出かけた。主催は、障害者グループ「希望の家」。この施設は、行き場のない障害児のための学習、就労の場。民間団体だ。⒖歳から25歳までの⒛人が通っている。

小林悟代表は、同じ環境で育った。親は離婚。母親に引き取られたが、その母も蒸発。身寄りもなく児童養護施設に。地元の高校を卒業し建設会社に就職。資金を貯めて「希望の家」を立ち上げた。

そこでは、みんなで音楽を楽しんでいる。生きる糧になっているのだ。年1回、発表会を開催している。今回で8回目。

しかし、陽子の言葉通り会場は家族などの身内ばかり。一般客の姿はなかった。

音楽会ではまず小林代表が「今年も音楽会を開くことができました。いつも“今年は大丈夫かな”と思いながら練習しています。

正直、きょうは家族の方ばかりです。でも、私たちは幸せです。大好きな音楽を披露できるだけでテンションが高まります。どうぞ最後まで楽しんでください」とあいさつ。すると、橋本が突然立ち上がって「オレは一般客だぞ」と大声でアピール。会場はどっと沸いた。

「橋本さん、止めてよ。恥ずかしいから」と陽子。「ごめん、ごめん。調子にのって」と謝る橋本。笑顔いっぱいだった。

音楽会のオープニングはテーマ曲となっている『手のひらを太陽に』。ギター、トランペット。ピアノ、トロンボーンで演奏。会場には歌詞カードが配られ大合唱。会場は冒頭から盛り上がった。

この後、『星条旗よ永遠なれ』『川の流れのように』『酒よ』を演奏。最後は会場一体となって『ヤングマン』を熱唱した。

最後に森山一君が家を代表して「きょうはありがとうございました。また、来年お会いしましょう」と感謝の言葉。小さな音楽会だったが、心温まるものだった。

   ♦

橋本は「もっと小林さんと話したい」と数日後、市内の施設を訪問した。アポなしだったが、小林代表は大歓迎。施設に入るなり「みなさん、こんにちは。私、一般客です」とユーモアたっぷりのあいさつ。懸命に働いていたメンバーは、その手を止めて拍手。

「どうぞ奥へ」と促され応接室に。

「先日はありがとうございました。おかげさまでいい音楽会になりました。きょうは」

「はい。あなたともっと話したいと思って」

「そうですか。そんな方、初めてです」

「そうですか。光栄です。ここはどんな施設なんですか」

「はい。居場所のない子どもたちの家です。自主運営をしています」

「公共の施設には」

「そうです。遠回しに入所を拒否された子どもたちです。信じられないでしょうが、現実です。

親に見放され、身寄りがなく、その上、障害をもっている。介護が必要な子もいます。引き取ってはもらえないケースが多い。子どもたちは寝る場所もない、働くところもです。どうやって生きていくのでしょうか」と小林。重い言葉だった。

「そうですか。知らなかった」

「みなさんそうです。地域社会の端に、必死につかまっているんです」

「なんとかならんのですか」

「なりません。だからこうして力を合わせて生きているんです」

「仕事はどんな」

「下請けのまた下。4次、5次下請けの仕事です。安定した仕事量はなく、収入も不安定。平均で1ケ月4,5万延。でも仕事があるだけ幸せです。

 仕事がなくなると彼らはすることがなくなるのです。辛いですよ」

「行政のお世話は」

「私たちは地域社会の一員でありたいのです。それは働き、収入を得ることなんです。声にはだしませんが私には分ります。そう、働くことが生きてる証なのです」

「音楽はどうして」

「ここに来た一人がギターをやってまして。みんな辛い事があると、集まって歌うようになって」。足に障害のある太郎は、歌うことで救われた。事故で右脚を切断。両親は離婚。

父親に引き取られたが、肝心の父が酒におぼれ蒸発。この時、太郎は⒖歳。高校へは進学できず、車いすのため就職先もなかった。

まちをうろついていたところ、小林代表と出会い、希望の家に。当初、馴染まず家出するばかり。そんなとき、ギター少年と会った。なぜか気があった。太郎は昼休み時間になると外から戻って来た。ギターに耳を傾けていた。小林はじっと見守っていた。

いつしか太郎は、ギターを手にするようになっていた。基本から演奏を学んだ。昼休み、2人にとっては夢の時間に。若者は順能が早い。太郎もギターの名手に成長。人間的にも落ち着き仕事に就くようになった。

「ギターと出会っていなかったら、どうなっていたか。音楽は心の叫びです。ずっと演奏していきます」

 太郎にギターを教えた少年は上京。プロの音楽家を目指して頑張っている。太郎に大事なギターをプレゼント。

「いいか。辛いことがあったら、このギターをつま弾け。きっと助けてくれる。おれがそうだった」との言葉を添えて。

 それから希望の家は音楽に満ちた施設となった。

「楽器をやりたい」との声はすぐに上がった。でも小林は頭を痛めた。

「みんなに満足のいく楽器を揃えたかったが到底資金がなかった」。

 すると奇跡が起きた。希望の家の前を通学している大学の音楽サークルから使い古したギター、トランペット、トロンボーンなどの寄付があった。

「あれで助かりました。子どもたちは厳しい仕事が終了すると独学で楽器演奏を習得。上手くはありませんが、一定のレベルになった」と小林代表。

 以来、自分たちの演奏を発表する場がほしいという声がひろがり、定期演奏会が生まれた。

「なるほど、そんなことがあったのですか。音楽って素晴らしいですね」。話を聞いていた橋本は感動した。

「そして人間もいいもんだ」

⒔長生きするぞ       

「あの。透析にかかる費用っていくら」

 透析の注射を打っていた看護師の紀子に聞いてみた。

 基本的に週3日の透析。1ケ月で⒓回、1年にすると120回に。ちょっと考えただけも相当な費用になる。紀子看護師の返事は。

「多分、橋本さんが考えている以上の費用がかかっていますよ。年間数百万円と考えてください。

 とてもじゃないけど個人ではまかないきれません。費用は国の負担なんです」

 橋本は正直、知らなかった。

「そうなんですか。私の命は国によって支えられているんですか。ありがたいことです」

正直、そう思った。

「辛いとか、透析時間が長すぎる。といった不平、不満は禁物だ」

 橋本は、日本の福祉の手厚さを実感した。世界では、こうした医療が受けられず命を落とす人も多い。同時に、橋本にはある気持ちが沸いてきた。

「国への恩返しだ。透析のおかげで長生きできたと胸を張りたい。現在、60歳の半ばだ。少なくてもあと⒛年は生きたい」

 この病院の透析患者の最長老は95歳。敏子おばあちゃんだ。多少は、耳が不自由になっている程度で元気そのものだ。

「長生きの秘訣かい?そんなもの知らね」が口癖だ。おっしゃる通りです。

 もし、秘訣があるならみんな真似すればいい。結果的に長生きしているのだ。それは総合的な結果だ。そう考えると、橋本にとって長生きできる秘訣など持ち合わせていない。運動はしない。以前は暴飲暴食が常。

「そうか。とりあえず90歳が目標だな。よう

し、頑張るぞ」

    ♦

その橋本が透析を始めて1年が経過した。この間、1度も欠席なく“真面目”に対峙している。

「ちゃんと、やらないと死んじゃうよ」と言われたら、いくら、ちゃらんぽらんの橋本でも真剣になる。そんな患者を支えているのが看護師さんだ。

 いつも微笑んで接してくれる。

「きょうは、どうですか。具合は大丈夫ですか」と尋ねてくる。橋本はつい素直になってしまう。

「はい。おかげさまで」

 日頃、口にしたことのない言葉だ。

「どれほど看護師さんに助けられたことか」といま、思い返す。患者は自分本位だ。なによりもまず自分だ。その声をストレートに看護師さんにぶつける。

まだ新人の洋子看護師もひどい目にあったことが。新人の一番の気がかりは注射。特に、透析の注射は、ほかとは違う。注射針が太く、長い。

 洋子がその注射をしたとき「おい。痛いよ。止めてくれ」と和夫じいさんが怒鳴った。その声は透析センター内に響き渡った。和夫じいさんは、ちょっと気難しい面がある。簡単に言うと、“札付き”なのだ。

 新米の洋子は「ごめんなさい」と平謝り。しかし、和夫じいさんは、「もういい。だれかに代わってくれ」と激昂し、注射を拒否。

 洋子は気落ちして下を向いてしまった。その場は、金護看護師長が間に入り事なきを得た。さすがは師長。洋子には、

「大丈夫よ。みんなも同じ経験してるから。和夫さんはある意味、先生役よ」。

「はい。分りました。ありがとうございました」

洋子はまだ少し悩んでいるようだった。透析の前には、痛み止めのパッドを貼る。これで、痛みはかなり軽減される。和夫じいさんも、実際はそんなに痛みはないはず。それほど気にするようなことではない。当の和夫は、⒑分も過ぎるとけろっとしている。やっかいなじいさんだ。

洋子は翌日も出勤。

「橋本さん、おはようございます」。

 明るい笑顔が戻っていた。和夫じいさんとも何気なく会話。しこりは消えた。

「頑張れ!新人」

⒕主治医が辞める?       

 橋本の主治医は桑田咲医師。まだ若く、はきはきと診察、指導している。医師には“責任と行動が伴う”と橋本は勝手に思い込んでいる。

 その桑田医師が結婚するというおめでたいニュースが飛び込んできた。

「女性の年齢は分らない。でも桑田先生もいよいよ結婚か。良かった、良かった」と橋本。  しかし、気になることが頭をよぎった。

「待てよ。結婚したら、先生辞めちゃうのかな。これは確認するしかないな」。主治医回診がチャンスだ。そのときがきた。

「先生、ご結婚だそうでおめでとうございます。で、先生は辞めちゃうの?」。

「いま考え中です。基本、私も女ですし。どうしようかなと」

 我が日本では、女性医師の割合が少ないらしい。それでなくてもハードな仕事であり、家庭との両立は大変だ。

「先生がいなくなっちゃうと寂しいな」

「また、また。心にもないことを。ほんとに白紙です。じゃ、お大事に」

「はい。ありがとうございました」

桑田医師は結局、病院を辞めることになった。家庭に入り家事、子育てに励むことに。

「そうだんだ。仕方ないよな。それもひとつの見識だし。尊重しないと」。橋本は納得したようだ。

「そうなると問題は、次の主治医だな。また女性だといいんだが」と勝手に決め込んでいる。

しかし、状況は意外な方向に。桑田医師の退職に病院側は、石田院長自らが遺留に乗り出したのだ。背景には、病院の機構改革があった。

 橋本が透析を受けている茨北綜合病院は、新たな診察科目として「腎臓内科」を始める予定だ。伴い、医師の確保が急務。いま退職者がでると痛手となる。桑田医師は、新設科目の責任者として位置付けられていた。いま辞められては、病院運営に大きな支障となるのだ。石田昇病院長が慌てるのも無理はなかった。

そして、桑田医師に直接、訴えた。

「新設する“腎臓内科”は、糖尿病と連動して、この病院の大きな柱として考えています。まちからの期待も大きい。

このプロジェクトにはあなたの力が不可欠なんです。なんでもご結婚ということを聞いています。

ですが、なんとか再考していただけないでしょうか。こちらとしては、今後の生活を全面的にサポートしますので」。石田院長は深々と頭を下げた。

「そうしますと私の後任はまだ」

「はい。そこを含めての組織改革を検討してます。腎臓内科は2人を充てます。先生ともう一人で背負ってほしいのです」

「そうですか。そこまで言われると・・・。」再検討します」

 院長による懸命の説得が功を奏し、桑田医師は残留することになった。回診の際、橋本は金成看護師長確認した。

「桑田先生は残るようですね。良かった。本当に良かった」

「橋本さん地獄耳ですね。でも橋本さんのために残るんじゃないですよ。念のため」。金成看護師長はにっこりだ。

「そんなことないですから」。橋本は否定したが、内心はその通りだった。ついでに質問してみた。

「結婚はされるんですよね」

「はい。相手はいま、東京の大学病院の医師ですが、茨城県の病院からオファーがありまして。大きな問題は解決です。あら、どうして、こんなこと橋本さんに・・・」

 橋本は、“聞き上手”だった。

 ついでに、聞いた。

「あれっ。後任の方は決まってたの」

「彼女は、桑田先生と一緒に新設科目を担当します。はい」

「金成さん。いま、“彼女”と言いましたよね」

「もう。橋本さんたら。そうですよ。じゃ、仕事があるからこれで」。金成看護師長はそそくさと逃げた。

「そうか。女医さんが2人か。夢のようだ。この日、橋本は上機嫌だった。

⒖金成看護師長のお願い

「橋本さん。きょう透析終ったら、時間取てくれる」。金成看護師長だった。橋本は「OKですよ」とは言ったものの嫌な予感がした。

 いつ通り4時間で透析は終了。遅い昼ごはんのあと事務所に。金成看護師長が“待ってました”とばかり、手招きした。コーヒーも用意されていた。

「ごめんね。時間取らせて。コーヒーどうぞ」。やけに優しい。これで確信した。

「嫌なことを頼まれる」。それは的中した。

「あのさ。橋本さん、みんなの前でお話してくれるかな」。橋本は内容を理解できなかった。「つまり、どういうことなんですか」と逆質問した。すると、とんでもない返事が。

「実は9月8日、茨北電気で健康講演会があるの。それでね。うちに講演依頼があったの。テーマは“企業健診の重要性”よ。

 私も講演するけど、だれか体験者にもお話してほしいというリクエストがあってさ・・・」

「大切なのは分かりますけど、人前で話すなんてとてもできません」。橋本は金成看護師長の言葉をさえぎって拒否。

「あらら。いい勘してるじゃないの。でもね・・・」

「そうか。OKしたんでしょ」

「おっしゃる通りです」。金成看護師長は涼しい顔で答えた。

「そんな。勘弁してくださいよ。だめですよ。そんなこと」。橋本は必死で固辞した。

「これは、会社と石田院長のトップ同士で決まったことなの。透析してる方で若くて、お話できるのはあなたしかいないでしょ。分かるでしょ」。橋本はもう何を言ってもだめだとあきらめた。

「分りましたよ。やりますよ」。“白旗”を上げた。

「ありがと。コーヒーどうぞ」

 そして、ついに9月8日がやってきた。橋本は金成看護師長と一緒に茨北電気に出向いた。この会社は県内でもトップクラス。県北にあっては名門企業だ。当然、社員の健康管理には力を注いでいる。

 この日の講演会は、福利厚生の一環として労使双方の主催で取り組まれた。会社に到着すると社員がズラリ並んで大歓迎。女子社員が大きな花束をもって現れた。仰々しい限りだった。橋本にとって“花束贈呈”なんて初めてのことだった。この時点で足がすくむのを感じた。比べて金成看護師長は威風堂々で、花束を受け取った。

 拍手喝采の中、社内の応接室に案内された。待っていたのは近藤力総務部長だった。

「これは、本当にご苦労さまです。我が社では、社員の健康管理には十分配慮しておりますが、きょうは貴重なお話を受けたまわろうと、ご足労いただきました」。目いっぱいの作り笑いだった。

橋本は「やっぱり断ればよかった。なによ、これ」。しかし、遅かった。ひと休み後、体育館に連れていかれた。入室して驚愕した。

中央のステージ上には『秋季健康講演会』との横断幕。その下には、なんと『茨北総合病院金成先生、橋本先生』。これには参った橋本。「おい、おい。いつからおれ先生になったのよ」。大拍手の中、所定の席に着いた。

司会者のあいさつの後、まず金成看護師長が登壇。緊張した様子まるっきりがない。講演慣れしているようだ。それは、話の導入でも分かった。

「みなさん、こんにちは。この中で自分が健康だと思う方、挙手お願します」といきなりの質問。会場に集まった200人の社員はざわづいた。どう反応すればいいのかと。

 手を挙げたのは、数えるほどだった。もちろん、これは織り込み済み。金成看護師長は続けた。

「ちょっと待ってください、みなさん。これだけですか。あとは不健康な方ばっかりですか」。ここで大笑い。たたみかけるように、

「そうですね。ここから見ても、みなさん。顔色悪いですよ」。会場はどっと沸く。

「うまいな金成さん」。橋本も絶賛だ。この後、金成看護師長は約30分間、透析現場の責任者という立場で講演。説得力のある話だった。

 さて、いよいよ橋本の番だ。自分を凝視す大観衆に、ますます足がすくんだ。

「続きまして橋本先生、お願いいたします」。司会者に促されて登壇した。こうした極限状態の中、人間のとる行動は2パターン。開き直るか、のみ込まれるかだ。橋本は前者だった。

最初に発した言葉は「原稿用意しとけばよかった」。会場はクッスとした。続けて、

「みなさん。私は、会社の健康診断をほとんど無視しました。そのおかげで、本日、ここに立つことができました」。会場は大爆笑だ。「よし。やった」。橋本はご満悦だ。さらに話を続けた。

「みなさんの中に、“おれは大丈夫だ”という自信過剰な方がいると思います。私もそうでした。

 そしていま、糖尿病をかかえ、人工透析にあえいでいます。“二重苦”です。結論から言いますと、仕事はほどほどに、健診はしっかりとです。病気が見つかったらどうしようと不安な方もいると思います。

 でも、健診はそもそも病気を早期発見するのが目的です。毎年、健診を受けることは、その早期発見の第一歩です。私が言うのですから、確かなことです、

 みなさんを脅すつもりはもうとうありませんが、糖尿病、腎不全は静かにやってきます。前兆はほとんどありません。だから大変なのです。気付いたときはお手上げなんです。

 さらに怖いのは一端、病気になると完治しないということです。健診で病気が見つかったらそれは、ラッキーです。

 それぐらいの気持ちでどうでしょうか。健診があったら、どうか私の顔を思い出してください。そして、きちんと健診を受けましょう。最後に一言注意を。みなさん、“タンパク尿”でてませんか。これこそ、腎臓病への赤信号です。

この“警報”がでたということは、腎臓病が始まっているということです。医師はそこまで注意しないかも知れませんが、確実なことです。タンパク尿には十分過ぎるほど注意してください。ご清聴ありがとうございました」

 講演は終わった。橋本は汗だく。息も絶え絶えだった。会場からは大きな拍手が沸き起こった。

「橋本さん、やるじゃないの」と金成看護師長。

「次もお願ね」とにっこり。

「もう十分ですよ」

⒗目覚めた橋本

 橋本はこの講演会をきっかけに、何か弾けた。病気との対峙に変化が生じてきたのだ。これまでは「どうしておれが、こんなことになるんだ」とばかり、当り散らすこともあった。

 その橋本はいま「こんな辛いことは自分だけでいい。一人でも、こんな思いをしないよう何ができるのか」と感じている。“自暴自棄”は過去の自分。「これからは、病気予防、健診の大切さをみんなに伝えよう」。そう決意した。

 それからは、1日4時間の透析を受けながら「自分に何ができるか」。そればっかりを考えた。出した答えは「みんなの話を聞こう」だった。橋本の動きは早かった。

「金成さん。透析を受けているほか人の話を聞きたいんだけど。どうすればいいの」。透析後、金成看護師長をつかまうぇた。

「そうね。ここでは、橋本さんよりおじいちゃん、おばあちゃんが多いから、きちんとした話は難しいわね。

あのね。県の透析患者の会があって、茨北支部があるわ。会長を紹介するから行ってみて。でも急にどうしたの」

「はい。ちょっと」。橋本は、はぐらかした。

 “みんなのために何かしたい”なんてとても、とても口にはできなかった。一方の金成看護師長。「また、何かたくらんでるな」。

 橋本はボランティアの先輩でもある妻佐和子には想いを打ち明けた。

「おれ。健康について何も考えず、こんなことになってしまったでしょ。それで、いま考えてることがあってね。

 おれみやいな奴、いっぱいいるはず。そこで彼らに警鐘を鳴らすことをしたいと思ってるの。どうかな」。コーヒーを口にしていた佐和子の手が止まった。

「ほんとに。素晴らしいことだわ。迷うことなんてないじゃない。

 私も応援するから、頑張ってよ」。妻にここまで言われると、気恥ずかしかった。

「よし。分った。これで迷いは吹っ飛んだ。ありがとね」

 佐和子の応援で橋本は意気込んだ。金成看護師長から紹介された透析患者の会茨北支部の後藤栄治支部長宅を訪問した。

「こんにちは。金成さんからご紹介されてお邪魔しました」。橋本はドアホン越しにあいさつ。

「玄関開いてますからどうど」。中から声がした。白髪の後藤支部長が待っていた。

「ようこそ。どうぞ、こちらへ。橋本さんですね。金成さんからうかがっていますよ」

「お邪魔します。時間を取っていただきありがとうございます」。橋本は丁寧に頭を下げた。目の前にはもうお茶が置いてあった。

「それで、ご用件は」

「はい。実は、私も透析をしてまして。大変、辛いんです。それで、ほかの人にこんな思いをさせたくないと思っています。私にできることはないかと、ご相談に参りました」

「そうですか。私も、もう⒑年以上も透析をしています。いやになっちゃいますよ。でもね、命に関わることですから。

 そうだ。今度の日曜日に支部の総会があるんです。ぜひ、橋本さんも参加してください。実情が分かると思います」。後藤は多くを語らなかった。橋本は世間話をして帰宅した。

「もう少し話してくれても良かったのにな」

 その総会は⒑月9日、茨北市文化会館で開かれた。集まったのは、透析患者、家族、医療関係者など約50人。まず、後藤支部長があいさつ。

「このまちは、小さなまちです。私たち透析患者の情報はすぐに広まってしまいます。いまにはじまったことではありません。

この状況を改善することはできるのでしょうか。私たち会員も高齢化してます。私は80歳を超えました。

 よく“地域とともに”と言いますが、私たちは、その地域にさえ入れません。愚痴を言っても仕方ありません。みんなで力を合わせて頑張りましょう。生きるために」

 なんとも切ない内容だった。でもこれが現実なのか、と橋本は実感した。この日の総会では事業、会計報告。そして役員改選も行われたが全員留任。

 なんの議論もなく1時間あまりで終了した。橋本は総会後、後藤支部長と喫茶店に。

「橋本さん。うちらの組織はいま、あんなものです。橋本さん。先日、“私にできることは”って言ってましたが、お願いです。まず、内側から改善してくれませんか。私はもう年です。

 先日、あなたがお越しいただいたとき、この組織の現状をお話しようと思いました。

でも、止めました。素直な目であなたがどう感じるかを大切にしたかったのです」後藤

支部長。

「そうでしたか。確かに、みなさん、元気がなかったような。確かに以前は、偏見の目があったのでしょう。

しかし、いまはどうでしょうか。逆に、私たちが意識しすぎているのでは。ほかの団体は、どんどん地域に開かれた活動をしています。分りました。微力ではありますが、私頑張ります。ただ、条件が1つあります。

後藤さんのお力が必ず必要になります。そこは“もぅ年だ”なんて言わないで、さらに支援してください」。橋本は前向きだった。

2週間後、同支部緊急理事会が開かれ、橋本が新支部長に就任した。

「後藤さんに代わって支部長に就きました橋本です。私も透析患者です。いま思っていることをお話します。私たちは自ら扉を閉ざしていけません。

 常に地域社会に開かれた組織にすることが大切だと思います。まだ何も分かりませんが、情熱だけはあります。一緒に頑張りましょう」とあいさつしたが、拍手はパラパラだった。

支部長となった橋本。透析を受けながら考えた。「引き受けたはしたものの、一体何をすればいいのか」。これが命題だ。透析時間、じっくり思慮できた。

「まず、支部の存在を知ってもらうこと。これが第一。そのためには」。意識とは別に、睡魔が襲ってきた。

「まずいぞ。でも眠い。とりあえず休憩だ。おやすみ」。小一時間、寝てしまった。

 目覚めると頭がすっきりだ。「これはいい。一気に結論を出そう」。橋本は、もってる思考力をフル回転させた。結論が出た。

「まず、活動をオープンにしよう。ホームページを作って。定期的に公開イベントを企画する。ほあの福祉団体と連携、団結する」。いいぞ。アイデアがどんどん沸いてきた。機関紙の発行、寄付の依頼。市議会への議員送り出し。

「このへんで、とりあえずOKかな。いろいろできるな」。橋本はやる気満々だ 

拾い上げた企画の中で、橋本が真っ先に取り組んだのが、福祉団体との連携だ。

「小さな団体がたくさんあってもばらばらでは力にならない。一つになってこそ存在価値が生まれる。よし、これからやろう」

 橋本は、合い間をみて、他の福祉団地との接触を図った。

「私たちは、一つの団体は小さなものです。だからという訳ではありませんが、行政をはじめ社会に見放されています。

 どうでしょうか。このへんで、大きな福祉グループを作りませんか。もちろん、各団体を解消させるのでなく、上部組織を設立させるのです。

 一つのことを市に要望するにしても、大きな組織体で交渉すれば現在よりは、うまくいくかも知れません。何か、福祉団体というと、社会のお荷物的な見方をされますが、それではいけないのです。

 私たちばかりでなく、多くの市民にとってもマイナスなのです。いろいろな人たちがいてこそ地域社会は平等に成り立つのです。もう、後ろ向きではいられません。

 “国際障碍者年”を忘れていませんか。1981年、国連が『完全参加と平等』をテーマに、“障害者の社会生活の保障と参加2が提唱されました。そのときは、各方面で障害者の状況が取り上がりました。それから32年が過ぎました。

 どうでしょうか。完全参加と平等という崇高な社会は実現したでしょうか。確かに、パラリンピックが注目されだし、選手たちが脚光を浴びています。そこには、大変な努力と精進があったわけで素晴らしいことです。

 でも、注目されるのは一握りの人たちです。私たちは、知っています。障害があるというだけで、人と違うというだけで偏見にさらされていることを。地域社会の底辺であえいでいる障害者は多くいます。

 社会の助けも届かないところで必死に生きているのです。彼らは、一体、悪いことをしたでしょうか。人に迷惑をかけたでしょうか。そんなことは決してありません。

 私たちは、それでいいかも知れません。でも、私たちの子どもたちはどうでしょうか。甘んじて受け入れるのですか。そんなことはできません。もっと大きな声を出して、地域に呼びかけようではありませんか。私たちの崇高な権利です。

 お願いです。私たちの願いに賛同してください」

橋本は熱弁を振るった。正直な胸のうちを吐露した。

この橋本の熱心な訴えに8福祉団体のうち6団体が大同団結に参加の意向を示した。

「そういう話を待っていたよ。市や関係団体にいくら要望書を提出してもなしのつぶて。一つの小さな団体では担当課長さえでてこない。

 まとまって大きな組織体にすることは急務だ。それにはもう少し内部での話し合いをしないとな。ただ集まるだけでは“烏合の衆”になってしまう」。そう指摘したのは、肢体不自由(児)者協会の津田紀夫会長。

その津田から「どうです。一献やりませんか」との誘いがあった。橋本は、透析のことは話してはなかった。とりあえず待ち合わせの小料理店に。入店すると津田は先に来ていた。

「どうも。橋本さん。ちょっとお先にやってましたよ」

津田は徳利を差し出しだ。橋音は正直に、「実は私、透析をやってまして。お酒は控えてるんです」

「そうでしたか。喫茶店の方がよかったかな」。ほんとに」

「もう慣れてますから。気にしないでください。それでお話というのは」

「実は来年⒓月に市議会議員選挙がるんですよ。これまで福祉関係者が議員を出そうと動いたのですが、不調に終わってしまいました。 そこで今回、私たちの代表者として橋本さんに出馬していただきたいのです。

 先日のあの熱弁を聞いて、ぜひという気落ちになりました。内々で話し合ったところ橋本さんを押す声が多かったこともあります。

 まあ、突然のことで即答は無理でしょうが、前向きに検討してください。お願いします」

 津田は頭を下げた。面食らったのは橋本。思ってもなかった要望に唖然とした。

「津田さん。ちょっと待ってください。いきなりそんなこと言われてもですね。それに私、政治経験ゼロです。無謀な話だと」

「その思いは十分に理解します。とんでもないお願いだとも。まず、政治経験は必要あり

ません。一番大事なことは情熱です。

 橋本さん言ってましたよね。福祉の現状について。『私たちはいまのままでいいのすか』。あれです。福祉行政を変える原動力が必要です。それはあなたです」

「勝ち目、ありませんよ」

「はい。いま議会は保守系議員ばかり。次回、の選挙では1人定数オーバーが予想され、現職は無競争になるよう動いた。

 金で出馬を抑え込んだようなんです。いま『無競争再選』の空気が流れ、のんびりしています。まったく選挙準備をしてない議員も多数です。ここに大きなチャンスがあるんですよ」

「なるほど。十分に油断させておいて奇襲ですか。津田さん。その政治的なセンスをどこで身に付けたのですか」

「若いころ代議士の秘書をしてまして、いろいろ勉強しました。

 それと、今回、橋本さんのおかげで福祉団体がまとまる。資金面は福祉に理解のある大きな会社の社長が支援してくれます。そこまで話は進んでいたのですが、問題は逸材が見当たらなかった。

 私はもう年だしね。そこに橋音さんが登場したわけです」。 」

「可能性はあると。しかし、私は透析を受けていいます。時間も拘束される。ネックになります。自由には動けません」

「そこは、私たちがバックアップします。あとで紹介しますが、私の仲間には元市議もいます。老兵なのですが。

 橋本さんが決心してくれたら、あすにでも準備できます」

「分りました。少し時間をください」

⒘出馬の決心

 橋本は一人では判断できなかった。まずは妻佐和子に打ち明けた。

「あのさ。来年暮れの市議会議員選挙に福祉団体代表として出馬してくれないかと話があってさ。どうしようかと」。佐和子は意外にも冷静だった。

「自分のことよ。あなたはどう思ってるの。まずはそこでしょ」

「気持ちは半々」

「じゃ、出れば。でもお金はないわよ」

「うん。その心配はないんだ」

「でもあなた政治的な経験ないでしよ。大丈夫」。自分が津田に聞いたことと同じだった。

「この前、福祉に対する想いを話したんだけど、それが評価されて。その情熱があればOKだって」

「私、ボランティアあるから手伝えないわよ。いいかな」

「うん。支援団体があるから」。佐和子はあっさりと承諾した。「私に相談したということは、出馬したいということ。あの人は思ったことはやる人だから」。佐和子の方が一枚上だった。

 次は病院だ。主治医の桑田医師に相談した。かなり勇気が必要だった。返事は案の定「私は反対です」ときっぱり。話し合う余地はなかった。

「先生。それは私の身体が心配だということですか」

「当たり前です。橋本さんは週3日、透析を受けているんですよ。その人が選挙に出たらどうなるか。まして当選できても政治活動が全うできるか。

 もちろん、橋本さん自身のことだからね。あなたが決めることよ。でも主治医として反対します」

「はい。分りました。ありがとうございました」。これで橋本は悩んでしまった。透析は受けてはいるものの、“自分は意外と大丈夫”とう根拠のない自信はあった。

 しかし、主治医は医学的な立場から反対を断言した。それは、選挙戦、その後の政治活動は無理ということ。重みがあった。

「無理かな。あそこまできっぱり言われるとな」。橋本は頭を抱え込んだ。そして、出した答えは“出馬断念”だった。

 そんなときだった。一人の老婆との出会いがその決心を変えさせた。橋本と同じ地域で一人暮らし。85歳の高齢だ。知人を通して「生活が心配。なんとかして」との要望があった。

「こんにちは。おばあさん、いますか」。橋本は玄関で大声。返事がない。さらに大きな声で「お邪魔しますよ」

中で動きがあった。

「あいよ。だれだい」。古びた貸家。玄関の後はすぐに生活空間だった。そのおばあさんの大隅妙子はゆっくりとはい出てきた。

「おばあさん、私、近くに住む者です。様子を見にきました。いかがですか」。妙子ばあさんは耳が不自由だった。

それでも「どちらさんで」と聞いてきたb。橋本は再度、尋ねた。

「おばあさん。生活どうですか」

「生活かい。やってるよ」

「大変じゃないですか」

「そりゃ、大変じゃ」。会話はゆっくり進んだ。橋本は一番気になることを聞いてみた。

「おばあさん。ちゃんと食べてるかな」

「めしかい。最近は食ってねぇな」

「無理でも食べないとな」

「腹が痛くてな」

「病院へは」

「歩けんし。金もかるわい。もう寝るぞ」。おばあさんは、さっさと引っ込んでしまった。

聞くところによると子ども、肉親はいない。天涯孤独の身だった。

若いころは、すでに他界した夫と農業に従事。そんなに苦労は感じていなかった。

 それが一人になり、身体もあちこち痛みだした。

橋本は、行政支援を口にしたが「お上(行政)の世話にはならない」と一辺倒。

「おばあさん。みんなに助けてもらうことは恥かしいことじゃないですよ」と諭してもだめだった。

 そして1週間後のこと。おばあさんは、だれにも看取られず亡くなった。胃がんだった。「あのとき無理矢理でも病院に連れていけばよかった」。橋本は後期した。

「何とかしてやりたかった。どうして一人寂しく逝ったのか」。この時だった。

「市議選に出る」と決めた。その旨、桑田医師にも伝えた。

「分りました。でも約束して。何かあったらすぐここにきてよ」

 津田にも「市議選にでます」と伝えた。これで橋本は新たなステージに挑戦することになった。

⒙いばきた福祉ネットワーク発足

橋本の身辺は急に忙しくなってきた。福祉団体の“大同団結”も大きな課題だ。市内8団体のうち7団体が、呼びかけに応え参加を表明した。残ったのは、聴覚障害の団体。

これまで2度に渡って代表者と協議。橋本は、いつものように熱心に問題提起した。ところが、「内部で話し合う」「もう少し時間を」と結論を先延ばし。

3回目は肢体不自由(児)者協議会の津田会長も同席してくれた。話し相手の野田要代表は冒頭から「すいません。中がまとまらなくて」と低姿勢。

「ご存じの通8団体のうち7つは参加を決めています。小さな団体がいくら声を張りあげても通じません。

そこは分っていただけると思います。そこでみんなが集まって大きな声にしようという訳です。ご理解いただけませんか」と津田が突っ込んだ。

「その通りだと思います」。野田は同調した。

「それじゃ、どうして」。橋本も参加した。

「実はですね。私個人的には大賛成なんです。異議はありません。

ですが、うちの主要なメンバーとしてある市会議員の支持者が名を連ねておりまして。説得を重ねました。私は橋本さんたちが主張していることを提案しました」と野田さん。 しかし、相手は「どうでしょうか。“時期尚早”じゃないでしょうか。

確かに理念は分ります。でも、各団体の主張は異なります。そこを考えないと。ただ大きくするだけではね。それより、うちのように支援してくれる議員さんとの関係を強めた方が話は早いと思いますよ」という言い分。

何度、話し合ってもその姿勢は崩れなかったらしい。

「それは議員の選挙対策じゃ」と橋本は思ったが口にはしなかった。「多分、議員の了解が得られないのだと思います」。野田は小さな声になっていた。

「そうだったのですか。仕方ないかもですね」。橋本は理解した。津田も、「組織の中で。が、ありそうなことです。一足早く私たちが動き出せば変わるかもしれませんね」

 こうして全団体の参加による組織化はならなかった。

    ♦

歳の瀬の⒓月8日、福祉7団体の関係者が一堂に会した。参加者は90人に達した。この日の午前中に代表者が開かれ、概ねの課題はクリアされていた。

まず、名称は『いばきた福祉ネットワーク』に決定。大切な代表者については内部で論議された。大勢として橋本を推す声だった。しかし、橋本には視聴覚団体の野田代表の話が頭にあった。

「こうした団体でやってはいけないこと。それは政治的な利用。野田さんがそれを教えてくれた。感謝している」。橋本はネットワーク代表を固辞。透析患者の会茨北支部長も退いた。

さて、『いばきた福祉ネットワーク』会長には、肢体不自由児者協会の津田が就任。

「きょうは私たちにとって忘れられない一日となります。これまで私たちは小さな枠の中にいました。

 そこに安住していました。しかし、それでは何も生まれませんし、変わることはありません。私たちは、それでいいかも知れません。でも子や孫には決して同じ思いをさせてはいけません。

 そこで、私たちはここに立ち上がったわけです。対決ということではありません。大きなグループとなり声を大にしたいのです。そこがスタートだと思います。みなさん、どうぞ顔を上げてください。胸を張ってください。以上です」。熱く語った。橋本は黙ってうなづいた。

 この後、事務局から初年度の行事、会計報告、役員紹介が行われた。発足式のあと記念パーティが開かれた。各団体の紹介、音楽や演劇発表、食事会なども行われ会場はお祝いムードで盛り上がった。

⒚きな粉はだめよ

多忙な中でも橋本は週3回の透析受けた。は欠かさず受けた。一回の所用時間は4時間。物事をじっくり考えるには最適だった。

橋本は天井を見つめながら、あれこれ考えを張り巡らせた。

「橋本さん、真剣な顔して何考えてるの」。看護師の順子が話しかけてきた。明るい娘だ。いつもからかいにやって来る。

「うん。なにも。晩ごはんどうしようかなとか」

「うそばっかり。あんまり根を詰めると病気になっちゃうよ。もう病気か」。そんなことを平気で口にする。憎めない性格だ。このところ張り詰めた状況が続いただけに、心が癒される。

「おれなんか相手にしてると彼氏に逃げられちゃうよ」。こっちも反撃だ。最後にはふくれ面で持ち場に戻った。

「どう。橋本さん。大丈夫ですか。無理は禁物よ」。今度は、主治医の桑田医師がやってきた。

「えーとね。いまのところデータに問題なしよ。でも油断しちゃだめよ」と念を押してきた。

「はい。小学生じゃないんだからもう」

「橋本さんは、小学生と同じだわ」

「あらまぁ、そうですか」。橋本は軽い会話を楽しんでいた。

 最後に姿を見せたのが金成看護師長。「橋本さん、もてますね」。順子、桑田医師と話していたとこを見られていた。答えるのが面倒なので笑ってごまかした。

「橋本さん。もうすぐお正月なのでこれしっかり見てください。できたら奥さんに渡してね」。1枚の書類を差し出した。

『お正月に気を付けること』とのタイトル。食べ過ぎ、飲み過ぎなどに注意しよう!という“警告文”だ。

「橋本さん、お餅好きでしょ」。金成看護師長は軽いタッチで聞いてきた。つい乗ってしまった。これがまずかった。

「はい。子どものころから大好きです。おいしいですよね」

「あのね。食べるなとは言わないけど注意してよ。きな粉も好きでしょ」。“誘導尋問”だった。

「大好きです。おいしいですよね」

「きな粉は禁止よ。口にしない方がいいからね」。手元の書類を見た。

「きな粉餅には要注意」とあった。

「身体にいいように思ってたのにな。だめなんだ。あとはなんだ。黒豆も好きなのに1回5粒までか。あーあ」

「なにもかもだめじゃないけど。ほどほどが大事だからね」。最後に一押しされた。

「しかし、よくこんなことまで知ってるな。さすがだわ」

 次の透析日。また金成看護師長がやって来た。“口にチャック”にしないと。

「あのさ。橋本さん。年末年始の日程をお知らせします。今年の最後の透析は⒓月30日の土曜日です。

 それでもって新年は1月2日の火曜日からスタートになります。なのでこれまでのスケジュールと同じです。お休みは大晦日と元日の2日間です。一応、これ日程表です」と書類を差し出した。

 確認するまでもなかった。いまの透析は火、木、土曜日の3回。休みは日曜日、月曜日の2日間。なので、大晦日、元日は通常通りの休みなのだ。

「そうか。透析患者には年末年始は無いんだな。ちょっと寂しいな」。橋本はかっかり。家に帰って妻の佐和子に愚痴ってしまった。

 すると佐和子は烈火のごとく怒り出した。

「ねぇ、あなた。よく考えてよ。あなたは透析をしないと死んじゃうのよ。そのあなたを助けるために看護師さんたちも年末年始返上で出勤するのよ。

 まったく、そんなことも分らないの。情けない。看護師さんが来なかったらどうするのよ。自分で透析できるの」。“まいった”と橋本。

「そうだね。私が悪かった。反省します」

「それでよし」

「あとこれ奥さんに渡せって」。橋本はお正月の過ごし方が書かれた書類を出した。佐和子はじっと読んだ後に一言。

「なるほど。楽しみね」

⒛新年早々の準備会

平成26年が明けた。昨年は一人身で酒浸りの新年だった。

「変われば、変わるものだ。一年前、まさか自分が市議選に出るなんて、考えてもいなかった。

 これも透析を始めたことがきっかけ。人生どう転ぶか分らんな」。橋本にはそんな感慨にふけっている暇はなかった。

新年早々、選挙対策の準備会が開催された。正月5日だった。

参集したのは、『いばきた福祉ネットワーク』の津田会長、『透析患者の会』後藤支部長。そして、津田の知人中山昇元市議、女性団体の富山幸子代表も駆けつけた。富山女史は、透析患者の会の良き理解者だ。『いばきた働く女性の会』会長だ。そして橋本を含め5人のメンバー。

初めての幹部会。まず、中山元市議が現状を報告。

「年が明けても状況は昨年同様。すっかり無競争ムード。多少の出入りはあったものの、裏工作が功を奏して落ち着いている。

 選挙まであと1年。もう動きはないと思う。以前と違って市議の魅力がなくなった。金をつぎこんでまで議員になろうという人もいない。このまま推移したら無競争で落着。そんな感じかな。新人さえも安心しきって事務所を構えていない。これは現職も同じでかなり慢心している。我が方としては最高の状況ですよ」。脇にいた富山女史もこう証言する。

「いつもだと1年前には各陣営動いているのは確か。それが今年に限っては、その動きがまったくない。

 新人は見境なく支持を訴える時期なのに、音沙汰なしよ。これで定員オーバーとなったら大変よ。きっと右往左往ね。我が橋本陣営は、それを狙っているんでしょ」

「はぁ、まぁ」。橋本は素気ない返事。

 続いて後見人を自称している津田会長。

「現状は、無競争ムードなんですね。うーん。一番効果のある時に出馬表明して一気に突っ走る。そんなイメージかな。

 タイミングと事前にどんな活動をするか。これがカギだな」

「うん。その通りですよ。タイミングを間違えると自滅する。敵も必死でくるでしょうから。気付いたときには“勝負あり”だ。これは楽しくなってきたぞ」。選挙上手で鳴らした中山元市議。血が騒いでいるようだ。

 ここで富山女史が大切な一言。

「私たちの動きを悟られないこと。これが効果的な奇襲を生む。私を含めて女性は口が軽いから気をつけないとね」。一同うなづく。話は尽きなかった。

 透析患者の会の後藤支部長がまとめた。

「基本的な現状把握。我々の作戦。気を付けること。どれも大事なこと。きょうはここまでかな。あとは組織づくり。これがしっかりしないと戦いにならない。

 これは中山さんに責任者になってもらう。女性票の掘り起こしは富山さん。期待してますよ。大事な会計担当は津田さん。津田さんには後援会長の大役も担ってほしい。私は、全体をまとめていきます。いかがでしょうか。こんな感じで」。一同から“異議なし”の声。

最後に橋本があいさつに立った。

「みなさん。私たちは、このまちに本当の福祉行政を推進させることを目的に集まりました。

いま、みなさんの考え、ご意見を伺って私興奮しています。久しぶりです。よく“人生をかけて”といいますが、私はまさにその気持ち「でいます。どうか大願成就“するよう力を貸してください」。深々と頭をさげた。

「よし。頑張ろう」。大きな声が響いた。この勢いがまちを変えるかけ声となった。

21首、肩がかゆいよ

「かゆい、かゆい」。橋本は首から肩にかけて異常なかゆみに襲われた。それは通常のかゆみではなかった。かきだすともう止まらなかった。

「これは何だ。このかゆみをだれか止めてくれ」。深夜の蒲団の中、一人あえいだ。気付いた妻佐和子が「どうしたの」。橋本は必死に訴えた。

「ちょっとみてくれる。背中がかゆくて」。橋本はパジャマを脱ぎ捨てた。

「あ。これね。かき過ぎて赤くなってるよ。ひどいね、これは。かゆみ止めのクリーム塗っておくけど、主治医に診てもらってよ」。佐和子の手当でかゆみはひとまず止めた。

 翌日は運よく透析日だった。

 主治医の桑田医師がベッド脇に来るなり、

「先生、かゆいの。首、肩、背中全部」。橋本は必死で訴えた。

「ちょっと診せてくれるかな」。看護師がシャツをまくり上げた。

「これは、かゆいわね。かゆみ止めの薬出しましょう」と言いなが処方箋に薬のオーダーを記入した。

「先生、原因は」

「それね。透析の影響よ。よくあることよ」と淡々と説明。

この日の透析後、看護師が熱いタオルを患部に押し当ててくれた。

「おー。気持ちいい。カ・イ・カ・ン」。地獄から一気に天国だった。

「そんなに気持ちいいんだ」。看護師は、にっこりだ。その後に、クリームを塗ってくれた。当面はこれでOKだ。

しかし、透析の影響はまだあるのか。橋本は不安になった。

 それが現実になった。透析では常に血圧を監視する。30分ごとに血圧を測定する。透析で下がるケースがあるためだ。

 橋本も透析後、何回か低血圧状態になった。これは避けられないことのようだ。

 しかし、今回はその低血圧が家で起きた。朝ごはんを食べ、常備薬を飲んでくつろいでいたときだった。

「なんかおかしいな。身体がぐらつく感じだ。低血圧の状態だ」。橋本は簡易の血圧計を手に取った。

 結果は「98」。100を割り込んでいた。対処方法は知っている。“足をあげて横になる”。これだ。全身の血液を戻すイメージだ。

 しばらく横になって再度の血圧計。

「126」。「よし。これでOKだ」。気分も回復した。

 割と容易に元に戻るからまだ救われるが、いつ起こるか分らない。透析後じゃなかったことが不安だった。そんなに透析は身体に影響を及ぼすものか。

 橋本には糖尿病もあり低血糖を引き起したこともあった。症状は低血圧とほぼ同じ。身体がふらふらする。汗が噴き出る。立っていられないなど。“おかしいな”と思った瞬間、後ろに倒れ意識を失ったこともあった。

「なんてこった。血糖に血圧か。これは大変だぞ」。防ぎようがない面がある。迅速、的確に対応する必要がある。

「血糖に血圧さんよ。どうか、おとなしくしておくれ」

22機関紙『あおぞら』発行へ

 季節は厳冬2月。橋本は懸案の一つだった透析患者の会いばきた支部の機関紙発行を急いだ。

「いまやらないと選挙で忙しくなってしまう。まずは体裁、部数度外視して発行しないとな」。頭の中では構想が出来上がっていた。サイズはタブロイド版。表裏の2ページ。まずはこの規格でのスタートを目標にした。

「こうした発行物ではとにかく人を多く登場させることが鉄則。よし、両面ににインタビューコーナーを作ろう。

 表面はちょっとお堅いもの。その時々の話題に切り込む。よし。裏面は柔らかめだ。新人看護師インタビューなんてどうだ」。橋本はこの2本を柱に据えた。あとはイベント、御店、施設紹介などを織り交ぜれば2ページは埋まる算段だ。初回の発行は4月1日と決めた。

「“エイプリルフール”でちょうどいいかも」。橋本はなんとも余裕があるというか、投げやりにも映る。出来上がりが楽しみだ。

    ♦  

まず取り組んだのは表面インタビュー。ここはすでに登場人物を決めていた。橋本が透析を受けている茨北総合病院の石田院長だ。早速、事務局に足を運んだ。

相手は加藤事務局長。以前、幼稚園児とのふれあい交流でお世話になった人だ。応接室にすぐ現れた。

「橋本さん。どうもご無沙汰しておりまして。お元気ですか。これは失礼。透析は順調ですか」

「はい。おかげまさで。問題なくやっております」

「それできょうは・・・」。橋本は来訪の趣旨を伝えた。

「ほう。機関紙を創刊するのですか。それは興味深いことです。みなさんに提供できる情報はたくさんありますからね。

 私個人的には賛成です。院長インタビューの窓口は私になります。いまはそんなに忙しくないので大丈夫だと思います。

 ざっくばらんな方なので、事前の質問書は必要ありません。ぶっつけ本番でいきましょう。面白い話が聞けるかも。数日後、ご連絡します」。加藤事務局長は上機嫌で戻った。

院長インタビューは5日後に決まった。質問書は必要なし。橋本も白紙で臨むことにした。院長室は病院本館の3階だった。応接室に案内されると、ややあって石田院長が姿を見せた。白髪に口ひげ。柔和な物腰だ。

「私、こちらで透析を受けております橋本と申します。インタビューよろしくお願いします」

「はい、はい。加藤事務局長からいろいろ聞いていますよ。なんでも答えますから、どうぞ」

「こちらは地域医療を担っていますが、将来像をどう描いていますか」

「いきなりですか。そうですね。総合病院といってもまだ足りない部分があります。今後を見据えたとき、橋本さんも関係している糖尿病、腎臓病の予防に力を入れたい。

 橋本さんも金看護成師長と一緒に、講演会に参加しましたが、病院がもっと予事業に取り組まないとね。病気だけを診ててはいけない。予防は病院と行政共同作業。この病院を核にしてその体制をつくりたい」

「市はどんな姿勢なのですか」

「はっきり言うと予算面で難しいと。宮田市長は前向きなのですが、議会がネックで。国に働きかけるなどの動きを急がないと」

「糖尿病はいまや国民病とも言われてますから、地域全体で予防に取り組む必要がありす」と橋本。

「その通りです。でもいまは正直、病院と議会側が次期市長選の思惑もあってにらみ合っている。情けない話だよ」

「えっ。そんなこと書いちゃっていいんですか。立場上、まずいのでは・・・」

「いいよ。書いてよ。ほんとのことだから。議員は天狗になっている。おれたちがまちを動かしているんだと。何か勘違いしている」

「シビアな話ですね」

「そうね。書いてもらって、ちょうどいいぐらいだ。はむかうものがいなくてね。そんなに議会は偉いのかい」。石田院長はこの後、病院運営、市民への訴えなどを熱心に話した。 橋本の感想は「すごい人がいたもんだ。興味深い話だったが、どこまで書いていいのやら。でもこれで十分だ。相当、読みごたえのあるインタビューを掲載できるぞ」

 橋本は、透析患者の会茨北支部機関紙の名称を『あおぞら』と決めた。

23動き急。橋本陣営

同じ2月。橋本の市議選出馬を支える幹部の集まりが開かれた。前回と同じ5人のメンバーだ。まず橋本が、

「ご苦労様です。段々と気持ちが盛り上げってきています。“武者震い”です。先日、茨北総合病院の院長に会う機会がありました。

市長と地域医療の整備に取り組んでいるけど、市長選に絡んだ議会側の猛反発で膠着状態のようです。ぜひ、私を議会に送り込んでください。そんな議会を改革したいのです。市民の目線で」とあいさつ。

これに呼応したのは、『いばきた働く女性の会』富山会長。

「どうして議会が反対するの。普段は、“福祉だ。医療整備だ、子育てだ”と主張してるのにね。やってることはそれですか。情けない」。やや興奮していた。

元市議の中山は、

「状況は基本的に変わりありません。無競争の楽観ムード。新人でさえポスター作っていない陣営があるようですから、あとは推して知るべし。2月に入って、一人出馬の動きがありましたが、いつもの選挙屋でした。ますます無競争の空気が蔓延してます」

「中山さん。選挙屋って」と富山女史。

「選挙が無競争のところに現れて出馬を匂わせる。すると、断念するよう働きかけがあり、裏で現金が飛ぶ。ということです。

 この選挙屋が出てくるとますます無競争の声が広まるんですよ」

「へぇー。そんな人がいるんですか」。興奮が収まった富山女史が納得顔。

 話はさらに中山。

「このまま楽観ムードで推移するでしょうから、いつこちらが出馬宣言すればいいのか。

 暮の選挙ですから、一番効果的なのは⒑月ごろだと思います。この時点で出馬の記者会見をやりましょう」

「なるほど。この意見に反論は・・・ないようです。ではそれまでの行動ですね。これも大切です。後藤さん、なにか」と司会役の『いばきたネットワーク』会長の津田。

「もちろん効果的な動きが必要です。黙ってはいられません。ただ、選挙に出るとは言えないところが難しい。一方で名前を売り込まないと。

 私、個人的にはこの地域の“福祉、医療、介護、子育てを考える”というスタンスがいいかと。みなさん興味、関心のある項目です。抽象的なことでなく、改革の具体策を打ち出して訴える。あしたからでもやりましょう」。力が入っている。 

津田自身も「そうですね。それは必勝への第一歩だと思います。あすから準備に入り3月から各地域に入りましょうか」

「異議なし」と一同。津田が続ける。

「それでは、訴える内容については後藤さんの意見を参考に橋本さん、中山さんにお願いします。簡単なパンフレットを作成しましょう」。再度、津田。

「3月からの動きですが、私たち5人いますので、地域を5分割して取り組みたい。いかがでしょうか」

「異議なし」

「それでは住んでるところを中心として機械的に分けます」。津田がしれぞれ地区担当者を決めた。

「ところで女性票はどうですか」。津田が富山女史に話を振った。

「市議選の場合、これまでは女性候補はいませんでした。まとまって票が動くということはありませんでした。

特定候補に肩入れする女性はいますが、それほど目立った動きでない。ですから女性の心をつかんだ人にどっと流れることも十分あると思います。女性の関心は絞られます。後藤さんが指摘された教育、医療、介護、子育てです。

 より具多的な提案があれば、女性には効果的。票の取り込みに直結します。橋本さんにはその面で期待します」

 最後に透析患者の会の後藤支部長が挙手。

「ご存じでしょうが、橋本さんは透析を受けています。その中で頑張っているのですが、もし選挙戦に入ったら差別的な憶測が流れると思います。

 どうか最後まで橋本さんを支えてください。お願いします」。後藤らしい言葉だった。そして、津田が締めた。

「では、橋本さん、中山さんには早いところ施策の骨子を決めていただきます。

出来次第、みなさんに手渡します。それで具体的な動きに取り組んでください」

    ♦

 橋本は時間をみては市民各層に入って“ミニ討論”を始めた。手探りだったが、“自分が率先してやらないと”との決意の表れだった。アパート、商店街、公園でお母さんたちに声をかけた。

 橋本はこの活動のために名刺を作成。『いばきたの福祉、医療を考える会』代表とした。2、3人のお母さんたちに的を絞った。

「こんにちは。このまちの福祉、医療を市民レベルで研究している者です」。これを話のきっかけにしている。続けて「2,3の質問いいですか」。相手は、そんなに拒絶はしない。

「このまちに必要な施設ありますか」質問。

「小児科の専門病院かない。隣町まで行くしかないの」と若いママさん。

「このまちはお年寄りが多い割には、高齢者施設が少ないと思う。デイサービスも1つ、2つでしょ。これじゃね。きめ細かく配置してほしいわ」。中年女性だ。

「ほかに感じていることは」。質問の幅を広げる。

「まちの魅力がない。知人にも自慢するものがない」

「女性の働き口がない。どうにかしてほしい」といった意見も。

 橋本は熱心にメモした。その中で出会ったのが照子ばあさん。今年75歳。現在、一人暮らし。スーパーの休憩所で声をかけた。

「おばあさん、医療や福祉で困っていることありますか」

「病気ばっかりで大変だ。医療のことなんて分らん。でもなわしらの立場にたった病院であってほしいもんじゃ」

「なにかあったのですか」

話を要約すると。いま糖尿病で通院中。この影響で眼科、神経科、歯科、皮膚科にも通っているが大変だと。

「1ケ所の病院で全部診察できるといいのにな。あっちこっちでお金が飛ぶ。タクシー代、診療費がかさんでな。最近は病院行っておらん」

 そのため、糖尿病が悪化。腎臓への影響も懸念されているという。さらに問題が。内科の主治医が腎臓の診療には手をつけずなのだ。検査データで腎臓悪化の数値がでても伝えるだけ。治療をしてくれなかった。指摘したのは何と看護師。

「ほかの病院で腎臓の治療してますか」と尋ねられた。照子ばあさん、この質問の意味が分からなかった。

「こちらでは腎臓は診てくれないの」。そんな質問をした。すると看護師から、とんでもない返事が。

「腎臓の検査データが悪いので専門病院で診てもらってください。ここではちょっと・・・」

「そんなことってあるの。病気を診てくれるのが病院でしょ。それができないなんて。信じられない」。照子はあ然とした。

 ところが腎臓病の自覚症状はなく、そのまま放置。言うに及ばず腎臓病がさらに悪化して、透析一歩手前に。

「もっと早く腎臓病について注意してくれたら。せめて腎臓の専門病院を紹介してほしかった」。照子ばあさん、病気に不信感をもった

 話を聞いた橋本。言葉は悪いが“むかついた”。このまちの医療レベルはそんなものなのか。「病院同士が連携して、患者に適正な対応、指導ができないものか。照子ばあさんは、医療体制不備の犠牲になった。地域の医療体制が整っていたら」。橋本に気合が入った。

 翌日から橋本の動きが一段とヒートアップした。精力的にミニ集会を積み重ねた。

「もし、もしですよ。私が市会議員になったら、何を一番やってほしいですか」

「このまちの改善点は」

「あなたが市長になったら、どんなまちにしたいですか」。今度は積極的に質問して回ったのだ。

 これで具体的な要望を引き出すことができた。

「これが“民意”ってやつか。よーし、やってやろうじゃないか」。橋本の政治的なスタンスが固まりつつあった。

24地域に開かれた病院

 春本番を前にした3月27日の日曜日。橋本が透析を受けている茨北総合病院主催の『春まつり』が開かれた。これは“地域に開かれた病院”を目的に始められたもの。今年で⒑年の節目を迎えた。

 この病院まつりを企画したのは現在の石田院長。就任にあたって強く希望したのが地域とのふれあい。

「特に地方病院は、地域から浮いた存在ではだめ。“地域の一員”としての自覚が必要。

 そのためには、もちろんしっかりとした医療の提供。そして、具体的な地域交流活動が車の両輪。迷わず病院まつりに取り組みました。反対の声もありましたが、いまとなっては杞憂でした。回を重ねるごとに盛り上がっています。

 みんなで楽しむことも目的ですが、一方では病気予防や、最新治療PRなどにも関心が高まっています。病院と地域との相互理解が進んでいるところです」と石田院長。 

 記念すべき⒑回目。玄関ロビーには子どもからお年寄りまで地域の人たちの絵画、書道、ぬり絵、手芸品、木工品などが所狭しに展示。来訪者を歓迎。

「これボクの絵だ」

「おばあちゃんの編み物きれいだわ」と大好評。医師、看護師、事務員など病院スタッフも作品作りに参加。会場は病院とは思えないほど明るいムードに包まれた。

 お昼には記念式典。石田院長は、

「早いもので、このまつりをはじめてもう⒑年です。“地域病院は、市民とともに”というのが私たちの理念です。

 これからも、みなさんの歩調と合わせて頑張ります」とあいさつ。続いて敬老会の田村要会長がゆっくりマイクの前に。

「私たち老人は、病気が一番心配なんです。いつ逝ってもいいや、とか言ってますが本当は一日でも長生きしたんです。

この病院は私たちにとって強い味方です。これからも地域のために、老人のために頑張ってください」と感謝の言葉。石田院長は大きくうなづいた。そして、2人はがっちり握手。期せずして拍手が沸き起こった。

 このあと用意された各ブースがオープン。

 子どもたち向けには「君もブラックジャック」コーナーが人気。白衣に大きなマスクを付けた“ちびっ子医師”が真剣な表情で模造人間にメスを入れたり、きずを縫う作業に集中。外科医師の指導で貴重な体験。様子を見ていた橋本は「そうか。これで子どもたちが医療に興味をもらえたら」と感心。また、女の子は看護に挑戦だ。ベッドのシーツ交換から心臓マッサージ、血圧測定などを体験。真剣な眼差しで取り組んでいた。

 そして、講堂では「病気予防の大切さ」をテーマに医師や看護師が講演。「あれっつ。度コアで聞いた声だな」と橋本はしてーじに目をやった。

「どうしてあの人がここに」。そこには加奈Ⓢ里看護師長がいた。

「みなさん。自分は健康だと思う方、手を挙げて」「ほんとだ。ここから見ると、皆さん顔色が悪いよ」。いつもの話し方だ。

橋本は、2人で取り組んだ会社健康講演会を思い出していた。心が和んだ。話が終わった金成看護師長に駆け寄って「ご苦労さまでした。相変わらずのお話上手で、結構でした」とにっこり。

「あら橋本さん、いたの。あなたもステージにあがればよかったのに」

「来年ぜひ」。今度は金成看護師長がにっこりだ。

日ごろの診察とはまた異なった話に参加者はメモを取ったり、大きくうなづいたり。貴重なひと時だった。

 この後、橋本と石田院長とひそひそ話だ。「院長、こうした活動も大事ですね」。答えて石田院長は「そうなんですよ。地道なことですが、信頼につながると確信してます」

「同感です。ほかの病院も、もっと地域に開かれると素晴らしい地域になりますね」

「おっしゃる通りです。ところで橋本さん。

今度の市議選に出馬するって本当ですか」                                                                           

「院長、どこでその話を」

「私の耳は、地獄耳でね」

「院長。まだ内密に」

「分ったよ。頑張ってくれたまえ」。2人は握手して別れた。その後、この2人がタッグを組んで市政刷新に乗り出すことに。

♦                                                                                                        

 茨北総合病院の春まつりから4ケ月が経過。季節は熱い夏を迎えた。連日30度を突破する猛暑の中、橋本陣営の幹部会議が開かれた。8月5日の日昼下がり。場所は元市議の中山事務所。大汗を流しながら、幹部たちが参集した。

「いやー。暑い、暑い。干上がっちゃうよ」と扇子をばたばたさせてやって来たのば『いばきた福祉ネットワーク』の津田会長。先に来ていた『いばきた働く女性の会』富山会長。『透析患者の会』後藤支部長が「ご苦労様です」と迎え入れた。

そこへ橋本、中山がどっさり資料、書類を抱えて入って来た。

「津田さん。ご無沙汰してます。暑いところ来ていただいて」と橋本。これで幹部会の5人が揃った。そして、もう一人が姿を見せた。なんと茨北総合病院の石田院長だった。h四本とは、病院春まつり以来だった。

「どうもみなさん、お暑つうございます」と言いながら入ってきた。実は、中山に招待されてやって来た。

「みなさん、こちら茨北総合病院の石田院長です。私の古くからの友人です。きょう話し合いに参加します」と中山が紹介した。橋本は「これは一体。どうしたことか」。ことの成り行きがもう一つのみ込めなかった。

 この集合したメンバーは、「福祉の代表者を議会に送り出そう」と新年早々から活動開始。各自、フル回転で橋本の浸透に全力を傾注してきた。橋本を支援する大組織はない。つまり、時間をかけて、コツコツと名前を売り込むしかなかった。

「中山さん、状況はどうですか」。津田が質問した。

「基本的には、これまで通り推移してます。

あと4ケ月後の市議選なのにいたってのんびり。無競争ムードですよ。

 まぁ、無理もありませんがね。このまちは保守地盤。変化を好まず、何事も“なあなあ”でやってきましたからね。

そこには私利私欲がはびこっています。今回の選挙は、代表を議会に送り出すだ議会刷新も目標にしてます。

 現職、新人陣営ともほとんど選挙は手づかず。水面下では選挙後の議会人事の動きさえ表面化しているほど。まったく選挙民を愚弄している。楽しみですよ。橋本さんが出馬表明したときの奴らの顔を見たいもんだ。ショックだろうな」。市議の経験がある中山はにんまりだ。

「富山さんの方は」。津田が富山女史に水を向けた。

「結論を言うと順調そのものです。この間、女性関連の大小の集まりに参加して、橋本さんの訴え、呼びかけを伝えてきました。

 ひとつ感じたことは、特にスローガンだけの主張に飽き飽きしてるということです。選挙や議会の時だけ“福祉の充実”“子育て環境の整備”を口にしても議員は信用できないという雰囲気が充満している。政治不信の極みですよ。

 その中で橋本さんの訴えは、具体的な政策中心。データや市の予算も裏付けにして進むべき方向を示してきた。いつ選挙がはじまってもOKですよ」。言葉に覇気があった。

「あれもこれもでなく、一番関心のある福祉、、医療に絞っての訴えは効果的だ。このままいけば圧勝です。

でもね。このまちを牛耳っている保守系の連中を甘くみてはいけない。そこは十分に気を付けないとな」。津田が引き締めた。

「さすがは百戦錬磨の津田さんだね。その通りですよ。選挙戦になれば相手はなりふり構わずくる。

 思い切って、しかも冷静に戦おうじゃありませんか。我が陣営は、一人ひとりを大切に戦うしかない。肝に銘じましょう」と後藤も慎重さを訴えた。

こうした声を受けて橋本。

「私も各層の方と話し合ってきました。みなさん、変化を望んでいます。正面切っての声にはなっていませんが“長老支配は懲り懲り”という感じでした。

 それだけこのまちの政治は澱んでいるのです。その中からは、希望や生きがい、助け合いといったことは生まれてきません。みんな利己利益に走っている。住民はその空しさに気付いている。

 私たちはその心に火をつけなくては。そして一気に燃え上がりましょう」。橋本は、日に日に演説が上手くなってきた。

 最後に、これまでじっと聞いていた石田院長がゆっくり立ち上がった。

「このまちの様子がよく分かりました。私も医療の面からこのまちを何とかしようと動いてきました。

でもどこかで“待った”がかかってしまいました。きょう原因がはっきりしました。それを打開するため、私も橋本さんを全力で支援します」と宣言した。

この日、橋本出馬の記者会見を⒑月⒖日の日曜日に開催することを決めた。場所は市役所ロビー。月曜日の新聞は行政記事は出ない。行楽地やデパートのイベントなど、いわゆる“ひまネタ”が並ぶ。そこへ、市議選関連の出馬会見がくれば衝撃は倍増する。元市議の中山による戦術だ。

25市長の激白

 いまの橋本にとって唯一ゆっくりできるのは、透析時間だけ。午前⒑時から午後2時までの4時間。ひたすら休養する。熟睡してしまうこともある。

猛暑の中でも室内は涼しく心地よい。目は自然と閉じてしまう。8月⒛日の火曜日もそうだった。

 うとうとしていると肩をたたかれた。「橋本さん、起きてくれる」。確かにそう言われた。そっと目を開けると、そこにいたのはなんと石田院長だった。

「あれ、院長。どうしたんですか」

「すまん。透析が済んだら院長室に来てくれんかな。君に会いたいという人がいてね。待ってるから」

「はい。分りました」。もちろん二つ返事だった。断るなんてできっこない。午後2時過ぎ。遅い昼食を摂って院長室に出向いた。そこにいたのはなんと宮田市長だった。

「橋本さんですか。市長の宮田です。院長に無理言ってしまいました。透析のお疲れのところ申し訳ありません。きょうはぜひあなたと腹を割って話してみたかったのです」

「はぁ」。橋本は生返事だった。いきなり行政のトップから「腹を割って話したい」と言われても。

「まぁ、堅苦しくならんで」。石田院長が割って入った。

 市長の話は生々しい裏話だった。

「橋本さん。市議選に出られるとか。本当ですか」

「はい。もう隠しません。出馬の意向を持っています。年明けから準備も進めてきました。⒑月に出馬の会見を開きます」

「そうですか。素晴らしい心意気です。評価します。これは愚痴になってしまいますが、いまの議会は腐りきっています。

 全議員(定数⒖人)保守系議員。無所属といっても国政を牛耳っている民自党の言うがまま。私利私欲に走り、市民なんてそっちのけ。以前は革新系議員が1,2人いて目を光らせていたのですが。

 いまはその“重し”もなくなり、やりたい放題です。私としても何とかしたいのですが、正直、手が出せない。残念です。

 そんな中、院長からあなたのことを伺いました。お一人じゃ困難ではありますが、議会正常化への一歩として頑張ってほしいのです。私も応援します。この動きが大きくなれば議会は良くなります。きっと」。議会を改革したいという市長の気持ちは十分に伝わってきた。橋本はひとつ合点がいかなかった。それは、

市執行部と議会との関係だった。

「市長。ひとつ聞いていいでしょうか」

「うん。なんだね」

「市長と議会の関係はどうなっているのですか。市長も議員の支援で当選したんじゃないのですか。それがいまごろになって、仲たがいですか」

「それはちょっと言い過ぎだ。失礼だぞ」。いつも穏やかな石田院長が気色ばった。

「いいんだよ。そうだよね。橋本さんのおっしゃる通りだ。その答えを言おう。ちょっとややこしいんだ」が。市長は大きく深呼吸した。

「私が市長に初当選したのには、確かに民自党をバックにした議員の協力があってのこと。心情的には相容れない部分もあったが、当選するには目をつぶった。

 いま考えるとそれがいけなかった。議会に恩を作ってしまった。それでもある程度の余裕はあった。予算などの議案も通してくれた。2期目が終わってのことだった。議会から3選の意思確認をされた。

 それは、執行部と議会の連携をより強めることだ。私は3期目を志していた。止む無く議会側と協定を結んだ。もちろん市民からは見えないところでだ。それからはもう彼らの言うがままに。バカだった。気付いたときには遅かった。

 議会が予算配分し行政に首を突っ込んできた。議会は市民を無視して私利私欲に走った。自分の会社への利益誘導、市人事への介入。

 私はついに議会のボスと決別した。議会は私を見はなした。2年後の市長選に向け、商工会議所会頭の擁立を決めた。私は、お払い箱だよ。でも私は決して後悔してはいない。

 石田院長に聞いてくれ。私は悪性のがんに侵されている。次の選挙はないんだ。でも、このまちの腐った議会を、市政を改革したい。せめて、そのめどを立てて死にたい。私は、石田院長を後継にしたい。彼なら議会とも正々堂々渡り合ってくれる。

 そして、君を議会に送り込んで院長と二人三脚でいい方向に導いてほしんだ。これは私の本心だ。長々とすまんかった。これがすべてだ」。石田院長は下を向いて涙をぬぐった。

 じっと聞いていた橋本。大声で叫びたい衝動にかられた。拳を握り締めた。

 大きなものへの闘争心が沸いてきた。

「おれはいままでなにをしてきたんだ。悔しい。市長、院長。いまここでお二人の心を引き継ぎます」。橋本も男泣き。

「ありがとう。橋本さん。きょう会えて本当に良かった」。宮田市長は橋本の手を握り締めた。橋本の正義感に火が付いた。

「まずおれが議会に殴り込む」。この日、橋本にとって“重たい一日”となった。

26穏やかな一日

橋本は久しぶりに妻佐和子と家でゆっくりと過ごしていた。なにをするでもなく、縁側で冷たいお茶を口にしていた。橋本が突然、

「なあ。おれ変わったかな」と聞いた。

「どうしたの、急に。そうねぇ、変わったよね、やっぱり」。佐和子は慎重な言い回しだった。

「どういうふうに変わった」

「そう言われてもね。ただ、ダメ人間じゃなくなった」

「なにそれ」。二人は苦笑いだ。

「自分じゃどう思ってんの」

「うん。変わったと思う。何だか急に。それが怖いのよ。ほらこれまでは、のほほーんと生きてきたでしょ。

 人と競うのが嫌で、無理な努力もしなかった。そんな人生だった。そして糖尿病に腎全で透析。さすがにショックだった。

 でもいまは感謝すらしてる。人間として大きく変わるというか成長するきっかけになった。貴重な出会いもあった。なんだか昔のおれが遠くに行っちゃった感じなの」。橋本は正直に胸のうちを吐露した。

「それでいいんじゃないの。みんなもそうよ。大小の差はあるけど、少しずつ変わったりする。人間だもんね」。どうしたんだ。あの佐和子が優しいぞ、と橋本。ついでに聞いた。

「あのさ、おれのどこに惚れたの」

「いまさら何よ。そうだね。あのときは会社員だったでしょ。周りが必死で働いて、成績を上げるのに躍起になってさ。いい悪いじゃなくてそうだったよね。そんなときにさ。まるで別世界にいるような感じがした。

 必死さがまるでなかった。頑張ろうなんて気持ちもさらさらない。新鮮だったの。こんな人もいるんだってさ。いつの間にか気になって仕方ない存在になってた。変よね。自分でも分からなかった。そんなところかな」

 橋本はいつの間にか、佐和子のひざ枕で静かな寝息をたてていた。

「もう。この人ったら」

 佐和子は、そっと橋本の頭を座布団に乗せ立ち上がった。リビングに行って手にしたのはフォトブックだった。いろいろな思い出が蘇った。その中で1枚の写真が目に止まった。 営業課の暑気払いの飲み会だった。わいわい飲んでいる中、酔った橋本が佐和子に抱き着き寝込んでいるシーンだった

当時、佐和子はばりばりのキャリアウーマンで出世街道まっしぐら。営業課長だった。橋本は部下だった。先輩橋本は、後輩の佐和子に追い越されてたのだ。

 周囲は、はらはらだったが橋本はまったく意に介さなかった。「人は人。おれはおれ」というタイプだった。佐和子もまた上下関係など無視していた。

「仕事は結果よ」が口ぐせだった。常に営業の数字を追いかけていた。

その佐和子。暑気払いの席で隣にいた橋本に声をかけた。

「ねぇ。橋本さん。私の下で仕事して嫌じゃないの」。佐和子はほどよく酔っていた。一瞬、マジ顔になった橋本だったが。

「嫌だったら会社辞めてるよ」。橋本も酔っていた。

「えっ。なんて言ったの」と佐和子はまぜっかえした。

「だからね。あんたのことが嫌だったら、おれ会社辞めてる」。橋本はみんなに聞こえるぐらいの大声を出した。周囲の同僚たちは「いよっ。お二人さん」「お似合いのカップルだわ」と冷やかした。

 じゃれあった二人を撮ったのが手にした1枚だった。

「若かったね。私たち。ダメ営業社員だったあなたが、まさか市議選に出るとは。そういえば仕事できないのにみんなの中心にいたわね。それが運命だよ。

頑張って」。橋本に声をかけたが、その男は夢の中だった。

27中山のアドバイス

 橋本は宮田市長、石田院長との懇談がまだ鮮明に頭に残っていた。茨北市の地方政治、議会の動き。そして、住民無視の政治勢力など衝撃的な話だった。その中で自分の立つ位置も鮮明になった。

 その橋本にとって、注目の人として急浮上してきたのが石田院長だった。

「本当に次期市長選に出るのか」。この一点だ。宮田市長は明確に「私の後継者」と口にしていた。石田院長がどんな主張をしているのか気になった。

「そうだ。機関紙だ」。橋本は自宅書斎に。透析患者の会いばきた支部機関誌『あおぞら』に院長の連載インタビューを掲載したのを思い出した。4月の創刊号から3回、紙面を割いた。

 橋本がインタビューしたが、正直内容までは覚えていなかった。必至で読み返した。

『医療改革は地域福祉の根幹』『阻む行政との連携』『高齢化に備えた医療と介護』といった見出しが躍った。

「そうか。石田院長は、政治的な人でもあったんだ。宮田市長との関係も説明がつく。あの2人は、市政を住民の手に戻そうと奮闘しているんだ。

 宮田市長は、その一環として私に希望を託した。議会に入って私たちと手を組んでほしいんだ。院長もその考えに賛同した」。橋本は合点した。

 橋本は事情に詳しい元市議の中山に会った。この間の話を持ち出してみた。すると、

「そうか。ぼんやりとは感じていたけど、裏ではそんな話がす進んでいたのか。私も、保守系だったので偉そうなことは言えんが。それにしても最近の議員の動きは目にあまる。

 市長の指摘通りだ。橋本さんよ。今回の市議選は単なる議会だけの話じゃないよ。市政をも牛耳っている連中との闘いになる。なんか武者震いしてくるな。

 それにしてもあの石田さんが市長に意欲があったとはね。保守系議員は、自分たちの意のままになる候補を立ててくることは間違いない。

宮田市長はそう病気のこともあり出馬を回避。確かに後継が注目されるな。橋本さん、気を引き締めてやりましょう」。中山は興奮していた。その橋本も身震いしていた。

「まさか自分がこんなに大事な局面に立たされるとは夢にも思わなかった。でも後戻りはできない。前に進むだけだ」。数奇な人生を感じていた。

 その橋本。中山に聞いた。「中山さん。正直な話、これからどうなるの」

「うん。議会定数は⒖人。保守系議員で占拠されている。今回は現職3人が引退が名乗りをあげた。裏で調整が行われた。そこで手打ち。選挙はなくなった。無競争だった。

 そこへ橋本さんだ。いまの議会を敵に回す勇気ある人だ。また、橋本さんが出馬しても、だれか一人身を引けば無競争になる。 

でもこの場に及んでだれが“貧乏くじ”を引くか。みんな面子もあるし、支持者もいる。引くに引けない状態に。結果的には1人オーバーで選挙になるだろうな。これが私の読みだ」

「なるほど。説得力がりますね」と橋本は感心した。

「でもね」と中山は深刻な表情に。敵さんはそんなに甘くない。手練手管で無競争に持ち込む算段をする。

 つまり橋本さんにも“手を引け”という働きかけは必至。現金を用意したり、弱みに突っ込んでくる。あらゆる手段で引きずり下ろそうとしてくる。まして後に引けない状況だ。汚い手も使ってくるでしょう。橋本さん、しっかりしないと精神的に参ってしまう。心配です。

 私たちも全力で守ります。いいですか。政治はやるか、やられるか。食うか、食われるかです。厳しいもんです。脅すつもりはありませんが、そこにあなたは立とうとしている。そのことを自覚してください。多分、最後には透析のことで攻めてくるでしょう」。中山は真剣だった。

「はい。覚悟します」と橋本は唇をかんだ。

「それと事務報告です。選挙に必要なものはすべて用意できてます。記者会見も準備万端です。

 橋本さん。戸惑うかもしれませんが“いざ出陣”です」

「はい」

    ♦ 

 時は流れ秋の気配。静かなまちに激震が走った。⒑月⒖日の日曜日。市役所ロビーで、

「橋本太郎市議会選挙出馬」の記者会見が開かれた。会場には支持者50人が詰めかけた。

 司会を買って出た津田が静かな口調で切り出した。

「来る⒓月の茨北市議会議員選挙に橋本太郎が出馬いたします。記者の方にはお手元に資料があります。

では早速ですが、橋本太郎から出馬のあいさつをさせていただきます」。スーツ姿の橋本はやや緊張。マイクの前に着席してあいさつした。

「橋本太郎と申します。突然ではありますが、本日ここに市議会議員選挙に出馬することをご報告いたします。

 政治的なキャリアはありません。しかし、住民のみなさん。特にお年寄り、障害のある方、女性のみなさんなどの側に添った声を市政に反映させたいとの思いで出馬を決心した次第です。

 政策的には福祉、医療、介護の向上。教育の振興を掲げております。具体的には、茨北総合病院を核とした医療ネットワークの構築、地域に開かれた介護、福祉施設整備。また、市民各層の交流の場の開設です。

 これまで予算的に後手に回されていた福祉関連予算の充実を目指します。以上です、ご質問があればどうぞ」。橋本は完結に政策を披露した。記者から質問があった。

質問「政治的にはどのようなお立場ですか」

「はい。少なくても保守系ではありません。あえて言うなら市民系としてください。地方政治は保守、革新ではくくれないと思います。いかに市民のみなさんの側に立つかだと思います」

質問「橋本さんの支持基盤は」

「ほかのみなさんのような大きな支持組織はありません」

質問「あなたの出馬で無競争から選挙戦の可能性がでてきましたが」

「ほかの陣営のことは分りません。しっかり政策を訴えるだけです」

質問「勝算はありますか」

「はい。負けるつもりではおりません」

質問「これまではどんなお仕事を」

「ごく普通のサラリーマンでした」

質問「どんな選挙戦を」

「とにかくみなさんと話し合います。それが私の信条です。訴え、耳を傾けていきます」

質問「現在のお仕事は」

「はい。私は透析患者でして週3日通院しています。それもありいまは仕事には就いていません」

質問「議会の反発がると思いますが」

「いまのところはありません。この先のことは分りません」。会場から笑いが起きた。質問はすべて想定内だった。

 ここで仕切っていた津田は思い切った行動に出た。

「お集まりの市民のみなさんはいかがですか」。なんと破天荒な作戦なのか。一人の主婦が手を挙げた。

「本当に通りすがりの者です。ある意味勇気ある行動だと思います。評価します。不安はありませんか」

「正直ちょっとだけ不安はあります。でもそれ以上に、自分がどこまでやれるか。楽しみです」

ここでは「ほーっ」という声が。「ほかの方いかがですか」

「はーい。すいません。地元の女子高生です。3年なので選挙権はあります。政治には関心ありませんが、そんな若い人をどう思いますか」

「厳しい質問ですね。でもいまの若い人たちが政治に無関心なのは仕方ありません。私が高校生のときは毎日ほーっとしてました。

 でも聞いてください。このまちをもっと素敵にするのはみなさんなんです。みんながもっと住みやすくまちにするのもにやさしいまちにするのもみなさんなんです。私も頑張ります。若い人も私以上に頑張ってください。お願します」と丁寧に答えた。するとその女子高生が「分りました。私も頑張ります」と元気な返事。会場は「いいぞ。若いの」といった声が飛んだ。

 この日の記者会見は大成功だった。翌日の各紙は大きく取り扱った。

『一転、大激戦模様』

『保守系に影響必至』

『年末市議選に突入か』

 見出しが躍った。『女子高生も討論参加』といった新聞もあった。橋本の人柄、政策よりも 「どうなる無競争ムード」といったことが注目された。

28危機的な保守陣営

 翌日の市役所は案の定、朝から大騒ぎ。市長室には次から次と来客。すべてが記者会見の一件だった。市でも「今回は無競争」という空気だった。それだけに、橋本の突発的な記者会見は注目された。

「市長は知ってたのかい。橋本ってだれよ」

「大変なことになった。議会側はどうするんだろうか」。そんな声が拡散された。宮田市長は“知らぬ存ぜぬ”を押し通した。

しかし、胸の内は「橋本さん、よくやった。お見事」と絶賛。特に女子高生とのやりとりは好感度をアップさせた。庁舎内は終日、この話で持ち切り。無責任な噂も飛びかった。 これに呼応するかのように職員も仕事そっちのけでひそひそ話。

さらに怒号が飛んだのは議会事務局。橋本出馬を伝える各紙のコピーが手から手に配られた。職員もいつなく緊張した面持ち。その中で奥の応接室から「一体どうなってんだこれは」、「橋本ってだれだ。ここに引っ張り出せ」と大声が飛び交った。

 中でも民自党茨北支部長でもある大物佐藤実の顔色はなかった。新聞各紙を手に、

「ふざけあがってこいつ。なにさまだ。せっかく大金使って無競争にしたのに。まったくどうしてくれよう」。とても議員とは思えない言葉を吐いた。この日、市議選候補の現新⒖人が緊急招集された。

 どの顔も憤慨していた。冒頭、佐藤議員が「私もことの経過が分かりません。バックにだれがいるのか、支持基盤は。分らないことだらけ。みなさんはどうですか」。すると急先鋒の新井信二議員が「佐藤さん、一体どうしてくれるんだ。我が方は選挙なんて予想外。準備なんてしていない。佐藤さん、責任問題になるぞ」。新井が先制攻撃だ。

「そんなことより、この事態にどう対応するかだろ。責任問題はそのあとでもいい」。こう指摘したのは佐藤派の大井五郎市議。午前中、こうした論議が交わされたが、結論は持ち越し。

午後からは、保守系会派『正志会』幹部3人が会議。対策を話し合った。この中で協調されたのが“選挙の回避”策だ。長老の一人作山直樹議員が「こうした事態に至っては、どうにか選挙だけは回避しないと。どんな手を使ってもいい。失敗し戦いになったら我ら保守系は分裂。雲散霧消してしまう。それほどの危機的状況だ」と持論を展開した。

また、大田洋二議員は「こちらでだれか身を引く者はいないのか。その方が早いし、確実だ」。これには佐藤が答えた。「それは無理だ。もう無競争当選のあいさつ回りをしている新人もいるんだ。まったく気の早い奴だ。あみだくじでもやるか」。投げやりだった。

「ばか言え。小学生じゃあるまいし」と太田。結論が出ない。時間だけが刻々と過ぎていくだけ。

再度、作山が口を開いた。

「向うさんの作戦にはまってしったな。ぎりぎりまで無競争ムードにのって、身を潜めていた。

 例の“選挙屋“の一件も落着して、もう大丈夫だとだれしも思った。我が方にスキがあった。まさかもうひと波乱あるとはな。くそー。だれがバックにいるんだ」。感情むき出しだ。

「そんなことどうでもいい。やることをやろうじゃないか。金でもいい、女でも。敵さんの弱みが必ずある。そこに付け入るしかない。時間がない。まずはあすにでも菓子箱もたせよう」。佐藤はにやりとした。

   ♦

「お晩です。橋本さんおりますか」。玄関からの声だった。妻佐和子が対応に出た。男はそっと名刺を差し出した。『民自党茨北支部副支部長 野中明』とあった。佐和子はその名刺を受け取り橋本に手渡した。

「うさん臭い人よ」。佐和子は小声で伝えた。

「分ったよ」。橋本は玄関に。

「橋本さんですね。突然、恐れ入ります。民自党茨北支部総意のもとでお邪魔しております。

 もちろん、市議選の件でお話がありまして。お時間大丈夫でしょうか」

「手短にお願いします」。橋本は冷静を装った。反して心臓は波打っていた。

「これを受け取っていただき、選挙から身を引いてもらいたい」。要するに「金をやるから引っ込め」と言ってるのだ。

「橋本さんが出ると分ったら汚い手も使ってきますから、気をつけて」。中山の話を思い出した。「これがそうか」。橋本は合点した。

「それでお返事はいかがでしょうか」。野中はたたみかけてきた。橋本はちょっと下を向いた後、しっかりと顔をあげて、

「支部のみなさにお伝えください。私を甘くみないでくださいと」。橋本は目いっぱいにいきがって見せた。

「そうですか。分りました。きょうは失礼いたします」。野中はそう言って、菓子箱を抱えて帰った。

「一体、なにを考えているんでしょうね。ばかにしてるわ」。佐和子はご立腹。

「ほんとだね。でもこれで相手に宣戦布告してしまった。もう戻れないぞ。あの菓子箱にいくら入ってたんだろうね」

「さあね」。橋本と妻佐和子、似た者同士だ。

    ♦

 戻った野中。佐藤に結果を報告した。

「そうか。そんなことを言ったのか。生意気な奴だ。怖いもの知らずというか。ふん。これではっきりした。橋本は議会保守系会派『正志会』の牙城を崩しにかかっている。

 なぜだ。げせんな。野中さんよ。おれは腹を決めたぞ。どんな手を使ってもあいつにはこのゲームから降りてもらう。どんな手を使ってもだ。分かるな」

「はい」

「よし。緊急招集だ」。佐藤は自分の立場を考えていた。

「ここで失敗したらおれは終りだ。なんとしても引きずり降ろしてやる」

 翌日。⒖人全員が集まった。まず、佐藤から報告。

「昨日、橋本に菓子箱を届けましたが、受け取りを断られました。相手は、見た目以上に強敵です。一体、なにを思っているのか分りません。

みなさん、政治的に素人なのが一番怖い。捨て身で向かってくるからです。橋本がそうかどうかはまだ班別つきません。だからこそ冷静に対応しなければ」

 しかし、“議員生命”がかかっている者は不満だった。

「そんなことはどうでもいい。これからどうするんですか。佐藤さん、私たちはあなたを信じてついてきたんだ。この落とし前どうつけるんですか」。なんとも物騒なもの言いだ。これに対して佐藤は、

「選挙戦には持ち込みません。そんなことしたら保守系会派は空中分解です。これは絶対に避けなくてはなりません。いかなる手段を使っても」

「信じていいんですね。いまさら選挙準備なんて絶対に無理ですからね。念を押しておきますよ」。議会の急先鋒新井が息まいた。

そうした言葉とは裏腹に選挙準備を急ぐ陣営も出てきた。

「もう親分さんを信用できない。自分の身は自分でしか守れない。生き方の基本だ」と戦いを予想して動き出したのだ。

 事態は橋本陣営の思惑通りに推移している。保守系議員は、疑心暗鬼に陥っていた。

 表面的には一枚岩のように見えても内実はバラバラなのだ。なかには保守陣営に身きりを付け独自の取り組みを模索する者も。

「思った通りだ。地方政治なんて所詮こんなものだよ」。橋本陣営の戦術を練る元市議の中山はひとりほくそ笑んだ。

29妻佐和子の事故

 そんな保守陣営を尻目に橋本は確かな動きに徹した。記者会見も終わった。政策発表も済んだ。あとはゴールに向かって突き進むだけだった。

支持者も日に日に増えていった。これまでの地道な活動が一気に花開いた。各地での“ミニ集会”も盛況になった。

 女子高生たちの姿も目立ってきた。記者会見での女子高生とのやりとりが受けたのだ。保守系議員にはできない。もうなにも隠すことがなくなった。

 市議選候補として正々堂々の呼びかけができた。福祉、介護、医療の訴えには反響があった。

「橋本さん、頑張って」

「みんなの声を聞いてね」。そんな声が広がってきた。地方政治がより身近になってきている。そんな実感があった。“悪”のイメージがある保守系との対決姿勢も、女性たちには新鮮に映った。

 怖いくらい順調だった。暮の市議選が一気に注目され出した。そんなときだった。

「橋本さん、大変です。奥さんが車にはねられました。意識不明の重体です。早く茨北総合病院に行ってください」。事務所から連絡が入った。

「なに。もう一度、はっきりと言ってくれ」。橋本は血の気が引いた。

「まさか。佐和子が。どうして」。夢中で病院に向かった。

 妻佐和子は緊急手術の最中だった。看護師から状態を聞いた。全身打撲、頭部骨折、内臓破裂。出血もひどかったらしい。

「佐和子、頑張ってくれ」。廊下で祈ることしかできない橋本だった。時間だけが過ぎていった。丸田院長が駆け付けた。

「橋本さん、大丈夫ですか」

「院長。どうか佐和子を助けてください。お願いします。橋本は深々と頭を下げた。

「はい。いま全力で対応していますから」。院長も懸命だった。

 時計の針は⒑月24日深夜⒒時を指していた。2人の娘も駆けつけた。

「お母さん、大丈夫なの」

「いま手術してる。全身、大変らしいんだ」。橋本は懸命に落ち着こうとしていた。 

 緊急手術は8時間にも及んだ。全医師で対応している。そして、ついに「手術中」のランプが消えた。同時に、ベッドに横たわった佐和子が出てきた。

「佐和子。大丈夫か。佐和子」。橋本は絶叫した。佐和子はそのまま集中治療室に収容された。

「御主人、応接室にお越しください」。看護師に呼ばれて部屋に入った。手術着のままの医師がいた。

「先生、妻の状態は」

「できることは全部やりました。あとは生きようとする力を信じるだけです」

「そうですか。ありがとうございました」。橋本は頭を下げた。

 橋本は、そのまま佐和子に付き添った。いつの間にか眠り込んでしまった。朝日のまぶしさで起きた橋本。佐和子の様子に目をやったが、意識は戻っていなかった。

「佐和子、早く目覚めてくれよ」。橋本は、佐和子の手を握り締めた。 そこへ、透病院からの析センターの金成看護師長が走り込んできた。病院から連絡が入ったのだ。

「橋本さん。大丈夫ですか」。橋本の身体のことも心配だった。橋本は小さくうなづいた。

「そう、よかった。いま担当医師に聞いたけど奥さんは回復にむかうだろうって」。そして「こんなときなんだけどさ。橋本さん、きょう透析なの。身体の事を考えても間隔は守った方がね」。いつもの強気は影を潜めていた。「金成さん。きょうはだめです。透析は勘弁してください」。金成看護師長は黙ったまま。「ここを離れたくない」

 その時だった。奇跡が起きた。佐和子が静かに目を開けて「透析に行って」とつぶやいた。まるで2人の会話を聞いていたよう。その一言を口にするとまた深い眠りに。

「佐和子、佐和子。起きたのか」。橋本は絶叫した。金成看護師長は担当医を呼びに走った。3人の医師が駆け付けた。

「いま意識が戻ったようで」。金成看護師長が説明したが、医師は首を横に振った。

「残念ですが、もう少し時間がかかりそうです」と種主治医。橋本はじっと佐和子を見つめ、「透析に行くよ。金成さん、お願します」。金成看護師長は「一体あれはなんだったのよ」

 この後、いつも通りの手順で透析を受けた。いつもは陽気にはしゃぐ橋本だが、この日ばかりは神妙だった。4時間の透析が終了した

。集中治療室に戻ろうとした橋本。それを見た金成師長が声をかけた。

「橋本さん、なにも食べてないでしょ。このサンドイッチ食べて」

「でも食べたくないし」

「なに言ってるの。奥さんも頑張っているんからね。橋本さんも食べて元気だして。わたし、奥さんに叱られちゃうから」

「はい。分りました。いただきます」。橋本は素直だった。

    ♦

佐和子のもとに戻ると地元薯の警察官が待っていた。

「ご主人様ですね。私、茨北薯交通課の斉藤です。事故の報告に来ました」

「そうですか。ご苦労様です」。それから書類を手にして報告。

事故があったのは⒑月⒙日午後2時。信号機のある市道交差点。青信号で渡っていた佐和子が軽トラックにはねられたという経過だった。運転していたのは野口一郎。53歳。工員。考え事をしていて赤信号に気付くのが遅れたという。事件性はなく一般の交通事故として処理された。

「以上です。なにかありますか」

「あのー。野口って人。地元の人ですか」

「えーとね。違いますね。しごとでこのまちにきていたようです。なにか不審点でも」

「いえ。ありがとうございました」。警察官は折り目正しく一礼して病室を出た。

とても「背後関係を調べてください」とは言えなかった。橋本は、中山のアドバイスを思い出した。「窮地に追い込まれたら、あいつらはなりふり構わずに、仕掛けてくる。気をつけて」

「佐和子の事故もあいつらの仕業か。可能性は十分にある」。橋本は思い詰めていた。

    ♦

橋本は妻佐和子に話しかけた。

「おれが選挙にでなけりゃこんなことにならずに済んだ。佐和子、許してくれ」。橋本は中山に連絡した。

「今夜、会いたい」

「分った」2人は病院近くの喫茶店で待ち合わせた。橋本が先にきた。

「橋本さん。こんばんは。どうしたんですか」と中山。橋本は立ち上がって一礼した。顔は沈んでいた。

 中山には、それで十分だった。橋本がなにを口にするか分った。

「中山さん、おれもうだめです」。橋本はいきなり結論を切り出した。

「中山さんのアドバイスで覚悟はしてたけど、こんなのもういやです。どうして家内がこんなことに。私じゃなくて、どうして家内なんですか。先日、ポストに野中の名刺が投げ込まれてありました。様子をみにきたんでしょ。私は強い人間じゃなかった。

もうこりごりです。こんな苦しみもうたくさんで。家族を巻き込みたくない」。橋本は抑えていた感情が一気にあふれ出た。

中山はじっと聞いていた。

「それがあいつらの作戦です」なんて言えなかった。

「そうですね。辛いですね。私も、まさかこんなことになるなんて夢にも思わなかった。どこまで非道なんだ」。中山も怒り心頭だった。でもここは自分が冷静にならないと思った。

「橋本さんの胸の内は十分に理解できますが、いまは我慢のしどころです。辛いでしょうが歯を食いしばってください。

 いいですか。橋本さん。1年前のことを思い出してください。いまと随分違っていたはずです。そうです。橋本さんのうしろには、多くのみなさんがついています。橋本さんが立ち上がってくるのをひたすら待っています。申し上げにくいが、あなたはもう奥さんだけのものじゃない。

 そのことだけは忘れないでください」。中山は静かな口調で話しかけた。橋本は黙って唇をかんだ。

「私は、妻と二人でいるいまを大切にしたんです。平凡でも十分に幸せを感じています。いけませんか。

 佐和子は大事な人です。その妻がいま苦しんでいるんです。私はほかに何も手につきません。無責任とののしられていい。妻とふたりでいたい。この時間を大切にしたのです」。橋本は思っていた。

「一番大切なものを失いたくない」と。

 中山はゆっくりとコーヒーを口にした。そして、

「橋本さん。もう十分です。それ以上、言わんでください。ただこれだけは言わせてください。私は最後の最後まであなたを待っています。ではこれで」。中山は静かに店をでた。橋本は、その後ろ姿に一礼した。

    ♦

 中山は憂鬱だった。覚悟はしていたが、あそまで言われるとさすがに辛かった。一方では、橋本の気持ちを支持者に伝えるのも役割だった。自分でも気持ちの整理ができていなかった。

 翌日。津田、後藤、富山女史の幹部を集めた。中山はまず佐和子の病状について「一命を取り留め、まだ意識は戻ってませんが回復の方向です」と説明。富山女史が「そうですか。本当によかった。橋本さんもさぞ辛かったでしょうね」

「はい。辛さが顔にでてます。奥さんがあんなことになって初めて大切さが分かったようです。いつもベッドの脇で付き添っています」よ」

 切り込んできたのは津田。

「それで市議選はどうするのですか。みなさんも知っての通り、保守陣営はがたがたです。千載一遇のチャンスです。

 ここまできては代役も立てられない。そうでしょ、みなさん。確かに奥さんの事が心配なのは分かります。

 でも腐りきった議会を市民の手に戻すという大義はどうするのですか」。もっともな考えだった。後藤も続けた。

「もう選挙戦に入ったのと同じ。無競争ムードをぶち壊し激戦模様だ。ここで一段とギアをあげないと」

 富山女史はちょっと違っていた。

「自分の考えはまだまとまってないけど。橋本さんひとりの問題でしょうか。大切な家族が目まえで苦しんでいる。みなさだったらどうしますか。

 大義のために行動できますか。私は自信ありません。議会刷新はみんなの願いです。ひとりに押し付けるものではありません。以上です」。3人は下を向いてしまった。これをいかにまとめるか。中山の手腕が問われる。

「みなさのお気持ちは分かりました。私たちはいま難しい判断をしなければなりません。

 選択肢は多くありません。橋本さんをあきらめて代役を立てるか。今回の選挙は擁立をあきらめるか。無理にでも橋本さんを引っ張り出すか。このぐらいですかね」と中山。もうひとつは口にしなかった

津田がまとめた。

「多数決で決めるものじゃない。あみだくじ?でもないし。どうすればいいんだ。とりあえずきょうは結論はでない。散会しよう」。この言葉にうながされてそれぞれ帰路についたもう時間はなかった。

30佐藤―野中コンビの焦り

「あいつ、これで思い知ったろう。おれたちを甘くみてたな。どうだ様子は」。市役所議会事務局の一室で“議会のボス”“影の市長”などと揶揄されている佐藤議員がうそぶいた。その話相手は腹心の野中だ。議員ではなく地元商業界の実力者。

 佐藤とは民自党茨北支部の支部長―副支部長の間柄。地元では“汚れ役”の異名をもっている。怖れられている存在だ。

「情報ではかなり参っているようで。かわいい女房が事故で入院とあっちゃ選挙どころじゃないですよ」とにやり。

 あすにでもまた会ってきますよ。その言葉通り、野中は翌日夜、人目を避けるように橋本の自宅にいた。橋本はまだ病院だった。

「ふん。病院か。そうだろうな。きょうはだめかな」。時刻は夜⒑時を過ぎていた。野中は

帰ることを気のしていた。

 一方の橋本は病院にいた。お見舞い客が途切れなかった。橋本は一人ひとり丁寧に対応していた。橋本はいまや時の人になっていた。連日、新聞が取りあげ、その度に議会との軋轢が表面化。橋本は萎える気持ちを奮い立たせた。辛かった。

 この夜は病院に泊まった。ずっと佐和子のそばにいた。

「佐和子、ごめんな。おれのせいだ。選挙に出なかったら、こんなことには」。橋本は後悔した。

 さて、野中は。名刺をポストに入れて戻った。佐藤に報告した。

「そうですか。戻らずですか。病院でしょうね。多分、後悔してますよ。自分のせいだってね。気付くのが遅かったわね」。佐藤はにんまりだ。その佐藤も窮地に追い込まれていた。今回の市議選の無競争は佐藤の発案。「無駄な選挙費用を使いたくない」という。地方議会では、よくあるパターンだ。

 今回も当初うまくいっていた。病気療養、高齢化などで現職3人が引退。新人候補を3人に抑え込めば無競争だ。 佐藤、野中のコンビが中心となって調整してきた。結果、思惑通りになった。突出した“選挙屋”も金でまるめこんだ。みんなが安心していた。 

それがどうだ。身動きできない時点で新人橋本が名乗り出た。

これを上手く処理できなければ「佐藤―野中」の責任問題が浮上することは必死。それだけに佐藤真剣さがめだっている。

「なあ野中さんよ。やばいぞ。おれたち。どうにか3新人から一人を下ろしたい。なにか名案はないか」

「佐藤さん。お気持ちは分かります。でもいま橋本の方を攻めてるところです。結論はまだですが」

「タイムアップだ。なんでもいいから、無競争にせんとな」

「はい。ではあしたから3新人への聞き取りをやりますか」

「うん。手配してくれ」

    ♦

 こうして、前代未聞の調整がスタート。まず呼ばれたのは一番若い鈴木洋一だった。32歳だ。代議士秘書を経て政治家としての道を歩み出したばかり。妥協大嫌いの熱血漢だ。

それしても今回の事態は、不運としか言いようがない。本人一人で市役所の議会事務局にやってきた。

「これはご苦労さん。こちらへどうぞ」。野中が会派応接室に案内した。佐藤がたばこをくゆらせて待っていた。

「大変な状況になってしまって申し訳ない。率直に言おう。今回、ここで身を引いてくれんか。次回はかならず優遇するからどうだ」

 その言葉を予期していた鈴木。きっぱりと言い切った。

「戦わずして身を引くなんてできません。私」だけでなく支持者の総意です。私はどんな状況になっても戦う覚悟です」。その目はまっすぐ佐藤を射抜いていた。圧倒された佐藤。

「そうか。分った。もういいよ」と一言。鈴木は軽く一礼して部屋を出た。

 次は山崎仁。新人のなかでは最高齢の60歳だ。水道業の2代目。若くして親の後を継いだ。苦労人だった。

「山崎さんよ。大変なことになってしまったよ。そこで相談だ。今回、身を引いてはくれんか。状況は分っている。今回にかける気持ちは人一倍だろう。

 でも私の、民自党のピンチなんだよ」。山崎は佐藤の“子飼い”との見方がされていた。

「いや佐藤さん。全然、分っていないよ。私にはこれ以上後に引けない。支持者になんて説明すればいいの。もう選挙後のことにむかって走ってる」

「だろうな。業界のこともあるしな。分ったよ。ご苦労さん」。

「ふー。こりゃ、きついな」。佐藤はつい弱音を吐いた。

 最後は菅野美代。35歳。そう、このまち初の女性候補として注目されている。

「これは外せんぞ。民自党茨北支部の未来がかかっているんだ」。その菅野は支持者と引き連れて姿を見せた。

「正直に話すよ。今回、ここで身を引いてくれんか」。佐藤は彼女を直視できなかった。

「佐藤さん。そりゃないでしょうよ。あなたが頭を下げて、菅野を引っ張りだしたこと。お忘れでないでしょうね」。支持者が代弁したが、その通りだった。

「分った」。佐藤にはそれ以上の言葉がなかった。

 3人への聞き散りが終わって野中が入って来た。

「どうでしたか」

「うん。それぞれ引けない事情があるようでな」

「そうですか」。2人は沈黙した。もちろん調整は不調に終わった。

31佐藤と中山

 そんな保守陣営の“お家騒動”は、橋本陣営にも正確に伝わってきた。

「ふん。苦労してるぜ。佐藤さんは」と元議の中山。佐藤と中山。一時は同じ保守陣営を支える旧知の仲だった。2人で民自党の勢力拡大に力を合わせてきた。

 それがいまでは“犬猿の仲”“水と油”の関係に。なにがあったのか。それは10年前にさかのぼる。市議会議員選挙のときだった。

この時、中山は「政策中心で乗り切ろう」と提言。仲間の市議ときめ細かな政策を練り上げた。

 具体的なプラン、予算措置、条例化などを踏まえた政策集をまとめ、パンフレット化した。「なかなかの力作」という評判だった。

この時点で保守陣営の中核には中山がいた。

 佐藤はこれに反発した。「政策なんか市の職員にまかせればせればいい。議会は、執行と両輪で車を動かす必要がある」と真っ向主張。中山との関係に亀裂が走った。

 佐藤は金で議員を動かした。結果、中山は孤立化して議会の場から姿を消した。当時を知る議員は「いつもピリピリしていた。良く言えば緊張感があったよ。でもな結局、船頭はひとりでよかったんだ。それがすべてだった。

 中傷合戦もひどかったらしい。ある事、ない事。噂も含めて舌戦が繰り広げられた。“うそも百回言えば”の世界だった。

 中山はこの身内との闘いい疲労困憊だった。「どうして仲間同士がいがみあうんだ」と常に口にしていた。その中山が、佐藤と袂を分かった直接の要因は。

「中山は佐藤に多額の借金がる。なのに佐藤を無視している」と悪口を流布されたこと。もちろん、そんな事実はなかった。しかし、“言ったもん勝ち”だった。中山はいちいち反論するのがばからしくなっていた。

 結果、佐藤は我がもののように議会を支配していった。執行部への影響力も強めていった。もう怖いものなしだった。これが二人の関係だった。

 お互いを知り尽くしていた。佐藤にしてみれば「宿敵中山は政治から足を洗った」と。しかし、中山はしっかりと“復讐の日”を見据えていた。

 そして、ついにその日が来た。しかし、想定外のことが起きてしまった。それは、佐和子の事故だ。中山はバックで佐藤が関わっていると確信している。

「ある程度のことは仕掛けてくるとは思っていたが、まさか、そこまでやるか」と中山。佐藤陣営に一気にダメージを与える大きなチャンスだった。

 それが、「大将が戦いの場から去ってしまた」のだ。もちろん大将とは、橋本のこと。妻佐和子が事故入院したあとずっと付き添っている。

「仕方ないよな。夫婦だもんな。出てこいとは言えない」と中山。橋本は、そんな中山のJ胸中を察していた。橋本は、中山だけには本心を伝えていた。

「中山さん。おれもうだめだ。こんなに弱い人間だったとは。妻が心配で身体が動かない。それでは、佐藤陣営の思うつぼかも知れない。えでもこうなってみて分ったんです。妻は私のすべたなんです。

 妻がベッドで苦しんでいるんです。この私がそばにいないと」。橋本の言葉には力がなかった。

「いいんですよ、橋本さん。私たちは、ゆっくり待っていますから」。中山の本心ではなかった。しかし、「一日でもはやく戻って来て」とは口にできなかった。改めて佐藤の非道さを痛感した。

 その中山、橋本との連絡役になっている。事務所には「橋本さん大丈夫ですか」「いつごろ復帰できるんですか」といった質問が相次いだ。

    ♦

 この2人。意外な所で鉢合わせした。市長室だった。佐藤は頻繁に市長室を訪れている。もちろんフリーパス。アポなんて取らない。いつもふらっと姿を見せる。

「市長いる」。これだけ言うと、おかまいなしに市長室に。宮田市長はたまったものでない。表面的には“大人のつきあい”に徹しているものの、正直うんざりしていた。

 その横暴な態度に「佐藤さん、こちらにも都合がというものがありまして」と、ちょっとだけ苦言を呈した秘書課長がいた。当然の職務だった。しかし、僅か1週間後に左遷された。議会側から横やりが入ったのだ。それほど佐藤の力は絶大なものだった。市庁舎内を我が物顔で闊歩(かっぽ)している。

 その市長室に中山が足を運んだ。「もう二度と来ることはない」と思っていた市長室の前に立った。佐藤とともに、議会をまとめていたころの自分が蘇ってきた。

 中山が市長室を訪問したのは、決して政治的な動きではなかった。実は、中山。議員を引退した語、物書きを生業にしていた。面倒な人付き合いもない。“買った、負けた”もない世界だ。自分には適した仕事だと思っていた。

 その中で市長インンタビューの仕事が舞い込んできた。もちろん当初は気のりしなかった。でもそこは個人事業のつらさ。 思ってた以上のギャラを提示され、つい引き受けてしまったのだ。そのインタビューのため市長室にやってきたのだ。

 時間調整のズレで待機していたところ、

「市長いる」とのだみ声が。ふと顔をあげると佐藤がいた。佐藤も中山に気付いた。芽と目が合った。先に声をかけたのは佐藤の方だった。

「これは、これは。大変、ご無沙汰しておりまして。その後、どうしているのですか」。自分のもとから離れていった男に皮肉たっぷりの言葉を投げかけた。

 中山は黙っていた。すると、佐藤が「そうか。お前か。橋本のバックにいるのは」。政治家の勘は鋭い。さらに「市長ともつるんでいたか」。佐藤は政治家らしからぬ暴言を吐き捨て、市長に会わずに帰った。

 その後、中山は淡々とインタビューをこなした。宮田市長と別れ際に「先ほどそこで佐藤氏に・・・」。市長の反応は早かった。「そうでしたか。お辛い想いだったでしょう。申し訳ないことを」

「いえ、いえ。大丈夫です。私も大人ですから」と笑ってみせた。

「でも十分気をつけてくださいよ。余計な詮索をされますからね」

「ありがとうございます。では失礼します」。2人はがっちり握手して別れた。

「余計な詮索か」。中山は市長の言葉を反復した。

32目覚めた佐和子 

 事故にあい入院していた佐和子が、ついにに目覚めた。いつものように橋本が付き添っていたが、握っていた佐和子の手がピクツと動いた。深夜2時ごろだった。

「佐和子、佐和子」。橋本は必死で妻の名前を呼び続けた。

すると佐和子は静かに目を開けた。

「佐和子。おれだ。もう大丈夫だ」。橋本は喜びの絶頂に。当直の看護師を読んだ。

「妻が目覚めました」。看護師は、主治医を呼びに走った。・間もなく2人の医師が飛んできた。

「御主人さん。ちょっと廊下でお待ちくださ」と看護師に促された。医師は血圧、体温、脈拍。手足の動きなどを検査した。そして「御主人。詳しい検査が必要ですが、いまのところ後遺症もないようです。

いま様子をみながらお湯、おかゆを出します。ゆっくり口にするようリードしてください」。間もなく看護師がお湯を持ってきた。上半身を起こして、少しのお湯を口に運んだ。

「どうだ。佐和子、おいしいか」

「うん。とってもおいしいわ」。佐和子の顔が赤みを帯びてきた。

「私、事故にあったのは覚えてるけど」

「そうだよ。おれが透析を受けている病院に運ばれたんだ。心配したよ」

「ごめんね。痛っ」と佐和子。まだ、かなり痛むようだった。

「痛み止め打ちますね」。看護師は手際よく注射を打った。

「御主人さん。なにかあったら呼んでください」。看護師はそう言って戻った。

「傷はまだ痛むか。でも日に日に回復するからな。焦らずゆっくりとな」。橋本は自分に言い聞かせているようだった。その夜は静かに過ぎた。

 翌日、佐和子は朝からいろいろな検査を受けた。半日を費やした。橋本、佐和子は主治医に呼ばれた。

「検査の結果は良好です。あとは栄養を付けて少しだけリハビリです。ご主人さんもご一緒に」。佐和子は車いすだった。

「頑張ろうな」

「はい」。橋本は、佐和子を愛おしく感じた。佐和子は一日ごとに回復した。リハビリセンターで頑張る佐和子を見つめるのが日課となった。

 昼食後。「屋上にいきたい」と佐和子。看護師の許可を得て車いすで5階の屋上に行った。秋の空気が少しひんやりとした。

「寒くない」

「うん。気持ちいいね」

「あのさ。おれのせいでこんなことになってしまった。ごめんな」

「なに言ってるの。私は営業の世界を渡り歩いた強い女よ」

「そうだったね。あとね。事故のことだけど。運転してたのは中年の工員で。信号を見落としたらしいよ」

「そうかしら。ぶつかる瞬間、運転手の目が合った。恐ろしい目つきだった」

「そうか。分った」。橋本は、ゆっくりと部屋に戻った。

 佐和子の頑張りは病院でも評判となっていた。理学療法士からいつも「無理しないでね。ご主人、見張ってて」とからかわれた。幸せな時間が流れた。佐和子は順調に体力が回復して退院できた。

 自宅でゆっくり静養していた佐和子。急に思い出したように 「選挙はどうしたの。私はもう大丈夫よ。みんなが待ってるよ。早く行ってあげて」

「もういいんだ。おれ、ずっと一緒にいると決めたんだ」

「まるで駄々っ子だね。それじゃ、向うさんの思うつぼじゃないの。私、そんなの嫌よ。議会を変えるんでしょ。みんなの幸せはどうするのよ」。佐和子は涙目だった。

「おまえってやつは。負けたよ。課長殿。外回り行ってきます」

「はい。大きな契約お願いしますよ」。橋本は会社員時代を思い出した。

自宅を飛び出した橋本。町内の事務所に行った。

「みなさん。・お待たせいたしました。私、橋本。妻に叱られて戻ってきました。よろしくです」。いつもの橋本だった。

「とすると奥さん・・・」と富山女史。

「はい。おかげさまで無事、退院しました」

「そうですか。よかったですね。みんな心配してたんですよ」と中山。

 中山が口にしなかったもう一つの選択肢。それは佐和子だった。「目覚めれば必ず橋本を説得するはず。選挙頑張れ」と。そのシナリオ通りになった。

「よーし。みんな、大将が戦場にもどってきたぞ。戦いはこれからだ」。津田の声が響き渡った。

 これで橋本陣営は一気に前進した。アック地区でもミニ集会、企業訪問。街中で若い人を見つけては飛び込んだ。いっそう活動に熱が入った。陣営に集まる支持者も増加していった。これまでの市議選では見られなかったほどアットホームな事務所になった。一角に託児所を開設。みんなで子どもの面倒をみた。ママさんは安心してフル回転。このとき中山は確信した。「トップ当選」を。

    ♦

 “橋本復帰”のニュースは保守陣営にも流れた。佐藤は腹心の野中を呼びつけた。

「野中さんよ。これどうしたの。橋本はベッドの奥さんの脇ですっかり萎えたんじゃなかったの」。いきり立っていた。野中の顔色はなかった。

「まさか。そんなこと」。慌てふためいた。

「橋本は下りない。うちらの3新人もだ。これでは選挙になる。おれの顔は丸つぶれだ。なんとかならんのか」

「最後の手段があります。さっそく取りかかります」

 そんなことを話しているうちも現新各陣営から問い合わせ殺到。

「どうしたんだ。橋本が出てきたぞ」

「なにが無競争だ。責任取れ」

 あげくの果ては「いまのままじゃ戦えん。離党する」といった声も。橋本一人にズタズタにされた。選挙分析の各紙予想では、どこも橋本がトップ当選の勢い。反して保守陣営は足の引っ張り合い。選挙態勢の遅れも目立っているとしている。

 こうなると橋本に取材陣が日産。記事に登場するたびに票が伸びた。

「いい状況だが、気を緩めるな。またなにか仕掛けてくるぞ」。中山は慎重だった。

そして“政敵”佐藤は崖っぷちだった。どうにも無競争が見えてこないのだ。そればかりか、日に日に橋本の勢いがましている。このまま選挙戦に突入し、保守系の一角が崩されたら、自分の責任問題が浮上することは皮脂。政治的な影響力も失ってしまう。

東京の田中貫太郎代議士事務所に電話が入った。

「私、茨北市の佐藤と申します。先生にご連絡がありまして」

「お世話になっております。秘書の菊田です。ご用件は」

「実は地元の市議会議員選挙が混乱しておりまして、先生のお力をお借りしたいと思いまして

「そうですか。お急ぎのようですね。分りました。ここ数日は時間が取れますので、急ぎ地元に向かわせます。どうぞ連絡をお待ちください」

 田中代議士は、茨北市を選挙区の衆議院議員。現在、5期目。そろそろ入閣の声もある実力者。民自党茨城県連会長でもある。

「あー。田中です。どうもご無沙汰しております。地元はいかがですかな」

「先生。恐れ入ります。実は茨北市議選で窮地に追い込まれています。

 情けないことです。もう先生のお力をお借りするしかございません」

「分りました。あすお目にかかりましょう」

翌日午後。茨北ホテルの一室に田中代議士、佐藤、野中の姿があった。あいさつもそこそこに「確か今回の市議選は無競争では」

「先生のお力添いでそのように推移しておりました。ところが跳ねっかえりが現れまして。対応はしたのですが、不調に終わりましていまのままでは選挙に」

「困ったな。我が陣営で身を引く者はおらんのか。金を握らせれば済むはなしじゃないのか」。なんとも物騒な話だ。

「はい。あてのある者と面談したのですが、私の不徳のいたすところで実を結びませんでした」

「そうですか。それで、跳ねっかえりはだれなのですか」

「はい。橋本太郎といいまして、福祉関連の者です」

「政治的なキャリアは」

「まったくありません」

「おいおい。そんなやつ無視したらいい。どうせ金目当ての選挙屋だろうよ」

「それが日ごとに勢いをましており、新聞社の分析ではほっとけないようで」

「佐藤君としたことが。そんなことも解決できんのか」

「申し訳ございません」

「橋本は単独か」

「いえ。実は先生もご存じの元市議中山がバックにいるようで、手をこまねいております。なにとぞお助けください」

「そうですか。話は分かりました。でもね、佐藤君。私たちは選挙を恐れてはいけません。むしろ歓迎しなくてはね。きょうはこれで帰りますよ」

「はい。ご足労ありがとうございました」

田中は帰りの車中で「まったく使えんやつだ」

    ♦

「中山さーん。電話ですよ」

「はい。中山ですが」

「お忙しいところあいすいません。私、田中代議士の秘書の加藤ともうします。大至急、東京にお越しいただけませんか」

「何用で」

「田中が一献かたむけたいと」

「分りました」。腹の探り合いだ。2日後、中山は東京にいた。指定された老舗割烹に。応接室に通された。間もなくして田中が現れた。十数年ぶりの再会だった。

「どうも。中山君。お呼び立てして申し訳なかったな」。2人は、静かな離れに移動した。さっそくお酒に季節の料理が運ばれてきた。

「あとはもういいから」。田中は、あいさつにきた女将に一言。

 田中は、徳利を差し出しながら、話し始めた。

「久しぶりだな。元気そうでなによりだ」

「いえ、先生こそ。間もなくご入閣のようで。おめでとうございます」

「いや、私はまだまだ」。政治家同士の口調だった。

「ところでだが。中山君よ。私の顔をたてるつもりで、静かにしてくれんか」。これで話は通じた。中山はじっと考えて。

「先生の意向に添いたい気持ちはあります。でもそれは私個人の場合です。今回は、議会を刷新したいという男に共感してのこと。気持ちは曲げられません」。中山はきっぱり答えた。

「そうか・手弁当か」

「はい」

「議会はだめか。一枚岩になったとの話があったが」

「はい。確かに一枚岩かも知れません。でも権力が集中しすぎて。弊害です」

「佐藤のことか」

「はい。申しにくいのですが、私利私欲に走っています。いずれ有権者の良識につぶされると」

「分かったよ。もう言うな。あのとき中山君の方が民自党に残ってたら。いい支部ができたろうに。誤算だった。

すまん。小用がってな。失敬するよ。せっかくだ。ゆっくりと料理を楽しんでくれたまえ」

「ありがとうどざいます」。この間、わずか20分だった。

 この夜。田中代議士秘書から佐藤に電話が入った。

「万策尽きました。どうか戦いを怖れることなく、とのことです」。佐藤は信じられなかった。

「あのおやじ。いったいなにがあったんだ」。

これで選挙戦突入がほぼ決まった。季節は冬到来を告げていた。⒒月9日。寒い1日だった。

33差別助長の宣伝ビラ

「このビラ見ましたか。なんですか、これは」。支持者の一人が息せき切って事務所に駆け込んできた。その手にB4 サイズのビラが握られていた。

「落ち着いて。どうしたんですか」と事務局員。ビラを目にして愕然とした。

『透析患者に議会活動は無理!』

『身勝手な独りよがりの動き』

『周囲も漢化され冷静さ見失う』

 こんな大見出しが見た人に、強烈なインパクトを与えた。事務所にいた透析患者の会茨北支部の後藤会長の手が打ち震えていた。

「一体だれの仕業だ。こんなこと。訴えてやる。醜い差別だ」。中山もおっとりと出てきた。そのビラに目を通した。自分の気持を抑えて

「後藤さん、落ち着いて。まだ選挙に入っていません。訴えるにしても、発行者名がありません。

明らかに、人を陥れるたぐいのもの。こんな手を使うのは、自分たちの危機感の表れです。ところで橋本さんは」

「ミニ集会に出てます。予定ではもうすぐ戻ります」。5分後、橋本が帰ってきた。その手にはすでに問題のビラが握りしめていた。その目は真っ赤だった。

「集会で支持者から提出されました。きょうは、この話題ばっかり。まったくだめでした。辛いです。こんなの」。橋本は、打ちひしがれていた。

「橋本さん。とりあえず奥へ」。中山は橋本をみんなの前に置いておけなかった。

このとき事務所にいた幹部は、中山、後藤の2人。間もなくして、『いばらき福祉ネットワーク』の津田会長、『いばきた働く女性の会』富山会長も大汗で戻って来た。

「これ、これよ。なによこれ」。富山女史の言葉は意味不明。でも気持ちは十分に伝わってきた。津田は冷静だった。

「敵さんも、相当焦っているようだ。人間、追い込まれると見境つかなくなる」

分ってはいても収まらない胸のうちは同じだった。橋本は、終始頭を下げたまま言葉もなかった。そして、ぼそっと言葉を発した。

「中山さん。教えてください。これが選挙ですか」。中山は、橋本の肩に手をいちぇ、

「残念だが、これが選挙です。橋本さん、現実を直視しましょう」。

そおときだった。事務所入り口からとてつもない元気な声が届いた。

「うちのいますか。奥さんが訪ねてきたと伝えてくださーい」。橋本の妻佐和子だった。

「おいおい。こっちに入って」。落ち込んでいた橋本。機敏に動いていた。

「どうして、ここへ」。橋本は当然のことを聞いた」

「どうして?実は私もそのビラを見つけまして。さぞ、あなたが落ち込んでいると思って。飛んできたんです。

 こんなものどうってことありません。あなたが透析を受けているのは本当のこと。そうでしょ。だから、まずはそのことをみなさんに正直に話すこと。透析をうけていることはけっして恥じゃない。生きることなんです。

 みなさんが、そのことを理解してくれないときは潔く身を引きなさい。向うさんが喜ぶでしょうけど。あなたは大きな人間です。いまこそ、その大きさを私にも見せてください。・では、お邪魔しました。帰ります」。佐和子はにっこり笑顔だった。

 その姿にまず自身透析患者でもある

後藤が「そうだ。その通りだ」と声をかけた。佐和子はまるで映画のシーンみたいに右手を軽くあげて消えた。

「橋本さん。いい奥さんですね」と後藤。橋本はちょっと頭をかいた。

    ♦

 翌日のこと。支持者がまたビラを手に駈け込んで来た。

「みなさん。大変です。これを見てください」と1枚のビラを差し出した。

「またか。今度はどんなものだ。もう驚かないぞ」。後藤が奥から姿を見せた。ビラを目にして驚いた。

『それでも私は橋本さんを支持する』

『病院の責任者として反論する』

『“共生の地域社会を目指して』

見出しは“共栄社会の実現”を高らかに謳っている。そして、『茨北総合病院 丸田  院 院長』と明記。

この中での丸田院長。

「先に配布されたビラは橋本さんを陥れようとしたの。これは明らかです。反論するような内容ではありません。

特に“透析患者は議会活動は無理”というくだりは、時代錯誤もはなはなだしい、排除の論理。私は、許せませんでした。それは、私たちが目指す“共生社会”を真っ向から否定するものだからです。

確かに、橋本さんは私の病院で透析を受けています。少し時間的に大変かも知れません。でもそれは市議会議員を目指す橋本さんにとって、市民のみなさんの役に立ちたいという橋本さんにとってなんら問題になるものではありません。

むしろ、彼は透析を受け始めて人間的に成長しています。彼は、患者さんと地域の子どもたちとのふれあい活動を実現させました。

障害者のみなさんが、学び、働く施設に飛び込んでは、音楽の楽しさを分かち合っています。透析の現場を目にしたちびっ子は、「医者になる」と動機付けられたそうです。

障害のある若者たちも地域社会の一員です。みなさん頭ではわかっていても行動で示すことは難しいものです。しかし、橋本さんはさらりとやってのけるのです。

市内の企業に足を運んでは、自分の経験を隠すことなく披歴して、病気予防の大切さを呼びかけましたん。それは橋本さんが人間が大好きだからです。

だからこそ地域社会を大切にしているのです。そこに生きるみなさんを大切にしています。そんな彼をだれが誹謗できるでしょうか。彼こそ市議会議員に一番ふさわしい人です。私たちの社会は支え合っています。障害があろうが、なかろうが地域から排除されるものではありません。

障害者、人種が排斥されてなにがあったでしょうか。歴史が証明しています。地方もでも排斥する社会であってはなりません。

“排除でなく助け合うもの”です。橋本さんは時間的に制限をうけています。でも市議会は、排斥するのでなく一緒に活動できるようちょっとだけ配慮すればいいのです。

それが共生です。議会が率先して示すべきものです。橋本さんは透析患者です。私は、それでも彼を支持します」と見事な持論を展開した。

橋本と関わった子ども、お年寄り、ママさんたちも「橋本さん、頑張れ!」のメッセージを寄せた。橋本という男。なんという幸せ

者なのか。

 この石田院長の主張は、多くの感動を呼んだ。橋本事務所には、茨北総合病院のお祭りに参加していた人たちが大挙して押し寄せた。

「病院祭りに来たのは橋本さんだけ。あとJの市議会議員はだれも来なかった」と口ぐちに。橋本指示活動に大きな役割を果たした。

「橋本さんを市議会に送り出そう」の声は一段と大きく、力強くなった。

34宮田市長死去

「橋本さん。すぐ病院に行ってください。市長が大変です」。電話番をしていた支持者が大声をあげた。

「一体どうしたんですか」

「宮田市長が倒れたようです。危ないとのことです」

「分った。すぐに行きます」。橋本は病院に急行した。緊急外来には市長の肉親たちが集まっていた。  

宮田市長は駆けつけた橋本に気付くと力のない口調で、「あとのこと頼んだよ。院長が市長選に出るからな」。これが最後の言葉だった。

「市長は悪性の胃癌でした。急に病状が悪化して。このまちは大事な人を失った。良識ある政治家でした。橋本さん、これから大変ですよ」。石田院長は静かに語った。

「はい。覚悟してます」

 “宮田市長死去”の一報はすぐに市内を駆け巡った。秘書課には問い合わせやの電話が殺到。庁内放送で「宮田市長が亡くなりました」と伝えた。

「本当か。このまちはどうなるんだ」

「惜しい人を亡くした」

「突然すぎた。元気だと思っていたのに」と職員たちは困惑顔。仕事も手につかない。来庁していた市民も驚きの表情。良識派の市長だっただけにショックは大きかった。

悲しんでばかりはいられない。同市選挙委員会は、市長選挙を市議選と同じ⒓月⒑日の投開票と決めた。予定では2年後だった市長選。前倒しで市議選とのダブル選挙となった。注目されたのは宮田市長の後継者。市長の水木淳後援会長。「亡き宮田の意志で、茨北総合病院の石田院長を後継として指名します。後日、記者会見させていただきます」と公表した。

 これには町中が驚いた。

「あの病院の院長か」

「こりゃ大変なことになったぞ」

「市長と市議選のダブル選か。騒がしくなるな」。静かな年末を迎えるはずだった茨北市が一転した。

一躍注目の人となった石田院長、中山、そして橋本の3人が集まっていた。

「宮田市長が、“ダブル選挙になる、橋本さんたちと行動を共にしてくれ”と口にしていました。

 私は選挙に関してはまったく素人です。みなさんの協力をお願いします」と石田院長が頭を下げた。

「そうですか。宮田さんらいいね。分りました。同じ事務所で動きましょう。効率的です」と中山。“作戦本部長”らしい発想だった。

「院長。よろしくお願いします。このまちのために力を合わせましょう」。橋本は右手を差し出した。2人はがっちり握手した。ここに、新たな地域政治の組織『いばきた市民の会』が発足した。

これと同時に石田院長は病院を辞めた。退路を断った。大学の後輩で東京でクリニックを開業している高田守が新院長に就任した。高田院長は、地域住民の生活に寄り添った医療を目指して大学病院を飛び出した気骨ある人物。石田とは同じ医学研究会のメンバーとして知己があった、

 市長選に関し、一方の保守系陣営の動きは明らかにお粗末。肝心の市議連中が自分の選挙で精いっぱい。とても市長選まで手が回らなかったが、それで済んだ。今回、出馬する石田は宮田市長の後継者。保守系にしてみると“弔い合戦”を相手にする構図。とても勝ち目はない。

石田の無競争は確実だ。一時、商工会議所役員の名があがったが、たち消えた。ほかの人物が出馬できる余地はなかった。

 しかし、中山は「選挙は最後までどうなるか分らない。楽観は禁物です」と陣営を引き締めた。市長、市議選の統一組織として誕生した「市民の会」代表には中山が就いた。元市議の中山も人望があり、「そうか。中山が推すなら大丈夫だ」との声も。

    ♦

さぁ、いよいよ師走。選挙の季節がやって来た。一足早く告示されたのが市長選挙。宮田市長の死去に伴うもの。選挙には市長に後継指名された茨北市総合病院の石田昇前院長が出馬。

商店街特設会場で出陣式。まず、選挙母体「市民の会」の中山代表が「みなさん。いよいよこのときがやってきました。立候補しました石田は、宮田前市長の信頼もあつくこれからのまちにとって最適人です。

まちづくり、人作りに努力した前市長の想いをしっかり引き継ぎます」とあいさつ。

続いて石田候補迎えています。が登壇。

「私はいま人生最大の決断のとき迎えています。そして、みなさんがそんな私を支えてくれています。そのことを決して忘れずご期待に応えます。

地域医療の整備はもちろん介護、福祉との連携にも力を入れます。これまでの予算編成を福祉関連に大きくシフト。みんなが住みやすい福祉のまちづくりを推進します」とあいさつ。この後、特設会場で色とりどりの風船飛ばし、ミニゲーム。屋台も立並びまるでお祭りムード。それがさらに人をよんだ。

結局、この日、ほかに立候補の届け出がなく石田候補の初当選が決まった。同夜、選挙事務所では祝勝会が開かれた。会場中央には

笑顔の宮田前市長の遺影を設置。石田は、

「宮田さん、ありがとうございました。おかげさまで当選できました。市民生活向上を目標に頑張ります。見守ってください。あと橋本さんのこともよろしく」と報告。あとから事務所にやって来た橋本とがっちり握手。

「市役所でお待ちしてます」と石田。「はい。あとから続きます」と橋本。2人の決意が交錯した。

     ♦

 次はいよいよ市議選だ。予想通り保守系の無競争は不調に終わり、定員1人オ^-バーの大激戦模様となった。

 公示日。橋本は験を担ぐいで石田市長と井同じ場所を第一声の場所に選択。神社での必勝祈願は避けた。商店街の地区節会場には、お年寄り、ママさん、会社員まで広範な支持者300人が大きな輪を作った。

 まず中山市民の会代表が、「市長選は、石田さんが無競争当選しました。見事でした。続いて橋本さんの番です。橋本さんはこの1年、各所でミニ集会を開催して主張を訴えてきました。最初は小さな反応でした。

 正直、大丈夫かなと心配しました。しれは杞憂でした。日に日に大きな渦となりました。 それは議会刷新のうねりでした。

 ここに、こんなにたくさんの人が集まってくれました。それは橋本さんへの期待の大きさです。最後までよろしくお願いします」とあいさつ。

 橋本候補は「みなさん、きょうの青い空を見てください。心洗われるような清々しさです。私は、みなさんのご期待を裏切りません。みなさんと一緒に歩んでいきます。

 このまちで一番取組みが立ち遅れているのは医療、福祉、介護です。いままでの市議は口にはしても、実行することはありませんでした。それにみなさんが気付いてしまいました。これから本当の豊かな地域づくりが始まります。みなさんが主役です。

 私と一緒に前に、前にすすんでいきましょう」と力強く宣言した。会場の隅っこいた妻

佐和子は涙を抑えることができなかった。

出陣式では、恒例となった風船飛ばしで大盛り上がり。このあと橋本の応援歌となった『一人の小さな手』を大合唱。

♪一人の小さな手 なにもできないけどみんなの手とひとりのちいさな手 なにもできないけど みんなの手と手が集まれば なにかできるがあつまればきっとできる

 『市民の会』にふさわしい歌だ。集まった

約300人で何回もリピート。一体感が生まれた。

 5日間の選挙戦はあっという間に過ぎ投票日となった。激しい選挙戦だった。それでも橋本は透析を受けた。興奮した気持ちを透析で鎮めた。

 今回の有権者数は約2万人。ボーダーラインは1票台。即日開票された。各陣営の支持者が会場の茨北市民体育館に姿を見せた。いわゆる泡沫候補はいなかった。まれにみる大激戦となった。開票が発表される度に緊張感が走った。

 さて、投票結果は。戦前の予想通り橋本が5千票を獲得。トップ当選した。あとは保守系同士のつぶし合いとなった。その結果、落選したのはなんと佐藤  。わずか50票差で涙をのんだ。これには町中が驚いた。

「本当かよ。あの大物が」

「佐藤の時代は終わったな」

「保守系は分裂か」

 いろいろな声が飛んだ。いずれも的を外いしてはいなかった。

 これを尻目に喜びに沸く橋本の選挙事務所だった。

「おめでとう。よかった」

「このまちの良識が保たれた」

「市長とのコンビが楽しみだ」と歓喜の声があがった。橋本は「みなさん、最後までありがとうございました。

 心から感謝します。みなさんの気持ちは、私の気持ちと一緒です。今のところ議会ではまだ保守家が圧倒的な議席ですが、もう無茶運営はできません。みなさんの目があるからです。

 私ひとりでも石田市長という理解者がいます。そして、みなさんもいます。一緒に住みやすい地域づくりをすすめましょう」とあいさつ。ジュースで祝杯をあげた。

35内田を大抜擢の人事

 茨北市の石田新市長は「仕事収め」直前の⒓月27日に初都庁し意欲をみせた。この日午前⒑時、50人の支持者に見守られ歩いて登場。玄関先で女子職員から花束を受け取り庁舎内に。2階の市長室に入ると早速、幹部職員を集めて町議を開催。

 まず、副市長の斉藤健一が「市長就任おめでとうございます。いま当市は大きな曲がり角にあります。市政運営をいかに展開するか、注目されています。石田市長にあっては、健康に留意され、市民の期待に応える行政を目指してください」と歓迎のあいさつ。

 石田市長は「歓迎のお言葉恐縮です。地方政治には素人ですが、情熱をもってまい進します」と簡潔にあいさつした。この後、「本日一部組織機構に手を入れます。今後の石田市政の中核よなる重要な課を新設します」と謳い上げた。

 幹部たちは簡単なあいさつで済ませ退庁するものと思っていた。それだけに、いきなり“石田カラー”を打ち出す姿勢に驚いた。

「本日付で企画部内に“市民ふれあい課”を設けます。課長には内田幸一君を据えます」と宣言。一同、医療関連課の新設と思い込んでいた。

「えっ。ふれあい課ですか。目的は」。斉藤副市長が怪訝そうな表情で質問した。

「そうです。市民ふれあい課です。いまこのまちで一番大切なことは、行政と信市民、そして市民同士。あるいは行政と企業との触れ合いです。

 私は地域づくりの基本はそこにあると思います。言葉を変えるなら相互理解です。

 そして、その課をまとめる課長を内田君に担ってもらいます。何か質問はありますか。なければきょうの庁議は終ります」。幹部は全員下を向いてしまった。

患部たちの関心は重要な課のトップに就く内田の素性だった。

「おい。内田ってだれだ。外部招へいか。職員かな」。斉藤は人事課に問い合わせた。

「職員に内田幸一ってやついたって」。即答はなかった。折り返しの連絡が入った。

「内田幸一は職員におります。入庁4年目。現在は、東部公民館です」

「そうか。役職は」

「主任です」

「なに!主任がいきなり課長かよ。信じられん」。斉藤は頭を抱えた。

「これじゃ、組合も黙っておらんぞ」。は市役所は石田市長初登庁から大騒ぎとなった。

 石田市長が抜擢した内田は、確かにまだ若い。本人も、本庁で自分が注目されていることは知らなかった。無理もない。翌日、人事課から呼び出された。仕事収めにも関わらずだ。

「内田です」。野田正人事課長に頭を下げた。

「君が内田君。驚くなよ。石田市長が君を新設の“市民ふれあい課”の課長に推挙した。もう決定事項だ。新年はこちらに来てくれ」

「えっ。私が課長ですか。大丈夫ですか」

「大丈夫ってなにがだ」

「だって、私、ペーペーの主任ですよ。いきなり課長はないでしょう。間違いじゃないですか」

「調べたが間違いじゃない。頼むぞ」。内田は渋々返事した。

 内田は、茨北総合病院隣の東部公民館で市民交流活動を担当していた。もちろん石田市長との接点はあった。石田は茨北総合病院長に就任したとき、「病院は地域の中にある」との願いで“病院まつり”を始めた。

 この中で4年前から病院と地域住民との間で献身的に動いていたのが内田だった。

「地域のまつりを目指していたが、ある年、精力的に活動している青年の姿が目についた周囲の人に聞いたら公務員だった。

 自分の仕事とは直接関係のない病院のまつりの準備、運営に必死で動いていた。彼はもう忘れたと思うが、“休みなのにどうして”と聞いたら、“地域が好きなんです。地域に住む人が好きなんです”と答えた。

以来、毎年、おまつりに参加するようになって。この人は若いのに大したもんだと、評価してるんだ。自分の休みを返上してまでも、地域に貢献する意気込みに感服した」と石田は振り返る。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           これが、内田を大抜擢した理由だった。

   ♦

この一年が押し詰まった㉚日、内田は石田宅を訪れていた。

「これは、内田君。ようこそ。必ず来ると思ってたよ。さぁ。あがって」。石田は内田を招き入れた。

「あの。今回の人事なんですけど」

「うん」

「お断りできないでしょうか。とても課長なんて」

「そうか。気持ちは理解できる。君は入庁してどのぐらい」

「4年目です」

「仕事はどう」

「はい。充実しています。行政は地域ときちんと結びついてこそ信頼されると思います。そこを理解していれば、いろいろ」工夫ができるんです」

「うん、うん。そうだね。ちゃんと行政の役割を理解している。そういう人が欲しいんだよ。私は。年末年始、考えてよ」

「はい。分りました」

 石田はこの後、企画課参事の山田隆を自宅に呼んでいた。

「山田さん。一つお願いがあります」

「なんでしょうか」

「新設する市民ふれあい課の次長になってもらえないか」

「ふれあい課の次長ですか」

「実はその課長に内田君という若い人を抜擢しました。ただ入庁4年目なので心配もあります。そこで大ベテランの山田さんにサポートしてほしいんです」

「私がですか」

「はい。あなたは自分を殺すことができる。人の意見にしっかり耳を傾ける。そして、物事を積み上げていく。

 私は、前市長の宮田さんから聞いていました。私の後継として市長になttら一番大事なところに山田さんを置くようにと。

「そうですか。宮田さんがそんなことを」

「周りから見ると、問題ある人事に映るかも知れません。課長はかなり年下dすしね。

 でも私は市民ふれあい課を重視しています。石田市政の目玉」です。そのことをぜひ理解してください」

「はい。分りました」。山田は要請を即、快諾した。

 山田は総務課長、企画課長を歴任した大きベテラン。本来なら幹部職員の立場。しかし、議会側と折り合いがつかず、いわゆる窓際に追いやられた。

 しかし、石田市長は分っていた。宮田前市長と、今回の選挙で苦杯をなめた佐藤議員を中心とした保守系との軋轢のなか、責任を取ったのが山田だったことを。個人を殺して組織を守ったのが山田だった。

 そして、時代は変わった。議会は佐藤が去り、様変わりする。新市長が誕生した。山田の出番だきた。

36それぞれの年末

年末年始を迎えが、橋本にはいつもの透析が待っていた。⒓月30日も透析日だった。送迎車で病院に到着すると金成師長がにっこり出迎えた。

「はしもとさん。ちょっとお話があって」。橋本はぞくっとした。

「こういうときは危ない。なにか頼まれる」と身構えた。すると、「私、きょうでここを卒業なの。橋本さんには、いろいろお世話になってしまって」。橋本にとって思ってもいなかった。

「定年ですか」

「なに言ってるの。まだまだよ。実は、ほら新しい院長がきて組織改革があってさ。私、向う(病院本体)に移るの。

 ねぇ。橋本さんには、ハラハラさせれてばっかり。幼稚園の子どもたちと交流したいとか、福祉団体をまとめるんだとか。挙句の果ては市議会議員になるでしょ。

 次、なにをやらかすか心配し通しだった」とにっこり。

「一緒に講演に行ったでしょ。協力もしたんだからね」

「はい、はい。ありがとうございました」

「新体制では、地域で病気予防を推進する核になるとの方針がって。講演も大切な事業として取り組むの。お願いするかもね」

「勘弁してくださいよ」

「あら。議会のセンセイになったら行かないの」

「もう。行きますよ。じゃ、透析があるんで」。橋本は逃げた。

 金成師長は、病院本体の看護師長に就任したのだ。現場を離れ管理側にまわることになった。

 透析でうとうとしていると、金成師長がベッド脇に来た。

「ごめん。橋本さん起きてくれる」。橋本は「どうしたんですか」。そこには、もうひとりの看護師がいた。

「こちらね。新しいここの師長です」

「私、村山です。よろしくお願いいします」

「こちらこそ。優しそうな方ですね」

「あら、優しくなくて悪かったね」。3人は大笑い。

「そうか。みんな大変だ。ちょっとまてよ。このままだと、おれがここの古株になってしまう」。橋本は運命を感じた。1年最後の透析が終わった。

 帰宅すると佐和子が出かける様子で待っていた。「お帰り。ねぇ、外いかない」

「うん。行くか」。2人は久しぶりに喫茶店でゆっくりした。

「この1年大変だったね。ご苦労様でした。佐和子が殊勝なことを口にした。

「ほんとだよ。ただのサラリーマンだったおれがよ。透析になって、いろんな人と出会って、最後は市議だもんな。人生分らないもんだ」

「来年はどうなるのかしら」

「うん。静かに過ごしたいな」

「あなたには無理よ。これからがあなたの本当の人生かもp知れないね」

「うん。そうだね」。2人は、たわいもない会話に幸せを感じていた。 

    ♦

「そうだ。行くところがあった。ごめん」

「はい。どうぞ」。橋本は喫茶店をでた。向かったのは「希望の家」。障害をもち行き場のない子どもたちを引き取っている施設だ。

 施設の音楽会に出かけ知り合いになった。

 希望の家に着くと、小林代表も含めて必死で作業にあたっていた。

「こんにちは。歳の瀬なのにまだお仕事ですか」

「はい。急ぎの仕事が入ってしまって。私たちは弱い立場ですから。断れないんですよ」

「そうなんですか。辛いですね」

「でも仕事ないよりはいいです。みんな張り切ってますから。遅れまして市議会当選おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「で、きょうは」

「そう、そう。みなさんが開催しているあの音楽会のことで相談にきました。いかがですかね。ほかの施設にも呼びかけてみんなでやりませんか。盛り上がりますよ、きっと」

「はい。実は、先日、市長になった石田さんが来られまして、同じ提案をされていました。なんか、急に注目され出して」

「えっ。あの石田さんがですか」

「はい。みんなと一緒に仕事に参加して、ごはん食べていきました。なんでも橋本さんが出している透析患者の会の機関誌に掲載されたのを目にしたとかで」

「へぇ、そうなんですか」

「それで、新しい市政ではふれあいを大切にしたいので、みんなで音楽会を開きましょう、と提案されました。石田さんってすごいですね。まさか油まみれになって仕事を手伝ってくれるなんて。感動でした」

「すごい人が市長になったもんだ」。橋本も感服した。小林代表も「なんだか、このまちも良くなりそうですね。私たちも頑張らないと」いけない」

 橋本は帰宅して妻佐和子に報告した。

「そうなんだ。石田さん、すぎね。そこまでやるかって感じ。でもこからのトップには必要な姿勢かもね。あなたも頑張ってよ」

「分ってるよ」

「そういえばさ。私が行ってるボランティア先で耳にしたんだけど、お酒飲んだ車いすの人が車にはねられて亡くなったらしいよ。

 でさ、問題はその先だったの。何も夜暗いのにお酒飲みに行かなくてもという声があがってさ。一方では、車いすの人だって、居酒屋で飲みたいと思う。それを“危ない”から行くなというのは差別だという意見もあってね。あなたはどう思う」

「急に言われても即答できない問題だ。デリケートだ。とちらかというと後者の意見に賛成かな。おれが健常者だったら前者になると思う。立場で違うよね。どっちかに決めることじゃない。

 車いすの人は夜、居酒屋に行くな、というのは排除の論理。おれは反対だ」

「なるほど。あなたらしいね」。橋本は気にはなったが、それ以上は突っ込むことはしなかった。

37議会も始動

 平成29年が明けた。橋本は、透析があるため遠出はできず、近くの神社に参拝した佐和子と一緒に参拝した。清々しい気持ちだった。今年は、いよいよ議員としての活動がスタ―トする。その意味でも、今回の参拝は緊張した。

「佐和子、今年もよろしくです」

「こちらこそ」。2人の気持ちは短い会話で通じた。

 市議会は1月9日、臨時議会が招集された。激戦を勝ち上がった⒖人が出席した。議会構成は保守系が⒕人で圧倒的。大ボス佐藤が抜けたといっても数的にはかなわない。無所属として届け出たのは橋本一人だった。その現実を前に「こりゃ大変だ。1対⒕か。勝ち目はないな」と頭を抱えた。

 議場に揃った議員を前に石田市長は「みなさん、おめでとうございます。再び、この議場に足を運ぶことができ感無量のことと思います。

 私も新人市長です。議会との暗黙のしきたりルールについて不勉強です。どうぞ、相互理解のもと真摯な態度で活動しましょう」と意味深な祝辞。宣戦布告にも取れた。

 議会ではこの後、議長副議長の選出。各委員会構成が決まった。橋本は、厚生委員会の所属となった。定例議会は1月25日の開会が決まった。橋本は議場を後に、無所属の部屋に入った。もちろん一人。寂しさを痛感した。そこへ、秘書課から連絡が入った。

「石田市長が及びなんでお願いします」

「はい。分りました」。橋本は急ぎ市長室に。

「どうも橋本さん。きょうはご苦労様でした。いかがでしたか」

「はい。なにもかも初めてのことで面食っちゃいました」

「そうですか。すぐに慣れると思います。で、お呼びだしたのは、まず私が取り組みたいことを説明しておこうと思いまして」

「それは興味あります」

「みなさん、私が最初に取り組むのは医療改革と思っています。でも違います。私はまず市民のみなさんのふれあい活動に取り組みたいのです。

 いま一番大事なのは、若い人もお年寄りも、お母さんも。障害があろうとなかろうと。みんなが集まって相互に理解しあうことです。これがいかなるまちづくりだろうと基礎になるものです。

 ふれあいがあれば、知恵と仲間がいれば予算はなくても、できることはたくさんあります。私はそのシンボルとして4月に「市民ふれあい春まつり」を実施します。

 多分、議会は反対の声をあげるでしょうから、せめて橋本さんだけでもご協力いただきたい。いかがですか」

「もちろん大賛成です。やりましょう。先日、希望にお家にお邪魔しました。みんなで一緒に音楽会を開こうと思いまして。そしたら“石田市長さんが来て同じことを提案しました”と。市長、いいところに着眼しましたね」

「はい。いまのところ私とあなたの2人だけですが、バックにはたくさんの市民がいます。それを信じて頑張りましょう」

「分りました」

    ♦

「初議会の代表質問で、私に質問時間を割いていただいた議員のみなさんに感謝いたします」。橋本は質問戦のトップバッターとして登壇した。トップ当選した者への配慮、橋本がどの程度の質問力をもっているかをみたいという補油系の動きか。

「いろいろ質問したいのですが、一つ」だけにします。もう知っている方もいるでしょうが、先日、夜、居酒屋でお酒を飲み帰宅中だった車いすの男性が車にはねられ死亡しました。

 大変、残念なことです。そして、この一件である論争が起きているんです。どうして危ない夜間、外の出るの。お酒なら家で炭素忌めばいいのに、といった意見。反して車いすの人だって居酒屋でお酒を飲みたいものだ。危ないから家でお酒を、というのは排除の論理だ、という考えも。いまこの2つが交錯して熱くなっているんです。

 私は、障害者です。それを抜きにしても、“危ないから”という意見一色になるのに危惧しています。障害があるなら周りの人がちょっと助ければいいだけです。

 夜間の車いすを見かけたら、声をかけるとか、お店の方も一緒に帰宅できる人を探せばいいのです。そのぐらいできると思います。そんなこともできないまちなんて寂しい限りです。

 この論争は、優しさから巻き起こったものと判断しています。市長の考えを伺いたい」と堂々と質問した。すると思いもよらぬ保守会席かた拍手が。女性の菅野議員だった。

さて、石田市長がいかに答弁するか。静かに発言席に着いた。

「私は、市民のみなさんのふれあいを目指しています。みなさん、そんな抽象的なことと思われるかも知れません。

 しかし、私はこれこそ具体的な指針になると判断します。市民と市民行政と市民、行政と企業。健常者と障碍者。みなさんが目に見えるかたちでふれあうことができたら、ほとんどのことは解決できます。私はそう確信しています。

 さて、橋本議員への答弁ですが。私の姿勢をご理解いただければおのずと答えはみえます。以上です」。議場からは「なんだ。その答弁は。質問者を愚弄するのか」「はっきり答弁しろ」。保守系会派席からヤジが飛んだ。石田市長は平然としていた。

 これに対して質問席の橋本は「市長ありがとうございました。市長の考え方は理解できました」。橋本もまた平然としていた。

 橋本にとって初議会は充実した内容だった。石田市長との絆がいっそう強いものになったようだ。

    ♦

議会後、橋本は保守系会派『正志会』から呼び出された。大物佐藤に代わって岡本進議員が会長に就いた。体質的には佐藤と同じだった。

応接室に入ると岡本が上目づかいで「そこに座って」と指示。橋本はむっとし「ご用件は」

「あなたが、この議会を改革したいと張り切っていることは知っています。でも考えてください。たった一人で何ができるんですか。

政治は数なんです。数が力なんです。

 保守系は懐が広いんですよ。いかがですか。私たちと一緒にやりませんか。私たちは圧倒的な力をもってます。あなたの施策を実現させることも用意です。いかがですか。私の提案は」。橋本は即座に答えた。

「残念ながら私は一人ではありません。私には多くの支持者がいます。いまみなさんと手を組むことは、彼らを裏切ることなんです。

 それは、人間としてとてもできません。確かに議員数ではあなた方にはかないません。しかし、私を甘く見ないでください。あなたたちとは、水と油です。数に溺れる保守系とは一線を画します。

 せっかくのお誘いですが、お断りします」。橋本は“宣戦布告”し部屋を出た。一人残った岡本は怒り心頭。

「あのやろう。いまに覚えてろ。この議会から追い出してやる。くそ。呑みにいくか」

38完璧な企画策定

 石田市長は新設の「市民ふれあい課」の内田課長、山田次長を呼び出した。昼食を摂りながらの会議だった。

「内田君、山田さん。早急に“市民ふれあいまつり”のきちんとした企画書をまとめてもらえませんか。

 先日、議会側から予算の無駄使いとの横やりが入りましてね。まぁ、議会側としては当然の反発ですが。それで1週間後にまつりの詳細を提出することになりました」

「えっ。1週間後ですか。無茶です」。経験豊富なベテラン山田は白旗。内田課長は黙っていた。

「内田君はどうかな」「市長。私の個人的な要望を採用してくれるなら、前例がありますから、期待に応えられます」ときっぱり答えた。「おい、おい。内田君。大丈夫かよ」

「山田さん。手伝ってください」

「いいぞ。いいコンビです。お願いします」

 石田市長は2人に運命を託した。もし失敗したら命取りにもなりかねない。その日から内田、山田は課長室に閉じこもり企画書の作成に没頭した。時間は刻々と過ぎていく。

 祭りの名称、コンセプト、運営方法、祭りの内容、予算など検討事項は多い。石田市長は「今年4月の開催」を明言した。この期日の園長は許されない。2人の双肩にかかっている。1週間があっという間に過ぎた。

「できましたよ。山田さん。さっそく提出しましょう」「課長。大変でしたね。よく頑張りました。見事です」。2人はさっそうと市長室に。石田市長は心待ちにしていた。

「いやー。ご苦労様でした。やってくれましたね」

「はい。い内容の企画書ができました」と内田。石田市長はその場でレクチャーを受けた。・祭りの名称は『市民ふれあいフェスティバル』。主催茨北市。市社会福祉協議会、市商工会議所、いばらき福祉ネットワーク、市文化団体連合会、市金融連合会の後援。

開催日は桜の開花に合わせて4月第一日曜日。会場は1ケ所に固定せず、市内5地区の持ち回り。公民館など公共施設は避け企業、学校、病院、商業施設の民間施設を主体にする。式では地域のふれあい、交流活動に功績のあった個人、団体の表彰。ふれあい活動の実例などの講演会を実施。

イベントは地域と連携して実行委員会を組織して対応する。音楽、演劇、民舞、マジックショーなどの発表。写真、絵画、手芸などの作品展示。ゲーム、小動物とのふれあい、ミニ運動会も企画した。

地域の子ども、パパ、ママ、お年寄りが参加できるイベントを用意して楽しい時間を一緒に過ごす。この模様は市報に掲載して全戸に伝え

これが内田、山田で策定したまつり企画だった。手にした石田市長は。

「持ち回りは斬新でいいね。後援はOKですか」

「はい。すべて了解を得ました」

「すごいですね」

「それで1回目はどこで」

「はい。私と市長がいた市東部地区で開催します。場所は茨北総合病院体育館です。OK取りました。

 式典で表彰する方は」

「はい。リストは作りました。あとは市長の判断で」

「なるほど」

「時間がなくて申し訳なかったけど、参加者は大丈夫」

「はい。私が公民館で働いていたときの人脈で参加者は十分です。重要な人には声をかけました。みなさん“協力を惜しまない”と言ってくれました。病院主催の企画も取り付けました」

「なるほど。大事な予算はどうですか」

「極力抑えました。総額300万円で開催できます。かなりボランティアがあってのことです」

「OKでしょう。いいと思います。さっそく議会側に報告します。一緒に行ってください。お願いします」。3人は議会事務局に足を運んだ。そこには保守系の⒕議員が参集していた。緊張感が走った。

 しかし、石田市長は平然と「みなさんに提出をお約束しました市民ふれあいまつりの企画書ができました。どうぞご覧ください」。内田が企画書を配布し、説明した。約20分静かな時間が流れた。説明が終わると阿部寛一議員が「こんなまつりで、市民間の交流が図れるでしょうか。疑問です。取りやめにすべきです」と語気を強めた。石田市長は静かに聞いていた。

「ほかにご意見は」。内田が促した。

「無駄だよ。大体、予算が厳しいのに300万円を投入するなんて。費用対効果はどうなの」と若手の岡本勝次議員が吠えた。予想された通り総反発。

 こうした対立ムードの中、「私は素晴らしい企画書だと思います。これまでのような、取って付けたような内容でない。地域のでもみなさんの総参加型のイベントです。300万円。安いものです。これを1週間で仕上げるなんてすごい能力です」。唯一の女性議員の    が絶賛。これで風向きは変わった。ベテランの山田次長が「みなさんが反対するお気持ちは十分理解できます。

でもこの企画を政争の具にしてはいけません。みんなで話し合って、いい内容に練り上げる姿勢が大事です。みなさんに期待します。3日後に討論の場を設けます。ご出席ください」。迫力、見識十分だった。

 議会側は黙りこくってしまった。この日は解散した。

「山田さん、ありがとうございました。すごい迫力でした」と内田。

「年寄りの冷や水ですよ」。山田は悠然としていた。

 3日後の再度の話し合い。議会側からは5人しか姿を見せなかった。

「おや。敵前逃亡ですか」。石田市長は小声で独り言。女性の菅野議員から、「計画は完璧です。ここには5人しかおりませんが、議会としても協力いたします」と発言。話し合いの場は一気に和んだ。

「でも内田さんをふれあい課長に抜擢したのは市長のファインプレーです。山田さんとのコンビも素晴らしいわ。この輪がどんどん広がっていくといいですね」と菅野議員は言葉を続けた。

「ありがとうございます」。石田市長はにっこりだ。

 こうして初めての市長提案はヤマ場を越えた。

そのころ新人議員の橋本は無所属部屋で一人ぼっち。張り切ってはいたが、その部屋の広さが身に染みた。

「トン、トン」。そこへ来客だった。

「どうぞ。開いてますから」。その声に反応してドアが開いた。そして、入ってきたのは保守系会派『正志会』の女性議員の菅野。

「あれ、どうしたんですか。部屋間違っていますよ」

「あの。きょうから私、ここなんです」。橋本はその意味が理解できなかった。無理もない。「あのですね。きょうから無所属の議員になりました。保守系会派は離党してきました。これからよろしくお願いします」

「一体なにが、どうしたんですか」。橋本は困惑するばかり。

「実は石田市長と新設のふれあい課の内田課長、山田次長の人間的な結びつきに感動しました。

 市長も橋本さんも無所属ですが、バックは“市民の会”ですよね。私も1期目ですが、市民の会で地方議会の勉強がしたくて。いけませんか」

「いえ。いけなくありません」。橋本は変な日本語を口にした。

「もう少し具体手に話してもらえますか」

「市長の指示であの2人が僅か1週間で完璧な企画書を作ってみせたんです。私も、会社員時代、企画書を作成してたんで分かるんです。あの企画内容はとても1週間では無理です。

ただ書類を作っただけでなく、関係者の了解を取ったり、イベント参加者も確保した。

現実的な予算案も作成した。私にはとても不可能です。内田課長がいかに公民館勤務時代に素晴らしい仕事をしていたかです。石田市長はそれを見抜いた。山田次長も年下の課長のもと、自分を捨てバクアップしている。見事な人事です」。菅野は熱っぽく語った。

「へぇー。そうなんですか。でも2人じゃ、何もできないでしょ」

「でも市長、課長、次長の3人は⒕人と快く思っていない多くの職員相手に自分たちの想いを貫いたんです。私たちにもできないことはありません。頑張りましょう」

「はい。分りました」。橋本はやけに素直だった。

     ♦

 『市民の会』に鞍替えした菅野議員は35歳の若手。地元の短大卒後、大手企業に入社。一貫して企画畑を歩んできた。独身。仕事はできた。いま注目の通信会社で“商品開発”に当たってきた。豊かな感性もあって次々と商品を世に送り出した。

 会社では男子も含めて同僚のトップを走ってきた。ところが企業体質が遅れており、出世競走から外された。最終的には主任止まりだった。そんな会社に嫌気がさし退社。親からは結婚をすすめられたが、根っからの企業人だった。

「うーん。結婚か。まだいいや」。そんな感じだった。目指したのは独立。女性起業講座にも参加した。でもすすむべき道が見えなかった。そんなとき、知り合いだった民自党の経営者から「いっそのこと議員になったら」と勧められた。その経営者の推薦もあって今回の市議選に出馬。女性新人ながら上位当選を果たした。

 でも心情的には革新系だった。当選後、あまりにも独善的な保守系会派『正志会』に嫌気がさしていた。

「そんなとき石田市長さんらに出会い、新鮮さを感じた。私利私欲なんて微塵もない。市民と同じ目線。同じ感情でことにあたる。

そうしたことに魅力を感じたのです」と菅は振り返る。

 とにもかくにもこれで、橋本は議会で仲間ができた。素直にうれしかった。さっそく石田市長に連絡した。

「そうでしたか。あの方はほかの民自党の議員さんとは違っていました。自分の考えをきちんと出せる人です。橋本さんもいい人と連携できたわけですね。まずは良かった」と歓迎の言葉。

39『市民の会』に助けられる

この菅野議員の移籍問題もあって、保守系会派『正志会』は石田市長との対立を激化させた。無競争を一転させた憎き『市民の会』に対する恨みが背景にあった。石田市長のその『市民の会』候補なのだ。

「よし。こうなったら全面戦争だ。予算案を絶藤通さんぞ。それを理由に市長の不信任案を提出。可決してやる。不信任案の理由なんてなんでもいい」。『正志会』の岡本会長は有志を前にうそぶいた。

「会長、市長が議会解散仁打って出たらどうするんですか」。危惧する声が上がった。

「相手は、どうせ素人だ。解散なんて、そんな勇気なんぞあるまい」。岡本の鼻息は荒かった。

この不穏な動きは、『市民の会』側に漏れた。

そこで、石田市長、橋本市議、中山が集合し対応策を練った。まず、中山。

「正志会はそんなことを画策しているのか。かなり焦っているな。確かな情報とは言えませんが、対策は必要です。

 不信任案を出すとすれば、常識的に考え議会最終日の1月25日。恐らく数をバックにいきなり動いてくるはず。さぁ、こちらはどうする」。中山は状況を楽しんでいるよう。

 これに対し石田市長は「私の不信任案ですか。その理由は」

「理由なんて、何とでもなるものです。多分、“市民ふれあいまつり”あたりがターゲットでしょう。いまのところ、それしかない。

 新設の“市民ふれあい課”人事あたりめてくる。石田さん、それに対して、こちら側には議会解散ができます。早い話が共倒れです。うーん。市議選は終ったばかり。向うさんは、“また議会選挙”はないだろうと読んでいるはず。

 あるいは選挙に持ち込んで“佐藤復活”を狙っているかも。いずれにせよ、不審任案は

出してくる。私たちを甘く見ている」と中山は鋭い感覚。

「でもね。市議選はやったばっかり。そりゃ、解散はないだろうと思うのは当然かな。でも石田さんへの風当たりが強くなるのでは」。橋本も」。橋本が話に加わってきた。

「そうです。そのへんの読み合いです。元々、市民不在の動きです。市長対議会という対立関係は市民も理解している。

 こちら側の戦術として受け取ってもらえれば。いま議会解散に踏み切って一番困るのは保守系にお連中だけです。そこは石田さんの出番。どうして議会解散に打って出たか。市民に分かりやすく説明してほしい」

「分かりました。ひとつアイデアがあります」から」と石田市長。

 その定例議会の論戦は続いた。『正志会』側がヒートアップしてきた。

質問戦の中心となったのは、」政治姿勢だった。

「市長としての自覚はあるのか」

「予算編成に対する考えを」

「幹部職員の配置換えは」

「市職とはどう向き合うのか」といったもの。これまで“なあなあ”で臨んできたのとは、まるで様子が違った。

 これに対して石田市長は、一つひとつ丁寧に答弁した。

「市長としての自覚ですが。多くの方の支持を背景に無競争になったものと考えております。その意味でも、大きな責任を感じております。伴いもちろん市長としての自覚はあります」

「予算編成は、市民のみなさんの生活向上という視点で臨みます。従がって従来とは異なった内容になると思います、いずれにしましても議会にみなさまと十分論議したいと覆います」

「それから幹部職員については、基本的に据え置きさせていただきます。市職員組合とは、無理に敵対することはしません。よく意見を聞いたうえで対応します」。質問に対しては無難に答弁した。

 そして、重要な予算については、修正を求めてきた。これまでの公共事業重視の予算措置を主張。

「公共事業は地域整備のうえでも不可欠のもの。このまちの発展は、公共事業によるもの。市長は福祉関連への予算組み替えを考えているようだが、これを撤回していただきたい」と迫ってきた。石田市長と真っ向対立の構図だ。論議は平行線のままかみ合わず議会は混乱した。これで議会側は、不信任案を突き付けるようだった。

 守りの石田市長も、

「彼らの言うように予算を修正するのは、従来と同じにしろ、というもの。その中で私利私欲に走る。

これに関して私は一歩も引かない。市民の利益に反する行為だ」と主張。対立はさらに激化した。

 この状況の打開案を示したのは何と橋本だった。いわく、

「市長や私が勝てたのは、多くの市民の力です。大きな組織はなく、個人の力がうねりとなった。議会にもこの流れを取り込みましょう」と発言。「つまり、どうしろと」。中山は不思議顔。

「議会に『市民の会』のみなさんに傍聴してもらいましょう。傍聴席をいっぱいにすれば保守系のプレッシャーになる。市民の目は、私たちの味方です。『正志会』もへたには動けない。

 それと市内の中小建設会社にも傍聴をお願いしましょう。保守系の言う公共事業は民自党関連の大手企業に回る。そこで、市長が福祉関連の公共事業に切り替え地元企業に仕事を回すと提案するんです。どうなるでしょうか」。橋本は胸を張った。

 じっと考えていた市長と中山。

「うん。いいね」と石田市長。中山も「いまはベストの取り組みだ。さっそく手配しましょう」

 次の議会開催日は、いつもと違った光景となった。傍聴席が埋まったのだ。議会初のことだった。石田市長は勇気づけられた。橋本もにんまり。

石田市長は、改めて“市民ふれあいフェスティバル”構想を提案。市民手づくりによる企画。市民相互のふれあい、交流を目的とすることを強調。。開催は地域持ち回りにする。地域と一緒に実行委員会を発足させて盛り上げるといった主張を展開。傍聴席から大きな拍手だ。

「いいぞ市長」のヤジも飛んだ。

 保守系会派『正志会』は、“反対のための反対”にすぎなかった。傍聴席の市民の目を意識して「無用な反対」はできなかった。

また、予算案も同じ。石田市長が「予算は福祉関連に組み変えます。この線に沿った公共事業を生み出し、すべて地元業者のみなさんに担当していただきます」とアピール。傍聴席では「今度は、おれたちに仕事が回ってくるぞ」との声。この“地元優先”に、保守系は反対できず、予算案は可決された。

 『市民の会』の勝利だった。橋本は「市民パワーはすごい。強い味方だ」。石田市長も安堵の表情をみせた。議会は大きく様変わりした。

40市長、市議選再選挙

 さて、『市民の会』に振り回された格好の保守系会派『正志会』の緊急会議は招集された。岡本会長は当然のように怒り心頭だった。その声も打ち震えていた。

「あんなに傍聴者を集めるなんて予想外だった。あれじゃ何にもできない。

 こうなったら明日の最終日が勝負だ。いいか。傍聴者がいても構わん。市長の不信任案を出す。揺さぶってやる。いいか、ここが正念場だ。

 これまで通り議会、市政を思い通り動かすには避けて通れない。心して対応してくれ」と意気込んだ。

 その最終日も傍聴席は埋まった。すべて『市民の会』支持者だった。『正志会』は、予算案を否決したうえ、石田市長の不信任案を提出。「市長の姿勢は許しがたい。このまちをどうリードしていくのか見えない。政治キャリア不足だ。これ以上看過できない」とし数にものをいわせて可決させた。

 傍聴席からは「保守系の横暴だ」「何をす

るんだ」とヤジが飛び、騒然とした。これで予算は宙に浮いた。

 しかし、ここで石田市長は思わぬ行動に出た。議会を解散したうえ、自分も市長職を辞したのだ。これで、再度、市長、市議選のダブル選挙が確定した。石田市長の対応は、もちろん中山の作戦だった。

「私は、市政刷新、議会改革の志半ばで逝去した宮田前市長の後継者です。市民のみなさんに市政を取り戻すため議会と対決します。

 数をバックにした。議会の横暴を許すことができません。選挙したばかりでみなさんにはご迷惑をおかけします。でも長い目でみると、ここで荒療治する必要があるのです。

 大企業優先、私利私欲の従来の市政か。それとも市民生活重視の新たな市政かの岐路に立っています。どうかご理解いただきましてさらなる支援をお願いします」と猛烈アピールした。

苦杯をなめた保守系会派『正志会』は、緊急会議。

「こうなったら選挙に全力を挙げる。市長選には対抗馬をぶつけてやる。いいか。時間はない。もう土俵際だ。もってる力をすべって出して、ここへ戻ってこい」と岡本会長。しかし、市民パワーを見せつけられた議員は戦意喪失。

 異例の市長、市議会の再選挙は2月⒖日の

投票、即日開票に決定。すべての陣営は、選挙準備に入った。 ここで保守系に異変が起きた。現在、保守系会派『正志会』は⒔人の

議員を抱えていた。

 その全員が再出馬かと思われた。しかし、一人抜け、二人抜け。現状⒑人になってしまった。さらに、離党の動きも数人だ。岡本は必至で遺留を図ったが不調に終わった。

 これに対して『市民の会』は現状2人。さらに新人5人が名乗りをあげた。勢いでは後者に軍配だ。

 この保守系の混乱を尻目に『市民の会』は意気揚々と戦略会議。まず、中山から。

「いまごろ保守系会派は地団駄をふんでいると思います。いまのところ、こちらの思い通りに進んでいます。

 情報によると、『正志会』内部は混乱蒙用とか。今回の市長選、市議選もしっかり勝ち抜いて市政、議会の刷新を目指しましょう」

続いて石田市長が「今回はいい勉強になりました。中山の的確なアドバイスのおかげでよい方向に向かっています。

正直、疲れてますがここで立ち止る訳にはいきません。頑張ります」と決意の言葉。最後に橋本だ。

「中山さんの洞察力に恐れ入ってます。元市議とはいえ、言う通りに物事が進んでいく。すごいですね。

「でも橋本さんも『市民の会』動員してピンチを救ったじゃないですか。私にはできない発想です。お見事でした」と中山。今後については「これで五分五分。一気にスパートしましょう。

 ちょっとは足踏みがあるでしょうが、結果を信じることです」と一言。

    ♦

 保守系会派『正志会』は市長選挙の候補擁立に動いた。以前なら『正志会』の推薦は、即当選に結びついたもの。

 しかし、時代は変わったようだ。事実、前回は、前市長の後継の前に音沙汰なしだった。今回はどうか。

 岡本会長は、何回か名前があがったことのある市商工会議所の柏田徹会頭に会った。

「会頭、お願いです。市長選に挑んでいただけませんか。私たち市議団が全面的に支援します」と頭を下げた。すると、会頭。

「状況が悪すぎる。宮田市長から後継指名された石田さんに戦いを挑む気はない。これはだれでも同じ。勝てませんよ。名前を売るだけならまだしも。

 それに、みなさんだって自分の選挙があるでしょ。これは無理というものです。諦めてください」と固辞した。

 岡本会長、ある程度、予想はしていたが、はっきり言われるとショックだった。会頭意外に、医師だと戦える者はいなかった。

「これで2度続けて白旗か。情けないもんだ。まったく」

 これで、市長選は無競争がほぼ確定した。

 問題は市議選だ。定数⒖人。保守系会派の『正志会』が⒑人、無所属が橋本、女性議員の菅野2人。ほかに3新人が意欲をみせている。橋本は無所属から『市民の会』として届け出た。

 この間の騒動で『正志会』から3人が離脱した。議会を牛耳っていた大物佐藤元議員の動きが注目されている。今回も無競争か、激激戦か。市民も注目している。

41疑惑の佐藤―野口コンビ

 そんな緊張関係が高まる中、とんでもないニュースが飛び込んできた。橋本が事務所で

昼食を食べているとテレビニュースの時間になった。橋本はキャスターの声だけを聴いていた。すると、

「きょう午前、警視庁は殺人容疑で住所不定、無職の野口一郎、53歳を逮捕。余罪もあるとみて調べています。また、同じ容疑で都内の会社経営者を任意で散り調べています」

 橋本は「野口一郎」という名前に反応したのだ。

「あれ。野口一郎って。どこかで聞いたことがあるぞ」。しばらく考えて思い出した。

「そうだ。佐和子をはねた奴だ。こうしちゃいられん」。

 橋本は地元薯に走った。交通課だ。

「いまニュースでやってた野口一郎のことでちょっと」

「それなら副署長です」。橋本は、金田副署長のデスクに。

「私、野口一郎に妻をはねられた者です」

「いま連絡しようと。どうぞ、こちらへ」。応接室に案内された。

「いま警視庁から連絡がありまして。殺人容疑で逮捕された男が、余罪北市でも人に頼まれて女性をはねたと自供。確認の連絡で」

「そうですか。すると妻も殺されたというのですか」

「はい。そのようです。運よく助かりましたが。で、御主人。何か心当たりは」。橋本は迷ったが「いえ。いまのとこは・・・」。確信がなかったのだ。心の中では「前議員の佐藤を調べてくえださい」と叫んでいた。

 橋本は「まさかこんなことが」驚いた。

「すると佐和子も、事故を装って殺されそうになったのか。信じられない。あの佐藤が依頼したのか。いくらなんでも、そんなこと」。頭が混乱した。その日は、何も手につかず帰宅した。

 すると佐和子がいきなり抱きついてきた。

「さっきテレビでさ。私をはねたあの男が殺人容疑で逮捕されたみたいなの」

「うん。おれもテレビきた。地元薯にも行ったが、茨城県で余罪があると自供したらしいんだ。ピンときたよ。お前はだれかに殺されかけたんだ」

「怖いわ。一体、sだれが」

「多分。多分だけどあの佐藤。それ以外には考えなれない」

「そうね。あなたを苦しめ、出馬を断念させようとした」

「その通り。でも状況証拠だ。確信はない」

「早く捕まえてほしいわ」

「うん。いまどうするか、考えているから」

 橋本はその夜、中山宅を訪問した。

「すいません夜分に」と言うと、

「あのニュースのこと。ひどいことだ。殺人を依頼したのは。想像はつく。確かな証拠がない」

「そうなんです。私も忘れかけてました。あいつ意外に」

「そうだね。あいつだね。犯人は」。2人は遅くまで対応策を練った。

    ♦

 翌日、2人は佐藤宅を訪れた。正面突破だった。

「こんにちは。佐藤さん、いますか」

「どなたですか」。女性の声が返ってきた。

「ご主人の知人のものです。ちょっと話があって」。女性はゆっくりと姿を」見せた。奥さんらしかった。

「実は、きのうから帰ってないんです」

「どちらへ」

「分りません。急用ができたと野口さんと一緒に出ていきました」。野口は民自党茨北副支部長。佐藤の腹心だ。

「さっきは警察の方がいらして。主人、何かしたんですか」

「いえ。失礼します」。2人は喫茶店に向かった。

「これではっきりしましたね。警察もマークしている。決定的だ」と橋本。

「そうだね。佐藤は、そんなことまでして」と中山。

 そして、こんなことも。

「これはうちにとってまさに神風だ。もし佐藤、野口が逮捕されようもんなら『正志会』はつぶれる。自滅ってことだ。うちらにしたら、戦わずして“勝負あり”だ。その日がいつかだけだ。地元薯をマークしよう」。中山は真剣だった。

「それは私がやりますから」

「頼みましたよ」。2人は別れた。

42『正志会』。佐藤候補の大打撃

 翌日から橋本の地元薯日参が始まった。

「金田さん、いい情報はありませんか」

「橋本さんか。ご苦労さんです。あなた市会議員さんらしいね」。副署長は“はぐらか作戦”だ。橋本が黙っていると、副署長から、

「佐藤も議員だったらしいね」

「金田さん。佐藤ですか。“佐藤さん”じゃないの」

「そりゃ容疑者だから必要ない」

「そうですか。いつから容疑者に」。金田副署長は“しまった”という表情に。そして、

「仕方ない。そうだよ。容疑者だ。容疑は固まったよ」

「自宅には」

「いなかった。とんずらだ」

「なるほど。野口が細かく自供したと」

「そうだよ。自供した。追っていくと、2人の仲介者がいた。佐藤はバレないよう用心したんだな。でもよ。おまわりさんを甘くみるなって」。おっとこれオフレコよ」

「金田さん。おれ記者じゃないから」

「もう。頼むよ。議員さんよ」

「分りました。また来ますから」

「はいよ。いつでもどうぞ」

 橋本は中山に会って詳細を報告した。

「そうですか。意外と早いかもね」

「はい。あの口ぶりで発見次第、逮捕でしょう。裏付けが取れたんでしょうね」

「これは作戦の練り直しが必要かも」

「はい」。2人はその足で石田市長に会いに行った。中山がこの間の詳細を説明した。

「そうですか。市民の模範であるべき市議がそんなことをね。情けない、まったく。私利私欲に走るとそうるもんだ。

 それで逮捕も間近なんですか。時間の問題になってきましたね。逮捕されたら、『正志会』候補にとって大きな痛手になる。これはチャンスでうね。。で、中山さんは今後どうするつもりで」

「いま、橋本さんには地元薯に詰めてもらってます。被害者ですから、情報は入りやすい。私はここ数日だと思います。

 そこで“佐藤逮捕”に備えて準備を進めます。『市民の会』会報の発行です。テレビ、新聞で大きなニュースになるでしょうが、違った視点で会報を出します。

 あと問題なのは『正志会』候補の動き。多分多くが離脱するはず。『市民の会』にアプローチしてくるはず。この対応をどうするかです。市長の考えは」

「はい。手を組むのは拒否します。少なくともこの間、佐藤と一緒に市政、議会を我が物顔にしてきた連中です。うちらの方に鞍替えしても体質は変わらん。はっきり言うと迷惑なだけ」。橋本も同調。

「その通りですよ。あっちがだめだから、こっちにというのは、虫が良すぎる。市民の会の支持者も許さないでしょうから」

「なるほど。彼らの行く場所がなくなる。今度は向うさんが無所属。引退する人も出てくるでしょう。

 そこで私たちが一気に勢力を伸ばすチャンス到来。内々に新人候補を模索しますよ」。中山の表情は生き生きとしている。

佐藤逮捕は2日後だった。東北地方の温泉で捕まった。無償ひげが痛々しかった。捜査員に囲まれ、温泉宿から連行される姿が昼すぎのテレビで映し出された

「捜査当局によると佐藤容疑者は、市議時に無競争を画策。これに反発し出馬した候補の妻を傷つけようと計画。交通事故を装い車ではねるようすでに逮捕されている野口容疑者に依頼、現金300万円を渡した。野口容疑者の自供で、佐藤容疑者の犯行が明らかとなっ。佐藤容疑者は容疑を認めています」とキャスター。

 このニュースに茨北市は大騒ぎ。市役所ロビーでは、多くの市民がテレビに映し出された佐藤に注目。

「ひどいことをしたもんだ。全校放送されて。茨北市の恥だ」

「まさかね。いくらなんでも殺人なんて」と

あ然。議会事務局は保守系会派『正志会』議員が集合。顔は青ざめていた。

「おいおい。とんでもないことをしてくれた。これで正志会はおわりだ」

「今度の市議選はどうなる。支持者も離れるのは必至。当選なんてできっこない」

「選挙直前に逮捕とは。致命傷だ」。じっと聞いていた岡本会長。

「去る者は追わない。仕方あるまい。・おれは残る」。議員はひそひそ話。完全に意気消沈だ。

 一方、『市民の会』の橋本、菅野は事前に情報をキャッチ。冷静に受け止めていた。

「これで占拠は五分五分から八分二分だ。一挙に有利になる。佐藤の奴。おれの愛妻を狙うなんて、人間のクズだ」

「だよね。『正志会』はそんなもんさ。早く見切りをつけてよかった」と菅野。胸をなで下ろした。

 市長室もごった返した。テレビ、新聞の報道陣が相次ぎ、石田市長にコメントを求めた。これに対し石田市長。

「私もニュースを見て驚きました。政治的には対立してますが、保守系会派をもとめてきた人ですから、その蛮行は残念です」

 心の中では「なんて奴だ。公職を何だと思ってるんだ。あいつの人生も終わったな」と叫んだ。

 橋本は帰宅して佐和子に報告。

「よかったね。悪いことをすれば、罰が当たるってことだ。事故のときからあやしいと思ってた」と橋本。佐和子も「私を狙うなんてとんでもない。ばかな人ね」.

 この夜、当然二人はカラオケに一直線。気持ちよく“昭和の名曲”を連発した。

43明暗分かれた選挙戦

 さて注目の市議選告示日を迎えた。茨城県最北にある地方都市茨北市。いまや全国の目」が注がれていた。届け出受付の事務室にはテレビカメラが入った。議会史上、初めて。カメラの前の職員は緊張の表情。次々に訪れる候補代理人も映し出された。

 当然のように届出人にはマイクが向けられた。

「どちらの候補ですか」

「正志会ですか」

「今回の逮捕をどう思いますか」。矢のように質問が飛んだ。もちろん、受け答えする人はいなかった。そんな中、思い切り取材に応じた人物がいた。

「前からいろいろ噂のあった人でした。なんでも自分の思い通りになると議会を牛耳っていたようです。              

-しかし、最後にボロがでた」。一斉にテレビニュースで放映された。これはだれだ。騒動になった。

 その人こそ、橋本の代理人として参上した中山だった。そうです。選挙対策の一環。

「すぎいな。的確に、短いコメントで正志会を皮肉った。これも選挙に影響を与えるな」

と橋本。もちろん中山が練りに練った線らy九の一つだった。

 さて気になる立候補はどうなった。それが、全国に“悪”の代名詞となった『正志会』の届け出はゼロ。周囲はざわついた。

「どうしたんだ。だれもいないのか」

「そんなはずはない」。報道陣も色めき立った。この裏には保守系の苦肉の策があった。

告示日に、『正志会』の解散届が議会事務局に届け出があった。同時に『新和会』『清々会』の届け出も。つまり、保守系側はとても『正志会』では戦えないと判断。速攻で新たな2会派を立ち上げた。立候補は予想された⒑人。「おれは“正志会”から出ると豪語していた岡本会長も、『親和会』にもぐり込んでいた。

この保守系2会派に対し、『市民の会』は2現職に4新人が出馬。前回同様、1人オーバーの大激戦になった。

立候補が締め切られ結果がでた。またも報道陣がざわついた。

「正志会はどうしたんだ」

「新和会、清々会って全前回あったの」

そして、裏事情が分かると再度、ざわついた。収拾がつかないと『正志会』会長だった岡本が渋々、記者会見に応じた。

「そうして正志会を解散したんですか」

「あなたは、今回の事件には関わっていないのですか」

「今回の選挙の勝ち目は」。辛辣な質問が飛んだ。岡本は流れ出る大粒の汗を拭きながら、

「このままじゃ戦えないという総意のもと、解散して新会派を立ち上げました」

「私は、今回の事件とはまったく関係ありません。佐藤容疑者とは、同じ会派の一員という関係だけです」

「勝ち目は分りません。ただきびいでしょうね」なとと答えた。

 しかし、記者は納得しない。結局、2時間あまりの記者会見となった。

翌日紙面はというと。

「告示日に正志会解散」

「新会派立ち上げ、選挙戦に」

「私は関わっていないと岡本氏」

「市民の会は現新6人」

「再度、1人オーバーの激戦模様」

 かなりの紙面を割いて告示日の様子が報道された。

    ♦

 『市民の会』の立候補者6人は、商店街の特設ステージに全員集合。まず中山が登壇。

「みなさん。最近のニューズをご覧なりましたか。ひどいものです。人の模範たるべき市議が殺人容疑で逮捕されました。

 私たちはこれをきっかけに議会の在り方を再考する必要」があります。

 それには、私利私欲のない市民目線の私たち市民の会の力がどうしても必要です。今回は全国の目がこのまちに注がれています。次は私たちが汚名返上しないといけません。

 ここに並んでいるのはみなさんの代表です。その名に恥じない勇気、英知、情熱を持っています」とあいさつ。それぞれを紹介した。

 6人を代表して橋本が「今回は市民の会が飛躍する選挙です。事件報道以来、“あのまちは、なんだ”という声があがっています。

 私たちは謙虚になる必要があります。

 いま、市民の会は2人だけです。どうか、ここにいる6人全員が当選できますようご支持をよろしくお願いします」と猛烈にピールした。

 堅苦しいあいさつはここまで。2部のイベントは、市民の会のテーマでもある“ふれあい”活動。7色の風船飛ばし、音楽発表に、コーラスにフォークダンス。参加者は、候補者と手をつなぎ楽しい時間を過ごした。

 一方の保守系2会派の候補者は報道陣に追われた。第一声でも今回の事件にはまったくふれず、抽象的な訴えに終始。支持者からは「おまえは大丈夫か」といったヤジも飛び出す始末。立候補者は、“佐藤逮捕”“会派隠し”などで苦しい対応に迫られた。

 ある陣営は「とにかく頭を下げるだけ。なにを言ってもだめ。信用されていない。逮捕された時期が最悪だった。それがすべてだ」と深刻顔。これはほかでも同じことだった。あれだけの報道が集中すればどうなるか。保守系の陣営は辛い選挙戦だった。

会派名を変えても選挙カーまでは手がまわらず、正志会のままということも。演説してても「正志会はどうしたんだ」とヤジが飛ぶらしい。

「選挙どころじゃない。票がまったく読めなくなった」。ある現職の嘆き。当選7回の大ベテランも窮地に追い込まれている。

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