香川さん遊びがち
いちみんればにら
ボトルキャップ・刹那の見切り
大学1年の秋、僕こと
「
4コマ目の終わりに僕が講義棟裏に呼び出した、目の前にいる見目麗しい女性の名は、
香川さんはあごに手をやり、思案顔で話してくる。
「……ふうむ。君は宮城くんだよね? 同じAクラスの」
「は、はい。そうです」
「4月からの仲だけど、言葉を交わしたことはあったかな」
「いやあ、グループで話すことはあっても、二人で会話したのは初めてかと……」
「ははあ、初めての会話が『私のことをもっと知りたい』か。確かに知らないなら知りたくなるものだ、不思議はないね」
そう言いつつも、香川さんは可笑しく鼻をふふっと鳴らす。僕は一個一個緊張しながらカタコト答えているというのに、余裕たっぷりの笑みだ。そんなところも魅力的に思う。
「いいだろう。それなら宮城くん、私についてくるといい。私のことをこれから教えてあげよう」
あ、あれ? 告白の返事は……? もしかして遠回しに言ったせいで雰囲気だけじゃ伝わっていないのか。
「あの、香川さん」
僕は誤解のないようにと声をかけるも、香川さんに手で遮られる。肌寒い今日の天気に、暖かそうなウールのコートから赤みを帯びた指先だけのぞいてきていて、それだけで僕の心臓は跳ね上がる。
「まあまあ、せっかくだから二人で遊ぼうじゃないか」
「あ、遊ぶ!?」
それってつまりデートではないか。ほかに遊ぶってなんだろう。いやない。デートだ。そうに違いない。火遊び夜遊び……いやいや。
彼女は微笑みをたたえたまま、僕を誘っていった。
※
連れてこられたのはサークル棟の一角にある部室だった。これは違うね。
扉の前の名札には『冷奴研究会』と書いてある。冷奴ってあれだよね、特殊な加工をした大豆に、特殊な加工をした大豆をかけるやつ。つまり豆腐に醤油をかけた食べ物。僕は特殊な加工をした大豆をだし汁で温めたやつのほうが好きだな。つまり湯豆腐。
「私が所属しているサークルだよ。もっとも、構成員は私ひとりなんだけど」
「何をするサークルなの……?」
遊ぶと言っておきながらサークルとはこれいかに。遊ぶならサークル活動の後ではないのか。僕の問いには答えず、香川さんは中へと案内する。
室内は質素で、扉を開けた正面に窓、左側の壁にロッカーと上着をかけるハンガーがいくつかあり、ほかの部室とほとんど違いはないようだった。ほんとうは改造されてて豆腐の製造機でも設置されているのかと思った。
「いたっ。この時期はこれがいやだね」
横で香川さんが小さく声を上げる。コートを脱いで壁に掛ける際に金属部分に触れて静電気を起こしてしまったらしい。内に着ていた服も首から伸びた長袖のニットのようで、余計に静電気が溜まりやすかったのだろう。
手首をぶらぶらさせながらもう片方の手で、君もどうぞ、と上着を掛けるよう促してくる。構成員ひとりのサークルとはいえ、元から何個か空のハンガーは常備されていたようだった。
小型のヒーターをつけたばかりのまだひんやりした部室で、香川さんは電気ポットに水を入れてお茶の準備を始める。
「そこの椅子にかけてくつろいでいて。宮城くんはコーヒーと緑茶、どちらがお好みかな?」
「あ、えっと……緑茶で」
背中越しに問われ、どちらも好きだが彼女の飲む物に合わせて同じものを頼む。まさか告白したら彼女の淹れるお茶が飲めるなんて……。返事も何ももらっていないが、これはこれで嬉しい。
指定された椅子は背もたれや肘置きに革で包まれたクッションがついていて、座り心地がよさそうだった。
テーブルを挟んで向かいには、こちらの緑色とは対に赤色の、おそらく香川さんがふだん座っている椅子があった。これらの椅子だけは部室内で異彩を放っており、もしかしたら彼女が持ち込んだものかもしれない。
そんな少し高級そうな緑の椅子に腰を沈め背筋を伸ばしていると、コトコトと電気ポットが鳴り始める。茶葉の入った急須にお湯を移し、いくばくか蒸らしてから湯呑みに注がれたお茶がテーブルに置かれる。ざらざらした湯呑みの手触りと、じんわり伝わってくるお茶の熱が僕の指を刺激する。
「ありがとうございます」
「そこはいただきますとかじゃないのかい?」
「はい、いただきます……」
「敬語じゃなくていいのに」
ほんとうに楽しそうに笑うから、この時間が心地よい。このまま毎日お茶を一緒に飲めたらいいのに。お茶うけに菓子を持参したり、自分用のティーカップを用意したりして。
香川さんの緑茶へのこだわりや、同じクラスで課されているレポート内容などの雑談をしながらひと息つくと、舞い上がった気持ちも落ち着いてきて緊張もなくなっていた。香川さんは思っていたよりも話しやすくて、これまで持っていた他を寄せつけない勝手なイメージが失礼なことだったと感じた。
「まあ、私も相手は選ぶよ。わざわざ『知りたい』と言いにくる相手だって無下にはしない」
「あの、恥ずかしいのでやめて……」
からかい混じりに言ってくるので、僕は顔が熱くなるのを感じる。
それにしても、と香川さんが窓辺に目をやりながら呟いた。
「この部室で誰かと談笑するのは初めてだなあ。今まで使いどころに困っていたその椅子や湯呑みも、やっと日の目を見たわけだ」
じんわりと手元の湯呑みの熱が両手を伝う。僕は初めて、という言葉に動揺を誘われながらも、
「……香川さん、ここって何をするサークルなの?」
おずおずと、先ほどと同じ質問をしてみる。彼女は視線を戻しつつ「んー……」と逡巡してから口を開いた。
「まず、冷奴を研究する場所ではないかな」
「じゃあ何であのサークル名!?」
思わず突っ込む。少し前のめりだったか、香川さんが珍しくたじろぐ。
「さあ……。このサークルが私ひとりなのは、この研究会のメンバーが昨年度卒業して、私は都合よく居抜き物件よろしく利用しているだけだからだよ」
「居抜き物件って」
「今年度いっぱいはひとりでも存続できるけど、部員が増えなければ来年度からは休止扱いになるみたい。それでも一年でも自由に使えればありがたいと思ってさ」
ちょっと陰のありそうな言い方は僕に刺さるのですが。でも仮にここで僕がサークルに入ると宣言しても、必要人数には足りなさそうだ。
「改めて言うけど、私はこのサークルで遊んでいるんだ」
「え? それって、比喩でもなんでもなく?」
「私を買いかぶりすぎだよ、宮城くん。遊びたくて、空になったサークル室を使って遊んでる。そのままの意味さ」
僕の言葉に苦笑を浮かべ、香川さんは強調するようにおおげさに手を振る。
一緒に講義を受けているときの彼女の真面目な姿勢だったり、たまに大学の構内で周りに目もくれずに歩くのを見かけたり、その雰囲気でただならぬ人物というか、勝手に学業だけに集中していてそれ以外に興味を持たないのかと思いこんでいた。これは彼女のことを知らなかった僕の落ち度で、今日でそのイメージは払拭された。
「偏見を持っていたよ。僕は香川さんのことなんにも知らなかったんだね」
「知りたいと言ってきたのはきみじゃないか。私だってこれまできみを『掴みどころがないな』と思っていたし」
「そんな変に見られてたの僕?」
「お互い様だろう、それは……」
まあいいか、と香川さんは立ち上がり、なにやら準備を始める。下に車輪の付いた仕切りのようなパネルに、緑色の布が掛けられていて、その布の真ん中あたりに貼られたテープで四角い枠が作られている。その布の掛かったパネルを僕の後ろに移動させて、僕は椅子やテーブルを脇にどかすのを手伝わされる。
「さて、前置きが長くなったけど、ふたりで遊ぼうか」
そして、僕を挟んでパネルの正面に立った彼女は、右手に持ったプラスチック製のそれを宙に弾く。
「ボトルキャップ野球でね」
「……はい?」
空中で落ちてくるキャップをタイミングよく掴む彼女の姿はかっこよくて、様になっていた。
※
「ほいっ、と」
「ふっ……あれ?」
試合は九回表(という設定)、ツーアウトで最後の打席になるかという手番、僕は彼女の投球に翻弄されいとも簡単に一つ空振りをしてしまう。この回の2打席はすでに三振とゴロの凡退に終わっており、これが3回目の挑戦になる。
彼女によるとボトルキャップ野球とは、「ペットボトルのキャップを投げて打つ真剣勝負」のことだそうだ。
二人は投手と打者に分かれて、投手はパネルに示された四角い枠、つまりストライクゾーン目がけてキャップを投げ、時には回転を加えて変化球を操りながら打者を打ち取れば勝ち。打者はキャップの軌道を見極めながらバットに当て、投手の後ろまで打球を飛ばしてヒットにすれば勝ち。これを三回繰り返して総合的な勝敗を決するようだ。ところでこの僕が持っているバットと呼ばれる丸めた紙の束、今日の1限目の共通科目のときに教授から配られた講義のプリント資料じゃないだろうか?
「初めてとはいえ、まだ打球を上に上げられないなんて情けないんじゃないか、宮城くん?」
「煽ってくるなあ」
余裕をたたえた笑みでキャップを弾く香川さん。興が乗っていて今の彼女がすごく魅力的に見えるんだけども、言っていることは僕を馬鹿にしているので僕は強がりをもって顔をしかめる。
実際香川さんの投球はすばらしいものだ。指にかかった真っ直ぐなストレート、打者から見てストレートの軌道から逃げていくような変化をするスライダー。
そしてなにより僕を苦しめているのは、僕を挑発するように打者に向けて食い込むシュート回転の球だ。ストレートやスライダーでバットを迷わせ空振りを誘い、シュートでバットの根本に当てて打球を詰まらせる。こうして僕は前までの打席を三振と弱々しく転がる打球に打ち取られている。
知らないうちに真剣にやってて面白いね、これ。中学校の男子が掃除中に丸めた紙とほうきでごっこ遊びしてるやつの延長線上にありながら、変化球を交えるなど思考の読み合いがあって奥が深い。
それでたった今空振った球がストレート。シュートの恐怖があると振り遅れてしまう、手元で伸びのあるものだ。香川さんのキャップの投げ方は、側面を親指と人差し指で押さえてそれぞれの指の引っかけ具合で変化をつけるやり方のようだ。それにしたって器用に扱うなあ。
野球はざっくり言うと、空振りや、当てた球が前に飛ばないときにカウントされるストライクを三回取られたら打者の負けになる。現在の状況に合わせると、すなわちあと二回ストライクになったら負けなのだ。総合勝負ではもうニ勝されてるので負けは負けなんだけど、それはそれ、三連敗は避けたい。
「……ねえ、最後くらい、真っ向勝負といかない?」
「……ほほお?」
なので、僕は少しばかり仕掛けてみる。自分で言ってて悲しくなるが、要するに変化球はやめて直球だけ投げてくれないか、と提案している。
「物は言いようだね。まあ、でもいいよ。もう私は勝っているわけだから、宮城くんの自尊心次第だよね」
「そうはいっても一応初めてやる遊びだからね、これ?」
僕のささやかな反抗は流され、香川さんは再び投球態勢に戻る。野球の経験でもあるのだろうか、本当にフォームがきれいでかっこいい。
「ほら、お望み通りの、ストレートだぞ……っ!」
大きく息をついて両手を振り上げ、左足を上げながら下ろした両手を胸の前におさめてから正対する僕へ向け足を出し球を振り投げる。
やや横手から放られたボトルキャップが、ブレなく糸を引くような軌道を描いて僕の胸元に刺さる。手が出ない。それでも奥のパネルの枠内に、それも内角ズバリにキャップが飛んだのが分かった。
「そう言って変化球来ると思っちゃった……」
「苦しい言い訳だねえ、はははは」
自分でも満足する一球だったのか、香川さんが満面の笑顔で僕を見てくる。やばい、追い詰められているのに笑顔が可愛くて別の意味でどきどきしてきた。
「このぶんなら次で完全勝利できそうだ。これでひとり黙々と練習に打ち込んだ日々が報われる」
「そんなこと言われたらやりにくいよ!」
想像するだに寂しそう。
しかし、このまま負けるのは悔しい。そう、遊びといったって勝負事で負けたらなんだかんだ悔しいのだ。球種を絞った上にどうにかもうひと押し、突然コントロールが乱れてど真ん中に投げてくれないだろうか……?
一筋の汗をニットの袖で拭う香川さん。ふぅと息を吐いて最後の投球に臨む香川さん。そして両手を上げて投げ始める香川さん。
これが効くかどうか、いや効かないかもしれないが、なりふりかまってられない。
一瞬の恥より、一生の後悔。僕は絞り出した一手を、やおら叫ぶ。
「やっぱり好きだあああああああ!」
「へぇっ!?」
ちょうど指からキャップが離れる瞬間、突然の叫びと内容にひどく動揺した香川さんの投球動作が、ズレる。山なりに放られたそのキャップは、奇しくもストライクゾーンのど真ん中へと弧を描く。
「もらったああああ!」
バットはこれまでで一番素直に振れた。この打球の行方はーーーー。
*
「おかげさまで新しい球種を開発できたよ。スローカーブとでも呼ぼうか」
「そうですね、緩急がついてとてもいいんじゃないですかね」
「拗ねるなよぅ。きみはよくやったさ」
負けた。
思いっきり空振った。かすりもしなかった。
そりゃあ、ずっとズバズバ決まってた速球や変化球から、急に時間が止まったような山なりの球が来たらタイミングを合わせにくいに決まってる。完全に僕の作戦が裏目に出た勝負だった。
道具の片づけを終えて再び席につき、僕らは試合後の振り返りのようなことを語り合っていた。
なんだろう、この時間だけで僕と香川さんはだいぶくだけた関係になれた気がする。遠回しとはいえ告白した、された後の二人とは思えない。あと気を許すと香川さんは口をとがらせて口笛を吹くように人を煽ってくるんだ。うん、好きだな。
「なかなかいい策だったよ。……その、さすがに私も照れた」
「ご、ごめん……」
謝ることなのか分からないけれど、そういう言葉しか出なかった。あの、一瞬の恥、まだ続いてるんですけど……?
おっほん、とわざとらしく咳払いをして、香川さんは僕に向き直った。
「宮城くん。あのときの告白なんだけどもね」
「は、はい」
「きちんと返事を用意できていなかったことを申し訳なく思う。人となりを知らない相手からの想いを、私はそのまま受け取ることはできなくて、その場で言葉が浮かばなかったんだ」
同じクラスとはいえ、プライベートな会話をこれまでしてこなかったわけで、それでも香川さんは僕の告白に真剣に答えようとしてくれた。
彼女は目を伏せ、微笑みながら続ける。
「この時間、とても楽しかった。恥ずかしながら私は友人と呼べる者が貴重でね、久方ぶりにはしゃいでしまったよ」
「僕も楽しかった。なんだか小さい頃に置いてきた感覚を思い出した、というか」
実際香川さんと遊んでいて、童心に帰って些細なことから遊びを見つける新鮮さを取り戻したようだった。大人ぶった仮面を外して年甲斐もなくはっちゃける時間は、抑圧から開放された気分で最高だったのだ。
「その、これが返事というのもわがままで、独りよがりなのかもしれないが……」
これまで見てきた彼女にしては珍しく歯切れの悪い言い方で、僕はなんとなく断られるのかな、と悟る。香川さんでも、告白を断るのは勇気が必要で、気を遣うのか。また新しく知ることができたと、思いのほか冷静にその瞬間を待っていた。
彼女はほんのり頬を赤らめながら口を開く。
「私から改めて提案したい。宮城くん……友人として、私と仲良くしてくれないか」
「……うん」
よかった、友だちとしていられるんだ。むしろ前進じゃないかな。名前がなかった彼女との関係に、名前がついた。すごくプラスなことだ。頭の中でひたすらに前向きな言葉が浮かんでくるが、きっと今の僕の顔は無表情だ。
でも香川さんの顔つきは反比例して熱を帯びているような気がする。
「ああ、勘違いしているな!? いやそうじゃなくて、君との関係を一足とびで深くするのは、なんだか勿体ないと感じたんだ」
「……どういうこと?」
何回も瞬きをして、僕には理解できないよと伝える。怪訝な眼差しに彼女はさらに慌てた様子で言葉を繋ぐ。
「私も、困惑してるんだ。そんな特別な気持ちを持ったことがないから、これをどう表現すればいいのかさっぱりで……」
どうにもしっくりこないようで、それからも香川さんはあれこれ言い方を変えてはああでもない、こうでもないと悩んでいる。
次いで出た言葉がこれだった。
「きみと仲良くしたいよ。私のほうこそ、きみのことを知りたくなったんだ」
あっ。
頭が真っ白になるってこんな感じなんだ。思考も止まるし息も止まる。ゆっくり目を閉じ、おもむろに目を開けて、そして顔が紅潮して息の荒くなった香川さんが最初に映る。また初めて見る姿だこと。
「はい。ーーーー友だち、始めましょう」
とりあえず僕の口から出たそれで、とりあえずこの場はなんとか落ち着いたわけで。
この日から、僕こと宮城栄信と、彼女こと香川園花さんの関係は『友人』にステップアップしたのだった。
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