なぜ悲劇は繰り返されるのか?~他責思考が創る未来~

NOTTI

第1話:なぜ、改善できないのか

 最近の会見を聞いていると“再発防止に努めてまいります”・“厳正な処分を検討いたします”という決まり文句のような言葉を使うことが多い。しかし、私はこれらの言葉は内容によっては“その場しのぎの言葉”にしか聞こえない事も多い。そして、そのようなことが再び起きたとしても外に漏洩しないように事実を隠蔽しようとする。


私はこれらの言葉を有言実行しなくてはいけないと思っている。なぜなら、その不祥事に対してそこだけを変えるだけでは再び連鎖的に問題が発生してしまうからだ。


 例えば、交通事故が挙げられる。直近でも交通事故はかなりの頻度で発生しており、その度に改善してきたと言うが、実際には改善できているかというと疑問符が付くことが多い。


 特に、子供たちの通学路の問題、自転車通行に関する問題は以前から問題視されることが多い項目であり、以前にも文部科学省からの通達で通学路の一斉点検などが行われた事があったが、一定の効果は上がっていないように感じる。


 その背景にあるのが、“道路整備などに使用する予算”の問題だ。これは、自治体が独自に予算を計上し、その予算で道路工事などを行うのだが、その費用における計上格差が広がっており、有事が起きてもその場所だけを整備するということで予算を抑えようとする傾向にある。しかし、直近の事故などを調べると対策をしたところでの事故は減っても別の場所で事故が発生してしまうという負の連鎖が起きてしまっているのが現状だ。


 特に地方の場合は狭路を通学路に指定している場合や広い道を通るためには狭い道を通って登校しないといけないなど交通安全面の問題が多い。そして、多くの車両は子供たちのギリギリを通っていく事になるため、危険と隣り合わせの登校をしている子供も少なくない。


 その結果、狭路での事故が起きやすくなる、子供たちを含めた歩行者が安全に通行できる保証がないなど安全を担保できない状態が改善されないまま現在に至っているところがかなり増えているように感じる。


 だからこそ、“教育環境整備法”などの通学路に関する法律を作り、その法律に則って児童の安全確保などを進めていかなくてはいけないと思う。


 例えば、“道幅3メートル以下の道路を通学路として指定しなくてはいけない場合は登下校時の警察署との連携による通行規制”や“登下校時の交通誘導員の配置”、スクールゾーンとして通行止めにする事が可能な場合は“スクールゾーンとして時間内通行止めの実施”など子供たちの通行を優先し、一般車両の通行を抑制する必要があると思う。


特に、地方部の道路は狭路が多く、直近の事故現場のように区画線としての路側帯と車道の区別が付いていない車両通行を前提に整備されている場所や整備完了していても白線などの区画線が途中で終了しているもしくは引かれていない場所も多く見られることから、このような道路を通学路として使用するのなら何らかの対策を練らないといけない。


 現在、問題のあるバス停などは指摘されることはあっても、通学路などを指摘されることは少なく、私も子供たちの登校時にぶつかることがあるが、周辺の道がかなり狭いため、横を通り抜けるにはかなり神経を使う事が多い。


 このような状況は生活道路なら仕方がないことなのだろうが、その中でも交通量が多く、狭い道に関しては子供たちの通行に支障が出る可能性がある。


このような危険な道を登校させなくてはいけない事情があるにしても早急に対策をしないと同じような事故が発生する可能性があるのだ。


 そして、この法律で“通学路の定期点検と危険箇所確認の義務化”を盛り込むことで定期的に通学路を点検し、危険箇所と思われる場所があった場合、各区市町村の教育委員会に“学区内通学路点検結果ならび改善提案書”を提出し、学校側から改善箇所として列挙された地点を教育委員会で現場視察を行い、改善の必要の可否を判断し、“改善が必要”と判断した場所が市区町村管理の道路の場合は建設課などの各市区町村の担当部署の担当者と教育委員会で立ち会い確認を行い、国道や都道府県道の場合は国土交通省や各都道府県の建設課が立ち会い確認を行う事とする。


そして、その改善箇所において工事が必要と判断された場合には事業者を事業入札で募集し、工事業者を決定し、必要予算を議会に諮(はか)り、工事を行うという一連の流れを作ることで、定期的に通学路内の危険を認知することが可能となり、簡単な修繕などは各自治体で判断する事が出来るため、早急に子供たちの危険リスクが軽減されるだけでなく、通行する近隣住民などの事故誘発も防ぐことが出来る。


 私は“起きてから改善する”という考え方はあまり好きではない。なぜなら、物事が発生してからでは対策も不十分であり、場合によっては幼い命を失ってしまう可能性があるからだ。そして、社会全体でも改善提案などの際にはエビデンスを求める傾向にあるため、その事を説明できないと相手に理解していただくことも相手からの信用を勝ち得ることも不可能になってしまうのだ。そして、自体が大きくなるとなるだけ後手に回る事になるため、さまざまな弊害を生むことになるだけでなく、同じような事故などが再び発生する可能性がある。


 次に“不審者等出没時における対応”だ。これは昨今、登下校中だけでなく、休日などでも発生している。発生状況、被害状況の内訳を見ても“声かけ事案”・“わいせつ事案”・“ストーカー事案”と多岐にわたっており、声かけを受けている場所も登下校時は通学路で周囲からの死角になる場所や住宅街の路地などの周囲から気が付かれにくい場所が多い。そして、下校後や休日などは公園やスーパー、ショッピングモールなど人は多いが、他人の目が光りにくい場所が狙われやすくなっている。


 そして、現在は都市も地方部もこのような人が出没する可能性の差があまり大きくなくなった。そして、現在はステイホームや外出自粛なども相まって、市街地であっても人が少なくなっている場所も増えている。


その結果、表面化するのは一部で、それだけでは一見減ったように見えるが、潜在的被害件数が増加しているように感じるのだ。


 これは日本社会における“抗争回避心理”が若年層まで浸透していき、“ここで何かアクションを起こすと何をされるか分からない”という本人心理と“ここで関わると自分にも危害が加わるかもしれない”という第三者心理が混在することで事態の発覚が遅れてしまう、泣き寝入りが常態化してしまうのだ。


 しかし、立場が変わると“なんであんなにたくさん人が居るのに誰も助けてくれないの?”・“誰か助けて!”という被害者心理と自己保身的心理が加わることが多い。これは“自分がやられているなら助けて。だけど、他の人には同じ事は出来ないけど。”という矛盾した価値観が生まれている証拠なのだ。


 この心理が生まれる背景に幼少期から“お互いに何かあったときは助けてあげないといけない”という教育を受けてきた影響だろう。しかし、この教育の方程式が崩れる瞬間というのがある。それが“いじめ”や“仲間はずれ”といった価値観の違う人たちを切り離して、同じ価値観の人だけを助けるという“自己有益”の考え方を身に付けた時だ。そして、社会に出ると“誰かが困っても周囲は誰も助けない”という状況を繰り返し見ることで次第に“自分が助けなくても誰か助けてくれるだろう”という理由で誰かが困っていても助けず、自分が何かあったときには助けて欲しいと思うのはどこか自分勝手という気がしてならない。


 自己利益だけを求めても、結果はついてこないし、新しい発見なども見つける事が出来ず、価値観の相違で社会が壊れてしまう可能性がある。

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