おはなし
窓の外から差し込む光がだんだんと強くなる。
珍しく用事のない休日だが、朝陽は起きろと言わんばかりに頬を照らす。仕方なく体を起こし、伸びをしてベッドから立ち上がる。寝ぼけまなこをこすりながら部屋を出ると、パンの焼けるいい匂いがした。
台所を覗くと、そこにはすでに起きていた諒が、朝食の支度をしていた。
「おはよう漣。今日は休みじゃなかったの?」
そう微笑みかけてくる諒に、少し視線を逸らす。
「休みだけど、目が覚めた。諒も休みじゃなかったのか?」
そう聞きながら、まっすぐにリビングへと向かう。リビングの椅子に腰かけると、諒がトーストを運んできた。
「僕も起きちゃって」
そう言いながら、俺の前にトーストを置く。
「これ、諒の分じゃないのかよ」
「トーストくらいすぐに焼けるから。先に食べてて」
そういいながら、台所へと歩いて行ってしまう。
兄はこうと決めたら曲げない性格だ。俺は諦めて目の前のトーストをありがたく頂くことにした。
「いただきます」
手を合わせた後、片手で焼き立てのトーストを持ちかじる。バターを塗っただけのシンプルなトーストだが、やけに美味しく感じた。
左手でテレビのリモコンをとり、電源をつける。休日だが朝はニュース番組ばかりだ。
チャンネルをいくつか変えてみたものの、結局いつものチャンネルに戻してまった。
ニュース番組はちょうど喰字鬼についての特集を取り上げていた。ニュースをそれとなく聞き流しながら、トーストを再びかじる。
「どう?」
ふいに横から声をかけられる。
諒の分のトーストも焼けたようで、トーストを運んできた。トーストを前の席へと置き、もう一度台所へ歩いていく。今度は2人分のコップとお茶を持ってきてテーブルに置いた。それぞれのコップにお茶を注いだあと、席へと座った。
そして、俺の顔をじっと見つめてくる。
「美味しい」
そう答えると、その言葉を待っていたかのように嬉しそうな表情を見せる。諒は満足したようで、テレビへと視線を移した。
「また、喰字鬼のニュースだね」
テレビを見る諒は、どこか真剣な面持ちに見える。
「そうだな。諒は興味あるのか?」
諒の顔を見ながら聞く。
「あんまりかな。漣は喰字鬼ついてどう思う?」
諒は興味津々な様子で聞いてきた。
「どうって、別に。実際に会ったことないしな」
そっけない返事をした俺に、諒はそっか、とだけ呟きトーストを食べ始めた。
先に食べ終わった俺は、立ち上がり皿を台所へと運ぶ。シンクに皿を置き、諒に声をかけた。
「皿洗うから、食べ終わったら声かけて」
リビングにいる諒に聞こえるように喋る。
そして、諒の返事を待たずに自室へと戻った。
♢
暫くすると、ドアがノックされる。
「どーぞ」
俺の返事を聞くと、扉を開けて諒が入ってくる。
「漣、皿洗いは僕がやっとくからいいよ。その代わり、この本を読んで感想書いてくれない?」
そう言い、一冊の本を差し出してくる。
それは本というよりも日記帳のような見た目をしていた。題名は見当たらず、開くと文字は手書きのようだ。
この字には見覚えがあった。
「なにこれ?」
本を閉じ、視線を諒に移す。
「小説だよ。読んだことないよね?」
諒は少し不安げな表情を浮かべながら、聞き返してくる。
「ないけど」
返事を聞いた諒は視線を落としそっか、と小さな声で呟く。また俺を見て、今度は照れくさそうな表情を見せた。
「面白いかなって僕は思うんだけど、読んでくれる?」
普段も諒の頼み事は基本は断らないが、そんなふうに頼まれたらなおのこと断れない。文字を見たときから読もうとは思っていたものの、感想文を書くのが苦手な俺は、それだけは断ろうか迷っていた。
小さく息を吐き、諒の顔を見る。
「わかった。感想は口頭でいい?」
「紙に書いておいてほしいな」
そう微笑む諒に、俺はりょーかい、と返事をしながら自分の机へと向かう。背後からは諒のよろしくね、と言う言葉とドアの閉まる音がした。
机に本を一度置き、椅子へ座る。
本を手に取り、そして開いた。
♢
古い路地に立ち並ぶ家のひとつ。家族三人で暮らすには大きい一軒家に僕たちは住んでいた。
お母さんと双子の兄と僕で、お父さんはいなかった。母は僕たちのために働いていたから、家を空けることが多かった。親が家にいなくて寂しいかというと、そうでもなかった。兄の漣がいつも一緒にいてくれたからだ。
漣はいつも僕の手を引いて、いろんなところへ連れて行ってくれた。同い年で、背丈も顔立ちも似ているのに、漣は兄という感じだった。漣からしたら、僕は弟って感じだったのかも。普段は僕は漣って呼ぶし、漣も僕のことを諒って呼ぶから、どっちが兄でどっちが弟かなんて僕たちにしかわからないのかもしれないけれど。お母さんは別としてね。
今日も漣から出かけようと昨日誘われていた。支度を済ませ、出かけるまでの時間に本を読もうと本棚へ向かう。
漣はと言えば、まだベットのなかだ。いつも用事のぎりぎりまで寝ている。たまに早起きすることもあるけれど、それでも僕よりは遅かった。
本棚にはたくさんの本が並んでいる。お母さんが本好きだからだ。お母さんの読んでいる本は、僕が今まで読んできた本より漢字が多い。だから、今まではあまり読めなかった。けれど、小学4年生になって、最近では漢字の多い本も読めるようになってきた。
今日はどの本を読もうかと迷っている時だった。突然、文字を喰らいたいという気持ちになった。思った僕さえ、理解ができなかった。怖くなった僕は、急いでお母さんのもとへと駆け出した。
お母さんは仕事に出かけるための準備をしていた。僕はお母さんを見るなり、飛びついて顔をうずめた。
「どうしたの、諒」
心配そうに聞くお母さんに、僕は顔をあげて小さく答えた。
「文字が、喰べたくなったの」
その言葉を聞いたお母さんは、すごく驚いた顔をした。でも、すぐにいつもの優しい顔に戻って、僕にちょっと待っててね、と言った。僕はうん、とうなづいて手を離した。
お母さんは僕の頭を撫でたあと、机へと向かっていった。そして、机から紙とペンを取り出した。取り出した紙を半分に破いて、それぞれに何かをゆっくりと丁寧に書いていった。お母さんはとても優しい顔をしていた。
書き終えると、紙を持って僕のもとへ戻ってきた。そして、僕に目線を合わせるようにしゃがんで、紙を一枚だけ僕に差し出してきた。
「これを喰べて」
「これを喰べて」
僕は差し出された紙を受け取った。紙には、『諒、大好きだよ』と書かれていた。喰べてと言われても、どうすればいいのか僕にはわからなかった。
僕が暫く紙を眺めていると、お母さんが僕の頭を撫でた。
「そっか。そうだよね」
そう呟き、少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
「この文字を剥がして喰べるんだよ。お母さんは喰べたことがないから、うまく説明できなくてごめんね」
そう言いながら、僕を見つめる。その目は、僕を見ているようでもあったし、僕じゃない誰かを見つめているようでもあった。
僕はお母さんに言われたように、文字を剥がそうと紙に手を伸ばした。紙に書かれた文字を摘まむようにつかむ。すると、文字を紙から剥がすことができた。そのまま口へと運び、飲み込む。すると、文字の記憶が、お母さんの記憶が、それへの想いが流れ込んできた。
記憶はさっきこの紙を書いている時のものだった。僕を大切に思っていることが伝わってきて、僕はとても幸せな気持ちになった。
すると、文字を喰べたいという気持ちはなくなっていた。
「もう、大丈夫でしょう?」
そう微笑みかける母は、こうなることをわかっていたかのようだった。
「うん。でも、文字を喰べたくなるなんて、僕どうなっちゃったの?」
お母さんの顔をじっと見つめながら聞いた。僕はきっと、とても不安そうな顔をしていたんだと思う。
「うーん、なんて説明したらいいのかしら」
お母さんは少し悩むと、今日のお仕事が終わったら説明するね、と言った。お母さんが仕事に遅れちゃいけないことは、僕もわかっていた。
「わかったよ。お仕事頑張ってね」
僕がそう言うと、お母さんは僕をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。お母さん頑張ってくるね」
そういって、玄関へと向かった。僕はとっさに、いってらっしゃい、と声をかけた。お母さんは振り返って、いってきます、と微笑み出かけて行った。
♢ ♢ ♢
お母さんが出かけた後、僕は今度こそ本を読もうと本棚へ向かった。すると、上から声が聞こえてきた。
「おはよー」
漣が起きてきたようだ。僕は本を読むのをあきらめて、漣の分のパンを焼いてあげることにした。
寝ぼけているせいか、おぼつかない足取りで階段を下りてくるので、僕は内心冷や冷やしていた。漣が顔を洗い終わるころには、パンはトーストに変わっていた。
「トーストできてるけど、食べる?」
「食べる」
まだうつらうつらしながら椅子に座る漣の前にトーストを置く。
「ありがと」
黙々と食べる漣を見ながら、僕は聞く。
「ところで、今日はどこに出掛けるの?」
「どこ行きたい?」
色々な所に遊びに行ったせいで、すぐにここという場所が思い浮かばなかった。僕が返答に詰まっていると、諒がこちらをちらりと見て、
「図書館でもいくか?」
と言った。漣はあまり本を読まない。だから、漣が図書館を提案したのは意外だった。
「僕はいいけど、漣はそこでいいの?」
そう聞き返すと、少し照れくさそうに
「最近は俺の行きたいとこばっかだったからな」
と呟いた。僕は嬉しくなって
「じゃあ、今日は図書館だね」
と張り切って答えた。
♢ ♢ ♢
僕らの住む街の真ん中辺りに図書館はあった。この街の図書館はそこそこ大きいほうだと思う。小さい僕らからしたら、どこでも大きく感じるけれどね。
図書館へ着くと、漣は小声で僕に話しかけた。
「好きなの読んできなよ。僕もそこらへんで読んでるから」
そういって、歩いて行ってしまった。きっと、僕に気を使ってくれたのだろう。特に読む本を決めていなかった僕は、いろんなジャンルの本を見て回ることにした。
本を見て回っていると、棚に張られた紙に気が付いた。それは注意書きのようだった。
喰字鬼のみなさまへ
本館の所蔵図書は、市や地方自治体が管理している公共物です。無闇に喰べることのないよう、ご協力をお願いいたします。。
喰字を発見した場合は、罰金等の法的措置を取らせていただくことがあります。
万が一喰べてしまった場合には、職員までご連絡ください。
×××××図書館
喰字という言葉が気にかかった。僕はこれについて調べようと思い、司書さんに話しかけた。
「すみません」
声をかけると、司書さんはしゃがんで目線を合わせてくれた。
「どうしました?」
「この張り紙に書いてある、鬼について調べたいんですけど」
そういうと、司書さんは少し困ったような顔をした。そして、ちょっと待ってくださいね、と言いカウンターにあるパソコンを操作した。暫くすると、どこかへ歩いて行ってしまった。きっと、本を探しに行ったのだろう。
待っていると、ふいに声をかけられた。振り返ると、先ほどの司書さんだった。
「この本なら、読みやすいと思いますよ」
そういいながら、一冊の本を渡してくれた。『喰字鬼について』と書かれた本だった。
「ありがとうございます」
僕はお辞儀をして、足早に近くの机に向かった。
椅子に座り、読み始めようと本を開いたのだが、僕はすぐに本を閉じ、席を立った。漢字辞典を取りに行くためだ。しかし、その必要はなかった。席を立った僕に、先ほどの司書さんが気付くと、こちらへ歩いてきた。
「使いますか?」
差し出してきたのは、漢字辞典だった。
「ありがとうございます!」
少し大きな声で感謝を伝える。司書さんは
「どういたしまして」
そう答え、口元に人差し指を立てるのだった。
♢ ♢ ♢
辞書を使ったものの、ほとんど読み進めることのできないまま時間は過ぎていった。
「おい」
ふいに肩を叩かれ、驚き振り返ると、漣が立っていた。
「そろそろ帰らねーと」
そういって、時計を指さす。もうお母さんが帰ってくる一時間前になっていた。
お母さんはお昼過ぎに一度帰ってくる。その時にみんなで昼食をとることになっていた。
「ごめん、気付かなかった。この本借りてくるから待ってて」
漣に告げ、僕はカウンターへ向かった。カウンターには先ほどの司書さんが座っていた。
「この本借りたいんですが」
本と図書館のカードを差し出すと、司書さんは受け取り、パソコンを少し操作したあと、本とカードを渡してくれた。
「返却期限あは三週間です。それまでにまた来て下さいね」
「わかりました」
司書さんに、ありがとうございます、とお辞儀して漣を探す。漣は入り口前で待ってくれていた。
足早に漣のもとへと向かい、家へと歩いた。歩きながらも、僕は喰字鬼について考えていた。喰字鬼とは何なのかと、もし僕がそうなら、漣に伝えるかどうかについてだ。悩んでもまとまらない考えは、お母さんに相談しようと頭の隅に置いておくことにした。
家に着き、暫くするとお母さんが帰ってきた。今日の昼食はカレーライスにするみたいだ。僕は料理の手伝いをして、漣はその間に皿の準備や洗濯をした。
手伝いをしながら、お母さんにひとつだけ頼み事をした。今朝のことを漣には内緒にしておいて、と。それを聞くとお母さんは、笑顔でわかったわ、と耳元で呟いた。
みんなでご飯を食べて、片付けをした。暫くするとお母さんはまた支度をして出かけていった。
♢ ♢ ♢
夕方を過ぎたあたり、お母さんが帰ってきた。ご飯を食べ、順番にお風呂に入った。
僕は漣に、本を読んでもらうから先に寝てて、と伝えてお母さんの部屋へと向かった。昼間に借りた本をかかえて。
お母さんの部屋の前まで行き、ドアをノックした。暫くすると、お母さんが扉を開けてなかへと入れてくれた。
ベッドの端に並んで座った。僕はお母さんに借りてきた本をみせた。
「お母さん、僕ってこれなのかな?」
「よく見つけたわね」
少し驚きながら、僕を褒めるように言った。
「見せてくれる?」
そう言いながら、お母さんは手を差し出してきた。僕はうん、と言って本を渡した。お母さんは暫く本を読んだ後、本を閉じて天井を見上げながら
「そうね、何から話そうかしら」
と呟いた後、ゆっくりと話し始めた。
「喰字鬼っていうのはね、文字を喰べる人のことを指すの。鬼ってつくけれど人間のことよ。普通に過ごしている人のなかに、文字を喰べたくなる人が僅かだけどいるの」
「文字を喰ベる人が喰字鬼?」
「そうよ。喰字鬼となる人は、生まれた時から文字を喰べるわけではないの。あるときいきなり喰べたくなるのよ」
「今日の僕みたいに?」
「ええ、そうよ。文字を喰べたくなる時を喰字期というのだけれど、それは初めてきたときからひと月ごとに起こるの。だから、諒は来月の今日くらいにまた文字を喰べたくなるってこと。文字の喰べ方はもう知ってるよね?」
「剥がして喰べる?」
「そう。そして、文字を喰べるとき書いた人の記憶をみたの。諒もみたでしょう?」
「うん。お母さんの記憶をみたよ」
「そうね。文字を喰べると必ず起こるものなのよ。そして、喰べたものは書いた本人の記憶から消えてしまうの」
「え!?じゃあ、お母さんの記憶からきえちゃったの?」
「そんなことはないわ。お母さんは諒に渡すとき、文字を二枚の紙に書いたでしょう?」
「うん」
「あの時、お母さんは二枚の紙に同じことを書いたの。そうしてすべての記憶が消えてしまうのを防いでいたのよ」
「じゃあ、消えてない?」
「えぇ。消えていないわ。大丈夫だから」
そういって、僕の頭を撫でながら話を続ける。
「でも、書いてあるものが他になかったら、本当に消えてしまうから気をつけてね。書いた本人は忘れてしまうのだけれど、喰べた人は忘れなくなるの。ちょっと不思議よね」
「じゃあ、喰べない方がいいんじゃないの?」
「それは違うわ。喰べないと、諒に悪いことが起こるの。例えば、熱が出たりとかね。それだけならいいのだけれど、我慢し続けるともしかしたら死んでしまうかもしれないの。だから、我慢しすぎるのはいけないわ。」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「文字を書いてもらうのよ。特に、諒の心に響くものだといいのだけど、そうじゃなくてもいいわ。諒にはお母さんが書いてあげるから心配しないで」
「迷惑かけてごめんなさい」
俯きながら言うと、お母さんは僕を抱き寄せた。
「諒が謝ることはないわ。大丈夫だからね」
僕を包む腕は、少し震えているような気がした。
♢ ♢ ♢
あれから一年が経った。色々あったけど、大きな変化としては、お母さんが体調を崩し始めた。僕たち二人を育てるのは、きっと体にも心にも相当負担になっていんだと思う。それに僕が喰字鬼になったことも、負担になってしまったのかもそれない。それにも関わらず、弱音を吐かずにここまで育ててくれたお母さんにはすごい感謝してる。
あれから二年が経った。母が倒れた。仕事中にふらついてそのまま床へ倒れたそうだ。
病院へと運ばれた母に意識はなかった。打ちどころが悪かったらしい。医者からは、意識が戻るのがいつになるかはわからない、と言われた。それでも僕たちはすぐに意識が戻るだろうと考えていた。
意識が戻るまで、僕たちは二人で生活していかなければならなかった。母が毎日働くくらいだから、お金が相当ないのではと思っていた。しかし、それは間違いだった。貯金額は十分すぎるくらいにあった。僕たちが大学に行けるくらいに。
どうして、こんなにも貯金をしていたのかはわからなかった。ましてや、あんなにも毎日長い時間働いていた理由も、僕たちにはわからなかった。
でも、この貯金のおかげで、僕たちは母が倒れた後も今までと変わらない生活を続けることができたのだった。
♢ ♢ ♢
母が倒れてから半年が経った。いまだに母が起きる様子はない。母が念のためと渡しておいてくれた文字は尽きてしまった。
だから、僕は母が書いているはずの二枚目の紙を探して喰べるとこにした。
このときの僕はすっかり忘れていたのだ。書いた文字が本人の記憶から消えてしまうことを。そして、喰字期に入ってから暫くの間、文字を喰べていなかったことを。
僕は僕自身が理性を失っていることに、気づけないでいた。
その後も僕たちは、毎日病院に通った。
目を覚ますことのない母の見舞いのために。
♢ ♢ ♢
母が倒れてから一年と少し。母が起きる様子は相変わらずない。ついに母が書いていた二枚目の紙も尽きてしまった。
仕方なく喰べることを我慢していると、酷い倦怠感と震えが僕を襲った。
母は日記をつけていたはずだ。
喰べるものをどうにか手に入れなければ、そう思いながらも、僕は普段の生活を過ごすだけで精いっぱいだった。
母の日記なら喰べられる。机の引き出しに入っているはずだ。母ならきっと許してくれるだろう。
僕はそんな事を考えながら、母の机から日記を取り出した。一ページだけ、喰らうつもりだった。
でも、いつの間にか、全てのページを喰べていた。
膨大な記憶や様々な感情、想いが一気に流れ込んできた。朝が昼過ぎになるころに、やっと喰べ終えた。
喰べた記憶のなかの母は、冬馬という男性と幸せそうに過ごしていた。新しい記憶になるにつれ、僕たちと過ごした日々や想いに変わっていった。
母の日記を喰らった数日後、母の意識が戻ったと連絡が入った。急いで駆けつけた僕たちに母は、だれですか?、と呟いた。母は、僕たちのことを忘れていたのだ。
僕はやっと自分のしたことの重大さに気が付いた。呆然と立ち尽くす漣の横で、僕は母の手を握りながら、ひたすらに謝り続けた。
数時間後、母の容体が急変した。冷静さを欠いていた僕たちは、医者に大丈夫ですよね?、と必死に話していたと記憶している。そんな僕たちの想いは届かず、母はそのまま息を引き取った。
♢ ♢ ♢
僕たちは、母に手紙を二枚書き綴った。
書く内容を二人で決めて、それぞれが一枚ずつ書いた。名前も自分の名前だけではなく、自分が書くほうに二人分を書いた覚えがある。
そして、僕の書いたものあ母の棺とともに母へと送り、もう一枚は母の机へとしまった。母が過ごした場所に、なにをか残しておきたかったのだと思う。
葬儀を終え、これからは僕たち二人で生活をしていかなくてはならなかった。いつまでも貯金を取り崩す生活を続けている訳にはいかない。兄の漣は、自分が就職するから、僕に高校に進学するよう勧めてくれたけれど、僕は正直悩んでいた。
兄も勉強はできるほうだし、聞いたことはないがやりたいことだってあるはずだ。
それに、僕はしてはいけないことを、起こしてはいけないことをしてしまった。もし僕が喰べていなければ、最後に母の言葉を聞くことができたはずなのに。だからこそ、僕は兄に負担をかけるくらいなら、僕が就職しようと考えていた。兄にどう伝えるかは、決まらなかった。
僕にはもう一つ、忘れてはいけない事がある。喰字期のことだ。なにか代わりのものをと考えては、もう喰べたくないという気持ちが勝る。それでも悩み続けた結果、自分で書いたものを喰べようと決めた。僕は次の喰字期までに、できるだけ文字を書いた。小説の感想やどうでもいい日常のことを。
そして、喰字期がきた。
♢ ♢ ♢
あの日から、ひと月が経った。僕のなかに文字を喰べたいという気持ちが芽生える。僕は用意していた紙を取り出し、文字を口へと運んだ。
記憶を辿る。いや、振り返る。ひと月の出来事が思い起こされる。
喰べ終わったにも関わらず、僕の喰字欲が満たされることはなかった。
僕はどうしていいか、わからなくなってしまった。漣に相談しようかとも思ったが、母のこともあり出来なかった。
そのまま、数日が経った。僕は高熱に襲われ、学校を欠席した。熱は一向に収まらず、欠席日数が増えるばかりだった。それでも、僕は文字を喰べることはできなかった。漣は学校を休んでまで、看病しようとしてくれた。けれど、僕は大丈夫、とそれを断った。
断らなければ、よかったのかもしれない。そう思った時には、もう遅かった。
いつの間にか意識を失っていた僕は、ベッドの上に居なかった。僕がいた場所、それは母の机の前だった。目の前には、封筒と白紙の便箋が一枚置かれていた。僕は、頭が真っ白になった。
その時、玄関の扉が開く音がした。僕は急いで玄関へと向かう。そこには、学校から帰ってきた漣が立っていた。おかえり、そう言おうとした瞬間だった。
「だれ?」
時が止まったように感じた。
思考の止まった頭で、僕はこう告げた。
「僕は諒。君の兄だよ」
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