ジニアが散った
月花
ジニアが散った
「気持ちのいいドライブ中に野暮な忠告かもしれないけれど、この車、時速30キロ以上、80キロ以下を保たなければ即座に爆発するわ」
それは何ということはない、命日の墓参りの帰りのことだった。
くねくねとうねる、コンクリートの舗装もない山道を抜けて、ようやく開けた道へ。山のふもとは田んぼがずっと向こうまで続いていた。緑色の稲穂がゆらゆらと風に揺れている。助手席に座った彼女は、ゆるく足を組んだままでスマホをいじっていた。
車の窓は閉められ、車内はクーラーがきいている。後部座席に置かれたビニール袋からは、線香の濃い香りが立ちのぼっている。隣には余った花束が横になっていた。
俺は前を向いたまま視線を逸らさなかったが、ややアクセルを踏む足を緩めながら彼女に言った。
「それは野暮とかそういう問題か?」
彼女は涼しい顔で「ムードを壊していないなら良かった。今さっきスイッチを入れたところなの」と返す。
顔立ちそのものは幼いはずなのに、感情を悟らせない仏頂面と、淡々とした口調が彼女の年齢を錯覚させる。
彼女はまだスマホを手放さない。横目でちらりと伺うと、画面は真っ黒で、文字とも数字ともつかないものがずらりと並んでいるだけだ。俺は「もしかしなくとも」と前置きしてから、恐る恐る尋ねた。
「おまえ、今日やたらとスマホいじってると思ったら、まさかそれに……」
「爆破プログラムを組み込んであるの。ちなみにボタン1つで任意でも爆破できるわよ。今すぐ爆破してほしかったら言ってね。2秒で天国見せてあげるから」
「丁寧な仕事しやがって!」
「ところで時速40キロ切ってるわよ。爆死したくなければあなたも丁寧な運転を心がけることね」
言われて、俺は慌ててメーターに目をやる。時速34キロ。アクセルを踏みこむ。あと少しで、この世界から90万円の中古車と尊い人命が2つ失われるところであった。
ハンドルを握る手にやや汗が浮かぶ。はずみで滑らないように思わず力んだ。
「な、なんで?」
「何が」
「なんで俺の車に爆弾なんか設置したんだ?」
ルームミラーにぶらさげられたお守りが揺れている。交通安全の文字が一人で優雅に踊っている。猿田彦大神、と心の中で呼びかけた。全くもって役に立っていないのですが、俺の四百円は返金してもらえるのでしょうか。天からご愁傷様ですと返ってきたような気がしたが、気のせいだと思いたい。
「俺、なんか悪いことした?」
「自分の胸に聞いてみなさいよ」
「夜中、冷凍庫にあったハーゲンダッツおまえの分まで食べたから?」
「何それ、わたし知らないんだけど」
「くそ、誘導尋問か!」
「こんなので誘導できるなら誰でも警視庁に就職できるわよ」
というか、ハーゲンダッツ・マカダミアナッツ味で爆死させられる人生って何よ、と彼女は呟いた。
「安い人生ね」
「ハーゲンダッツは安くねえだろ、ぶっ飛ばすぞ」
「ぶっ飛ばしてもいいけれど、うっかりスイッチ押しちゃっても恨まないでよね。うっかり押すわよ」
「作為的でしかねえ」
彼女はスマホを見せつけるようにひらひらと振った。白く細い指先が、爆破ボタンらしき画面に添えられていたので、俺は大人しく謝罪することにした。深々と頭を下げる。
「ようやく自分の立場というものが分かってきたみたいね。感心だわ」
「俺の方が9歳年上……」
「何?」
「何でもございません。俺ごときが天才高校生様に意見して申し訳ございません」
田園風景はどこまでも続く。かかしだけが揺れている田舎町を、軽自動車は進み続ける。
「それともあれか?」
俺はハンドルから左手を離した。詰まった息をゆっくりと吐きながら、汗ばんだ手をポケットに突っ込む。
「おまえのこと、誘拐したから?」
大人びた横顔は何も言わなかった。
都市部からはずいぶんと離れた田舎町のはずなのに、電柱の張り紙には『人を探しています』という文字とともに彼女が写っている。カメラレンズを向けられて不服だったのか、ずいぶんと不細工な顔をした彼女が。
雨宮凪。高校2年生。身長150センチ程。痩せ型。肩の上で揃えられた黒髪。当時の服装は黒のロングワンピースとコート、赤のマフラー。
これが張り紙に書かれた全てで、彼女を繋ぎ止めようとするか細い糸だ。
行方不明者として捜索願も出されているであろう薄幸の美少女だが、今は俺の車の助手席で、起爆スイッチを握って俺を脅している。人生とは摩訶不思議なものである。どこからどう見ても被害者は俺の方であった。
「とりあえず落ち着けよ。ほら、そこのコンビニでハーゲンダッツ買ってるから。なっ」
「コンビニなんてないけれど。もしかしてそこの野菜の無人販売所のこと言ってる? トマトしか置いてないわよ」
「じゃあトマト買ってやるから。なっ」
「なっ、じゃないわよ。トマトは嫌い」
「いつもいつも好き嫌いばっかりしやがって! 野菜は嫌い、肉も嫌い、何だったら魚も嫌い! おまえは何だったら食うんだよ」
「ハーゲンダッツ」
「なるほど、相当俺を恨んでいると見た」
無人販売所を通り過ぎた。赤く実った美味しそうなトマトだったから、今夜の食材にはぴったりだったのにと思ったが、現在爆弾とドライブ中なのでそれどころではないし、そういえばもう夕食のことは考えなくても済むのだと思い出した。
俺は数少ない信号を避けるように、あたりをぐるぐると回りながら「ちなみに」と訊く。
「コンビニがあるという仮定で、もしハーゲンダッツ買ってやるから一旦爆破スイッチ切ってくれってお願いしたらどうするんだ」
「こんな田舎町にコンビニはないけれど、あるという仮定で答えると、ギアをリバースに入れた瞬間にやっぱり爆破するわ」
「うーん、高濃度の殺意」
メーターのそばに備え付けられているデジタル時計に目を遣る。16時過ぎ。あたりはまだ明るいが、日はやや傾いている。ちょうどフロントガラスの向こうに太陽が見えて、目に眩しかった。
凪は肩にかかった髪を後ろに流しながら、器用に指先でスマホを触っている。隙を見て奪い取れないかと画策するが、起爆スイッチがそれ1つとも限らないので、迂闊には手を出せない。ドライブを続けるしかなかった。
「爆破するのは百歩譲っていいとして」
「いいの?」
「おまえも巻き込まれるだろ。どうするんだよ。俺と無理心中でもする気か?」
「さあ、どうでしょうね。もしかすると爆弾が仕掛けられているのはあなたの座席部分で、吹っ飛ぶのはあなた1人かも」
「そ、そういえば運転席の座席にシミができていたような。あとなんか甘い臭いがするのも――まさか本当に⁉」
「それはわたしがコーラを零しただけ」
「おい、初耳なんだが」
「だって言いづらくて」
「爆弾を仕掛けたことは言えるのに⁉」
叫んだついでに、思わずクラクションを鳴らしてしまった。凪は不快そうな顔をしながら、わざとらしく片耳を塞ぐ。俺は「陰湿な反応はやめなさい」と彼女を諭した。
「そんなだから友だちいねえんだよ。おまえも女子高校生らしく、青春してろよ。放課後にサーティーワンとか寄ってインスタにあげてろよ」
「その女子高生を誘拐したのはあなたでしょ」
「さいですね」
「ロリコン?」
「大人に的確にダメージを与えてくるのもやめなさい。おまえと同じ歳の妹がいたんだぞ。反応に困るわ。とんでもなく世間体が悪いわ」
「絶妙に気持ち悪いわね……」
「だから俺の性癖を故意に捻じ曲げるな!」
助手席に腰かけている凪は、それとなく身体を離してくる。うわあ、と声を出さずに唇だけ動かすのがなお陰湿であったし、俺は普通に傷付いた。この女は俺を傷つけるのが上手いのであった。
凪はドアのスイッチを押し込んで、車の窓を開けた。外の生ぬるい風が流れ込んできて、彼女の少し伸びた、毛先の揃わない黒髪がたなびいた。俺の妹とは違う、真っ直ぐで素直な髪だ。俺はふと手を伸ばしてみたいような衝動にかられたが、ゆるく手のひらを握った。ふわりと漂ったシャンプーの香りは俺のものと同じだ。
「そもそもの話なんだけれど。あなたは、わたしが爆弾を仕掛けているという話を、本当に信じているの?」
抑揚のない声。
そっぽを向いたままで凪は言う。俺は「何言ってんだよ」と返した。
「おまえが言うんなら、そうなんだろ」
凪はやはりこちらを向くことなく、しばらく片肘をついたまま窓の外を眺めていた。代わり映えのない田園を。俺はやや笑って、「おまえを疑ったことなんて一度もないよ」と付け加えたが、彼女は特に反応することもなかった。
「大体、おまえが爆弾作れることなんか知ってるし。部屋で堂々と組み立ててただろ。俺をパシって材料買わせて」
「……」
「プログラムとかいじれるのも分かってたしな。おまえ、一月前に、山小屋の扉をオートロックに改造してたじゃえか。なんだよ山小屋がオートロックって。しかも俺が外出てる間にやりやがって。締め出されたわ」
「サプライズよ」
「泣くぞ?」
「感動で泣いてくれるなんて嬉しい」
「おまえは優しさという大切な感情をどこに落としてきたんだ。五反田か?」
「墨田区」
「さては修学旅行のスカイツリーで落としてきたな」
凪はふふ、と珍しく息を吐くようにして笑った。俺も思わずつられて笑ってしまった。彼女と言えど、中学校の修学旅行はそれなりに満喫していたらしい。
彼女は窓を閉めないままだったが、ようやく前を向く気になったのか、16歳にしては落ち着いた表情の横顔を晒した。
いつの間にか線香の香りは風にまぎれて消えてしまっていた。夕陽を浴びて、彼女の白すぎる肌が輝く。眩しいくらいに輝いていた。
雨宮凪を一言で表すとすれば、天才だ。
天才なのだ。
「わたしは爆弾くらい、材料さえあれば作れるし、プログラムで制御することだって簡単よ。だってわたしだもの」
「そうだな。……梨乃も言ってたよ。おまえは何でもできて、何でもするって。俺もそう思ってる」
「でも、今ここに仕掛けられているかどうかなんて、わたしの能力とは何も関係がないんじゃない?」
それはそうだ、と短く返す。
ちょうど時速45キロ。わざとアクセルを踏む足を緩めて、速度を落としていく。40キロ、39キロ、38キロ――。凪は何も言わない。メーターの数字は見えているはずだが、澄ました顔で座っている。時速30キロをきったら爆発するというのに、とてもそうは見えない態度だ。
反対に、俺の脈は自然と速くなる。トクトクと音が聞こえそうなくらいに、速く。
極めて慎重に31キロまでスピードを落としてみたけれど、凪は口を開くこともなく、むしろ時計の方を見ているくらいだった。
「――」
アクセルをぐっと踏む。ゆっくりと加速させて、もとのスピードまで上げた。
凪はつまらなさそうな顔で俺を見た。今の今まで死の淵にいたとは思えない、涼し気な目元だ。俺と視線を交わらせる。
「試してみればよかったのに。本当に爆発するかどうか」
「本当に爆発するだろうが。取り返しがつかねえことを提案してくるな」
「……どうしてそこまで、手放しで信用できるの」
訝し気な視線。
彼女がどういう気持ちでそう言ったのか、正直分からなかった。俺に何を言ってほしいのかも、さっぱりだ。分からなかったので特に取り繕うことなく答える。
「凪だから」
呟くように言う。
「凪だから、何も疑ってない」
今度はもう少しはっきりと。彼女はわずかに目を丸くして、それから「誘拐犯にしては優しいこと言うのね」とぼそぼそ言った。
「もっとも、あなたを誘拐犯にしたのはわたしだけれど――」
最後まで言い切ることなく、語尾は消えるようにすぼんでしまった。彼女はゆっくりと瞬きをしながら呼吸を深くする。
雨宮凪。
凪ちゃん、と声には出さずに呟く。
昔は彼女のことを、凪ちゃんと呼んでいた。
昔と言ってもつい3年くらい前の話だ。雨宮凪と知り合ったのは、俺の妹が中学校に進学した春だった。
俺の妹である、広瀬梨乃が新しい友人として家に連れてきたのが最初で、彼女は当時から不思議な雰囲気をまとった少女だった。
中学生にしては小柄な背丈、なのに大人のように落ち着いた表情と声、理知的な目。彼女が神童として噂になっていることを知ったのは、出会ってまもないころだった。
その頭脳と性格はまるで人を寄せ付けなかったし、彼女自身それを知っていてなおそのままでいたから、相当周囲から浮いていただろう。けれど梨乃は彼女の何が良かったのか、彼女の親友として名乗りを上げた。
結局3年間、梨乃と凪は親友であり続け、俺は歳の離れた兄だったから、遠くまで車を出したり帰りにはアイスを買ってやったり、ずいぶんといいように使われたのだった。
けれど俺たちの関係は呆気なく終わりを迎えた。梨乃と凪は別々の高校に進学することになり、凪にいたっては全国でも有名な進学校へ入学したからだ。俺も3月末に転勤することになり、住み慣れた実家を離れた。
思い返してみれば楽しかった。
凪もいつの間にか俺を名前で呼ぶようになって、遠慮の欠片もなくなっていたし、梨乃は大声を上げてけらけら笑って。本当に楽しかったのだ、ずっと。
初夏。
忘れない、あの日もこんな日だった。
俺たちがばらばらになって1年半後、ことは起きた。
前触れもなくラインが届いていた。梨乃からだ。「ごめんね」と「今までありがとうね」の2つだけ。絵文字もスタンプもない、たったそれだけのラインが。何度も読み返して、それからおもむろに電話をかけた。嫌な予感で背中が汗ばんでいた。出なくて、俺はもう一度かけた。何度もかけた。
けれど妹の声を聞くことはできなくて、次に顔を見たときにはもうすでに、狭い箱の中に押し込められた後だった。
夏の葬式は蒸し暑かった。
喪服の下にきたシャツにはじっとりと汗がにじんでいた。握らされた花を棺桶の中へ詰める。梨乃は目を閉じてじっとしていた。
俺はもうずっとぼんやりとしたままだったのに、すべてが流れ作業のように終わっていく。不意に涙がにじんだ。全部夢ならいいのにと思った。夢だったら、よかったのに。
燦燦と降り注ぐ夏の日の下で納骨は行われた。緑の色が濃くて、蝉がミンミンと鳴いていた。見上げれば抜けるような青空だった。
虚ろなままで家に帰った。俺だけは自分の車で来ていたから、親族が全員出払ってしまってからゆっくりと帰った。ルートを遠回りになるように設定して、1人で。
だからたまたま葬式会場を通りかかったとき、真っ黒な日傘をさしたセーラー服の少女を見つけたのも、やっぱりたまたまだった。
――梨乃がどうして死んだか、知ってる?
あの日も助手席に座った凪が、囁くような声で言った。俺は知ってる、と返したが、彼女は知らないでしょ、と言った。
――誰がやったのか、わたしは知ってる。
梨乃は自殺だった。自分で手首を切って死んだのだ。それでも凪はそう言い切った。
――あなたのお母さんに頼んで、梨乃のスマホを貸してもらったの。そのときにウイルスを入れてハッキングした。消えていたデータも全部復元して。それで、何が分かったと思う? わたし、うんざりしたわ。あんまりにもろくでもなかったから。うんざりした。
――何が、分かったんだ。
――いじめだった。
凪はそう言って、力なくうなだれた。
それから、何度も学校にもかけあって事実確認を頼んだ。悪質ないじめだった。だからすぐにすべてが明るみに出ると思っていた。けれども算段が甘かったのは俺たちの方で、学校側からは何もなかったの一言で一蹴されてしまい、日だけが無為に過ぎていく。
凪も抜き取ったデータを証拠にしようと躍起になっていたが、もともと削除されたデータだったから、捏造だと言われてそれきりだ。
それでも半年は粘った。必死に、息もできないくらいに足掻いていた。
気の遠くなるような半年だった。
クリスマスソングの流れる12月25日、凪は疲れ切った顔で言った。
――もういい、殺そう。
ひとり言のように言った。本当にもう、疲れていたのだと思う。
――殺そう。
繰り返された言葉に息は呑まなかった。俺も、こんな世界にはとっくの昔にうんざりしてしまっていたから、迷うこともなく頷いた。
そしてクリスマスに雨宮凪は姿を消した。
俺は雨宮凪を誘拐し、2人で、エゴとも自己満足ともつかない幼稚な復讐劇を企んだのだ。
ドライブは続く。16時25分。信号を避けながら走っていたらいつの間にか海岸線の方へと向かっていた。田園は姿を消し、あたりには潮の香りが漂い始めた。
「おまえの考えてることは何となく読めたよ」
唐突に言えば、凪はわずかに口角を上げた。
「答え合わせ、してみる?」
「模範解答があるなら」
凪は乱れた髪を耳にかけた。視線だけで俺の答えを促す。ハンドルを右に切りながら、俺は口を開いた。
「これは時間稼ぎだろ」
凪の指先がピクリと揺れる。
「もともとの計画だと、今日、ちょうど今ごろから実行するはずだった。2人で墓参りしたあとに爆弾を仕掛けに行って、一気にドカンってな。復讐相手は3人もいるんだから1人ずつやってたら、どこかで捕まる可能性もある。1回にまとめてしまった方が確実だ」
「そうね」
「でもおまえ、気付いたんだろ」
「…………」
「俺がおまえを警察に保護させてから、実行する気だって」
エンジン音だけが無機質に響く。ピリ、と張り詰めた空気が肌を刺す。
凪はため息を吐いた。それから肩の力を抜いて、ゆっくりと脱力する。
「一昨日の夜、起爆装置がすり替えられていたから」
バレてたか、と俺は苦笑する。彼女に隠し事は難しい。彼女は俺と違って天才だから。
「どうせ材料のあまりで作ったんでしょ。見よう見まねで、それらしく。でもすぐに分かったわ。配線がおかしかったから。あの赤い線はあんなところに繋げちゃ駄目よ」
「そっか。今後の参考にするわ。活かす場面なさそうだけど」
「変だと思って触ってみたら偽物だったから、あなたの考えてること、全部分かった。何もかも1人でするつもりだってことも、わたしを連れていくつもりがないんだってことも。それで急に腹が立って、どうしようもなく腹が立って、それから悲しくなった」
「おまえにそんな人間らしさがあったとは」
からかうように言えば、凪は眉を下げた。
「本当に悲しかったの、わたし」
俺は思わず口をつぐむ。ごめん、と上ずった声で言ったが、凪はそれに答えることはなかった。代わりに話を続ける。
「爆弾はね、もう仕掛けてあるの」
「……そんなわけ、だって今、車のトランクに積んであるはずじゃ」
「あれは偽物。本物は宅配で送りつけたわ。17時、あいつらが帰宅したときに爆発するようにタイマーもつけておいた。あなたが会社でいそいそ仕事している間にね」
「はは、マジかよ」
時計を見る。タイムリミットまで30分ほど。今から一番近くの交番まで彼女を連れていけば何とかなるのではないか――そう思ったけれど、すぐに無駄だと悟った。凪がそんなミスをするはずがない。
ちらりと視線を投げかければ、彼女がゆるく首を傾けた。
「爆弾にはわたしの指紋をつけてあるわよ。べったりね。相当下手なことにならなければ、焼け跡から見つかるんじゃない?」
「……俺のは」
「一応ふき取ってあるけれど。データも改ざんしておいたし、あなたが余計なことを言わなければ足はつかないと思う」
爆弾の材料を買い集めていたのだから、どこかで見つかるはずだと思っていたが、それもとっくに解決済みらしい。「あー、くそ」と前髪をぐしゃぐしゃかき乱す。
「丁寧な仕事しやがって」
「あなたの運転はあんまり丁寧じゃなかったけれどね」
揶揄するように彼女は言った。
今からでも車を飛ばせば、爆弾を回収することができるかもしれない。けれどこの車にも爆弾が仕掛けられていて、厄介なスピード制限が付いているうえに、スイッチも彼女の手の中だ。
とにかく考える。じっくりと考えて、考えて、それから俺は片手を上げた。
「降参」
「諦めが早くて助かるわ。世の中には努力しても無駄なことってたくさんあるものね」
「ああ、そうだったな。俺もおまえも、もう嫌ってほど知ってるよ」
「本当に、うんざりするわね」
吐き捨てるように言った凪は、「それで、どうするの」と頬杖をついた。
「このままわたしとドライブしてくれる?」
「おまえは続けたい?」
「どっちでもいい」
「はっきりしろよ。そういうのが一番面倒くさいんだぞ。晩飯とデートのときにそれ言ったら喧嘩になるって相場が決まってんだよ」
「だって本当にどっちでもいいんだもの、わたし。そっちこそ、どうなの。もうそろそろ間に合わない時間だし、帰りたいならスイッチ切ってあげるけれど?」
俺は、はっと短く笑う。
「嘘つけよ」
「?」
「切る気ねえんだろ、スイッチ」
凪はゆっくりと目を見開いて、唇を震わせた。俺は構わずに続ける。
「おまえは最初から、本当に俺と心中するつもりだったんだな」
凪はこちらを向いたままで固まっていた。しばらく黒い瞳が揺れていて、隠せなかった動揺が彼女の喉を強張らせた。詰まった息が無理やり吐きだされるように、声が掠れる。
「……どうして」
「そっちこそ、なんでだよ。なんで俺が、全部終わったら死のうとしてたのを知ってんだ」
「だってスマホで遺書書いてるの、見たから」
「いつ」
「あなたのスマホをハッキングしたとき。半年前から何度も書き直して。それを知ってたから、わたし、ああそういうことだって」
「何でもかんでもハッキングするんじゃねえよ。俺のスマホは出入り自由じゃねえんだぞ。ピンポンくらい鳴らせ」
まったく油断も隙も無い女だった。今さらそんなことを言っても仕方がないので、俺はため息交じりに自分の方の窓も開けた。びゅ、と強い風が吹いて潮の香りが一段と濃くなる。
「心中の方は、おまえが爆弾ドライブをさせたってところから分かったよ。自分一人で実行したいだけなら、こんな時間稼ぎする必要ねえからな。復讐実行まで、俺がおまえを警察まで連れていけないようにしつつ、そのまま一緒に死ぬにはちょうどいいよな、これ」
俺が「答え合わせしてくれよ。あってたら赤でマルでもつけといてくれ」と笑えば、「サービスで花丸にしておくわ」と返された。
「ねえ、凛」
シートベルトをしっかりと締めたまま、彼女は俺を真っ直ぐに見る。
「それでもう一度訊くけれど、このままわたしとドライブ続けてくれる? 嫌とは言わせない」
黒真珠みたいな目に映っているのは俺だけだった。だから答えには迷わなかった。
「上等。どこにでも行こうぜ。おまえとなら多分どこだって楽しいよ」
デジタル時計の数字は慈悲なくカウントアップを続けている。57、58、59分――緊張はしなかった。この半年でやってきたことが、今日ですべて終わるだけなのだから。
ぱっと数字が変わる。
17時0分。
海岸線のスピーカーから夕焼け小焼けが流れ出した。潮風に乗って、きっと遠くまで。
「……不備なし。きちんと作動したわ」
「そっか」
「終わったわ、全部」
「そっかあ」
凪はスマホ画面に映るプログラムを見せてくれるが、俺には何が何やらさっぱりだったので、適当に見るふりだけをしてアクセルを踏みこんだ。めいいっぱい踏みこんだ。
「あっ」
ガタン、と車内が大きく揺れた。振動で凪の身体は前のめりになる。だがすぐにエンジン音が高らかに響き渡って、車は急加速した。
赤信号も無視して真っ直ぐに。
道の端には海が見えていた。夕陽でキラキラ反射している水面が目に痛いくらいに眩しかった。
限界にまで開けた窓からはびゅうびゅうと強い風が吹き込んで、髪はもうめちゃくちゃだ。「ちょっと、前見えない!」と慌てて髪をかき上げている凪は、けれども小さな子どものように笑っていた。
「は、あは……あははっ!」
どちらのものともつかない笑い声が車内に響いていた。2人で笑っていた。大声で。口の端と頬がひきつって痛い。こんなに笑ったのは本当に久しぶりで、それは梨乃が笑うときとよく似ていたような気がした。
「怖い?」
「怖くない」
潮風が気持ちよかった。空が真っ赤に染まっていて綺麗だ。
メーターは時速76キロ。まだ上がる。77キロ。ピピピと甲高い電子音が車内に響いた。後部座席に乗せた荷物の中からだ。警告音も無視してアクセルをべた踏みする。加速は止まらない。
「ねえ、凛くん。ねえ!」
ひどく懐かしい呼び方をされて、俺はハンドルを握りしめたまま声を張り上げる。
「なんだよ、凪ちゃん!」
「わたしたち、やっと戻れるね」
復讐の相棒ではなくて、ただの友達に。梨乃が繋いだ2人に。あの日までの3人に。俺は笑う。
「ばあか、戻れねえよ」
戻れるはずがない、もうどこにも。何一つ取り返しがつかない。梨乃は死んで、俺たちは一線を超えた。全部終わった。終わってしまったのだ。
理解しているはずのに、それでもまだ人並みの幸せを願ってしまうのだから俺たちは愚かしい。まったく、うんざりしてしまうほど。
パチンと花束の紐が切れて、ジニアの花が舞った。もういない彼女に捧げた鮮やかな緋色が風に吹かれて、車内に、視界いっぱいに広がった。
本当に怖くはなかったのだ。思い出すのは昔のことばかりで、閉じ込めていた思い出がなんだか痛いくらいに寂しくて、愛しかった。
ふ、と笑みを浮かべる。こんなときは泣くのではなくて、笑うべきだから。
「それじゃ、今からどこに行こうか――」
車はガードレールを突き破って海へ飛び出す。電子音がピーと鳴って、それで――。
ジニアが散った 月花 @yuzuki_flower
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