第49話 

「伊宮、この問題解いてみろ」

「はい」


 隣の席の弥織が教師に当てられて、彼女が返事をした。

 彼女は前まで姿勢よく歩いて行くと、黒板の上にチョークを走らせ、解答をすらすらと書いていく。

 俺はちらりと横目で教室を見ると、多くの男子生徒がその後ろ姿を惚れ惚れとした様子で眺めていた。

 その気持ちはよくわかる。ほんの少し前まで、俺も彼らと同じだったからだ。

 弥織とは昨年も同じクラスだったけども、彼女と話した事などほとんどない。俺もこうして彼女を遠くからぼんやりと見ているだけだったし、それだけで満足していた様にも思う。

 あの時の俺は恋に恋している状態で、その欲求を満たすには、〝学校一の美少女〟の存在は丁度良かった。手に入るどころか近付く事すらできない存在の一挙一動にときめき癒される事で、恋をした気になれたからだ。

 おそらく、多くのアイドルや女優──或いはVtuberもその区分であるのかもしれない──に恋をしている人々も、きっと同じなのだと思う。アイドルや女優よりも、学校一の美少女の方が存在として身近なだけだ。

 だが、本当に恋をするのと恋に恋をしている状況は全く異なる。

 今の俺は、そんな〝学校一の美少女〟と日常的に話す様になっていた。それも、〝おかーさん〟として。

 もはや彼女の後姿も、こうして教室で見るより、家で見る事の方が多くなっていた。

 そしてそれは、後ろ髪を結っていて、エプロンを身につけている。それはもはや妄想を超えている様な展開だ。


 ──先月の俺に言っても信じてもらえねえだろうなぁ。


 俺はそんな後ろ姿を眺めながら、ふと思う。

 この現状に今の自分自身でさえも信じられないのだから、仕方がない。

 弥織は正答を書き終えると、チョークを置いて自席に戻ってくる。その際に、俺とふと目が合った。


「あんまり見ないでよ、恥ずかしいから」


 彼女は席に座る前に、小さく俺に言う。


「……見てないし」

「でも、さっきも目が合ったよ?」


 そう言って弥織は、可笑しそうに笑うのだった。それはもうその通りで、言い訳のしようもない。

 ただ、彼女を見ていたのは俺だけではない。おそらくこのクラスの男子の大半が見ていたはずだ。


 ──じゃあ、何で俺とだけ目が合うんだろうな。


 そんな、考えなくて良い事も考えてしまう。

 それを考え始めてしまうと、あの公園で繋いだ手の温もりと共に、どうにもにやけてしまいそうになるからだ。


「よし、じゃあ次横の真田。問い五の問題解いてみろ」

「うげっ」


 俺が当てられたと同時に、隣の弥織がくすっと笑う。

 問い五って何だっけ、と思って慌ててノートを見ていると、「昨日解いたやつだよ」と隣から弥織が教えてくれた。

 昨日って言うとどこだっけ、と考えながら、ノートの新しいページをめくっていく。


 ──ああ、これか。本当に昨日やったところのやつだな。しかも弥織に教わったやつじゃないか。


 俺は小さく「サンキュ」と言って、ノートを片手に黒板の前へと赴く。彼女との夕食後の勉強会が役に立った瞬間だ。

 ノートに書いてある式をそのまま黒板へと書き写している最中、ノートの隅っこに描かれた絵にふと視線を奪われた。


 ──なんだこれ? 


 そこに目を向けてみると、珠理を模したイラストが『パパー頑張れー』と応援旗を振っていた。なんだかそのイラストが妙に可愛くて、思わず吹き出してしまった。

 どうやら、俺が気付かない間に弥織が落書きをしていた様だ。


「……どうした?」


 解答を書いている最中にいきなり吹き出したものだから、教師が怪訝そうにしていた。


「いえ、何でもありません……」


 俺は咳払いをしてそう答えると、ノートのイラストが後ろの連中に見えない様に角度を変えて、残りの解答を黒板に記す。

 解答を書き終えて席に戻る途中で弥織と目が合うと、なんだか嬉しそうにしていた。俺の反応を見て、ちょうど自分が落書きをしたページだった事を思い出したのだろう。


「……お前な、人のノートに落書きすんなよ」


 座る前に、一言言ってやる。


「可愛かったでしょ?」

「まあ……可愛かったけどさ」


 俺はそう言って嘆息すると、窓の外へと目を向けた。

 三羽の鳥が、芳春を楽しむかの様に青空を並んで飛んでいる。あの三羽は、家族なのだろうか。友達なのだろうか。

 そんなどうでも良い事を考えながら、視線を空から教室へと戻した。教室では、教師が俺の解いた問題の解説をしていた。

 解説内容は、もう全て理解している事だった。今更真面目に聞いていても得られるものはないので、俺はふとノートに視線を落とす。

 そこには、彼女に描かれた珠理のイラストが俺を応援していた。

 自然とそのイラストを指で撫でてしまいそうになる程、それは愛おしかった。そして、愛おしいと感じる理由もまた、自分自身で自覚していた。


 ──可愛いのはイラストだけじゃなくて、こんな落書きをこっそり描いているお前なんだけどな。


 授業を真面目に聞いている弥織の横顔を見ていると、こちらの視線に気付いたかの様に、彼女もちらりと俺を見る。そして彼女はまるで「なあに?」と訊くかの様に、首を傾げるのだった。

「なんでもないよ」と応える様に首を小さく横に振ると、俺は再び窓の外へと視線を移した。

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