第27話 三人の食卓の向こうに見えたもの

「いやー、これほんとに美味しいな。ナポリタンが好きになりそう」


 弥織の作ったナポリタンの味には感動を覚える。

 極めつけは、蜂蜜の甘みだ。あれがとても良い味を出していて、ナポリタンの旨味を底上げしている様に感じた。この甘みが白米を欲してしまう。ご飯も炊いておけばよかったと後悔した程だ。

 ちなみに、蜂蜜をバカにしてごめんなさいと既に三回程謝っている。


「お口に合って良かった。後で細かくレシピ書いてLIMEで送るね」

「え、まじで⁉ これでレトルトのナポリタンから解放される……」

「レトルト、そんなに嫌だったんだ?」


 弥織がくすっと笑った。俺がレトルト信者だと思っていたのだろう。

 断じてそこだけは否定しておくが、信者だったわけではない。自分で作ったものより美味しく、更に珠理からもレトルトの方を推されてしまった──というか俺が作ったものが否定された──だけなのだ。


「まあ……珠理が食べたがるから俺も渋々って感じだったからさ。マジで助かる」


 このナポリタンが自分で作れるとなると、それだけでかなり強い。珠理など、もう会話どころではなく食べる事に夢中だ。

 弥織は微笑ましそうにその光景を眺めつつ、珠理の口元についたケチャップを布巾で拭いてやっていた。一方の珠理は、口をもぐもぐさせながら〝おかーさん〟に明るい笑顔を向けている。


 ──本当に親子みたいだな。


 その光景を見ると、ついそう思ってしまう。もちろん、俺も弥織も、五歳の子供がいる様な年齢でない事は間違いない。だが、二人の雰囲気を見ているとそう思えてくるのだから、不思議なものだった。

 それは、弥織がもともと持っている母性がそう見せるのだろうか。それとも、珠理の母を求める気持ちが彼女をそうさせたのだろうか。そこまでは俺にはわからない。

 ただ──弥織と珠理が出会えてよかった。素直にそう思えたし、あの時腹を括って彼女にお願いしてよかったとも思えた。一度目の大失敗は、目を瞑ってもらおう。

 それに、俺自身もこうして珠理以外に誰かを交えて食卓を囲むのも、随分久しぶりだ。

 祖父母が珠理の面倒を見ていた時以来だろうか。少なくとも、俺が高校生になってからは初めてだった。


「あっ……」


 そこで珠理は、何かに気付いたという様子で俺達の方を見つめた。


「珠理ちゃん、どうしたの?」

「かぞくでごはん! はじめて!」


 珠理が、まるで世紀の大発見だとでも言いたげな程顔を輝かせて言う。

 俺と弥織は顔を見合わせてから、少し間を置いてぷっと同時に吹き出した。

 恥ずかしかったけれど、今は俺と弥織は〝おとーさん〟と〝おかーさん〟なわけで、そう言われてみれば『家族でご飯』である。

 珠理にとっては、ただただナポリタンが美味しいという事や、〝おかーさんが作った〟という事以外にも、この三人で食事をする事そのものにも大きな意義があったのだ。彼女は──家族で食べる食事を、知らなかったのだから。


「そうだね、家族でご飯だね」

「うん!」


 弥織は珠理の頬についたケチャップをまた拭ってやりつつ、笑顔で答える。

 珠理が『家族でご飯』と言ったからだろうか。その二人の様子を見ていると、不意に瞼の裏が熱くなって、じわっと視界が滲んだ。


 ──もし、母さんが生きていれば、こんな光景を見ていたのかな。


 食事中に、しかもクラスメイトに〝おかーさん役〟という無理難題を頼んでいるのに、こんな事を考えてしまうのはきっと失礼に当たる。珠理が望み、俺がお願いしたに、弥織はただ付き合ってくれているだけに過ぎないのだ。本当の家族と重ねられるのは、彼女にとっては不本意なものに違いない。

 だが、この時の弥織と珠理を見ていると、浮かんではならない光景が浮かんでしまったのである。それは、どれだけ望んでもこの世には実現し得なかった光景で、誰も見る事ができなかった光景だ。

 このテーブルに母さんがいて、珠理がいて、そして親父もいて……そこにあるはずだった四人の食卓。だけど、現実では、絶対に実現しないはずの食卓。

 その食卓がもし存在していたならば、こうした笑い声が満ちていたのだろうか。母さんはどんな顔をして珠理を看ていたのだろうか。今、こうして弥織が彼女を眺めている様に、優しい眼差しを送っていたのだろうか。

 母さんの顔を想像できるはずなのに、の顔はどうやっても想像できなくて、それが悔しかった。きっと母さんが今も生きていれば、俺の知っている母さんより少し老けているはずで、でもその少し老けている姿がわからない。

 母さんはもう、あの時から老ける事すら許されなくなってしまった。この五年でどう老けたのか、少し皺は増えたのか、それとも五年程度では変わらないのか、その想像すら俺にはできないのである。


「……依紗樹くん?」

「え?」


 気付けば視界がぼやけていて、弥織の心配そうな呼びかけが聞こえてきたのでまばたきをすると──頬に何かが伝った。

 何かと思えば、涙だった。


「どうしたの……? 大丈夫?」

「……おにーちゃん、泣いてるの?」


 二人が心配そうに俺を見つめていた。

 その時自分の頬から何滴も雫が零れていた事に気付いて、慌てて腕で拭う。


「い、いや! このナポリタンがあんまりにも美味しくてさ! こんなに美味いの食べたの初めてで、感動しちゃって! ははっ、いや、弥織は凄いなぁ! 泣かせるナポリタンとか、店で出したら流行るんじゃねえの?」


 俺はいつもより大袈裟にはしゃいで、豪快にパスタをズズズと吸って見せる。パスタの食べ方としては下品だが、今はそれでこの涙を誤魔化したかった。


「依紗樹くん……」


 弥織は心配そうに俺の名を呟いただけで、それ以上何も追及してこなかった。

 そんな彼女の視線を感じながら食べたナポリタンは、どうしてか、さっき食べた時にはなかったしょっぱさが甘みの中に混じっている。僅かに塩水が入ってしまったパスタを、俺はただ美味い美味いと言って食べ続けるしかなかった。

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