第28話 眠りへの誘(いざな)い

 三人の初めての『かぞくでごはん』は、俺の所為で一瞬変な空気になってしまった。だが、二人がそれ以上突っ込んでこなかった御蔭で、以降はすぐに元の空気に戻っていた。

 弥織は心配そうにこちらを見てはいたが、俺が普通にしている以上は何も触れてこなかった。きっと気を遣ってくれたのだろう。

 俺としては、せっかくの美味しいナポリタンに水を差してしまった気がしていたので──決して俺の目から出た塩水と『水を差す』を掛けているわけではない──触れないでいてくれる方が有り難かった。

 昼食を終えて、弥織が食材と一緒に買ってきてくれたデザートを食べると、二人は居間のソファーで絵本を読んでいた。

 彼女が家から持ってきた絵本はうちにないもので、しかも文字の勉強もしやすいものだった。

 絵本の読み聞かせは、結構俺もこれまでやってきた。絵本を読むのは子供の教育に良いらしく、幼い頃にたくさん絵本を読んでもらった子供は将来的に頭が良くなるらしい。俺の場合は、学校と家事で疲れ切っているので、ただ読むだけで済む絵本が一番楽だった、というのがあるのだが。絵本を読みながら珠理と一緒に寝てしまった事も多々ある。

 俺は洗い物を終えると、二人から少し離れた台所から、その〝親子〟の姿を眺める。

 二人は居間のローソファーにもたれかかりながら絵本を読んでおり、珠理は初めて読む絵本に瞳を輝かせていた。


 ──それにしても、弥織の声ってほんとに聞き心地が良いな。


 弥織の柔らかいアルトが、風に乗って耳に運ばれてくる。

 彼女の声には普段から癒されていたが、こうして子供に読み聞かせる声はより母性を感じて優しい気がした。

 その声をもっと近くで聞いていたくて、俺は居間の隅っこに腰を掛けて、スマホを見るふりをする。画面はテキトーにニュースサイトを開いているが、内容など殆ど見ておらず、意識は彼女の声に向けていた。


 ──あ、やば。これ、寝ちゃう……。


 そう意識した時には、もう手遅れだった。

 あまりの聞き心地良さに、うつらうつらとしてきて、視界が暗くなっていく。

 それからどれほど経ったのかはわからないが、口元を何かで触れられた感覚がして、ゆっくりと瞳を開けた。

 そこにあったのは、ハンカチで俺の口元を優しく擦っている弥織の姿だった。


「あ、起こしちゃった? ごめん」


 彼女は慌ててハンカチを持った手を引っ込めた。


「いや……こっちこそ悪い。完全に寝てた」


 まだ意識がふわふわしていて、どこか現実味がない。

 現実味がないのに、この家に弥織がいる事に関しては違和感を抱いていない自分が不思議だった。


「で……何してたの?」


 俺は彼女の持つハンカチを見て訊いた。


「あ、これは、その……」

「ん?」

「涎……垂れてたから」


 彼女が少し申し訳なさそうな、恥ずかしそうな顔をして言う。


「げっ」


 慌てて口元を拭うが、既に俺の恥ずかしい涎は彼女のハンカチによって拭い去られていた様だった。


「わ、悪い……ハンカチ、汚しちゃったな。洗って返すよ」


 ハンカチは彼女のものだった。女性のハンカチで涎を拭かせてしまうとは、申し訳ない事をしてしまった。


「う、ううん、大丈夫。私が勝手にしただけだから。気にしなくていいよ」

「いや、でも……」

「だから、大丈夫だってば」

「は、はい」


 ちょっと語気を強められると、何故か気圧されてしまう俺である。立場の弱い〝おとーさん〟だ。

 でも、世の中のお父さんって結局はお母さんに勝てないのかもしれないな、とも思うのだった。


「あれ、そういえば珠理は?」

「依紗樹くんと一緒だよ」

「え?」


 そう思ってローソファーで見ると、すやすやと珠理が眠っている。彼女が掛けてくれたのか、タオルケットを被せられていた。

 兄妹揃って彼女の催眠術に掛かってしまった様だった。


「弥織の朗読は、魔法だな」

「え?」

「めちゃくちゃ眠くなる」

「なにそれ、やだ」


 正直に言っただけなのだが、弥織は気に入らなかったらしく、少しむすっとした顔をする。


「私の朗読が三山先生みたいって事?」

「それとはちょっと違うけど……いや、眠くなるって点に関しては同じか?」

「もうっ」


 弥織が優しく俺の肩を小突いた。

 ちなみに三山先生とは、俺達のクラスを受け持っている現代文の先生だ。彼が教科書を音読していると、不思議と眠くなってしまうのである。

 本音を言うと、彼女と三山先生の声や朗読の質は全く異なるのだけれど、それは照れ隠しだ。


「いいから……依紗樹くんも、たまにはゆっくりしてて」

「え?」

「いつも珠理ちゃんの事気にかけてるから、あんまり寝れてないんでしょ? 私がいる時は休んでくれていいから」


 彼女はくすっと笑うと、まるで諭す様に言った。

 おそらく、俺の発言の節々から週末もあまり休めていない事を察したのだろう。彼女が朝から来てくれたのは、俺のそうした状況を察しての事だったのかもしれない。


 ──どんだけ良い子なんだよ、お前は……。


 思わずそう言いそうになるが、何だか告白みたいになりそうだったので、すんでの所で言い留める。


「じゃあ、御言葉に甘えて、少し休ませてもらおうかな」

「うん。依紗樹くんにも絵本読んであげよっか?」

「お前な」

「ふふっ、冗談だよ」


 彼女は可笑しそうに言っているが、ちょっとだけ読み聞かせをして欲しいなと思う気持ちもある俺である。


「自分の部屋で寝る?」

「いや、さすがにそれは悪いからここにいるよ」

「そっか」


 彼女はそう言って立ち上がると、ローソファーに置いてあったタオルケットをもう一枚持ってきて、俺の肩に掛けてくれた。

 なんだろう、この暖かさ。いつもは俺が珠理にしてあげる事なのに、それを自分もしてもらっている。

 誰かに何かをしてもらう、という事に不思議な感覚を覚えながらも、再び睡魔が襲ってきた。

 ここ数日はお母さん依頼事案のせいで色々気を張っていて疲れていたし、今朝も早起きさせられているので、寝不足だったのかもしれない。


「おやすみ、依紗樹くん」


 きっと俺が眠そうにしているのでそう言ってくれたのだろう。

 彼女に返事をする余裕もなく、再び俺の意識は無意識へと落ちていくのだった。

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