脱学校的人間(新編集版)〈27〉

 大人という結果から逆算して、その立場からさかのぼって見出される「子ども」という存在から、あるいは、「子ども時代」という限定された一期間について想起される観念において、むしろ逆に「大人たち自身の子ども時代」なるものが、そこからは反映的に見出されてくることにもなる。そこで大人たちは「子どもの未成熟さ」というものを、「かつて自分たち自身がそうであったと思われる、未成熟さの再現」として、自己投影的に見出すことにもなる。そして「今は未熟ではない自分自身」を、そこからさらに反転的に見出しうることにもなる。

 さらにまた、「未成熟から成熟への成長の過程」という定型的な人生行路の様式が、「成熟という結果からさかのぼった形」で見出されてくるところとなる。それがすなわち、「教育の必要性」という発想へと繋がっていく。

「…個人の生涯において学校教育が不可欠であるのも、未熟な若い者たちに世界の主要な現象を理解できるように教え、しかもいかにして学んだらよいかという学びの在り方や方法をも教えるからだ…。」(※1)

 大人からさかのぼって見出された子ども時代から、さらに振り仰いで「人間の完成形として抽象された成熟」が目指され、それに対する「未熟と欠落が埋められていく過程」として、「成長」なる定型的様式が措定される。大人に対して「未熟で欠如した存在である子ども」が、その限定的な期間である子ども時代において集中的に教育されることで、それによって彼らは成長し発達し成熟することとなり、ゆえに「それによって子どもは大人になるのだ」という、人間の成長過程をめぐる定型的様式に一定の正当性が付与される。その過程の正当性が担保されるのは、まさしくそれが「大人という結果からさかのぼって再現されている」という前提においてである。


 大人に対して欠如した存在として措定され、当たり前の大人になるための発達・成長・成熟の過程のさなかである、期間限定の「子ども時代」を過ごす、その当の子どもたち自身にとっては、時として自らがその渦中に身を置く「子ども時代なるもの自体が、重荷になっているようにも思われ」(※2)ているのかもしれないし、また彼らの多くは「やむをえずその時代を通過しているだけであって、子どもの役割を果たすことが全然楽しくない」(※3)のかもしれない。もしかすると彼ら「子どもたち」は、自分たちがまだ未熟だと見なされていることについて、実のところ強い不満を感じているのかもしれない。

 あるいは彼ら「子どもたち」は、自分たちがすでに持っているはずの何かを、大人たちから強引に取り上げられているように感じることがあるのかもしれない。子どもたちは、ただ単に「成年に達していないがゆえに、つまりは彼らが子どもであるがゆえに、成年に対する何らの権利も」(※4)持たせてもらえず、あるいは「成年としての何らの権利」も持たせてもらえず、ただ単に「まだ子どもだから」という理由だけで、「未熟な未成年の状態にとどめられている」ように思えているのかもしれない。

 そのような彼らが「大人になる」ときとは、それはすなわち「彼らが未成年であることをやめるとき」(※5)であり、それはまさに「彼らが子どもであることをやめるとき」であろう。そして、「そのときはじめて、彼らは成年である権利を持つこと」(※6)になる。少なくとも彼らは、現在この時点においてすでに「大人たちから、そうあるべく決められている」のだ。彼らがそれを主体的に受け入れているかどうかに関係なく。あたかも彼らには、それを決める権利がないかのようにして。


〈つづく〉

 

◎引用・参照

※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」

※2 イリッチ「脱学校の社会」

※3 イリッチ「脱学校の社会」

※4 シュティルナー「唯一者とその所有」

※5 シュティルナー「唯一者とその所有」

※6 シュティルナー「唯一者とその所有」


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