脱学校的人間(新編集版)〈25〉
吉本隆明は、ヘーゲルの『精神哲学』を引用しつつ、「子どもというものは、自身として何ものかになるべきイメージは持っているのだが、しかし今現在はまだその条件を獲得しえていない、ゆえに一刻も早くそのイメージを現実のものとして獲得することへの渇望がその内心には強くあり、それがまた教育の実効性というフェイズに強く結びついている。子どもの中にある『早く大人になりたい』という欲望、しかし現在の自分はそれを欠いているジレンマ、それらがまた教育の内在性というものを固く根拠づけている」(※1)というようなことを言っている。
ここで言われている「自分自身として何ものかになるべきイメージ」というのは、自分自身としても、あるいは社会的な意味においてもある種理想化された、しかしその一方では「そのようにしてあるべきもの」として個々人の現実に対し強圧的に条件づけられた、一般的に期待されている人間像が投影されたものである、というようにも読み取ることができるだろう。そしてその人間像を一体何と呼ぶべきかと言えば、要するに「大人」ということであるのに他ならない。
そういったイマージナルな人間像を実効的なものとして獲得したいと強く渇望・欲望しながら、しかし今はまだ確実なものとして手に入れることができずにいる、すなわちそれを「今はまだ欠いている」状態に置かれている、そのような「大人であることの条件を実効的なものとして欠いていること」こそが、逆に見ればまさしく子どもが「子どもであること」の条件とされるわけなのであり、その条件にもとづいて彼らはすなわち「子ども扱いされている」ということになるわけである。
ところでこのような条件づけは、「大人から子どもへと逆算して、そこからさかのぼって見られた視点」によってなされているものだと言えるだろう。そしてもし、そのような「大人に対して欠如しているという意識が、子どもには内在的にあるものなのだ」としたら、それはむしろ「大人の意識の側」から振り返って見ることによって生じた、「大人自身の内面に見出される、子どもという表象」の、その反転的な投影という以外のものではない。
実に「子ども」とは、そのように大人から逆算し、そこからさかのぼって見出されるより他はないものなのである。そこでもう一つ言わなければならないのは、そのように「見出されること」よりも前に、子どもが「子ども自体として、先行して存在する」ということはない、ということである。たとえば、「お前はまだ大人ではない」などというように、「大人たちから言われる・定義づけられる・条件づけられることによって以外では、子どもは子どもになることができない」ということなのだ。ボーヴォワールによる有名な言葉をもじって言うならば、つまり「そもそも人は子どもとして生まれるのではない、子どもになるのだ」ということになるわけである。
大人に対して欠けている者、あるいは大人である条件を満たさない者という条件づけにおいて、「子ども」は大人と対したときにのみ「そのような者」として見出され、そのように定義づけられ、その存在を意味づけられることとなる。そしてその、自らに欠けているものを埋め合わせ、今はまだ満たすことができていない条件をクリアすることによって、「やがて大人になること」を子どもは、「その子ども時代を通じて要求され続ける」ことになるわけである。
ところでその、子どもが要求されている「大人になる」ということとは、一体どういうことなのか?
内田樹によると、「大人が子どもに向けて発信するメッセージは結局は一つしかない、『成熟しろ』、これが全てなのだ」(※2)ということのようである。
では、その「成熟」とは一体何なのか?
端的に言うとそれは「一人前になること」であろう。
では、その「一人前」とは一体何を指して言うのか?
それは要するに、家族から独立し、社会において自力で生きていけるような力を持つこと、すなわち「自立している」ということになるのであろう。
社会に出て、そのメンバーとして一定の職業に就いて日々の労働に勤しみ、その上でやがてはそれぞれ「自分の子ども」の父親・母親となり、新たな家族を自分自身の力で作っていくということ。それが一般的には「成熟した大人の条件」とされているのであろう。そしてまさしくそれこそが「子どもには欠けているもの」なのだというわけであり、それを満たすことこそが「大人になる条件なのだ」とされているわけである。
ところで、そのような「大人になること」とは、実際これまでも誰もが皆やっていること、あるいは誰もが皆やってきたこと、ゆえに人としては至極当たり前のことではないのかと、きっと誰もが思うようなことだろう。しかし、そういった「当たり前」なるものが見出されてくるのは、何よりもまずその「当たり前のことが欠けている者」を見出すところから常に出発しているものなのだということを、ここでけっして見過ごしにしてはならないのである。
「何かを欠いている者」が、その自らに欠けているものを補い、必要な条件を満たすことによってようやくはじめて彼は「当たり前になる」のだ。当たり前に「なった」ということ、これが「欠けている者」に対する「当たり前な者らの優位性」となるのである。それが同時に「大人の子どもに対する優位性」ともなっているわけなのだ。このような「自らの欠如を補い、条件を満たしていくプロセス」こそが、すなわち「子どもから大人への成長過程」と定義されるものであり、その結果こそまさしく「成熟」と呼ばれるのだと考えられているものである。
しかしここであらためて繰り返すと、そのプロセスこそが「大人という結果」から逆算してさかのぼることによって見出されるものであるということは、何度でも強調しておかなければならないことである。だから、「子どもというものは、未成熟だから成熟を目指すものなのだ」という一般的な見方とは反対に、「子どもとは、成熟を目指すがゆえに未成熟なのだ」(※3)という逆説的な見方の根拠も、ここにおいて一つの正当性が持たれることになるのである。目指すべきものとされる成熟が、何よりもまず先行してあるのでなければ、彼らはそもそもから未熟であることなど、はなからけっしてできはしないものなのだ。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 吉本隆明・山本哲士「教育 学校 思想」
※2 内田樹「街場の教育論」
※3 柄谷行人「日本近代文学の起源」
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