脱学校的人間(新編集版)〈23〉
産業社会の支配者たるブルジョワジーは、その社会に生きる全ての人々を、彼らブルジョワジーと同様に生きさせようとする。
ブルジョワジーは自らの営む生活様式を見本として、世に生きる全ての人々に対して「ブルジョア風生活様式」への羨望を抱かせ(一方で、そのブルジョワジー自身が憧れていたものとは言うまでもなく、かつての支配層が表現していたような「貴族的生活様式」であっただろう)、全ての人々がこぞってブルジョワジーのように生きようとすること、あるいはそのような生活を送りたいと欲望することを煽り立てるようにして促す。そういったブルジョワジーの巧みな誘惑に触発されることによって、世の全ての人々の間で消費と生産の経済活動が活発となり、それが循環を繰り返しつつ恒久的な発展を遂げていくのに伴い、人々の具体的な生活の舞台となる産業社会全体もまた大いに発展していくこととなる。それによって社会全体の富は、爆発的に増大するところとなるわけである。
そして、その富を彼らブルジョワジーが一手に独占する。それこそが彼らブルジョア階級が思い描く、理想の支配形態である。
彼らブルジョア階級の社会的な支配力を維持するためには、社会全体の永続的な経済発展が何より不可欠であり、その発展を生み出すエンジンとして位置づけられる市井の人々の活発な消費活動、そしてそのエンジンに注ぎ込まれるガソリンの役割を果たす、一般大衆の抱くブルジョア的生活への欲望が、途絶えることなく促進され続けられるのでなければならない。そのためにも教育や社交、あるいは娯楽などといったさまざまな社会的・経済的な生活行動全般を通じて、旺盛で享楽的なブルジョア風社会生活の経験が、巷の人々の隅々にわたって与えられていかなければならない。そのような経験を通じて全ての人々は、誰もが「自分もやがてブルジョワジーのようになれる」という期待を抱くところとなるだろう。それまで「ブルジョア階級に限られていた」ようなものも、誰もがあわよくばブルジョワジー「のようになりうる」のだとすれば、誰もがそうなりたくなるものだろう。誰もが手に届くものだというならば、誰もがそれを手に入れたくなるものだろう。
そのような、憧憬と羨望に裏打ちされたブルジョア的生活様式への誘導の仕方は、かつての時代には取り立てて子ども扱いされることのなかった「小さな大人たち」を、「子ども時代」と銘打たれる限定的な一期間に、集中して設えられたところの人間の発育成長環境へと取り込んでいく、その具体的プロセスにおいてもまた、同様の構造をもって導入されていたのだ、とイリッチは言う。
「…産業社会となってからはじめて「子供時代」の大量生産が実現可能となり、また大衆にも手が届くものとなった。…」(※1)
誰もが「ブルジョワジーの子どもたちのような経験」を積み重ねれば、いずれは「ブルジョワジーたちのような人間」になれる。それが誰にでも手が届くものであれば、自分もやはり手に入れたい。そのような「全ての人々の欲望」が無際限な経済の拡大を促し、なおかつ社会全体をドライブさせる。ゆえにブルジョア的生活様式の大量生産は、産業社会の発展に必要なことだった。ブルジョア階級自身が生き延びるためにも、それは何としても必要だったのである。
ブルジョア階級は、あくまでも「産業社会の支配者」であった。ゆえにそれまでの支配階層のように、人々を「一方的に支配する」ことができるほどの総合的・全体的な「権威」と言えるようなものを、彼らは生来的に持ち合わせてはいなかった。
彼らブルジョワジーを権威づけていたのは何といってもその「資本力」であり、それを運用して多くの人々に「豊かな生活」を与えること、逆に言えばそれ以外の「力」によってでは誰も豊かな暮らしなど夢見ることすらできないのだと、全ての人々に思い込ませることができるくらいの、爆発的で永続的な経済的成長の推進力を、現に効力があるものとして人々に見せつけることができるところにあった。しかし逆に言うと、彼らの武器は「たったそれだけしかなかった」のであった。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
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