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ござる

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 グー、パー、グー、パー。


 ダメだ、右手が動かない。よほど痛めたんだろう。


 「上手くやったと……思った……のに……!!」


 さっきまで立っていたのに、気が付いたらうつ伏せで倒れている。


 まるで地面の音でも聞くように左耳をピッタリ地面につけて、目の前にある右手を見ていた。何度動かそうとしても指先ひとつ、ピクリとも動かない。手を開く、閉じるという動作を脳は確かに命令しているはずだが、右手はそれをことごとく拒否している。


 動かし方を忘れてしまったかのような、右腕全体が強力な麻酔にかけられているような、手応えのない感覚。まあ、麻酔をかけられているにしては痛過ぎるか。


 「ち……く……しょう……!!」


 アドレナリンが出ていれば痛くないという話にも限度があるようだ。めちゃくちゃ痛い。


 喧嘩もろくにしてこなかった俺は、急な下り坂で自転車の前輪だけ急ブレーキをかけたらそのまま前方宙返りをして顔面からコンクリートにダイブしたのが人生最大の痛みだったが、もちろんそれの百倍痛い。


 だが痛みは感じているのに、それを忘れそうなくらい、いま俺は恐怖している。


 その原因は、まず血の量だ。


 生温かい血の池に浸かって、びっしょりで気持ち悪い。鉄のような嫌な匂いが鼻をつく。美術の時間にふざけていて彫刻刀でおでこを切ったのが人生最大の出血だったが、もちろんその百倍出ている。


 これにはもう、大抵のことは笑って誤魔化せる俺の衝撃許容メーターが完全に振り切っている。頭がおかしくなってぶっ倒れそうだ。もう倒れているわけだが。


 そして、それだけの異常事態でありながら、感覚のない右手。嫌な予感がする。もう二度と動かないんじゃないか。治らない後遺症でも残るんじゃないか……いや、予感とか、そんな生易しいもんじゃない。なにせ痛いのは肩だけなんだから。肩から先に感覚など無いんだから。


 「ぐっ……! ああぁぁ!!」


 体を捻り、うつ伏せになろうとする。体が動けば右手も引きずられて動くはずだ。だが……やはりだ、それでも目の前の右手は地面に張り付いたように動かない。


 そうだ、本当はわかっていた。わからないはずがない。わかりたくなかっただけだ。




 ——右腕が、取れていやがる。




 甘かった。


 甘かった甘かった甘かった甘かった甘かった甘かった!!!


 主人公にでもなったつもりだった。こんな異世界に呼び出されるのにはそれなりの役割があって、その役割を果たす使命があって、それを導く運命があると思っていた。困難はあっても死ぬことはなく、四肢のどこかを欠損するようなことはないと、思い込んでいた。そんな主人公補正があると……思ってた。


 どうしてこうなった? 俺が何をしたっていうんだ?


 万引きだってしたことないし、人に暴力だって振るったことはなかった。借りているものは山ほどあるが、それは……返す途中なだけだ。


 こんな虫のように静かに、ひっそりと生きてきた俺がこんな仕打ちを受けるのか。もっと居るだろ他に、悪い奴らがいっぱい。


 いや……そうかそうか、わかったよ。俺が悪かった。右腕をもがれて、血まみれになって、これ以上ない痛みを味わうほどの大罪なんだよな。


 美少女のパンツを覗くっていうのは。




—*—*—*—*—*—*—*—*—

*—*—*—*—*—*—*—*—*




 ——それは多分、わずか半日ほど前のことだ。




 「やった、ゾロ目だ」


 パソコン上の借金総額の数字が666万に到達した。これはめでたいような不吉なような。


 居候いそうろうしている幼馴染の部屋で、俺は借りているパソコンを眺めていた。パソコンに限らず今着ている寝巻きも携帯も、というか部屋ごと全部借りているので自分の物を探す方が難しい。


 俺は小さい頃から貧乏だった。


 だから、裕福な幼馴染の家へ行ってはゲームやオモチャを借りてばかりだった。正直、なんでも貸してくれるもんだから、うちが貧乏であることに不自由を感じたことはなかった。


 それを「上手くやってる俺SUGEEE」などと自賛しないこともなかったが、今となってはなんとも有り難く、情けない話だ。挙げ句の果てに、大人になった今では借り住まい。自分の成長の無さに感心する。


「そういや、あいつともしばらく会ってないな」


 幼馴染はとにかく優秀な奴で、一緒に虫取り網を持ってオニヤンマを追いかけ回していたところまでは覚えているのだが、気が付いたらエリート商社マンになっていた。今では瞬間移動でもしないと辻褄が合わないだろ、というぐらいのスケジュールで海外を飛び回っている。


 それでいて優しい奴だから、小さい頃から何でもかんでも貸してくれた。どうやら貸したことすら忘れてしまうらしく、返したところで頭の上に「?」を浮かべるだけ。この部屋も一戸建ての一室を借りているのだが、本人とは忙し過ぎて顔を合わせる機会も少なく、どうせ金も腐るほどあるだろうから、下手したら忘れてるかもな。


「それに引き換え俺ときたら……」


 この世の失敗を全て経験したのではないかという人生だった。


 株、投資、事業、FX、ギャンブル、全て失敗。ダメだとわかっていながら、甘い言葉の広告や勧誘には「もしかしたら」という魔法の呪文を自分に唱え、蜜に群がるカブトムシのように付いて行ってしまっていた。ついでに思い返せば高校も大学もデビューには失敗している。今までの自分を捨ててやり直そうと何度も思ったが、余すことなく失敗。幼馴染は同じ生き物だと思っていたが、どうやら俺の方は醜いアヒルの子だったようだ。


 ツイテない、ではそろそろ誤魔化しが効かなくなってきた、30歳である。今思えばチャンスと呼べるものはことごとく踏みにじってきた。返さなきゃいけない恩も山積みで何が何だかわかりゃしない。モニター上の借金総額の上にある「新名あたな 翔太かなた様」の「様」の字にすら申し訳なさを感じるのも今に始まったことではない。


 ふと、ビールの空き缶に埋もれた鏡の自分と目が合った。馬面うまづらの顔に天然パーマが乗っている。疲れるようなことはしていないくせに、しっかり疲れ切った表情をしてやがる。


「幸せになるってのは、そんなに難しいもんかねぇ」


 くだらない感傷に浸るのはよそう。


 借金確認ページを閉じ、動画サイトを開いた。特に理由などない、染み付いたクズの習慣である。


 すると、妙な動画が目についた。


「なんだこのサムネ。魔法陣? やけに再生回数が多いな、200万か。タイトルは……『力を貸してください』か」


 サイトを開いた瞬間に目を引いたのがそのサムネイルだった。黒の背景に白の魔法陣。200万回を超える再生数からして、どこかのSNSで流行ったのだろう。


(借りることはあっても貸すものなどない。俺を誰だと思っていやがる)


 そう思いながらもとりあえず再生ボタンを押した。流行りものはとりあえず観ておく、それがクズのたしなみである。


 動画の内容はサムネの画像から変わらなかった。動画時間は5分。無音のまま1分程度進んだが、何も変化がない。


「何が面白いのこれ……なんでこんなのがこんなに再生されてんだ……?」


 動画に寄せられたコメントを観てみる。


 すると、なにかおかしい。


 一番最近のコメントは、『なにか見えるとか言ってる奴はメンヘラ』だった。


 他にも、『なんか見えた人教えて』『モスキート音的なことですか?』『心が汚れてるからなにも見えん』など、はたまた『霊感がある友達は女の人の声が聞こえるって言ってた』など見当違いなものもあった。


「どういう意味だ……? 何言ってんだみんな……」


 スクロールするコメントのほとんどがその類のコメント、つまりという感想だった


 鳥肌が立つ。背筋が凍る瞬間とはまさにこのこと。なんのホラーだこりゃ。


 ほんの一部、見える人がいるらしかったが、『一瞬ミステリーサークルみたいのが……』という程度だった。恐らくその一部の人間が火付け役になって広まったのだろう。


 いやいや、こちとら開始0秒からバリバリ見えっぱなし、というかサムネの時点ではっきりくっきりしてるんですが。


 「他の誰にも見えてないっていうのか……? この魔法陣が……?」


 途端に魔法陣が不気味に思えてくる。20歳まで幽霊を見なければ霊感はないと言うが、30歳まで童貞も守り切ったら魔法使いになるという方に上書きされたんだろうか。


 とりあえず動画が終わるまで観ていようと思い、ぼんやりその魔法陣を眺めていた。


  ——2分ほど眺めていた。


 なんだか、目が離せない。誰かと目が合っているような感覚に似ている。見ているのか、見られているのか、そのどちらもなのか、そんな感覚だ。


「誰……だ……?」


 そう呟いた瞬間--


「うわっ!!」


 魔法陣が激しく発光した。


 目を開けていられない。真夏の太陽を直視しているかのようだ。その眩さは加速していき——もはや光の洪水となって部屋中を飲み込んだ。


「な、なにぃぃぃ!?」

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