氷を煮る
只の葦
氷を煮る
深夜二時。暗闇のキッチンに一つの電子音が響く。その後から、IHコンロの稼働する唸りが続く。
私は小ぶりの鍋に手を伸ばすと、静かに水道を捻る。お湯を沸かすのなら薬缶でも良かったが、水が沸騰した時に音が鳴ってしまうのが怖くて使えなかった。注ぎ口にあるキャップを持ち上げるだけでその危機は回避できるはずなのに、私は鍋を使っている。微かな音の一つ一つが、寝室で寝ている夫を起こしてしまうのではないかと思うと、うなじから肩甲骨の辺りにかけて痺れを感じる。
鍋の底に小さな泡が見える。
夫との出会いは七年前。新卒で入った旅行代理店の上司が彼だった。初対面の時からぐいぐいアプローチを受け、何度も食事に誘われ、プレゼントを贈られ、気が付けばホテルから二人で出てくる日が増えた。
周りの同世代とは比べ物にならない羽振りの良さ、流暢な営業トークに、どんなミスもカバーしてくれる経験の豊かさを持った人だった。そんな彼が私に媚びを売って、機嫌を取ろうとしてくるのが気持ち良くて、体を求めてくることにすら優越感を抱いていた。
彼は仕事場でも私に付きっきりだった。教育係とは名ばかりで、私の仕事の殆どを彼がやっていた。私に仕事を教えている振りをして、二人だけの時間をどんどん増やしていった。
彼が管理しなければならない部下は私だけでは無いはずで、何度か同期の男の子が彼に話しかけているのを見た。でも彼は心底鬱陶しそうにするだけで、まともに相手をしてはいなかった。そんな扱いを受けている同期を気の毒に思いつつも、自分だけが特別なんだと言う快感が、確かにそこにはあった。
粘度の高い愛を摂取する度に、彼と私の公私の区別はどんどん曖昧になっていき、瞳に映るものは全て歪んでいた。
鍋の底から立ち上る泡が増えていく。
彼は職場でも平気で体に触れてくるようになった。ありもしない残業の為に会社に残り、愛らしきものをぶつけ合う日もあった。
体を重ねている時、彼はしばしば独りよがりになる。まるで私など居ないかのように、物を相手にしているかのように荒々しく私を抱いた。そういう時は決まって私の頭をベッドや机に押し付けて、獣のように腰を振る。聞こえるうめき声が、彼のものなのか自分のものなのか分からなくなる。普段の私に媚びを売る態度など一切無いその姿に、私は夢中になってしまった。この胸の高鳴りが、恋愛の内の何かなのだと思っていた。
水面に浮かぶ泡が大きくなり、鍋から溢れそうになる。私は慌てて冷凍庫の扉を引き出すと、素手で氷を掴む。そしてそれを鍋に放り込む。水面は一段と大きく揺れるが、立ち上る泡は小さくなっていく。
私はまた、鍋の底に視線を戻す。
入社から一年半が経った頃には、彼のマンションでの同棲生活が始まっていた。共に玄関をくぐり、腕を組んで帰ってくる。プライベートですることと言えば、体を重ねることだけ。趣味だった韓流アイドルの追っかけも、一体何が楽しかったのか分からなくなってしまった。それよりも、彼の筋肉質な体にのしかかられ、大きな手で首を絞められている時の方が余程幸福だった。
彼との生活の中で心がドロドロになっていく半面、仕事は散々になった。流石に一年半も経つと、教育係と言う言い訳は通用しなくなり、彼の手を離れて仕事をしなくてはならなくなった。
仕事の進捗報告や、契約社員への仕事の割り振りなど、私の視野の外に業務が増えていった。彼がやっていた仕事が一気に私の前に現れて、その何一つとして、私の手には負えなかった。ミスを連発して、業務を大幅に遅らせることになった日は一度や二度では済まなかった。
溜まりに溜まったフラストレーションを発散するために、私は進んで彼に抱かれた。
「今まで何やってたんですか」
ある日契約社員の
私は隣で寝ている彼に対して、馬場からセクハラを受けていると相談した。すると彼はすぐにそれを問題として取り上げてくれた。普段は私を無能扱いして白い眼を向けてくる周囲の社員も、今回ばかりは心配そうに声を掛けてきた。不思議なことに、すすり泣きながら馬場からのセクハラ被害を訴えていると、本当にそういう目にあった気がしてきた。そうなると、私の訴えにも一層熱が入る。半信半疑だった一部の人たちも、徐々に私を信じるようになった。それはそうだ。私の中では本当にセクハラにあっていたのだから。
その後馬場が直接注意を受けたのかどうかは分からなかったが、周囲からの冷たい態度に嫌気が差して、契約更新を待たずして退職していった。
世界の中心は私だった。私と彼の愛の力があれば、何もかも上手くいくのだと言う万能感で、私たちは結婚を決めた。
水面が波打ち始め、ごぼごぼという音がIHコンロの稼働音と混ざり合う。私は再び冷凍庫を開けて氷を掴む。それを鍋に放り込もうとすると、氷の一つが私の手から滑り落ちて、勢い良く鍋に飛び込んでいった。ドボンッという音が、まるで岩を床に叩きつけたかのように大きく耳に響き、背筋に虫が這うような焦燥感に駆られた。私は氷を握りしめたままの体勢で硬直し、寝室に向かって聴覚を集中した。このくらいの音が壁を突き抜けて聞こえるはずは無いのに、研ぎ澄まされた五感が恐怖を駆り立てる。
水面に手が付く程の距離で氷を沈めると、そのまま泡が落ち着くのを見守った。
彼との結婚式。純白のドレスに身を包み、愛を誓い、キスを交わす。同僚、友人、両親からの祝福の声。いつまでも鳴り止まない拍手。私が投げたブーケを追いかける行き遅れたち。それを見て笑う私の顔は、どれほど醜かっただろう。そして、どれほど幸せだったのだろう。
そんな中でも、私は視界の端に一人の女を置いていた。私の投げるブーケに見向きもせず、それどころか、結婚式の間一度も顔を上げているところを見なかったその女。確か今年新卒で入社したばかりの
彼女の何がそんなに気になるのか私にもわからない。放っておけば勝手に居なくなるだろうに。今日だって義理で出席しているだけだろう。それなのに、彼女が視界に入ってくる度に、私の
彼女こそ、何がそんなに気に入らないのか。私の結婚式というめでたい場所に来ておいて、態々そんな白けた態度でいることが理解できない。心の中でどう思っていようが、表面上は祝福の気持ちを表すものだ。そういった小さな心配りが、社会で生きていく上では必要だと未だにわかっていないのだろう。そんな人間が、私の幸福に水を差すことが許せないから、こんなにも不必要な怒りが湧いてくるのだろう。
もっと私を祝福しろ。乞食のようにブーケを追いかけろ。そうすれば、冴えないあんたにも僅かばかりかの可愛げが生まれるだろうに。
私は夫の腕に自分の腕を絡ませると、大きく息をした。卸したてのスーツとタバコの匂いが混ざっている。あんな女に私の意識を一ミリでも使うだけ無駄だ。今まさに私の周囲に漂うこの幸福の匂いを体に取り込んで、そしてこれからも、一生使い切れない程のものを彼から受け取れるだろう。誰にも邪魔などできない。
決して誰にも。
キッチンマットに水滴が叩きつけられる音で意識がはっきりとする。ついに沸騰した液体が、波打ちながら小ぶりの鍋から溢れ出している。私は静かにIHコンロのスイッチを切る。吊り下げられた布巾を手に取り、鍋の取っ手を掴む。
私は今日から三日間、大学時代の友人と京都旅行に行っている。夫にはそう伝えた。なのに玄関には知らない靴が綺麗に揃えられている。
私は足を擦るようにしてキッチンを後にする。暗闇で鍋の中が見えず、お湯が少し零れた。ボタッという音が私の歩みを止める。手が震える。いや、体全体が静かに震えている。
冷汗が止まらず、寝室のドアノブに置いた手に力が入らない。上から体重をかけるようにしてドアを開けると、鍋が大きく揺れて縁から私の足に向かってパタパタと雫が落ちる。
ドアを開けた先は二人だけの寝室。結婚以来、この部屋に入ることができたのは私と夫のただ二人だけ。だから目の前のベッドには、夫が静かに私の帰りを恋しく思いながら寝ているはずだ。
絨毯を踏みしめながら進む。その感触はまるで泥のようで、次の一歩が異様に重い。気配を殺そうと必死になればなるほど、ジョギング後のように息が上がっていく。
私の荒い息遣いと夫の寝息、そしてもう一つの寝息が混ざり合う。奥歯ががたがたと打ち合わさる。胃から駆け上がってくる吐き気が、この場から逃げ出す言い訳を与えようとしていた。
枕の脇に立つ。横たわる二つの膨らみを、視線を往復させながら何度も確認した。足は鉄骨になり、床に突き刺さる。震えは止まり、心が冷えていく。目の前にあるものが人であるという認識も薄れていく。ただ自らに課した義務を遂行しなければならないという使命感だけが、私の足先から頭のてっぺんまでを真っ直ぐに貫く。
鍋を肩の高さまで上げる。真下には昨晩私が寝ていた枕がある。
「今度は私のブーケ受け取ってね」
私は、鍋を掴んだ手から力を抜いた。
氷を煮る 只の葦 @tadanoasi
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