第21話 箱庭 #5
ルナの朝は、布団にかじりつくアイを叩き起こす日課から始まる。
「――起きろーっ!」
勢いよく掛け布団をひっぺがすと、下着姿のアイが現れた。抱き枕のように、鞘に収まった剣に両手脚を絡みつかせている。
アイは「うーん」とうめいて、往生際悪くもぞもぞと枕の下に頭をもぐらせた。だが最後の砦である枕もルナに取り上げられてしまうと、カブトムシの幼虫のように身体を丸め、弱々しく抗議した。
「うう、勘弁してよぅ、ルナ……」
「シーツ洗えないでしょ。ほらほら」
ルナは寝ぼけたアイを転がして、容赦なくベッドの向こう側に落とす。床に落ちたアイの「ぎゃー」という悲鳴を聞きながらベッドシーツを剥がし、よいしょ、と肩にかけた。
――ルナが勇者アイを警戒して距離感を測っていたのは、せいぜい最初の数日だけだった。
生活を共にしてまもなく、アイは腑抜けた女の子以上の何者でもないことがわかってきた。朝は起きられないし、掃除も洗濯も料理もできず、かろうじて任されているレストランのウエイトレスもおぼつかない。
兄や姉に世話を焼かれて育ってきたルナが、アイを「手のかかる妹」と認識するようになるまで長い時間はかからなかった。
◆
人間に扮して「リース」と名乗ったオシリスは、ルナの心配をよそに、ミーシャ一家に見事に溶け込んでいた。
主に活躍したのはレストランの厨房だ。三角巾を頭に巻いたオシリスは巨大な鉄鍋を軽々と扱い、大きな食材も瞬時にカットしてしまう。
これまで調理を一手に担っていたというミーシャの親父さんは、思わぬ戦力に大層喜んだ。
「アンタ、リースさんだっけ? プロ級だねぇ! 包丁捌きなんて速すぎて、俺にはまるで素手で切ってるように見えるな!」
「確かに、たまに包丁を使い忘れてしまいますね」
「ハッハッハ面白え……そろそろウチのメニューは全部任せられるな。いやぁ、助かる助かる」
「魔……いえ、ルナ様のお口に合うお食事をと日々精進していますから、お安い御用です」
和気あいあいとディナータイムの下拵えを進める二人を眺めて、ルナは傍らのミーシャに素朴な疑問をぶつけた。
「いままで一人で厨房って……ミーシャは手伝ってなかったの?」
「わ、わたしはその……ピアノと、お店盛り上げ係っていうか……」
「ミーシャは料理ダメなんだ」と、アイが割り込んで来る。
「ちょっ――! アイちゃんだって、肉を焦げ焦げの塊にしてたじゃない!」
「ボクはいいんだよ、ボクは」
アイはそう言って、ひらひらと手を振りながら立ち去る。厨房の横を通るとき、下拵え中の燻製肉を手づかみで口に放り込んだ。即座にミーシャの親父さんに見つかり、こってり怒られる。
そこには【勇者】らしい威厳や冷徹さは、何も見当たらなかった。
◆
客入りの多い週末は、ルナも、ミーシャが言うところの「お店盛り上げ係」に協力した。
この世界で珍しい【魔法】が使える人間ということで、客の前で炎を灯したり、暑い日は風を吹かせる人間扇風機になってみせたり、グラスの水を一瞬で凍らせたり。まるで宴会芸の手品のように、多種多様な【魔法】で客を沸かせた。
盛り上がった客は、脂っこい肉料理をよく食べる。そのあとお腹が満たされた頃合いで、ミーシャが登場してピアノを演奏する。しっとりとした演奏を聞くうちに、客はちょっと単価の高い酒を注文しがちなのである。
これがルナたちのお決まりのプログラムだった。
常連だけが残った閉店間際の演奏では、アイとルナも駆り出され、ミーシャのピアノに合わせて歌わされたりもした。
学校の礼拝で歌わされる賛美歌とは違って、その異世界の歌は、不思議とルナの心に染み込んで来るような気がしたのだった。
◆
ルナはまた、ミーシャと一緒に調理以外の家事も担当した。
中でも大仕事なのは洗濯である。
三日に一度、放っておくと昼過ぎまで寝続けるアイからベッドシーツを取り上げる。そして他の衣類と一緒に街の洗濯場まで持って行き、街の女たちに混じって洗濯を始める。もちろん洗濯機なんてものはない。ミーシャと二人で裸足になって、親の敵のように布を踏みまくっていると、だんだん楽しくなってくる。
とはいえ慣れない重労働に、洗い終えた頃にはへとへとだ。
物干し竿に最後のシーツを引っ掛けてしまうと、ルナはふらふらとその場に座り込んだ。
「お、終わっ、た……」
「おつかれ、ルナちゃん」
ミーシャが背伸びしながら歩み寄る。
ミーシャの長い金髪が、日光をうけてきらきらと輝いた。
「アイちゃんと洗濯すると破れちゃうんだよね」
「あの子、ほんとに何でも雑だからなぁ……」ルナは苦笑しつつ、「でもこれを一人でやるって、すごく大変じゃない?」とミーシャに問いかけた。
「うん。……母さんが生きていた頃は、そうでもなかったけど」
「……」
寂しそうに笑うミーシャの横顔に、何も言えなくなる。
――ミーシャは、母を亡くしていた。
ほんの一年ほど前のことだというが、それ以上の詳しい話は聞かなかった。
アイもこの話題になると言葉少なくなり、オシリスに至っては興味がないようだ。だからルナも、ミーシャが望まなければ、彼女の事情を詮索しないことにした。
それはもしかすると、あの友人に影響されたのかも知れなかった。
――あら。そういうこともありますのね――
ルナ自身、桜花のその姿勢に救われた気持ちになったことを思い出す。既に終わったことだとしても、かさぶたを引っかかれると、ムズムズしてしまうものだ。
ルナが黙ってしまったことに気付いて、ミーシャは柔らかく笑った。
「ごめんね、変なこと言って。たまに思い出しちゃうの」
「……ううん」
「でもね」と、ミーシャは続ける。「たまにしか思い出せなくなって来たのも、なんだか寂しいの。こうして忘れていくんだろうな……って思うと、たまらなくなる。だからルナちゃんにも、ほんの欠片でいいから覚えていて欲しくて」
と、ミーシャは、胸元からペンダントを取り出して、ルナに掲げてみせる。
「――ね、見てくれる?」
「……これは?」
「母さんの形見。そんなに価値のあるものじゃないらしいけど、わたしにとっては、母さんとの繋がりを感じられる大切なもの」
「……触ってもいい?」と、ルナ。
ミーシャは頷いて、ルナにペンダントを渡す。ルナはその小さなアクセサリを、ころころと手のひらで転がしてみる。その手触りを、色を、刻み込む。
「ルナちゃんはこれから旅をして、きっといろんなことを経験すると思う。だからいつか、わたしのことを思い出すとき、一緒に――母さんのことも思い出して欲しいの」
「一緒に……」
ミーシャはその金髪を風になびかせて、笑う。
「あの時のミーシャって子は、亡くなった母さんをずっと愛していた――って」
◆
楽しい日々は時間の経過を忘れさせる。
ルナはミーシャやアイと一緒に暮らすうちに、いつしか、現在が永遠に続くよう願っていることに気が付いた。
ルナは一人になると、当初の決意を心の奥底から掘り出して、それを眺めた。
アイの――勇者の心に張り付いている魔族への憎しみを、消し去りたい。
アイと親密になればなるほど、ルナは、嘘偽りのない真実をアイに受け入れて欲しいと望むようになった。
(告白しなきゃ……あたしが【魔王】だ、って)
心配するようなことは、何もないのだ。
だから魔王を倒す旅なんてやめて、ここでミーシャと暮らせばいい――と。
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