第15話 勇者 #4
――勇者。
アイと名乗った少年のような少女は、ルナの目の前で胸を張る。
「そ」
……続く言葉が、出てこない。ルナは唾液を飲み込んで喉を潤す。
再び開いた口からこぼれ落ちたのは、核心を避けた、どこか間の抜けた質問であった。
「そんなの……大変、じゃない?」
「うん。でも、誰かがやらなきゃいけないんだ」
「……」
「誰かが魔王を滅ぼさないと。ボクはボク以外にできる人間を知らない。だからボクが――勇者アイが、やる」
「……どうして?」
「どうして?」
ふと。快活な少女のようだったアイの空気が変わる。
「――魔族は、悪だ」そこには、ひどく冷たい鋭さが宿っていた。「だから悪を率いる魔王は、間違いなく悪だ。悪を滅ぼすのが――勇者だから」
その言霊は
それでもルナは乾いた口を開いて、アイに――
――その時。
まるで墨を
一瞬にして、空が暗転する。
雲に隠れた……というレベルではない。さっきまでまばゆく夜を照らしていた、月や星の光。まるで初めからそんなものは存在しなかったように消し去られ、純粋な【黒】のみが天上を支配していた。
「な――なに、これ……?」と、ルナは困惑して呟いた。
アイは空に視線を向け、腰の剣に手を置いて――ピンと張り詰めた声色で、囁く。
「何か……来る」
次なる変化は、ルナたちの眼下で発生した。
時計塔から見下ろす街の屋根がことごとく、一瞬のうちに、乳白色の膜に覆われたのである。
ルナとアイのいる時計塔は周囲から頭ひとつ抜けて高い。乳白色の【膜】から、唯一、時計塔が突き出しているような形になっている。
ルナは、オシリスとの会話を思い出していた。
(――この【膜】が、もしかして……防壁?)
そうだ。……オシリスは、何と言っていた?
――高いところには、決して登らないようにしてください――
「アイ! ここはだめ、下に――!」
ルナの言葉をぶった切るようにして。
暗い空の遥か遠くから、巨大な黒い影が来襲した。
音よりも速いその巨体は、意志の通じない自然現象――まさに【災害】のように、時計塔のすぐ上を通過する。漆黒の闇を伴うその姿は生物の網膜に投影されず、何者にも認識されない。
ただ、その結果だけがもたらされる。
これが――【黒竜】。
「――ッ!?」
どう考えても剣の届く距離ではなく、そして、剣を抜く刹那すら許されなかった。
雷鳴のような鳴き声が、遠ざかっていく。遅れて、衝撃波がルナとアイを襲った。
衝撃波の直撃を受け、時計塔は崩壊する。
「……う――わわわっっ――!」
おもちゃのように崩れ落ちる時計塔。ルナとアイは、その最上階から空中に放り出される。
だが――アイの身体能力は、尋常ではなかった。
空中で身体を捻り、その細い腕でルナを抱きかかえる。アイはそのまま、崩壊を免れた時計塔の壁を蹴って、横に跳ねる。次に隣の民家の壁を蹴って、接地角度をコントロールしながら地面に落下した。
格好の良い着地はもとより望むべくもない。アイはルナをかばいながら地面に激突し、そのままごろごろと転がって――止まる。
◆
二人の頭上からは、既にオシリスが施したであろう乳白色の【防壁】は消え去っていた。
【黒竜】が通るほんの一瞬だけ街を守るものだったらしい。
「……げほ」
立ち上がろうとしたアイの脚に、電流のような痛みが走る。破片で傷付けたのか、片足に深い切り傷を負っていた。アイは顔をしかめながら、傍らに倒れ込むルナに手を伸ばす。
「キミ、大丈――」
と、その瞬間。
崩れ残っていた時計塔の外壁が、思い出したように崩れ落ちた。
そして、とりわけ大きな瓦礫が重力に従い――ルナとアイに向かって、落下する。
「――ッ!」
アイはその瓦礫を瞳に映し、ルナの身体を抱えて地面を蹴ろうとする。
しかし――がくり、と、膝の力が抜けた。脚へのダメージは、思ったよりも深手のようだった。
(間に合わない――!)
アイが身をこわばらせたとき。
視界の隅でルナが、瓦礫に向かって手をかざした。
その瞳が紫に輝く。
手から撃ち放たれた深紫の光は、時計塔の瓦礫を――粉々に、破壊した。
粉砕された瓦礫の残骸が、砂のように、ぱらぱらと二人に降り注ぐ。
「……」
勇者アイは呆然と、傍らのルナを凝視した。
ルナはその視線に気が付いて、バツが悪そうに笑う。
「その……大丈夫、だった? えっと――アイ?」
「……いまの……魔法?」ぽかんと口を開けて、アイが問う。
「う、うーん……魔法……かなぁ?」
とっさの攻撃だったから、ハデスに教わった属性持ちの【魔法】を使う余裕はなかった。ただ眼に映るものを破壊するだけの、純粋な【魔力】の奔流に過ぎない。
だがアイは、そのあたりの違いを気にしている様子はなかった。
「もしかして店のテーブルとか天井の、あれもキミが?」
「……」
ためらいがちに、ルナは「こくり」と頷いた。
「――すごい! すごいよ!」
と、アイは叫び、ルナに詰め寄る。距離の近さにあたふたするルナ。
「ねえ、キミ、名前教えてくれる?」
「ええと……ルナ」
「ルナ!」
アイは、ガシッと、ルナの両手を握った。
「ルナ――ボクと一緒に、魔王を倒そう!」
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