第05話 帰る家 #2

笠村が扉を開け、ルナが真っ黒な高級車から降りる。


ルナは、既に夕闇があたりを覆い尽くしていることに感謝した。ありふれた住宅街にこの車は目立ちすぎる。下手に見られたらどんな噂が立てられたものか、わかったものじゃない。


ルナは砂利を踏み、この春から暮らしている我が家――築二十年の二階建てアパート――を見上げる。

田舎の一軒家で育ったルナは、初めは生活のギャップに戸惑ったものの、都会での小規模な生活にだんだんと馴染んできたところだ。


別れの挨拶をしようと車を振り返ると、桜花が車の中から物珍しそうにアパートを眺めていた。

桜花はルナの視線に気が付いてにっこりと笑い、


「素敵な犬小屋ですわね」と、告げた。

「犬小屋」

「それで、本館はどちらかしら?」


ルナは五秒ほど、桜花を凝視した。


「いや、あれが家……というか、あの二階の角部屋……だけど……」

「え?」


桜花は目をパチクリさせ、ルナの顔とアパートを交互に見比べる。

嫌味でも何でもなく、このお嬢様にとって、あのサイズの建物は住居とはみなされないのだ。


「え……? えええっ!? い、岩崎さん、どうして……あんなところで寝泊まりを?」

「……なんか、すごいね。桜花ちゃん」


ツッコミを入れるタイミングを見失ったルナは、ただそう答えた。


――と、


「ルナぁぁぁぁ!」


薄暗い住宅街に、男の声が響いた。

男が、叫びながらルナに駆け寄ってくる。まだ若く、二十歳前後といった風貌である。

だがその眼光だけが、身体の若さに逆らうかのように荒廃していた。命のやりとりを既にいくつも経験したかのような、危険な鋭さを瞳に宿して。


男は、ルナに肉薄する。


「――や……っ!」と怯えた声を漏らしたのは、ルナではなく桜花であった。


その時には。

既に笠村が二人の盾となり、男の前に踊り出している。


笠村の動きは迅速であった。老紳士は音もなく「ぬるり」と進み、男の身体を、触れるか触れないかという距離でそっと撫でたように見えた。瞬間、男の体が宙を舞う。何が起こったのか理解できていない表情の男は、受け身も取れずに顔面から地面の砂利に突っ込んだ。

男が肺の中の空気を絞り出すよりも先に、笠村は素早く男を後ろ手に拘束すると、その顔を地面に押さえ付け、制圧した。


「お嬢様、警察を」


笠村は桜花に短く告げる。超が九個付くお嬢様である桜花も、こういった物騒な事態は初めてではないのだろう。


「――え、ええ」


と、すぐに冷静さを取り戻して、スマートフォンを取り出す。

だが、ルナが、横からその手を掴んで止めた。


「ま、待って桜花ちゃん、

「違う?」

「それ……」


と、ルナは地面に突っ伏す形で笠村に拘束されている男を指差して、泣き笑いのような表情を浮かべる。


、です……」


桜花と笠村は同時に凍り付いて、そろそろと、男に視線を向ける。


「この顔面犯罪者が?」思わずといった声色で呟いた桜花を、

「……お嬢様」と、笠村は気まずそうな口調でたしなめた。





「……岩崎七賢しちけん。大学生っす」


鼻に絆創膏を貼った顔面犯罪者――七賢が、ローテーブルの傍らにあぐらをかいて、憮然とした表情で自己紹介をした。

アパートの一室、二階の角部屋。

ルナと七賢が二人で暮らす、ごくごく庶民的な部屋である。

その場所に似合わない優雅な空気を漂わせながら、桜花は可憐に正座して、テーブルを挟んだ形で七賢と向き合っていた。


百合ヶ峰ゆりがみね桜花おうかと申します。こちらはお付きの笠村。わたくしのボディーガードも兼ねております。先ほどは笠村が失礼致しましたわ」


どちらかと言うと失礼したのは桜花では、と思ったが、言っても無駄と知っているルナは沈黙を守った。

桜花の斜め後ろに控える笠村は、その謝罪を真摯に引き取って深々と頭を下げる。


「たいへん申し訳ございません、岩崎様のお兄様。てっきり、その……悪漢のたぐいかと」


老紳士の心からの謝罪を受け取った七賢は、


「……いいっす。まぁ、慣れてるんで」


と、その表情を、どこか哀愁漂う、年相応の青年の苦笑に変化させた。

眼光だけは今にも相手を刺し殺しそうな鋭さを誇っているが、意識して変えられるものでもないのだろう。


「ケン兄、昔からこの顔のせいで補導されるわ、喧嘩売られるわ、大変なんだよね」

「変なのに絡まれる度に俺を威嚇に使っておいて、他人事みたいに言うじゃねーか」


桜花と笠村は二人の会話から、確かに兄妹としての歴史の積み重ねを感じ取り、何となく目を見合わせて笑う。


「……それにしても、本当に」と、桜花が笑みを含んだまま「血が繋がっているようには見えませんわ」と、からかうように言った。


その瞬間、ルナと七賢はピタリと止まり、沈黙する。


「……」

「……」

「岩崎さん? どうしました?」


桜花は首を傾げて、目をしばたいた。


七賢はどう伝えるべきか迷うように、視線を泳がせる。

そして、ことさら軽い口調で桜花に答えた。


「……いや、血は繋がってないんだ。ルナは六歳のとき、ウチに引き取られたからさ」

「あら。そういうこともありますのね」


思ったよりも、あっさりと。


桜花がその告白を受け止めたことに、ルナは拍子抜けする。気遣ってそうしたというより、どちらかといえば、さほど他人の事情に興味がないようにも見えた。

そのあっさりした反応をどんな風に解釈したのか、七賢は焦ったように身を乗り出して


「でも、俺はルナを他の兄弟と変わらず大切にしてきた! それだけは間違いない!」


と力説した。


「……ケン兄やめて、恥ずかしい」


ルナは、げしげしとテーブルの下で七賢の足を蹴る。それを甘んじて受けながら、七賢は「そういえば」とルナに問いかけた。


「今日はなんで車?」

「……いろいろ……あって。帰りが遅くなっちゃったから、送ってくれたの。部活が一緒で」


ああ、と、七賢は得心がいったように頷く。桜花はルナが魔法陣の一件を濁したことに気付いたはずだが、特に横槍を入れることはなかった。

七賢は桜花に笑顔――を形成する努力は読み取ることが出来る般若のような顔――で、礼を述べた。


「いやぁ、遅くて心配していたんです。だから無事に帰ってきて、つい、あんな……。ありがとうございます百合ヶ峰さ……」


と、七賢は何かに気が付いたように動きを止める。


「って……百合ヶ峰?」


七賢はテーブルの上に乗ったままの箱を手に取った。七賢が鼻に貼っている絆創膏のパッケージである。そこには百合のロゴマークが描かれ、百合ヶ峰製薬、というブランド名が印字されていた。

七賢はロゴマークを指差しながら、


「……この?」


と半笑いで問いかける。

桜花はそれに首を傾げて、


「笠村、うちは製薬もやっていたかしら?」と、彼女のお付きに質問を横流しした。

「左様でございます」

「そのようですわ」と、桜花は七賢に向き直って答える。


七賢はぽかんと口を開けて「……」と沈黙したかと思うと、天井を仰ぎ、目を押さえる。


「ルナ……なんか、すごい友達ができたんだな……」

「まぁね。でも、桜花ちゃんはそんなの関係なく……って、ケン兄、泣いてるの?」

「……泣いてねぇよ……」


七賢は、言葉とは裏腹に鼻声でそう応える。天井を見上げたまま動かないのも、きっと、涙を零さないためだ。

岩崎家に引き取られた頃のルナを思い出して、感傷に浸っているのだろう。


(……)


――六歳の時。


ルナが、岩崎家に養子として迎え入れられた頃。


それは、オシリスとハデスから聞かされたところによると、ルナが【終焉の魔王】として異世界に降臨するはずだった「九年前」と一致する。

その奇妙な一致が意味するものを、ルナは一人で噛み締めていた。

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