Over the ClockSpeed! Ⅱ
大野 夕葉
【二巻前編】Over the ClockSpeed! Ⅱ B-0 Stepping
0x01 青春って、何だ?
あのCPU甲子園の歓喜の翌日、八月十二日の十五時過ぎ。
我らが電子計算機技術部――通称「コン部」――の部室棟、A会議室には全員が揃っていた。
「揃ったわね、じゃあやるわよっ」
ホワイトボードの前で、蒼は一人気を吐いている。
だけど当然、僕たちはどちらかといえばもう少し祝勝会を続けたいと思っているわけで。
具体的に言えば、星野先輩が乱入してきたおかげできちんとごはんを食べられていない。
「ちょっと待ってよ、もうちょっと食べたいんだけど」
「一時間、待って」
砂橋さんと狼谷さんの物理設計組からも抗議の声が上がる。砂橋さんはともかく、比較的良識派の狼谷さんも声を上げているのが意外だ。
「……いや、食べながらでもいいわよ? でも氷湖、その塔は何?」
思い切り引いている蒼の声を不思議に思い、狼谷さんの座ってるほうに目を向ける。
狼谷さんの目の前には、ポテトやチキンで構成された茶色い巨塔がそびえ立っていた。星野先輩が来る前も確かに紙皿が酷く歪むほど盛っていたけど、ここまでじゃなかった気がするぞ。
「いや、確かにアタシももうちょい食べたいとは言ったけど、相変わらず氷湖は食べるねぇ……それ全部食べるつもりなの?」
「……?」
さすがの砂橋さんさえドン引きしているのに目もくれず、狼谷さんはきょとん、とした顔で小さく頷くと、もくもくと塔の構造物を口へと放り込み始めた。
訂正。比較的良識派というのは、少なくとも食事絡み以外で、という前置きが必要そうだ。
「まあいいわ、ちゃんと会議に参加さえしてくれれば。ねえ? 道香」
「は、ひゃいっ!」
突然話を振られることを想定していなかったのだろう、道香は目を白黒、口をもぐもぐさせながら蒼のほうを向いた。
口の周りにはクリームがついており、何を食べていたかは一目瞭然だ。
「ケーキ食べながら会議に出てること自体はいいのだけれど……」
あ、そこはいいのか。確かに食べながらでもいいって言ってたしな。
「道香、この間ダイエットするって言ってなかった?」
「えっ、あは、あーっと、言ったような、言わなかったような……」
蒼から露骨に目をそらす道香。確かに別のベクトルで致命的だった。皿の上には既に次のケーキがスタンバっているあたり、本当に気にしていなかったらしい。
「い、いいんですっ! 今日はお祝いなので特別な日! 明日から頑張ります!」
そして誘惑に屈した。甘いもの大好きな道香にとって、美味しそうなケーキを前にして耐えるのは至難の業だろうなあ。
幸せそうにケーキを切り分けて口に入れる道香を見た蒼は苦笑いを浮かべると、今度は僕たちに向き直った。
「そこの三馬鹿も、準備はいい?」
「おい待ってくれ蒼、こいつらと一緒にされるのだけは納得がいかないんだが」
その不当な扱いに非難の声を上げる。確かに男どもという意味では一緒だけど、一括りにされるのはどうしても納得がいかない。こいつらほど狂っていないはずだ。
「なんだよ弘治、オレたちの仲じゃないか」
「だーっ、宏お前はどこに着地させたいんだ」
「私とは遊びだったのね……」
「当たり前だろ、最悪宏はともかくお前と同列にされるのだけは嫌だ」
「お、じゃあお前も今日から俺の仲間だな! 一緒に十二時間耐久Ap〇xやろうぜ!」
「そんなことやってんのか、夏休みはともかく学校がある日はどうしてんだよ」
「学校ある日もやるが?」
「だからお前らはウイークリーミッション感覚で教員室に呼び出されるんだぞ」
ただただボケ倒す宏と悠にツッコミ続けていると、蒼は半分呆れた顔でぱんぱん、と手を叩いた。
「はいはい、イチャついてないで」
「「「誰がこんな奴らといちゃついてるって?」」」
完全に声が揃う。最悪だ。
でも他の皆はくすくすと笑っている。結果的に程よくオチが付いたようなので、諦めてきちんと話を聞くことにした。
「さって。無事CPU甲子園で優勝したわけだけど、実はこの大会には次があるわ」
「次、っていうと?」
いまいちはっきりとしない言葉に疑問符が浮かぶ。それを聞いて、蒼はにやりと笑った。
「国内大会だけじゃなくて、国際大会もあるのよ。CPU甲子園って」
「そ、そうなんですかっ!?」
道香が驚いた声を上げる。こういうイベントの詳細って、その団体に入ってみるまでは情報が全然手に入らないし仕方ないよな。かくいう僕も全然知らなかった訳だし。
「もっとも、CPU甲子園って名前で直接なんかある訳じゃないけどね」
「『アジア・ハイスクール・プロセッサー・デザイン・コンペティション』って名前で、確か場所は台湾だったかな?」
「正直CPU甲子園だけを見てたからその先は考えてなかったし、本気の勝負っていうよりはどちらかというと交流がメインなイベントなのよ。開催概要が今朝メールで来てたわ」
それから蒼は薄い紙束を配り始めた。その紙を一部受け取って内容に目を落とす。
「げ、英語かよ」
「中国語じゃないだけありがたいと思わないとな」
だが、書かれていたのは英語。まともに読めるのは蒼と道香、狼谷さんくらいじゃないか? なんて、そう思っていたんだけど。
「十月十二、三の土日でやるのか。ってことは前後一日二日くらいは合法的に学校休めるな」
「ってかすごいじゃん、今度は向こうの半導体製造工場見学までやってくれるのか」
「場所もTSMIのホールになってるし……すげえ」
授業をまともに聞いてないバカ二人だけど、意外とちゃんと読めているのがなんとなく癪だ。頭の回転をもう少し勉学に向けたらよっぽど有意義だろうに。
改めてアジア大会の概要を頑張って読み解いてみる。ざっくり言えば、各国のCPU甲子園のような大会で優勝なり成績優秀だったチームを集めて、ベンチマークとプレゼンで交流を行いつつ、最新技術の教育も行うとかそんなお題目らしい。
「でも、そこでいい成績を残せば次はアメリカ。場所はサンノゼ」
そこで、食べ物の塔を崩すのに執心していた狼谷さんが言った。ちゃんと話も聞いてたんだな、偉いぞ。
その内容も驚きだ。もし勝ち進んだら、次はアジアを超えて世界ってことか。
「マジかよ!? 学校の金でアメリカ、すげえ行きてえな」
「サンノゼって……『シリコンバレー』ってことだよな!?」
「最高だね、アタシもちょっと頑張っちゃおうかなって思うよ」
「おっ、本当だ! 上位三チームは来年一月のワールドなんたらにご招待って書いてあるぜ」
「動機が不純ねえ……」
「あはは……」
盛り上がる悠と宏と砂橋さん、そんな三人を見て苦笑いの蒼と道香、そして再び塔の攻略に挑んでいる狼谷さん。
一方、僕は少しだけ複雑な思いだった。
「アメリカ、か……」
アメリカ。
今、父さんが居る場所。
そこに行ったら、父さんに会えるんだろうか?
もし会ったとして、何を話せばいいんだろう?
少し鼓動が早くなり、反動で体が冷たくなっていく。ああ、これは――
「シュウ、あんたもパスポートは作っておきなさいよ。持ってないでしょ」
心と頭が冷え切る直前、蒼の声の割り込みによって意識が逸れる。
タイミング的にはきっと偶然なんだろうけど、正直助かった。
「ん、パスポート? 持ってないな」
「申請してから結構時間かかるから、早めに作っておきなさいよね」
「おお、確かにそうだ。海外に行くんだもんな」
「当たり前じゃない……」
蒼の冷ややかな目線で、少しだけ落ち着きを取り戻した。よくよく考えれば、半導体強国の多いアジアで三位に入るのは至難の業だよな。
そこに入らない限りはアメリカに行くなんてことはありえないわけだし、捕らぬ狸の皮算用もいいところか。
「というわけで、せっかくだしこのアジア大会に向けて新しくチップを起こそうと思うわ」
「どうするの? 前みたいにイチから作るには二か月半じゃアタシたちだとちょっと苦しいと思うけど」
「さすがにそんな無茶はしないわよ。えーっとね、まずレギュレーションが……」
そう言いながら、ホワイトボードに色々と条件を書きつけていく蒼。
「ほーん、全体的に規定は緩い感じか」
書き連ねられた大会の規定仕様を見た宏がいい感じに一言でまとめてくれた。雑なまとめだったけど、砂橋さんも蒼も頷いている。
「そうね。シリコンサイズの上限も二倍くらい広がってるし、なんなら命令セットまで自由よ」
シリコンの面積は300平方ミリメートルまで。CPU甲子園と比べても面積比で二倍まで大きいチップを作れる、ってことになる。ということは、載せられるトランジスタの数もざっくり二倍だ。
「命令セットが自由って凄いな」
「その分性能測定用のプログラム自体は何にも最適化されてないでしょうから、コンパイラは勝負を分ける一つのポイントになりそうですね」
「そうか、そうなるよな」
「ってことは、コンパイラの担当の俺の出番だな」
さらには命令セット、CPUが理解できる言語は僕たちが使っているx64じゃなくてもいいらしい。
だけど、道香の言う通り性能を測るプログラムはどの命令セットにも翻訳しやすい、一般的な処理だけで性能測定のプログラムは書かれているってことでもある。
大会の規定によると、プログラムのコード、つまりはプログラムの命令を自分たちに有利に書き換えることは出来ない。
だから、そのコードを実際にCPUが解釈できるバイナリに変換するプログラム、コンパイラの段階で、どこまで高速に実行できるバイナリに変換できるかが肝になるというわけだ。
「ったく、腕が鳴るぜ」
コンパイラ担当の悠が、華奢で白い腕を曲げて見せる。当然力こぶなんて出来ていない。
「実際に性能測定に使う台数も三台で一緒なんだな」
「予備を一台準備しておくくらいか、違いは」
そんな悠を横目に次の項目に目を通す。事前送付、あるいは持っていく台数は四台になっていたけど、実際に性能測定に使うのは三台。CPU甲子園と同じだ。CPU甲子園優勝チームが出られる訳だし、きっとJCRAも運営に深く関わっているんだろうな。
「でも走らせるプログラムは別なのか。当日発表ってのも意地悪だな」
「まあ、全く同じじゃ芸がないし」
実際に使うプログラムの発表は当日。つまり、「どんなプログラムをお出しされても性能が出るチップを作ってきなさいよ」ってことだ。
「プロセス規定は90nm用標準設備を使うこと。実プロセスのサイズ規定はないからこの間の改良版でいい」
「ボードも自由みたいですし、わたしもそのままでよさそうです」
みんながそれぞれの分野のルールを確認して一息ついたところで、蒼はホワイトボードをばしっと叩いた。
「ってわけで、まあ全体的に決めなきゃいけないことが多いから……ここからは開発主任に丸投げしようと思うわ」
その一言で、背筋が寒くなる。
もっとも、さっき感じた体の芯から冷えていくような感覚じゃない。シンプルに面倒ごとの予感がするだけだ。
「お、誰がやんの?」
「そりゃもちろん、シュウに決まってるじゃない」
「ちょ、やっぱりか!」
そして嫌な予感ほどよく当たる。やっぱりそうなるか。
「何よ、不満? うすうす感じてたでしょ、正直」
「ぐ、むっ……」
だけど、蒼に図星を突かれて何も言えなくなってしまった。
入部当初よりはよっぽどわかるようになったとはいえ、何か飛びぬけた専門がないのも事実。
逆に、それなりに全部を網羅している人がまとめ役を担うほうがいいのはその通りだからなあ。
このメンバーだと、消去法で結局僕がやるのがベスト、ってことになる。
「ま、妥当なとこだよね経験もあるし。アタシは賛成」
「顔が『自分じゃなけりゃいい』って言ってるぞ……」
でも、砂橋さんの顔がにやけていることだけはどうしても指摘しておきたかった。
「ったく、しゃーない……」
大きく一つため息をつくと、立ち上がってホワイトボードの蒼の隣に並ぶ。
「んじゃ、始めますか。まずは性能目標かな?」
前回の経験と、最初の蒼の進め方を思い出しながら話を進める。
導いた答えは正解らしく、蒼は自分のパソコンをぱちぱちと叩きながら進行を手伝ってくれた。
「昨日の記録は11GFLOPSとちょっとだったわね。他の国の大会とか、結果出てない?」
「アタシは調べたことないなあ」
「えーっと、台湾の国内大会は終わってるみたいです。結果は……一位で20GFLOPS弱ですね、19.71GFLOPS」
「うお、二倍弱か」
今から二か月の開発期間で性能二倍はなかなか、というか相当難しい。思わず言葉を失っていると、自分のパソコンに目を落としていた道香はさらに言葉を続けた。
「ただ、この台湾大会は日本のCPU甲子園とはレギュレーションが違いそうです。今回のアジア大会そのままのレギュレーションっぽいので」
「ってことはシリコン面積も二倍?」
「ええ、そのようです」
「……ってことは、四コア押し込めばなんとかなりそうね」
昨日使ったのは、面積ぎりぎりのデュアルコア、計算するコアを二つ持つCPUだ。
面積が二倍でいいのなら、それをさらに二倍にしてクアッドコア、つまり4コアのCPUにしてしまえばいい。
「ま、『アムダールの法則』があるから実性能は二倍、四倍にはならないけどな」
「アムダールの法則、って何だっけ?」
宏が言った法則の名前には聞き覚えがあった。蒼から借りた本で少し触れていた気がするけど、具体的な説明が思い出せない。
「そうだな、例えば一つのCPUで処理するのに百秒掛かるプログラムがある。そのうちの八十秒分は並列処理が可能だが、残りの二十秒分の処理は並列に出来ない処理だ」
「ほうほう」
「これをデュアルコア、二コアのCPUで走らせたとしたら、並列処理できる部分は二で割って四十秒になるが、残りの並列処理できない部分はそのまま二十秒。合計すると六十秒で、CPUを二倍にしてもプログラムの実性能は二倍にはならない、って話だ」
「あー、そういえばそんな話だったような気がする。だからマルチコアにどんどんしていっても処理時間の短縮には限界があるって話だったな」
その並列処理できない部分のせいでプログラム自体の実行時間が決まるから、できるかぎり複数で同時に処理できるプログラムを書こう、なんて話だったっけ。
「そうだ。さらにはその並列実行できるプログラムの中でも『ILP』、命令レベルの並列性を高めておけばより高速に実行できるし」
「データ、制御共に依存関係を極力減らそうって話だな。これがまた面倒くさいんだわ」
アムダールの法則はマルチスレッド、つまりは複数のコアやCPUで実行するプログラムの時の話だ。ILPの話は確かそのコアの中で動く一つのスレッドの中で、だっけ。同じ並列って言葉だけど、扱う粒度が違ったはず。
話しながら本の内容を必死に頭から引きずり出していると、悠はにやりと笑った。
「性能測定用のプログラムが並列化出来ない処理を減らす設計になってたから、昨日の結果は一・八倍とか叩き出してたけどな」
「どのプログラムにも絶対に並列処理できない場所ってのはあるから、今回のプログラムはどんなもんかはわからないけど……コア数を二倍にして性能が一・五倍になったらいいほうなんじゃないか?」
アムダールの法則があるから、コア数を二倍、四倍と増やしても性能は単純な倍々ゲームにはならない。チップ自体の面積のサイズには限界があるから、無限にコア数を増やすということもできない。つまりは、勝ちに行くなら一コア当たりの性能も上げる必要があるってことだ。
「とはいえ、面積を考えるととりあえず四コアで設計してみる感じになるか。蒼、出来るか?」
とりあえずは蒼の論理設計が出来ないと話が始まらない。確認してみると、蒼は本当に楽しそうに頷いて見せた。
「ええ、もちろん。コアとコアを結ぶ回路の限界はまだまだ先になるよう設計しておいたから」
「ならよし、だな。四コアで、目標はこないだのプログラムで25GFLOPSってとこにしておくか」
性能目標は二倍と少し。コア数を増やすことを考えると妥当なところだと思う。
狼谷さんもこくり、と頷いた。彼女が頷いたってことは、少なくとも無茶苦茶なことは言っていないってことだよな。
「目標クロックは、4GHzと少し。クロックで、三割は盛りたい」
「結構上がりますね……お伝えしている通りボード自体は600ワット程度まで供給出来ますので、電源は考えていただかなくて大丈夫です!」
「そういやレギュレーションに『消費電力』は無かったな」
実際、半導体は消費できる電気にもある程度物理的な限界が存在する。半導体の最大消費電力は、同じチップであれば基本的に周波数と電圧で決まるからだ。
周波数が高くなればなるほどチップが一秒間に処理できる計算は増えるし、電圧を上げれば周波数も上げやすくなり、その分消費電力は増えていく。
でも、半導体の耐えられる電圧はある程度決まっているし、周波数にも物理的な限界が存在する。だから、電力もおのずと決まってくるというわけだ。
面積のせいでチップに詰め込めるトランジスタの数はある程度決まってくるのもあって、そこまでの制限をしなくても良いと判断したのかもしれない。
「冷却はどうすんのさ? 原子炉みたいな熱密度になりそうだけど」
「あー、昔の商業チップで聞いた話ね。消費電力と発熱が多すぎて、面積当たりの発熱量が原子炉を超えるって」
「あー、確か『Pentagon5』だっけ。開発コード名『Agni』の」
「そうそう。それで結局、Pentagon5は世に出なかったのよ」
砂橋さんと蒼が指摘した通り、もう一つの物理的な限界ポイントは放熱。
もし仮に大量のトランジスタや回路を無理やり詰め込んだとしても、その素子が発する熱を冷やしきれなければ最終的には自分自身、つまりはシリコンのチップを破壊してしまう。
最悪の場合発火してしまう可能性だってあるのは、この間の大会で知った。
ちなみに二人が話に出したPentagon5というのは、Intech社のCPUの名前。二人が言っていた通りPentagon5になるはずだったチップは消費電力と発熱の問題を解決できずに世の中に出ることはなくて、Pentagon4の設計を元にしたPentagonDというCPUが登場することになった……と、インターネットの記事で読んだ。
放熱絡みでアジア大会にはもう一つルールがあったな、と思いながら道香の方を見ると、満面の笑みを見せていた。何かいいアイデアがあるのかな。
「そこは任せてお兄ちゃん、うまいことやるよっ! 水でも液体窒素でもなんでも使って!」
「道香ちゃーん、レギュレーションは『空冷』だからね」
自信満々の道香の発言に、砂橋さんのツッコミが入る。
今回のルールは空冷、つまりはファンとヒートシンクで冷やすこと。冷却のために水を使った水冷や、液体窒素を使った液体窒素冷却は今回はルール違反だ。
「ええっ!? なんでですか!?」
道香はそこまで読んでいなかったみたいで、心底びっくりしたような表情を浮かべていた。そもそも液体を使う液冷は設計も製造も難しいし、なにより失敗するとマシンに水が漏れて致命的な故障の原因になる。だから空冷できるなら空冷にした方がいいって聞いたんだけど、道香はそうは思わないらしい。
「なんでって……道香みたいな人がいるから、じゃないかな」
「そこでびっくりしないで欲しいわ。そもそもそんな冷却手段を使わなきゃいけないチップ、学生が作ってきたらびっくりするでしょ」
もはや褒めてるを超えて苦笑いの域に入った突っ込みをする蒼と砂橋さん。そして、
「うーん、逆に学生らしくていいかなと思ったんですが……身の程知らずな感じとか」
「自分でそれを言うのね……」
それに対してちょっと不満げに爆弾を投下していく突撃娘と化した道香。何とも混沌とした会話を、何とか反芻しながらまとめてみる。
「っとまあ、話がそれたな。狼谷さんは上限のクロックと消費電力の見積もり、あとは改良を頼む。道香は、それを元にボードと冷却系の確認」
「わかったよっ」
「了解。今回、多分デザインルールが変わる、できれば結凪の意見を聞きたい」
「砂橋さん、どうだ?」
「もちろん、いいよ。付き合うよ」
「ん、助かる。具体的にはトランジスタ周りのスペックを大きく変更する見込み」
この間の開発から、だいぶ砂橋さんと狼谷さんは打ち解けてくれている感じがする。ここも任せておけば問題なさそうだな。
「んじゃ、砂橋さんも狼谷さんとよろしく。あとはお前らか」
そう言って宏と悠の方を向く。今回の大会は、さっき少し話した通りソフトウェア組のこいつらがカギになってくるわけだよな。
「まずは宏だな。BIOSはすぐ出来そう?」
「時間は掛からないと思う、前回の奴がだいぶ流用効きそうだしな。もちろん変えなきゃいけないポイントは色々あるから無加工ってわけにはいかないけど」
「上等だ、じゃあ蒼と協力しながら出来るだけ手早く仕上げて悠の手助けに回ってやってくれ」
「ん、了解」
「で、悠。お前には引き続き蒼と宏と協力してコンパイラの開発をお願いしたいんだけど」
「ああ、もちろん。今回は俺が主役だからな」
そう言って、かわいい顔を楽しそうにニヤリと歪める悠。
「そういっても決して過言じゃないな。マジで頼んだぜ、悠」
その楽しそうな顔を見たからだろうか、その肩を軽くどつくと同時、思わず本音がこぼれた。
それを聞いた悠は、一瞬きょとん、とした後。
今まで見たことないくらいにいい笑顔で笑った。
「あーあ、お前にそんな風に言われちまったらやるしかねえな」
悠がちょっと照れながら言うのを見ると、改めて恥ずかしさがこみ上げてくる。
「そっ、それくらい大事ってことだ」
だから、それだけを言い放って視線を悠から切った。
「……」
「……は、はわっ」
その結果、微妙な視線が刺さっていたことに今更気付く。弁解の言葉も思い当たらず、数秒で白旗を揚げた。
「……もう私、お嫁に行けないっ」
「なんでアンタがお嫁に行くのよっ」
きっちり蒼がツッコミを入れてくれて助かった。あれが無ければ今頃屋上から飛び立っていたに違いない。
「ったく、男二人のラブロマンスは置いておいて……」
「違う! 断じて!」
「今話しておくべきはこんなところかしらね? 鷲流くん」
「ぐぅっ……あ、ああ。そうだな。名前はもう少し具体的なところが見えたら考えよう」
蒼が冗談っぽく苗字で呼ぶ。その微妙な距離感だけで、狐につまれたように頷く以外の選択肢はなくなった。
普段からずっとシュウ、シュウって呼ばれてて苗字呼びなんて記憶にないレベルだから、冗談とわかってても少しショックだったのは内緒だ。
ついでに名前の議論を先送りしたのは、テーブルの上の料理の数々が目に入ったから。さすがに開発名がフライドチキンでは締まらない。
「よし、じゃあ今回の会議は以上かしら?」
そんな蒼の主導に戻って、今日も無事会議が終わった。
ふう、ようやく落ち着いて飯が食える。
――と、思ったんだけど。
「ちょーっと待ったぁーっ!」
それを遮る声と同時に、ばん、と机を叩く音。立ち上がったのは宏だった。
きっ、と蒼を見据えるその目は使命感に満ち溢れている。何を演説する気だ?
「諸君! なにか忘れてはいないだろうか!」
今までの経験だと、こいつが思い浮かべたことの半分くらいはどうでもいいことだぞ。
「何よ、あと何かあったかしら」
「んにゃ、そんなところじゃないの? アタシはもう思い浮かばないよ」
「そんなんでいいのかお前たち!」
蒼と砂橋さんの気のない返答を受けて、さらに宏はヒートアップを始めた。正直暑苦しいんだが。
「この夏! オレ達は何をした!」
「チップを作ったわね」
「大会に出た」
「ゆ、優勝しましたっ! ……えへへ」
「そう! そのためにオレ達は冷房の効いた部屋に引きこもっていただけじゃないか!」
「いいじゃん、快適だっただろ?」
「それは否定しないが!」
周りから怒涛の茶々を入れられても、宏はめげずに話を続ける。本当に何か伝えたいことがあるみたいではあるけど、この流れだと十中八九ろくでもない話だろうなあ。
「オレ達に足りないものがあるとは思わないのか、弘治!」
「……正直思わん」
「かーっ、これだから! このラブルジョワ野郎!」
「そのゲーム、発売されたの十三年前らしいぜ?」
「ぐっ、オレは最近やったんだ……! って、ちがーう!」
最後には悠にもイジられる始末。散々暴れちらし絡み倒した挙句、ついに宏は叫んだ。
「青春が足りないだろう、青春が!」
沈黙が部室を支配する。死んだ空気の中、宏だけがドヤ顔で立っているという状況。あまりにも辛い。最近何か悪いことでもしたかな、と自問自答し始めてしまうほど。
悠だけは心当たりがあるらしく「あー、なるほどね。アレに影響されてんのか」とつぶやいていたけど、僕たちに思いあたる節はない。
「何よ、青春って。具体的に何がしたいのよ」
絶対零度の空気を何とかするべく、我らが部長が切り込んでくれた。それを聞いた宏は、待ってましたとばかりに再び熱く語り始める。
「みんなで海に行ったりとかさ、夏祭りに行ったりとかさ、合宿したりとかさ! そういうキャッキャウフフ……もとい、青春イベントを一つもやってないじゃないかオレたちは!」
なるほど。宏の言い分は、言い方を除けば一理くらいはあるのかもしれない。確かにこの部活は、青春の汗をグラウンドで流すとかそういうのとは無縁だしなあ。
「言われてみれば、見方を変えればずっと学校と家の往復くらいですもんね……」
道香もなるほど、と頷く。
僕たちはともかく、いくら道香とはいえ後輩も居るんだよな。ずっと部室に引きこもっていて、そういうイベントが全くないのは確かに考えものか。
「だからこそ! 何かをしようじゃないか!」
「何だよ宏、良いこと言うじゃねえか!」
肩を組む悠と宏に、狼谷さんや砂橋さんまでもが納得の頷きを見せていた。
「思ったよりまとも」
「だね。ちょっとびっくりしちゃった」
その流れで蒼に目を向けてみる。彼女はどう思っているんだろう?
すると不思議と目が合った。蒼も新しいチップの開発期間を気にしてくれていたらしい。
――時間、足りるかしら?
――キツいけど、そういうイベントも必要じゃないか? 確かにずっと開発詰めだったし
アイコンタクトで意志疎通してから、二人で苦笑いを交わす。それから、蒼はやれやれ、というように言った。
「いいわ。あと二週間の夏休みをずっと開発に充てるのもかわいそうだし、来週あたりで何かやりましょうか」
「よっしゃあ!」
「わーい、ありがとうございます蒼先輩!」
「ま、たまにはいいんじゃない?」
「楽しみ」
歓喜に沸くA会議室。じゃあ、話を前に進めるか。
「で、具体的には何をするんだ? 何か考えはあるか?」
「そうねえ……合宿、とかかしら?」
「合宿、いいな」
合宿。
ちゃんと部活をするのはこれが初めてだから、当然部活の合宿になんて参加したことはない。だから勝手はわからないけど、名前だけで楽しそうな雰囲気だよな。
「この間、検証で泊まった」
「ちがうちがう氷湖! あんなのは合宿って言わないの!」
「じゃああれは、何?」
「……新手の拷問?」
砂橋さんも狼谷さんと楽しそうに合宿の話をしている。そんな中、道香がはいっ、と手を挙げた。
「去年の合宿はどんなことをしたんですか?」
だけど、それは――
「去年は、ね……」
「この時期、合宿どころじゃなかったから……」
ピンポイントで二人の地雷を踏み抜いていた。
去年の八月後半は、魔の八月によって急速に部が散ってしまっていく、まさに真っ最中の時期だろう。合宿なんてやってる場合じゃないのは想像に難くない。
「……ごめんなさい、本当にごめんなさい」
雰囲気で気付いたんだろう、道香は土下座も辞さない勢いで二人に謝る。
「ま、だから実は合宿のノウハウってこの部活から既に失われてるんだよね」
そんな道香を、砂橋さんは何も気にしていないかのようにからっと笑い飛ばした。何だかんだこういう細かい気は効くんだよな。何か前にあったみたいだし、気を遣ってるのかもしれないけど。
「氷湖、電工研の合宿ってどんなことをやってたのかしら?」
蒼も軽いノリで唯一部外のノウハウを持っている狼谷さんに助けを求めると、帰ってきたのは鬼のような返答だった。
「電工研の合宿は、学校に泊まり込みで二泊三日」
「げ、それは最悪ね」
「部室に引きこもって、ただただ開発」
「どうやって泊まってたんだ? 宿泊設備なんてあるとは思えんが」
「寝袋。部にあった」
「もうアタシ床に寝たくないよ」
「地下帝国か何かですかね……」
さすがにそれは嫌だな。せめて布団でくらいは寝かせてほしい。
というか、学内だと結局ただの長時間の部活になっちまうよな。
「ってなると、やっぱり校外だよな」
電工研も参考にならないとわかったから、とりあえずはネタ出しか。皆も考えてこそいるけど、妙案は浮かんでこないみたいだ。
「うーん……誰かよさげな伝手を校外に持ってる人とかいない? 私の家のコネっていうと、おおよそ若松近郊ばっかりなのよね」
「でも外部と一緒にやるにはちょっと急だよね、お兄ちゃん」
「道香の言う通りだ、かといって後ろに倒すと学校が始まっちまうんだよな」
二週間後からは二学期の授業が始まってしまう。そう、東北地方の学校は夏休みが関東と比べて短いのだ。
……ということを、実は最近知った。関東にいた小学校一年の記憶なんて、さすがにもう具体的な記憶なんて薄れているし。
頭を悩ませていると、砂橋さんがみんなに声をかけた。
「ねえ、ちょっといいかな」
「ん、どうしたの結凪?」
「あーんまり使いたくは無かったんだけど……アタシの持ってるコネ、使ってみてもいい?」
「結凪の、コネ?」
蒼のコネといえば、蒼のお父さんである
でも、砂橋さんの持つコネ、か。
一番付き合いの長い蒼でさえ不思議そうな顔をしているってことは、たぶん誰も知らないんだろう。
「そ。実際にできるかどうかは判らないけど……」
少し不安そうな表情。でも、面倒くさがりの砂橋さんが引き受けてでもやりたいくらいに、彼女自身も合宿を楽しみにしているんだろうな。
だとしたら、それはとても嬉しいことだ。
「ええ、もちろん構わないわ。お願いしてもいいかしら?」
「うんっ、もちろん。アタシは副部長だからねっ」
自慢げに、そしてどこまでも嬉しそうに胸を張る砂橋さん。そのかわいらしさに残りの全員で和んでいると、彼女はそうそう、と話を続けた。
「みんなに聞いておきたいんだけど……海と山、どっちがいい?」
「もちろん、当然オレは海派だな。弘治は?」
宏の海推しからはそこはかとなく邪な気配を感じる。
個人的にはどちらも選び難いところではあるけど、宏に便乗してると思われるのも嫌で山を選ぶことにした。
「僕は山かなあ」
「俺も山かな」
悠も山らしい。女性陣はどうだろう?
「……山」
「どちらかといえば海、でしょうか」
「そうねえ……山のほうがいいかしら」
正直、山は準備するものが多い印象があるし、何より僕たちは常に山に囲まれている。だから結局海になると思っていたんだけど、意外な展開だ。
逆に、常に山に囲まれているからこそ、山が見えないと不安になるとかそういうことなんだろうか。個人的にはそんなことない……と思うんだけど。
「おっけー、ってなると四対二で山かな。道香ちゃんはいい?」
「はいっ、本当にどちらかといえばというだけなので!」
「りょーかい、じゃあ明日までに確認してみるよ」
にこりと笑う砂橋さんに、蒼も笑顔で頷く。
「頼んだわ。あと何かあるかしら?」
それから全員を見回すと、意見がなさそうと踏んだか解散を宣言した。
「じゃ、この話は明日にしましょ。祝勝会の続きに戻ろうじゃない」
「あ、そういう思いはあったんだね」
何だかんだでみんなきちんと会議に参加していて、食べるのは狼谷さんを除いておろそかになってたな。僕も空腹だったことを思いだす。
「冷めちゃった分は温めなおしましょうっ、電子レンジ持ってきますね」
「……電子レンジごと?」
「はいっ! そのほうが皆さんも使えますし!」
会議室はガヤガヤとした祝勝会ムードに戻っていく。そんな中、一人だけ取り残されている哀れな男がいた。
「おい、オレは!?」
「お前は下心が透けすぎなんだよ」
悠のツッコミを受けられただけありがたいと思った方がいいぞ、と内心ツッコミを入れつつ、改めて食事を取るために席を立った。
◇
翌日、八月十三日の午前十時半過ぎ。
「さて、昨日に続いて合宿の話をしましょうか。結凪、なんとか手配できそうって本当?」
今日の会議のスタートはゆっくりだった。今朝突然決まったミーティングなのだから当然だ。
A会議室にはいつものように全員が集まり、おやつをつまみながら蒼の方を見ている。こんな緩い雰囲気の会議ができるのは、やっぱり部の存続が決まったからなんだろうな。
「はいはい、ちょっと待ってね」
そう言うと、砂橋さんはパソコンを立ち上げてプロジェクタの電源を入れた。
しばらく操作していたが、その手の動きが止まって数秒でスクリーンには一枚のスライドが表示される。
タイトルには、「コン部夏合宿案(仮)」とあった。
「えーっとね、昨晩アタシのおじいちゃんに電話してみたんだけど、今朝には大まかな調整が終わってオッケーのメールが来てたんだよね」
「すげえ、仕事早いな」
正直もっと時間が掛かると思っていたから驚いた。いたずらっぽい笑顔のまま、砂橋さんは次のスライドへ送る。
「三泊ホテルで、最後の一泊はキャンプ。来週の月曜から金曜の四泊五日の旅程を立てたんだけど、どうかな?」
そこに映し出されたのは、まさに合宿という趣の旅程だった。
「あら、いいじゃない」
「ほう?」
「面白そうだな」
「まさに青春、という感じ」
「楽しそうですっ」
「いいな、なんか合宿っぽい」
当然、部の皆の評判も上々だ。
もちろん僕も大賛成。その大まかな旅程を見るだけで、なんだか楽しそうだ。
「場所はね、山ってことで……高崎とかになりそう」
「高崎!? ……って、どこだ?」
頭の悪い発言をしてるのは悠。中学校の地理の授業もかなり適当に受けてたよな、幼馴染ながらどうやってこの学校入ったんだこいつ?
「群馬?」
「氷湖、正解! 関東平野の最果てだあね」
そんな馬鹿を尻目に、狼谷さんが正解してくれた。高崎といえば、新潟と関東平野を結ぶ拠点だ。長野とかそっちのほうにも新幹線が伸びていたはず。
ただ――
「なんでまた高崎なんて、そんなところに」
というのが、真っ先に出てきた疑問。高崎という街は、特に何かがある! ってわけじゃなくて、それなりに栄えている地方都市という印象しかない。雰囲気的には福島とか郡山とかと近いイメージ。
この質問は砂橋さんの想定問答にあったらしく、すぐにそれはね、と話し始めた。
「山に近いのと、あとはやっぱりコン部って言ってるのに合宿でそれっぽいことが全くできないのはもったいないじゃん?」
「ああ、まあ?」
山に近い、というのは確かにそうだよな。曖昧に頷く。
「確かに、そうかもしれません。この部活っぽいことを入れようとすると山奥でするのは難しいでしょうし……」
道香が言うのももっともだ。この部活で扱うコンピュータは電源がないと使えない。だから、今更だけど電源と縁遠い場所である山との相性は悪いよなあ。
「ってことで、それを両立させようと思ってさ」
「なるほど? そんな術があるのか」
「ってか、この部活らしいことってなんだ? 正直キャンプと旅館ならこのへんでもできそうじゃねえか?」
そして、誰もが不思議に思っていたことを宏が聞く。
それを聞いた砂橋さんは、待ってましたとばかりにと口角を上げて楽しそうに返した。
「そこがまたミソなんだけどさ。……NEMCエレクトロニクスって知ってる?」
「NEMCの半導体やってる子会社ですねっ」
道香が言った名前は僕も知っている。
日本電気製造株式会社、日本最大の電機会社。NEMCエレクトロニクスはそこの子会社の半導体企業だったはずだ。
なんでも、銀行から先端技術のための莫大な融資を受けられたことと、早いうちに子会社化してフットワークを軽くできたため一時の凋落から再興を見せているんだとか。
「ゲーム機用のCPUの製造とか、あそこだったよな?」
「あー、そういえばそうだっけか」
宏が言った通り、僕や悠、宏とかが熱中しているゲーム機のCPUやスマートフォン用のCPUにも、この会社が設計・製造していたものがあったはず。日本の計算機用半導体事業のトップランナー企業の一つだ。
「そだね。で、その設計拠点が高崎にあるの」
「ふむふむ……?」
「そこで、アタシたちのOJTを受けてくれるんだって」
部室の空気が固まる。
OJT、つまりは実業務中の研修。
ほぼ実戦形式で、先生がついて教えてくれる、ってことだ。日本のトップ企業で、たかが高校生相手にそんな研修をしてくれるなんて聞いたことがない。
「……へ?」
「つまりね、コン部的合宿をしたあと、最後にキャンプで夏の思い出を作ろう、ってわけ」
ようやく理解ができた。彼女が言うところのコン部的合宿っていうのは、このOJTで実際の商用チップを作っている人たちからノウハウを教わろうという話だったんだ。
「は、はあっ!?」
「え、あのNEMCエレが受けてくれたのか!?」
「アタシが一番驚いたよ……」
思わずざわつく僕たち。それくらいに驚愕の状況だ。
「ってことで、そんな合宿を企画したんだけど……みんな、どうかな?」
少し不安そうに、砂橋さんは僕たちに聞いてくる。当然――
「行くっ!」
「もちろん行くぜっ」
「参加しますっ!」
「行く」
「行くわっ」
「参加だっ」
全員が改めて、行くとノータイムで声を上げる。それくらいに、砂橋さんが計画した合宿は楽しそうだった。
返事を確認した砂橋さんは、安心するようにふう、と息を吐く。
「わかった、じゃあ七人で行くって伝えちゃうね」
これで、合宿の実施は本決まり。
「高崎まではどうやって行こうかしら?」
となれば、実際の旅に向けた楽しい話し合いの始まりだ。
「そのまま会津線で南下して、栃木から両毛線?」
「いや、さすがに郡山から新幹線を乗り継いだほうが早いと思うぞ」
「往復それは芸がないかなと思ったりもしたんだが」
「あー、じゃあ帰りは栃木経由にするか。時間は……」
宏と悠は行きの旅程について議論を重ねているらしい。しばらくその様子を眺めていると、結論が出たらしく砂橋さんに確認しにやってくる。
「高崎着は十二時くらいになるが大丈夫か?」
「ん、全然大丈夫だと思う。じゃあ十二時に高崎駅に着くって言っておくね」
「そういえば、高崎に着いてからの移動はどうするんですか?」
「確かにそうだ。NEMCエレの事業所って駅から歩いて行ける距離なのか?」
道香の質問で思い出す。確かに、キャンプ場や宿への行き来はどうするんだろう。例えば会津若松の駅からこの学校くらい離れてしまっていると、なかなか徒歩での移動は難しい。真夏に死の行軍をするのはさすがに避けたいぞ。
砂橋さんはそれにもにっこりと返す。いつものニヤリ、という雰囲気ではない。
「あ、それは大丈夫みたい。おじいちゃんが車出してくれるって」
「至れり尽くせり」
「ほんと、頭が上がらないわ」
「だな。ありがとう、砂橋さん」
「い、いや。アタシがやったことじゃないし、それに、アタシも……楽しみ、だし」
赤くなり、小さくなる砂橋さん。そこに蒼が追い打ちを掛ける。
「そんな恥ずかしがることないわ。ありがとう、結凪」
「んぇへ……えへ、えへ、げへへ」
「うわぁ、マジか砂橋さん」
「えぇ……」
その結果、褒められのキャパシティーを超えたのか砂橋さんは気持ち悪い声で笑い始めた。見ていた僕も道香もさすがに引く。
なんかここ数日、みんなの意外な……というかアレな面をいろいろと見ている気がするな。
それだけ、この部のみんなが気を許せる仲間になったという意味でもあるんだろうけど。
「手間かけて悪いんだけど、結凪は何点か確認をよろしく頼むわ」
「うひ、ん、わかった」
「前も言ったけどその笑い何とかしたほうがいいわよ……その返事が来次第、杉島くんと悠は旅の手配をお願いできるかしら?」
「宿の手配まではアタシのほうでやるから、任せて」
「ん、わかった。じゃあ行き帰りの電車だな」
「任せとけ」
「お前ら、マジで何でもできるのな」
「おうよ、俺たちを誰だと思ってんだ?」
「あー、そうだったな。なんでも屋だ」
適当にあしらうと、蒼もそのまま次へと話を進めていく。
「シュウ、あんたは私と結凪と細かい日程と予定を詰めるわよ」
「了解、任せろ」
何をするか、何ができるかというところも含めて一緒に話をしようということらしい。正直だいぶ砂橋さん任せになってしまいそうだな。
「道香ちゃんと氷湖は……そうねぇ……」
「はいっ、合宿のしおりとかどうでしょうか」
「おお、青春っぽい」
どうやら狼谷さんも青春に憧れがあるらしい。昨日聞いた限りだと電工研の合宿も実質軟禁みたいなもんだし、そういう活動に飢えていたのかも。
「じゃあ、道香は合宿のしおりを作ってもらえるかしら? 氷湖も一緒にいい?」
「わかりましたっ! もちろんですっ」
「こっちで細かいこと決まったらお願いするわね」
「任せて」
それから、蒼は手を一つ叩いてみんなに向き合う。
「さて、合宿の話もそうだけど十月に向けてもきちんと開発を進めるわよ! 特に今できることがない人は開発を始めていきましょ」
蒼の一声で、今日も部活が始まった。A会議室を後にするみんなの表情は明るい。
「なんだか、嘘みたいね」
その様子を見て、感慨深そうに蒼はつぶやいた。
「みんなが楽しそうにしてることが、か?」
「そうそう。去年から考えると地獄から天国ね」
その目には、少しの影。去年の今頃の惨状を思い出していたのかもしれない。
「この部はお前が作ったんだ、凄いことじゃないか」
「シュウのおかげ、ね」
「いや、蒼の頑張りだよ。ちゃんと自分のことも褒めてやれって」
「……シュウがそう言うなら」
心底不思議そうな表情をする蒼。
この部で僕ができたことなんて、まだたかが知れている。もっと蒼は自信を持っていいと思うんだけど。
「んじゃ、僕たちも行きますか」
「ええ、時間は限られてるしね」
とりあえず、今はできることをやるだけだ。どこか上機嫌な蒼と一緒に、二階のオフィスエリアに向かうことにした。
◇
その日から、僕たちは必死になって準備を進めた。何しろ急に決まった合宿だ、いろんな手続きや連絡などを急ピッチで進める必要がある。
「切符取ったぜー、学割が効く距離で助かった」
「ありがとう、当日まで私が預かっておくわ」
「ん、そのほうが安心だな。蒼、頼んだ」
行き帰りの電車を予約したり、
「お待たせ、向こうもこの日程で大丈夫だって。宿とかの手配もできたってさ」
「よし、じゃあ日程はこれで本決まりだな。じゃあ道香――」
「はいっ! やっておくよっ!」
「食い気味に来たな、よろしく」
「私もやる」
「うおっ、狼谷さんも。んじゃ、頼んだよ」
本決まりの旅程を合宿のしおり担当に渡したり。
合宿の準備をしながら開発を進める忙しい一週間はあっという間に過ぎ去った。
そして合宿前最後の平日、十六日金曜日のお昼過ぎ。
「みなさーんっ、合宿のしおりができましたっ」
学校の印刷室で合宿のしおりを準備していた道香と狼谷さんが帰ってきた。早速そのしおりを受け取る。
「おお、何だこの絵!? 誰に依頼したんだ!? ってかフルカラーのPP加工!?」
最初にえらく浮かれた雰囲気で受け取った宏が驚いていた。
そのしおりは、かわいらしいイラストがフルカラーで印刷された冊子。表紙の紙にも書店の雑誌みたいな加工がされている。
でも、ありものの絵じゃないな。なぜなら、描かれた女の子はうちの制服を着ているし、なにより見覚えのあるCPU、僕たちの作ったMelonプロセッサを持っていたからだ。その後ろには、メロンの絵がかわいくあしらわれている。
「あら、かわいいじゃない。杉島くんの言う通りどうしたのよ、この絵?」
「私が描いた」
蒼の改めての問いに、控えめに手を上げたのは狼谷さんだった。
狼谷さん、絵も描けるんだな。特技があるのはうらやましい。
「すごいですよねっ、狼谷先輩の絵とってもかわいいんですっ!」
「へぇー、やるじゃん氷湖」
「……あり、がとう」
みんなから手放しで褒められて恥ずかしいのか、狼谷さんの頬は少し赤く染まっていた。
「道香」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
しおりを配り終えた道香に声を掛けると、とてとてと走ってやってくる。せっかくだから、作った道香の話を聞きながら読んでみたい。
「この冊子、中身の方は全部道香が作ったの?」
「うーんとね、文章は大体わたしが作ったかな。それを狼谷先輩に渡して、デザインは二人で相談しながら作ったの」
ぺらぺらとページをめくってみると、小さくデフォルメされた女の子のイラストが各所に配置された、かわいらしくも読みやすい冊子になっていた。このデザインが道香と狼谷さんのセンスなんだろう。
僕たち男どもで作ったらもっと無骨になっている気がする。いや、そもそもこんな綺麗な冊子は作れないか。
「すごいな、てっきり日程や持ち物が書いてあるくらいかと思ってた」
内容も、日程や持ち物だけではなく、高崎市の簡単な解説やNEMCエレクトロニクス高崎事業所の紹介まで盛りだくさん。これだけの冊子をよく三日で作ったなあ。
「えへへ、すごいでしょっ」
「ああ、凄いな。これを見てるだけで合宿が楽しみになってくる」
「ちょっ、お兄ちゃんっ、んっ」
道香の変な声に冊子から目を上げると、何の気なしに道香の頭に手を伸ばしていたことに気が付いた。まずい、気を抜いていたからか昔の癖が出てしまったらしい。
慌てて手をひっこめようと思ったけど、気持ちよさそうに目を細めている道香を見ていると、もっととせがまれているようにさえ見える。
「……」
だから、そのまま無言で手を動かし続けた。触れている髪はさらさらで、どこからかいい香りがしてくる。
「えへへっ……」
だけど、頬を赤く染めて幸せそうに笑う道香を見ていると、気恥ずかしさが限界に達した。
「は、はいっ、終わりっ」
「えぇー、もう終わりなの……?」
「終わり終わりっ」
手を離すと、不満げにむーっ、と膨れて見せる道香。自分でも朱が差しているのがわかる頬の熱さを感じる。
「むーっ、仕方ない」
そう言って自分のデスクに戻ろうとした道香に、衝動的に声を掛けていた。
「道香」
「ん、なに?」
「頑張ったな、お疲れ様」
「……うんっ」
そう言って振り向いた道香は、穏やかで幸せそうな笑顔だった。
そんな一瞬も、数秒後には日常に戻る。
「よし、みんなある程度目を通し終わったかしら?」
「おう、ばっちりだぜ」
「悠の心配はしてないわ……いや、心配ね。悠と杉島くんはなおさら」
「ばっちり信頼ないな」
「日頃の行い」
おお、あの狼谷さんですらジト目だ。日頃の行いは間違いなく良くないから、奴らには反論の術はない。
「初日はそのまま工場に行くんだな。お昼は?」
「社食を使わせてくれるってさ。お弁当も取れるみたいだけど、二日目以降からかな」
改めて日程を伝えると細かい質問も出てくるけど、砂橋さんはきちんとフォローしている。
「さて、集合は会津若松の駅に八時五十分よ。遅刻したら容赦なく置いていくわ」
「慈悲は?」
「あるわけないじゃない。プライベートジェットでもなんでも使って自力で辿り着きなさい」
「くっそー、若松にも高崎にも空港は無いんだよな」
無慈悲な蒼の発言ににやにやと笑う悠。こいつは絶対あしらわれるのを確信してやってるからな。
そんな蒼から引き継いで、砂橋さんが注意を続ける。
「買い出しの時間とかはあんまり取れないから、飲み物とかお菓子は事前に買っておくようにね」
「はいっ、砂橋先生!」
いくつかの注意事項に関して話した後、買い物の話のタイミングで道香が元気よく手を挙げた。
「おっ……何ですか、桜桃さん」
砂橋さんも即乗ってくる。先生っぽく返事をしているけど、当然のように威厳はない。
「おやつはいくらまでですかっ!」
「高校生だし上限なしです、青天井」
「やったあっ! ……ありがとうございます、砂橋先輩」
きっとここまでがやりたかったんだろう、急に素に戻る道香。
そういうのに憧れがあるのかなと思ったけど、よく考えると道香は小学校低学年の頃は普通に日本にいた。単純にテンションが上がっているだけか。
「もしかしなくても、これやりたかっただけでしょ?」
「はいっ」
「いい笑顔だなあ」
砂橋さんが苦笑いをしたところで、蒼がぱんっ、と手を叩く。おなじみの会議終了の合図だ。
「じゃ、ちょっと早いけど今日は解散ね。各自、残って作業してもいいし準備に帰ってもいいわ」
「……土日あるのに、いいのか?」
「いいのよっ、早く準備したいでしょっ」
どうやら、蒼も合宿が楽しみらしい。
結局帰る人は居なくて全員で新しいチップの開発を進めたはいいものの、やっぱりどこか浮ついた雰囲気なのは変わらず。
普段の部活終わりより二時間ほど早く、今日はお開きになったのだった。
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