ある男の日課

兎ワンコ

本文

 目が覚め、ベッドから上体を起こすとまず窓の外から差し込む日差しを確認する。

 ガラスの向こうに見える静まり返った街を見て、胸を安堵する。


 階下におり、テレビから流れるニュースが支配するリビングに入る。

 滑舌の良いニュースキャスターが話す社会情勢は、誰が聞いても鬱屈になりそうなものであった。中東における紛争。先進国の強固な外交政策。


 一軒家の一階のリビングに響くその音が、男がまだ文明と繋がっている微かな証拠だった。

 寝不足気味の目を擦り、男はカーテンを押して朝日を浴びる。三十年と生きてきた中で、不変として変わらぬ太陽は、眠っていた肉体を生き返らしてくる。

 今日は何をしようか? などと考えながら、気鬱な気分で男は着替えを始めた。


 朝起きて最初にすることは自宅の前の道路の掃除。男が住むこの家の持ち主は彼ではない。だが、家主がこの家にいない以上、この家の中だけじゃなく、外までもが男の仕事なのだ。


 太陽はすでに夜を支配していた月を彼方に追いやり、燦々とした日差しを容赦なく男に照り付けてくる。空からの太陽光線は男の心をより鬱屈なものとさせた。




 掃除を終え、缶詰めで粗末な朝食を摂った男は外に出た。ブラブラと街を歩き、ひと気のない住宅街を歩く。

 仕事を辞めてから一か月。男はまともな定職に就くことはなかった。いけどもいけども自分に見合う仕事がなく、寛大な気持ちばかりが膨らみ、家に居ることが多くなった。もちろん、それでは飯は食えない。


 男が住宅街が歩くのはただ散歩ではない。男は他人の家に勝手に上がり、物盗りとなっていた。

 キョロキョロと辺りを見回し、人気のない家を探しては、コソコソと小動物のように他人の家に入るのだ。


 今日も一軒の外壁が比較的に綺麗な家に目をつけた。築十年以内と思しきその家は、無用心にも掃き出し窓の鍵が施錠されていない。

 ゆっくり門扉を開け、庭先を足音を殺して歩く。レースカーテンで閉ざされた窓に目をやり、気配がないことを確認するとゆっくりと窓を開け、警戒しながら室内に侵入した。

 合皮のソファ、ガラスがはめこまれたテーブル。人が横になってもあまりそうなほどの大きな薄型テレビ。真っ白なカーペット。壁に掛かった家族写真から見て、どうやら若い娘がいる家庭のようだ。


 土足で部屋に上がる背徳感を味わいながら、室内を物色する。金目のものは取らず、台所に向かい、食料品や衣料品を近くにあったリュックサックに詰め込む。自分のリュックサックを持って来ないのは、逃走の際に捨てても自分のものでなければ、心病むことがないからだ。今日はその心配がないと踏んだ男は、無造作に食品庫の中を漁る。


 缶詰め、乾燥食品、ニンニク、飲料水、タオル、医薬品などジッパーがはち切れそうなほどパンパンに詰め込むと、男はリュックを背負った。ここまでは順調だ。焦ることはない。

 見落としがないか周囲を確認していると、ふとテーブルの下に一冊の大学ノートが落ちているのに目が入った。拾い上げてサラリとページを捲ると、びっしりと文字が書かれてあるのがわかった。暇つぶしに丁度良いと思い、男はリュックサックの僅かな隙間にねじ込んだ。


 家を出ていく男の歩みは軽かった。出るときは人目を気にしないからだ。出るときなど、堂々していれば問題ない。男はさっさと住まいへと戻った。


 家に帰り、リュックサックに詰まったものを戸棚に詰め込んでいく。

 三日に一回、こうして自分が食うためのメシを盗んでいく。なんとも浅ましい行為であるが、こうしなければ食ってはいけない。惨めなものだが、物乞いになる選択は男にはなかった。

 ひとしき漁ったものを並べ、盗んだ食品で昼食のメニューを考える。豪華にしたいものだが、今後の生活を考えるとそういうわけにもいかない。

 男は乾麺とサバの缶詰を取り、台所へと向かった。


 

 夕方になり、窓の外がざわめきはじめた。テレビのリモコンを持ち、タイマー機能のスイッチを入れる。

 やがて外では人の声が風とともに乗っかってきて、グワングワンとうねりを上げている。少し前までよく耳にしていた、速度を上げたトラックの通過音にも似ていた。

 不快な気持ちになった男はすぐに雨戸を閉め、部屋の灯りを薄暗くする。


 男にとって夜は苦痛だった。

 部屋の片隅に広がる真っ黒な闇は、孤独に向き合う男に対し、まるで挑発するかのようにその黒さを主張していた。

 黒は怖い。

 闇は怖い。

 震えそうなほど身体を巡る血は冷え始め、手足の感覚も薄らいだ。


 耐えられなくなった男は頭から毛布を被り、机に腰掛けて懐中電動と灯す。光が漏れぬようにかぶり直すと、拝借した大学ノートを開いた。


 ノートには細くて丸い文字が行の中にびっしりと書かれていた。文字の書き方からして、恐らくこのノートの持ち主は女だ。それも、とびっきりに若い女だ。想像を膨らませるだけで、さきほどまであった恐怖心はどこかやわらいだ。気休めのようなものだ。


 女の日記は学校での日常を綴ったものだ。やれ、社会の教師が多汗症で手汗が汚い、だとか、生理の周期が遅れているだとか。一つ年上の上級生が部室で淫らな行為をしている噂だとか、生々しく下世話なことを赤裸々に綴ったものであった。

 今どきの若者が使う独特なニュアンスやスラングは男の頭を酷く悩ませた。男が十代の頃もそうであったはずだが、歳を重ねてみるとなんと無知で阿呆な言葉遣いであったことか。


 すっかり恐怖心も消え、退屈を覚えた頃。ふと、机の上に一ミリにも満たないであろう小さな蜘蛛が這っているのに気付いた。

 男は人差し指の腹を蜘蛛の真上から押し当てる。指先を持ち上げると、机の上から蜘蛛はいなくなっていた。指をひっくり返すと、そこに蜘蛛はいた。


 すっかりと指紋の上に乗るように小さくなっている。体液などは見えない。近くにあった服用薬を入れていた紙封筒に人差し指を擦りつけた。指先から綺麗になったことを確認すると、また日記に視線を落とした。

 やがて目の前も文字や歪み始め、思考も褪せ始めてくる。睡魔だ。


 男にとって、眠りとは死の類似に思えた。

 瞼を閉じ、睡魔に意識がおかれているということは、肉体は機能を失った状態である。それを死と呼んでも過言ではないだろう。自分の肉体があいだ、意識外で起きることは、恐怖の対象にほかならない。それもまた、睡眠を死に直結させるのに、充分な理由になるだろう。


 本当ならば、眠りに落ちたくない。ずっと起きていたい。


 外ではゴウゴウと、ガウガウと唸る音が聞こえる。私も、同じようになってみたい。自分が自分でありたくない、と男は思う。


 この時間はいつになれば終わるのだろうか?

 それとも、永遠に続くのだろうか?

 その答えを男が知る術はなかった。




 目を覚まし、階下に降りる。遮光カーテンから微かに漏れた光が、リビングに漂う

 

 またニュースが部屋を支配した。

 昨日も見た女性ニュースキャスターが社会情勢を話している。中東の情勢、先進国の強気な外交政策。


 物寂しさを覚える。このテレビと、物盗りだけが男の生きがいであり、自分と他人が繋がっている存在証明であった。


 男は落涙することもなく、闇から生き返ったばかりの青空を眺めるばかりであった。

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