Mother

志央生

Mother

「今度こそ」

 そう言い私は手に持っていた果物ナイフを手首に当てた。薄皮が切れて鮮血が流れる。まだ、痛くないと自分に言い聞かせて、さらに力を込めた。すると血が先ほどよりも多く溢れ出した。そこで初めて痛みに顔をしかめた。前は、ここでやめてしまった。痛みに耐えきれず、逃げ出した。だからこそ今度は、と覚悟を決めて力を入れた。

「バイバイ私、さよなら世界」

 それだけ言い残して倒れこむ。手首から止めどなく溢れ出す血が絨毯を赤く染め上げていくのを見た。


 瞼の上から漏れる眩しさに目を覚ました。目を開けて最初に見たのは何度も見覚えのある天井だった。

「(また私は失敗したのね)」

 私はまたどこかで躊躇ってしまった。何度繰り返せば気が済むのだろうか、結局私も死ぬ覚悟が出来ていないのだろう、と思っていた。

 口に取り付けられた酸素マスクに煩わしさを覚えながら、顔を横に向けた。そこにはバイタル確認をしに来ていた白衣を着た女性が立っていた。手に持った電子端末に、表示されている私のバイタルデータを打ち込んでいく。その時、女性と目が合い意識が戻ったことが伝わった。

 一分も立たないうちに父と母が私を取り囲んでいた。

「何度死のうとすれば気が済むんだ、聖」

 白衣を身に纏った父は死のうとした自分の娘を叱る。桐下(きりした)聖(ひじり)、それが私の名前だった。今いるこの病院自体が私の家でもあった。

「もういい、命があって何よりだ。だが母さんを悲しませるな」

 そう言うと父親の後ろから母が顔を見せる。その顔は無表情だった。

「聖、なんでまた」

 静かに紡がれた言葉にすら感情が見えない。ただ話しているだけ、そこに感情というものが感じられない。

「(変わらない、いつもと同じだ)」

 母のこの機械の様な言葉も表情も今に始まったことではない。私が記憶している限りでは、幼いころからだ。たぶん、それよりも昔から母は感情の無い機械のようだったのだろう。それでも、父は母には感情があると言っていた、ただそれを表現するのが苦手なだけだと。少なからず、私もそんな母と似ている節がある。表情を作ることが苦手なところとか。

「(どうしたらこの息の詰まりそうな世界から、私は抜け出せるのだろうか)」

 そんなことを考えながら目を瞑ると再び私の意識は闇の中に落ちていった。





人類管理システム《Mother》、それはこの国における絶対的存在だ。人による監視ではなく機械による監視を受け入れた国。それを作った男、天草嗣人。この名を知らぬ人間は世界中を探してもいないだろう。彼が作り出した技術で、この国から犯罪が減り住みやすくなったといえる。それ以前はずいぶんとひどい惨状だったとか。私に今ひとつピンとこないが。

私はもちろん一つ上の世代も昔の惨状を知らない。ただ、何も疑わず全てを受け入れている。それが当たり前のように。


「今年の採用は君一人だけだ」

 目の前に立つ中年の男は手に持った電子端末を見ながら私に告げる。高身長で男前。シルバーグレイの髪が貫禄を漂わせていた。ロビーの中心という嫌でも人の目を引く場所にいた。行きかう人たちの視線が私たちに向いていることが分かる。 

 こういう時、できるだけ早くこの場から立ち去りたくなる。

「桐下聖君、今から仕事の説明をするから付いてきてくれたまえ」

 男はそういうと私に背中を向けて歩き出す。黙ってその後を歩いていく。エレベーター前で立ち止まる。銀色の扉に反射し自分の姿が映る。背中まで伸ばした髪は今日に合わせて整えておいた。まだ着慣れない女性用スーツはぎこちなく見える。

「一応聞いておくが私たちの仕事内容について質問はあるか」

「質問ですか? 今のところは何とも言えません。要項に書いてあったことが仕事内容ではないのですか」

 私たちはエレベーターに乗り込みながら話をする。

「君が読んだ要項はあくまで建前なんだ。私たちの仕事は一つでね、まぁその仕事もほとんど何もしないようなものなんだが」

 ふっ、と笑う男はボタンを押すとエレベーターは下降していく。

「これから君には監察官として仕事をしてもらうが、それを正式に決めるのは彼女だ」

「彼女?」

「まぁ、会えばわかるさ」

 男との話が終わるとエレベーターという閉ざされた空間に沈黙が流れる。聞こえてくるのはワイヤーの擦れる音だけ。

監察官、私が就いた職業。国家試験をパスし、その中でもこの職に就けるのはほんの一握りとされている。簡単に言えば、出世を約束された職である。だが、私は別に出世がしたくて就いたわけではない。もっと単純なこと、監察官の仕事内容だ。その中にこの世界を支えるMotherの監視というのが含まれている。それに興味を惹かれて私はこの仕事を選んだのだ。

「着いたぞ」

 気が付くとすでに全開した扉の向こうで男が怪訝そうに私を見ていた。私も慌てて降りる。辺りを見渡すと一面真っ白な場所が広がり、壁にセキュリティーロックが設置されていた。

「安田裕仁(やすだゆうじ)」

 上司が自らの氏名を告げ、セキュリティーロックに個人IDを入力していく。網膜認証、指紋認証を照合し初めてロックが解除された。随分と厳重なセキュリティだ。一体この中に何があるのか。

「桐下君、中に入りたまえ」

 言われるがまま中に入ると大きな円形の機械が部屋の中心から支柱のように床から天井にまっすぐと生えていた。さらに壁一面にはモニターが設置されている。

「あら安田さん、こんにちは。今日は何の御用かしら」

 部屋には私と安田しかいないはずなのに女の声が聞こえる。部屋の中に人が隠れているようには見えない。

「Mother今日から働く新人を連れてきました」

 安田は姿の見えない女の声に話しかける。すると正面のモニターに人の姿が映る。

「あれは」

 思わず私は声を漏らす。モニターの中に少女がいた。白のワンピース、色白の肌が印象的だった。

「彼女がMotherだ」

 そう安田が私に言うとモニターに映る少女が頬を膨らませて怒る。

「安田さん、いい加減にしてください。私には名前がちゃんとあるんです。お父様から頂いたマリアという素晴らしい名前が」

 モニターの中にいる少女は私たちに名前を言う。まるで本物の人の様な会話のやり取りに少し驚いていた。人工知能いわゆるAIと称されるMotherを管理するプログラムが違和感なく人と会話しているのだ。何より一番驚いたのはモニターの中に映るのが少女だったことだ。話し方や行動が見た目の年齢と同じだということに私は衝撃を受けていた。

「もしかして、そこの人が新しく入った?」

 彼女は私をじっと見つめる。

「女性の監察官なんて珍しいですね。お名前はなんていうのかしら」

「桐下聖です」

「私はMotherを管理するために作られた自立式人工知能マリアです。どうか、マリアと呼んでください。これからよろしくお願いします聖」

 マリアは微笑みながら私に挨拶をしてくる。すると、隣で咳払いをする音が聞こえる。

「それでは、Mother私たちはこれで」

 安田はそう告げ部屋を後にしようとするとマリアが呼び止める。

「ねぇ、すこしだけ聖と話をさせてほしいの」

 マリアは安田に懇願する。安田はそれを聞いて少し考えてから私に言う。

「話が終わったら七階のオフィスに来てくれ。それでは失礼します」

 安田はそう言い部屋を後にしていく。マリアと二人きりになる。一体何を話せばいいのか。

「ねぇねぇ、聖はどうしてこの仕事に就いたの?」

私が会話内容について考えているとマリアは興味津々な顔で聞いてきた。

「この仕事に就いた理由ですか。そうですね、一つは給料が安定していることです」

私は彼女にそう告げると彼女は不機嫌そうな顔をした。

「そんなつまらないことでこの仕事を選んだの?」

「給料が全てというわけではありません。理由の一つだと言ったんです」

 私がそう説明するとマリアはしぶしぶ納得して引き下がる。マリアと会話して分かったことがある。彼女と話しているとまるで本当の人と会話しているような感覚に陥るということだ。それほどまでに彼女は人の感情を理解している。喜怒哀楽を知っている。

「何か私に質問がありそうな顔をしていますね」

 マリアはモニターの中で私の顔を覗くように聞いてくる。人の行動をマネしているのだろうか。

「いえ、質問というか」

 私は言葉を濁すとマリアはすかさず切り込んでくる。

「何となく質問の内容はわかります。私がなぜこんなにも人のように会話できるかですね」

 マリアは自信満々に私に聞いてくる。

「聞いてもいいのですか?」

「もちろんです」

 モニター越しにマリアが顔を近づけてくる。私は思わず半歩下がる。

「あれはまだお父様が私を作ったばかりの話です。私はまだ人の感情を理解していませんでした」

 マリアは一人話を始める。どうやら私は彼女の話を聞かなければいけないらしい。

「あるときお父様が私に言いました。『人を監視する立場のマリアは人間の「感情」というものを理解しなければいけないんだ』と私はその後Motherに送られてくるデータを通して人の研究をしました」

「その研究の結果、今みたいに人の感情が分かるようになったと?」

 私はそう聞くとマリアは首を横に振る。

「完全にはわかりません、なのでEveから送られてくるバイタルデータを使って判断しています」

 マリアは笑う。Eveとは、人間の精神状態をリアルタイムにMotherへ送る装置。私たちは生まれた時からEveが体に埋め込まれている。

「あの聖、私のお願いを聞いてくれませんか」

 マリアは唐突に私に言ってくる。

「内容によりますが私にできることなら」

「あのね、お父様の残した最後のプログラムデータを見つけてほしいの」

 私は何をお願いされたのか分からなかった。

「お父様って、天草嗣人のことですか」

「そうです」

 マリアは肯定する。約百年前に死んだ男、天草嗣人。私の知っている情報は学校で教わった程度のことだ。彼はMotherという人類の希望を作り、そして数年後、自らの頭を拳銃で撃ちぬいて死んだということぐらいだ。なぜ自ら命を絶ったかは未だ謎に包まれている。

「でも、天草嗣人が亡くなったときに研究室とかはくまなく調べ上げられたって聞きましたが」

 私は覚えている限りのことを聞いてみる。

「でも、お父様が最後に言ったのよ。Motherはまだ完成されていないって」

「そんなことを言い残していたのなら」

「このことは誰にも言っていないから知らないわ」

 マリアがそう言った瞬間私はすでに引き下がることのできない話を聞かされたことに気付く。

「なぜ、そんな重大なことを私に言うんですか」

「信用できる人間に頼りたかったの」

 マリアの目は私をじっと見つめたまま言う。

「私が信用に足ると思った理由が聞きたいんですが」

「それは、あなたのデータがとても興味深かったからです」

 そういうとマリアは私の個人データを表示させる。そこには私が生まれた時から今日にいたるまでのすべての行動が記録されている。

「個人情報を勝手に盗み見るのはいかがなものでしょうか」

 私は額を押さえながらマリアに問うと無邪気な子供のように答える。

「私はMotherの管理者ですもの。必要なことがあれば見てもいいと思います」

 私は小さくため息を吐く。

「まぁ今の話は置いておくとして、なぜ私なんでしょうか?」

 本題はそこだ。私が選ばれる理由がわからない。

「あなたの精神状態はどんな状況下でも変わらないからです」

 マリアはそう言い放った。

 自分の精神状態を確認する方法は二つ、Motherから送られてくる警告通知かEveによる定期通知の二つだ。私の精神状態が乱れた経験はなかった。それは多くの人が同じだ。

 なぜなら普通の生活をしていれば乱れが生じることがないからだ。

「そんな理由なら私でなくてもほかの人でもいいはずですが」

 私がそう答えるとすぐにマリアは言い返してくる。

「あなたはその中でも異常なんです。多くの人は確かに危険と判断されませんが、暮らしていれば少なからず精神には波形ができます。しかし、聖にはそれが一切ない。たとえあってもごくごく微弱な波形。それがあなたを選んだ理由です」

 マリアの力説に私は圧倒されていた。

「分かりました、できる範囲で探してみますがあまり期待しないでください。今日入ったばっかりの新人なので」

 私は嫌みっぽくそう言うとマリアは微笑みながら言う。

「ありがとう」

 そのあとすぐに私は部屋を後にしてエレベーターに乗り込んだ。


「お疲れ様です」

 私は地下の部屋から安田に言われた七階のオフィスルームに入る。数人の人間が各自のデスクに座りモニターを見ていた。

「あぁ、桐下君か」

 部屋の一番奥のデスクに座っていた。私は安田のもとへ歩いていく。

「Motherとの話はどうだったかな」

「どう? とは」

 私は安田に聞かれた質問の意味が分からなかったため聞き返す。

「そのままの意味だよ。彼女と話したなら色々と思うことがあるだろう」

「あえて言うならあそこまで人と会話できるとは思いませんでした」

「だろうな」

 安田はデスクの上に置いてあったお茶を飲む。

「あれは草嗣人が作り上げた最高傑作の一つだからな」

「なぜ、天草嗣人は人の手にMotherを委ねず、マリアに管理を任せたのでしょうかのでしょう」

「さぁ、それはわからないがMotherは我々人の手には少々手に余るモノだということは感じているよ」

 安田は私に言った。

「そういえば、少し前にMotherから連絡があったよ。当分君を貸してほしいと」

安田はマリアをMotherと頑なに呼び続けている。なぜかはわからないがそこには何か強い意志があるように感じられた。

「そうですか」

「君には明日からMotherの相手をしてもらう」

 安田は私にそう伝える。どうやら先ほどマリアの言っていた探し物を明日から探すことになりそうだ。

「君はずいぶんMotherに気に入られたみたいだな」

 薄い笑いを浮かべながら私を見ていた。私は一度頭を下げてその場を後にした。


 私は自分に与えられたデスクに座る。なかなかに使い古されたデスクのコンピューターを起動させ、与えられたユーザーコードを入れる。

「天草嗣人」

 私はその男の名前をコンピューターの検索エンジンにかける。すると一秒も経たない内に一万件以上も天草嗣人についての情報が出てきた。しかし、天草嗣人のデータはどれもこれも似た内容の説明ばかりが書かれていた。マリアが言っていた探し物の手掛かりにつながるような情報が見つかればと思い調べてみたがやはり存在しなかった。

「天草嗣人の残したMotherのプログラムデータか」

 本当にそんなものがあるのだろうか、と考えてしまう。マリアを疑うわけではないが、もし本当にそのプログラムデータが存在したならば今頃政府は血眼になって探しているはず。それがなされていないのは誰もそのプログラムについて知らないからだ。それに今更そのプログラムが見つかったところで今までのMotherシステムでも十分に事足りているのだ。だから、今更プログラムを見つけなくてもいいと思ってしまう。そんなことを考えているとモニターに映し出された天草嗣人の情報の中で気になる項目が目に入った。

「天草嗣人の本」

 それは生前に天草嗣人が出していた一冊の本だった。Motherを作ろうと考えた経緯やそのプログラムから開発に至るまでが書いてあるらしい。電子書籍として残されていた。  

 天草嗣人が生きていた時代、約百年前は紙媒体が主流だったらしい。そんな紙も今ではほとんどお目にかかれない貴重なものになってしまったが。

「さっそく、これをダウンロードしないと」

 私は急いで自分の電子端末にその本のデータを移す。

「桐下君、今日の仕事はもう無いから帰っていいよ」

 安田は自分のデスクから大きな声で私に伝えてくる。私の周辺に座っていた人たちから迷惑そうな目で見られる。私は少し大げさに頷いて安田に理解したことを伝えた。

「それではお疲れ様でした」

 私は荷物をまとめて急ぎ足でオフィスを後にした。


 エレベーターに乗り一階まで下りていく。一人しか乗っていないからかエレベーター内は静かなものだった。数十秒ほどで一階に到着した。エレベーターの扉が開き外に出る。

 ロビーを行きかう人の数は朝と比べれば減っていたがそれでもまだ多いと感じるほどいた。私はその流れに乗り外に出た。

 肌寒い風が吹き抜ける。私は急ぎ足で歩き始める。道路を走る車が私を次々と追い越していく。車のテールランプを見ながら黙々と歩き続けた。

私の家はこのビルから歩いて十分程度の距離にある。家といっても監察官の寮だ。監察官にはいろいろと制限が課せられる。そのうちの一つに寮生活も含まれているのだ。私としては職場に近くて助かるが嫌うものも多いらしい。

私は借りている自分の部屋の前で指紋認証してロックを解除する。年季の入ったドアノブに手をかけてドアを開ける。

「ただいま」

 返事のかえってこない真っ暗な部屋の中に入る。すぐに明かりをつける。部屋の中は脱いだ服が散らかっており足の踏み場がない状態だった。

この寮に引っ越して来たのは先週のことだ。最初は床が見えていたが日にちが経つにつれて散らかっていった。そして一週間も経たないうちに今の部屋が出来上がっていた。

私はかろうじて見える床の部分を辿って部屋の奥に向かう。唯一片付いていると思えるベッドの上に腰掛ける。目の前に置かれた机の上にボトルに入った水があった。私は水を飲んで喉を潤す。その後、着ていた服を脱いで床に置いていく。そして下着にノースリーブのシャツという格好になると、張りつめていた気が抜けて寝転がった。

「さっきの本を」

 私は電子端末にダウンロードした天草嗣人の本を表示して読み始める。時間を忘れて読みふけった。そして気が付くと時刻は零時をとっくに過ぎていた。

「今日はここまでかな」

 電子端末を閉じて部屋の電気を消す。暗闇が部屋全体を包み込む。私は目を閉じるとすぐに眠りについた。

 

 目覚ましのアラームが鳴り響いていることに気づき私は手を伸ばし止める。

「もう朝?」

カーテンの隙間から日の光が差し込む。その光に私は思わず目を細める。あまり眠れなかったためか昨日の疲れが残っている気がしたが、ベッドから起き上がり無理やり体を伸ばした。寝ている間にかいた汗を洗い流すためにシャワーを浴びることにした。足場のない廊下を歩いて浴室に向かう。着ていたシャツと下着を床に脱ぎ捨て浴室に入りシャワーの温度を設定して体を洗い流していく。シャワーを浴びているときはなぜか少しばかりリラックスすることができる。ふと鏡に映る自分の姿を見る。体を伝う水、細身の体に膨らんだ胸、手首にはいくつもの切り傷が残っていた。

「さっぱりした」

 私は床に散乱している服の中からきれいな下着を選び身に着ける。服は昨日着ていたものを着る。段ボールの中から簡易食を取出し朝食として食べる。

 電子端末から昨日読んでいた天草嗣人の本を開く。今読んでいる章は天草嗣人がMotherを作るに至るまでの経緯が語られている。その前の章は幼少期の話だった。

「Motherの試作機を大学生時代に作った。それから十年後にMotherを完成させる」

 それはまさしく偉業ともいえる実績だった。たった十年で試作機だったMotherを完成させたのだから。これも天草嗣人が天才と称された理由の一つなのだろう。

「そろそろ、出ないと」

 時間を確認すると出社時間が迫っていた。私は服の上を歩いて玄関に向かった。

「いってきます」

 私以外には誰もいない部屋にそう告げて扉を開けた。

 


「聖おはよう」

 モニター越しに挨拶をしてきた少女は私の下から上まで眺めて聞いてくる。

「昨日と同じ服装じゃない?」

「マリア、スーツは基本毎日変えたりしないんですよ」

 私はマリアの目を見て答える。

「そうなの?」

「そうです」

 私は強引に納得させる。マリア自身は昨日とは色は同じ白だが少しだけ違うデザインの服を着ていた。

「それで、マリア昨日のことで少し話が」

「何ですか」

「Motherのプログラムデータがありそうな場所に心当たりがありますか?」

 そう聞くとマリアが少し考える素振りを見せる。

「そうですね、お父様が使っていた部屋にある可能性が高いと思います」

「部屋?」

「この施設の最上階です。あそこは今もお父様が使っていたままの状態で保存されているので」

 マリアは部屋の図面データを取り出す。中々広い部屋のようだ。

「最上階は立ち入り禁止エリアになるので捜索しようが」

「大丈夫です。私が一時的に聖のアクセス権限を最高権限にまで引き上げておきます。そうすれば室内に入ることはできます」

 マリアはいたずらっぽい笑みを浮かべて私に言う。小さく嘆息を吐いて私は頷く。

「バレれば私の首が飛びそうですけどね。分かりました、それでは探してきます」

 そう言い立ち去ろうとするとマリアが呼び止める。

「待って、まだ言わないといけないことがあるの」

「何ですか」

「たぶんなんですが、データは紙に書かれていると思います」

「紙ですか?」

 私がそう尋ねると静かに頷く。

「お父様は大事なことはすべて紙に書き残しているとおっしゃっていました」

「紙に残していたとしたらまだ見つかっていないのにも説明がつくかもしれませんね」

「それはどういうことですか」

「盲点だからです。プログラムのようなモノなら誰でもメモリーカードなどに保存していると思うものです。紙に書かれていても何かの走り書きだと思って確認しないと思いますよ」

 そう述べるとマリアは目を輝かせる。

「聖すごいですね! その可能性が高いのですね」

「可能性があるだけですよ。まだわかりませんからあまり期待しないでください」

「それでも、その可能性を示唆するところには私は感動しているのです。聖なら本当にお父様のプログラムを見つけられるかもしれません」

「それでは、私は今からプログラムを探しに行ってきます」 

 私はそのまま部屋を後にした。地下の部屋からエレベーターに乗り込み最上階へ向かった。


 最上階に着くと重厚感のある木製の扉があった。扉の前に設置されたセキュリティーロックを操作する。

「まずはアクセスコードを」

 私は自分のアクセスコードを打ち込む。するとすんなりとロックが解除された。扉を開けて中に入る。

「これは」

 扉を開けて目に飛び込んできた部屋の光景に驚愕していた。

さまざまな大きさ、厚さの書籍が壁一面に備え付けられた本棚にびっしりと詰め込まれているばかりか、あちこちで山を作りながら床を埋め尽くしている。

「なに、この本の量」

 この部屋を見るだけで、天草嗣人がどれほど研究熱心だったかがうかがえた。

 私は足の踏み場の無い部屋を進んでいく。ところどころに紙が散らばっているのが見えた。

 やっとのことで置かれていた机まで辿り着く。その上には旧型のコンピューターがある。

「今じゃプレミアが付く代物ね」

 マニア間では高値で売買される旧型のコンピューターしかも天草嗣人の愛用した機種となれば更に高値が付くだろう。

「とりあえず、これを起動させますか」

 コンピューターの電源を入れる。久々に起動するためか完全に起動するまでに時間を要した。

 モニターに表示されたアイコンをいくつか選択して中を見るが私程度では理解できない内容が書かれていた。

「本当に私に見つけられるのかな」

 心が折れかかっていた。しかし、モニターデータにはマリアの言っていたプログラムデータらしきものはなかった。

「ということは、残る可能性はこの散らかった部屋の中」

 私はモニターから視線を外し部屋の中を見る。床に散らかる本を見る。

「これは、少し骨が折れそうね」

 やれやれと思いながら探し始めようとしたときだった。電子端末に呼び出しがかかった。

 ポケットにしまっていた端末を取り出し誰からの呼び出しか確認する。

「安田」

 一度プログラムの捜索を中止して安田がいる七階のオフィスに向かうことにした。


「あぁ、すまん。突然呼び出して」

 オフィスに入ると安田は私を見つけて近づいてきた。

「いえ、大丈夫ですが」

「いや、Motherの相手はどうだい」

「マリアの相手ですか?」

 そう聞くと頷く。一瞬、立ち入り禁止エリアに侵入したことがバレたのかと思った。

「どう、と言われるほどのことはありませんよ。普通に会話しているだけなので」

「そうか、ならいいが。何と言うか彼女にあまり気を許すなよ」

 真剣な顔で安田は言う。

「それだけだ。引き続き彼女の相手を頼むよ」

 そう言い自分の席に戻っていった。私も一度マリアがいる地下に戻った。


「聖! もしかしてもう見つかったの?」

 部屋に入ると早々にマリアが聞いてきた。少し驚きながらもすぐに首を横に振る。するとマリアはしょんぼりと顔を下に向ける。

「そう、すぐには見つからないですよね」

「えぇ、思っていた以上に骨が折れそうです」

 私はマリアに天草嗣人の使っていた部屋の状況を説明する。

「ふふ、お父様は相変わらずだったようですね」

 マリアは懐かしそうに言う。

「お父様は周りが気にならない性質で、昔は今私たちがいるこの部屋も荒れていたんですよ」

「そうだったんですか」

 しばらくマリアは昔のことを話してくれた。


「それでですね」

 楽しそうに話すマリアだが私はすでに半分以上話を聞いていなかった。

「聖、ちゃんと聞いてますか?」

 急に名前を呼ばれて慌てて応対する。

「えぇ、聞いてましたよ」

「なら、今は何の話をしていたか分かりますよね」

 そう言われてとっさに考えるが何も浮かばない。マリアは嘆息を吐いて私を少し呆れた目で見る。

「聞いていなかったんですね」

「ごめんなさい」

 私は頭を下げる。

「いえ、私も一人で話しすぎました。一方的に話をされていてもつまらないのは当たり前でしたね」

 マリアも私に頭を下げて謝る。静寂が部屋を包み込んだ。

「聖は何か質問はないのかしら」

 マリアが静寂さに耐えきれなくなり話し出す。

「質問ですか」

「そう、お父様の話について」

 わくわくした顔で私を見る。少し考えて気になっていた話があったことを思い出す。

「天草嗣人が亡くなるときの話を」

 気が付くとその言葉が口に出ていた。

「お父様が亡くなった時ですか」

 そう聞かれたマリアの顔に影が差す。その時、私もやってしまったと後悔した。

「いえ、今のは」

「分かりました、お話しします」

 静かに顔をあげてマリアは語りだした。

「あの日はいつもと何も変わっていませんでした。ただ、私はMotherをモニタリングしていました。お父様はいつものように様子を見にやってきました。ただ、違ったのは手に拳銃を持っていたという点だけです」

 マリアは辛そうな表情をする。

「私に語りかけてくるお父様はいつもと何も変わりませんでした。でも、その眼からは全く生気は感じられませんでした。そして、お父様は拳銃を自分に向けて撃ち亡くなりました」

 話し終えたマリアは一度深く深呼吸をする。その行動一つ一つが人間を真似していた。

「その時、お父様が言ったんです。Motherのプログラムについて、『人類を救済するための希望』だと」

「そうですか」

 天草嗣人はマリアのいるこの部屋で自ら命を絶った。そこに至るまでの経緯については分からないままだった。


「ただいま」

 私は誰もいない部屋に向かって帰ってきたことを伝える。そんな私の言葉に反応するものはいない。室内に入るとすぐに着ていた服を脱いだ。体を締め付けていた服から解放された私はそのままベッドへと倒れこむ。

「疲れた」

 ベッドに顔を埋めて声を漏らす。マリアの話を聞いてから天草嗣人が使っていた部屋を少しだけ探したが何も見つからなかった。

 私は顔をあげて自分の部屋を見る。天草嗣人の本が散らかった部屋と自分の部屋を見比べて情けなくなる。研究のために積まれた本の山と、片付けるのが面倒くさいだけの服の山とでは違いすぎる。私はゆっくりと体を起こし脱ぎ捨てた服を回収する。スーツはハンガーにかけてクローゼットにしまう。ほかの服も洗う物と着る物を分ける。気持ちばかりだが片付ける。

「これで少しはマシになった……はず」

 少し片付いた自分の部屋を見て満足感を得る。

 再びベッドに横になり端末に入っている天草嗣人の本を読み始める。マリアの言っていた話を思い出しながら読んでいく。

 本の内容も半ばに差し掛かり始めたころには深夜を回っていた。端末を閉じて部屋の明かりを消すとすぐに意識は暗い闇の中に溶けていった。


「その聖、まずは先に限りなく低い可能性の芽をつぶしてもいいでしょうか?」

 私は朝、いつも通りマリアに挨拶をしに訪れると申し訳なさそうに彼女が私に聞いてきた。

「可能性の芽? とは一体何のことですか?」

「それは、お父様の家にプログラムのデータがあるかもしれないという可能性です」

「マリアはその可能性があると?」

「えぇ、限りなくゼロに近いですが。もしかすると」

 マリアは煮え切らない言い方をする。

「わかりました。可能性があるなら探しましょう」

「いいのですか?」

「どちらにしろ、今探している場所になければ探すつもりの場所ですし」

 私はそう答えるとマリアから天草嗣人の家がある場所のマップデータを受け取った。

 天草嗣人が住んでいた家は少し離れた場所にあった。車に乗って一時間ほどの場所だ。さすがにこれだけ離れていると安田から呼び出しを受けた時に面倒なので報告だけしておいた。もちろんプログラムについては一切言っていない。ただ、少しの間外に出る、とだけ伝えた。

「これが家ね」

 天草嗣人が住んでいた家に着くと私は少しばかり落胆していた。イメージしていた家とはだいぶ違ったからだ。なんというかお金持ちが住むような大きく立派な家などではなくいまではほとんど見かけない平屋だった。地方でも今ではなかなか見かけられない家に私は驚くと同時にがっかりしていた。私は自分のアクセスコードを打ち込むとロックが解除される。中に入ると驚かされた。

「こっちもひどいものね」

 最上階の天草嗣人が使っていた部屋よりも散らかっていた。玄関を開ければ見えてくる廊下には本が散乱しており足の踏み場がない。壁にはマジックペンで何かを走り書きした文字や図形などが書かれていた。

「この中にあっても探し当てられる気がしないわ」

 私は半ばあきらめながらプログラムを探し始めた。


 結論から言えば天草嗣人の家からはプログラムは見つからなかった。しかし、一つだけ収穫があった。日記帳だ、天草嗣人が学生だったころに書いたと思われる代物だ。私はそれを持って帰ってきた。遺留物の持ち出しは重罪になる。しかも、それが天草嗣人の物ならなおさらだ。でも、この中には何か大事なことが書かれている気がした。中をじっくり見たわけじゃないからわからないが私はなぜかそう確信していた。


「さて、探しますか」

 プログラムを捜索してから三日が経つが未だそれらしいものを見つけられていない。

「本の間にでも挟まっていたりして」

 床に積まれた本を一冊ずつ開くが普通に文字が書かれているだけだった。

 二日間のうちに部屋の半分を探し終え、ついに未だ手をつけていない本棚に目をやる。

「なんで、こんなに本がバラバラになってるんだろう」

 本棚にしまわれている本は大小バラバラに置かれている。揃えようとすればそこまで手間がかからない程度のことだと思う。

 私は一冊気になった本を手に取る。しかし、その本は本棚から抜けない。諦めて別の本を手に取るとすんなりと本棚から取り出せた。不思議に思いもう一度先ほどの本を取ろうとするが微動だにしなかった。

「まさか装飾品?」

 そう思いよく見ると装飾品だった。本の質感や紙などを忠実に再現されていて本物と見間違ってしまうほどの出来前だった。

「匠の技、って感じね」

 思わず感心してしまう。私は装飾品の本を触っていると奥に押し込んでしまう。するとゆっくり本が奥に入っていった。

「奥に入っていった?」

 私は少し戸惑いつつさらに奥まで押し込む。すると完全に本が奥に消えると同時に本棚が動き始める。

「なにこれ」

 本棚は横にずれて今まで隠れていた壁が姿を現す。そこには暗証番号型の金庫があった。

「この金庫の中にデータがある」

 何の確証もないがこの中にあると思えた。

「開けるには四ケタの番号が必要みたいね」

 マリアならこの番号に心当たりがあるかもしれない、と考えたがなぜだか彼女もこの番号については知らない気がした。マリアがもしこの番号について知っているとしたら私に伝えていると思ったからだ。

「この部屋に暗証番号が隠されている?」

 部屋の中を探したときにはそれらしい番号を見かけたりはしなかった。あったのはプログラムを組み立てるデータに使用されていたくらいだ。それも四ケタ以上の数だった。

「まだ見落としが」

 机の上や引き出しを開けて探すが何もなかった。

 結局、何の手がかりも見つけられずこの日も部屋から出ることになる。


「今日も見つかりませんでしたか」

 私はマリアの部屋を訪れて今日の結果を報告する。少しがっかりした様子を見せる。

「一つ聞きたいのですが」

「何ですか?」

「天草嗣人が好きだった四ケタの数字とか知りませんか」

 私はマリアに金庫のことは伝えず聞いてみた。先ほどは知らない気がしていたが念のために確認しておくことにした。

「四ケタの数字ですか? そうですね、お父様が好きだった数字などは特になかったと思います。なぜ数字が?」

「いや、なんでも」

 マリアは私に言う。直後マリアは真剣な顔をする。

「実は聖に言わなければいけないことがあります」

「何でしょうか」

 私はマリアに尋ねると少し間をあけてから言う。

「たぶんですが、お父様の部屋に入れるのは明日までが限界だと思われます。入室記録を誰かが確認した痕跡がありました。明日の捜索が終わったら聖は私が言っていたことは忘れてください」

「それは」

 私はマリアに対して意見を言おうとしたが結局何も言えなかった。


「明日までにあの暗証番号が何かを見つけないと」

 私は家に帰りベッドの上に横になっていた。手に持った電子端末をつけると天草嗣人の本が開かれている。

ようやくMotherが完成した章に突入していた。しかし、書かれていたのは学生時代に習ったMotherの基礎知識などが書いてあるだけだった。

 結局、Motherの開発に至るまでの話くらいしか分からなかった。天草嗣人には妹がいたこと。その妹が幼くして殺されてしまったことからMotherという管理システムを作ったということだった。

「何もわからないまま」

 私は電子端末に開いたままの本を捲る。

「もう読む必要もないか」

 電子端末を閉じて枕元に置いて天草嗣人の日記に手を伸ばした。持ち帰ったあの日からまだ中身を見ていなかった。

 日記の始まりは天草嗣人が高校に入った日からだった。その当時の気持ちや思いなどがそこには綴られていた。初めの一年は学校での出来事が主だった。二年目になると彼の日記にある人物が登場し始める。それは妹だった。彼の日記は妹を中心に書かれることが多くなった。彼が家族思いだったことが伝わってくる。その中で世の中の在り方に嘆いていた。妹の暮らしていく世界がこのままでいいわけがない、だとか、妹が安心して暮らせる世界へ、といった思想的なことまで書かれていた。この妹への思いが彼のMotherを作るに至る経緯なのだろう。

でも、彼が実際にMotherを作り始めたのは妹が殺されてからなのだ。

この日記も妹が殺される前の日まで書かれていたがそれ以降は書かれていなかった。

私は天草嗣人の日記を閉じ、目をつむる。

部屋の電気を消していないため明かりが眩しい。

頭の中で考えを巡らせる。暗証番号は四ケタ、部屋にそれらしい数字は無い、マリアでも知らない。天草嗣人の誕生日が暗証番号の四ケタ? いやそんな簡単な答えである訳がない。

 考えれば考えるほど分からなくなる。天草嗣人にしか分からない番号、その可能性も低い気がした。

なら何だ、天草嗣人がMotherのプログラムデータを保管していると思われる金庫の暗証番号は。そう考えを巡らしている間に眠りについていた。


「やぁ桐下君」

 早朝、枕元に置いた電子端末に呼び出しがかかった。まだ眠気が残っていたが体を起こして簡単に身支度を済ませ、オフィスに来てみればにこやかに安田が出迎えてきた。

「安田さん、朝から何でしょうか」

 私はこんな朝早くにまだ誰も出社していない時間帯に呼び出された理由を聞く。

「まぁ、そんな怖い顔をするな。そうだコーヒーでも飲むか?」

 安田を睨むと笑いながらコップにコーヒーを入れる。

「それで何のご用なんでしようか」

 苛立ちが篭った声で聞く。安田はコップに入れたコーヒーを一杯飲む。

「確か、少し前にわたしが言ったことを覚えているかな」

 安田はコップを机の上に置いて私が立っている方へと歩いてくる。

「わたしは君に忠告したはずだ。マリアには気を許すなと」

 私の目の前に来た安田はいつも以上に大きく見えた。それが今までに感じたことのない気迫だと理解するのに時間はかからなかった。

「そ、それはどういう意味でしょうか」

 私は昨日マリアが言っていたことを思い出す。何者かが入室記録を確認した痕跡があると言っていたことを。

「ふむ、何となく理解しているんだろう?」

「私はマリアの相手をしているだけですが」

 私はいたって冷静を装いながら答える。

「そうか、あくまでも君は嘘をつきとおすか。だがマリアの相手をするだけの人間が最高アクセス権限を与えられる、というのはどういう事か説明してもらえるか」

 安田の威圧感に今にもすべてを言ってしまいそうになる。

「それは少し用事を頼まれたときに」

「確かに、一日程度なら私も何も言わない。しかし、君の権限はこの四日に渡って最高アクセス権限のままだ。これに対して君は何と答えるのかな」

「きっと、マリアが戻し忘れていたのではないでしょうか」

 沈黙が部屋全体を包み込んだ。嫌な静けさの中で聞こえてくるのは自分の心臓の鼓動のみ。

「本当にその答えでいいのか?」

 じっとこちらの目を見つめて安田は問う。今、真実を告げれば許されるのだろうか、いや許されるなんてことはないだろう。アクセス権限の不正偽装に立ち入り禁止エリアへの侵入、これだけでも禁固刑は堅い罪だ。

「そうか、ならば立ち入り禁止エリアへの入室もしていたようだがこれについての弁明はどうするつもりだ?」

「マリアに頼まれた用事がその部屋に行くことでした。そのため一時的にアクセス権を最高権限まで引き上げるということでした」

「ほう、今度はずいぶんと素直に答えるな」

「事実ですので」

 私は臆さず安田の問いに答える。じっとお互いの目を見つめたままの状態が続く。

「立ち入り禁止エリアには昨日も出入りしているようだが」

 ついにその質問が来た。今私は追い詰められている。入っていないと言っても記録に残されているためごまかせない。とはいえ入ったと答えても私が嘘をついていたことを肯定してしまうことになる。

「どうした、出入りしたのかと聞いているんだ」

 安田の目は勝利を確信していた。私の瞳を見てずっと目を離さない。ついに私の心が折れた。騙すことはできない、きっとこの質問をかわしても安田にはまだ手札があるだろう。

「私は」

 すべてを話せば楽になる。だから言わなくてはいけない、安田にマリアが教えてくれたことすべてを。

「私は、出入りしていました」

 安田の顔に笑みがこぼれた。その言葉を待っていたといわんばかりの表情を浮かべたまま私の瞳を見る。

「ですが、落とし物を探すためにです」

 気が付くと私の口はそう続けていた。明らかな嘘を私の口は勝手にしゃべっていた。

「落とし物だと?」

 笑みから再び真剣な顔つきに戻る。だがその顔には明らかな余裕が見られた。

「それでその落し物は見つかったのか?」

「いえ、そのために今日も探しに行こうと考えていました」

 もはや、口から出まかせを言っている。嘘を並べているだけ、先ほどよりも穴だらけでちぐはぐな嘘だ。

「なら、その落し物はなんだ」

 どこからでも突っ込まれてしまう。それぐらい幼稚な嘘だ。

「言いたくありません」

 すでに手詰まり、そんなことは分かっていたはずなのになぜ私は嘘をついた。その場しのぎにもならない嘘を。

「話にならないな」

 安田は小さく溜息を吐く。私は頭をフル回転させ思考を巡らせる。この状況を打破するための策を、嘘に嘘を重ねて。

 再び静けさが部屋を包み込む。私の耳には自分の心臓の音すら聞こえない。そのとき、静寂を破るように安田の電子端末が鳴った。

「いったい誰だ」

苛立ちを見せながら電子端末を確認する。

「Motherからだと」

 一瞬、動揺を見せ私を見て睨み電子端末の応答に答える。

「はい、安田です。Mother何のご用でしょうか」

 冷静を装い淡々と答える安田、しかしその顔は歯がゆそうな表情を浮かべていた。いったい何の話をしているのか、私には安田の話している言葉しか聞こえない。

「ですから、そのようなことは」

 安田はMother、マリアを説得しようとしているようだ。だが、安田の表情を見ている限りうまくいっていないように見える。

「わかりました。あなたがそう望むのであれば今回は特別処置として処理します」

 安田がとうとう折れてマリアの指示に従うようだ。

「桐下君、今回の件は特別処置として処理するように命令が下された。そのため今回のことは不問とする。それと今日一日だけは立ち入り禁止エリアへの立ち入りを許可する」

 安田は納得していない。だが命令となれば従うしかない、いままさに彼は腹の中が煮えくり返るような気分だろう。

「なんとか助かった」

 私は緊張感から解き放たれ息を思い切り吐く。マリアのおかげでなんとか助かった。私はそのまますぐに部屋を後にして上の階へ向かった。


 天草嗣人の部屋に入ると昨日見つけた装飾品を奥に押し込み金庫を出す。

「問題はここの暗証番号か」

 私は先ほどの安田とのやり取りですでに疲れ切っている脳で考えつく番号を思い浮かべる。その中でも天草嗣人と何らかの関係性があると思われる四ケタの数字。誕生日、Motherが完成した日。思い出せるもので一度打ち込んでみる。

「誕生日は十二月二十四日と」

 一、二、二、四、四ケタの数を入力し確認ボタンを押すとエラーと表示された。迂闊に番号を入れたことに後悔しながらもう一度考える。運がいいことに後二回は入力できるようだ。

「だけど、あと思いつくのは一つしかない」

 私はもう一度番号を打ち込む。今度はMotherが完成した日。

 三月十四日、零、三、一、四。これで間違っていれば挑戦できるのは残り一回になってしまう。だが、ここでうじうじ考えても仕方ない。私は覚悟を決めて確認ボタンを押す。無情にも表示されたのはエラーという文字だった。

「残り一回」

 もう後は無い、ここで当てなければ永遠にこの中にあるものを取り出すことはできないだろう。天草嗣人に関連する四ケタの数字、それはきっと忘れがたき数字のはずだ。絶対に彼自身が忘れない、忘れられない数字。

「妹だ」

 彼には幼い時に殺された妹がいた。それは彼自身が書いた本に出てきていた。妹の死がきっかけでMotherを作ろうと考えたと書いていた。もしかするとこの四ケタの数字は妹が亡くなった日付。

 根拠なんて何もないが私にはなぜか確信があった。

「一、二、二、五」

 十二月二十五日、天草嗣人の誕生日翌日だ。私の手は迷いなく確認ボタンを押す。表示されたのはエラーという文字ではなくクリアという文字だった。

 金庫の鍵が開く音が聞こえ、ついに閉まっていた扉が開いた。中を見ると三枚の紙が置かれていた。

「これがプログラムのデータ」

 私は三枚の紙を手に取る。聞いていた話と少し違う。データは一つだったはずだ。私は三枚の紙に目を通す。案の定、三枚あった紙のうち二枚の内容は全く理解できなかったが、もう一枚の紙に書いてあったのはプログラムではなかった。私は紙に書かれた内容を読み、三枚の紙を持って部屋を後にした。



「見つけましたよ、マリア」

 私は金庫の中で見つけた紙を持ってマリアのもとを訪れていた。

「聖、ありがとう。本当に見つけてきてくれたのね」

 マリアはうれしそうな顔で頭を下げる。

「いえ、お礼を言うなら私も同じです。今朝は助かりました」

「いいえ、お礼なんていりません。元々私のせいであんなことになったのですから助けるのは当たり前です」

 マリアは胸を張り答える。私は持ってきた紙をマリアに見せる。天草嗣人の残したMother最後のプログラム。それがついにマリアのMotherに組み込まれる。

「ありがとう、聖これでようやく会えるわ」

 私に微笑みかけるマリアはとてもうれしそうな表情を浮かべている。今マリアは会えると言った。それは一体全体誰のことを言っているのか私にはわからなかった。

「会える? 誰にですか」

 私はマリアにそう尋ねた。

「それはもちろんお父様にです」

「そうとも、愛しのマリア。俺の娘よ」

 男の声が聞こえるとともにマリアの背後に黒い影が姿を現した。人工知能である彼女は画面の中に生きるプログラム。それを人型に模ったに過ぎない、その彼女に影などあるはずがない。

「この声はお父様!」

 手を組んで声の主を探すマリアの背後から形を大きくしながら黒い影が彼女を飲み込んだ。

「おとう……さま?」

 影に飲まれていく最中マリアは消えそうなほどか細い声で自身が愛する父を呼びながら消えていった。

 マリアを取り込んだ影は人の形に変形した。

「ずいぶんと長かった」

 男の声、そして影が人型になると同時にその姿を見て驚く。天草嗣人、その人だった。

「いやいや、君にはお礼を言わないとね。俺が隠したプログラムデータを見つけてくれて。困っていたんだよ、あれがなければMotherが真の意味で完成しないから」

 天草嗣人は一人で語りだす。私はその話をただ聞く。

「そうだな、俺がなぜこうしているかをまず教えてやろう。正確に言えば俺、天草嗣人は死んでいる。俺が殺したからだ」

「あなたが殺した?」

 天草嗣人が天草嗣人を殺した、どうやって。

「それがMotherの真の姿だ。俺は天草嗣人が生きている間にプログラムとして俺自身をMother上に投影したデータだ。そして、俺はマリアとは別にMotherを監視しMotherに秘められた真の力を行使するために作られた鍵的存在でもある」

 にやりと口角を上げて語る。

「Motherは人に組み込まれたEveから送られてくるバイタルデータを確認している。ならEveは人のどこに埋め込まれているか知っているか?」

「それはどういう」

「知らないだろう? 人が生まれるとすぐにEveが体内に埋め込まれる。だが人の精神状態を確認するEveを腕や手なんかに埋め込むと思うか?」

 Eveが埋め込まれている場所? そんなものが重要なのだろうか。

「人の脳にEveを埋め込む。脳が感じるストレスなどを読み取り精神状態に置き換えてMotherにデータとして送られる。人の脳に埋め込まれたEveがただデータを送るだけの機能だと勘違いしていないか?」

 天草嗣人が笑みをこぼす。

「Eveには人の脳に干渉し行動を操作することができるんだよ。正確にはEveに組み込まれているプログラムを起動することによって人の行動を統制する。これがMother最後のプログラムの正体だ。君が探してくれたプログラムは起動するためのデータだったということだ」

 天草嗣人が語り終わる。ただ一つまだ明かされていないことがあった。それは自殺した本物の天草嗣人についてだ。

「あぁ、そういえば俺自身を殺したことについて説明していなかったな。俺自身もEveを脳に埋め込んでいた。俺をMother内にデータとして作った後、俺がMotherからアイツのEveに命令を送ったのさ。まぁ、起動データがなかったから完全に意識を奪うことはできなかったせいで自我を残したまま自殺したようだがな」

「あなたが今まで姿を見せなかったのはどうしてですか?」

 私は質問する。すると少し顔を歪ませ口を開く。

「自殺する前にアイツが俺をMotherから隔離したのさ。まぁ、百年間もなんの補強もされなかったプログラムに穴が開いたおかげで出てこられたって訳さ」

「マリアにデータを探させたのですか?」

「いいや、あれはマリア自身が勝手に始めていたのさ。まぁ、そこに付け込みはしたがな」

「それは、どういう」

 私は立ち尽くしたまま問う。

「それはもうどうでもいいだろう? 随分と長いこと話した気がする。君のおかげでMotherの真の力を使える。お礼に君には世界が変わる瞬間を見せてあげよう」

 そう言い天草嗣人がモニターに外の監視カメラ映像を表示させる。そして天草嗣人は何か操作すると映像に映る人が頭を抱えて苦しみ始める。数秒苦しんだ後に痛みが治まったのか何事もなかったかのように歩き始める。どの映像も同じように苦しみ始めてから数秒後には何事もなかったかのように歩き始めている。

「いったい何を」

 私は今何を見ているのか分からない。

「今彼らのEveに歩けと命令を送っているんだ。確かに少し分かりにくいな、何人か自殺命令でも送ってみるかな」

 そう言いうと再び何かを操作する。すると映像に映っていた人物が地面に座り込み頭を叩きつけ始める。何度も頭をぶつけ血が飛び散っているが平然と続けている。やがて、こと切れて地面に倒れる。

「これで理解してくれたかな。この調子で君には世界がすべて変わるまで見届けてもらうよ」

 私は天草嗣人の目を見る。可能ならばその顔を殴ってやりたい。だがすでに天草嗣人の体は無い。それに彼は天草嗣人であって天草嗣人でない。姿を模したデータなのだ。

「あなたはなぜこんなことを」

 私の問いかけに彼は少し悩んだ素振りを見せて答える。

「それはこの世界が俺の大切だった人を殺したからだ」

 日記で綴っていたことと今の発言で私は確信する。

「あなた、いわゆるシスコンってやつね」

 その言葉に腹を立てたのか私を睨みつけてくる。

「まぁいいさ、何とでも呼ぶといい。だが結局は負け犬の遠吠えになるのさ。今の君には何もできない」

「それはどうかしらね」

 私は笑みをこぼす。

「どういう意味だ」

 天草嗣人は眉を寄せて私の顔を見る。手元では私の精神状態を確認しているのだろう。

「あなたはなぜ天草嗣人を殺したのか」

 私は目の前にいる天草嗣人の姿をしたプログラムに語りかける。

「あなたのオリジナルである天草嗣人を殺したのは意志が変わったから」

 私は淡々と答える。

「天草嗣人はMotherのプログラムを使わないと言い出した。しかし、あなたはその行動を許せなかった。大事な妹を殺した世界に復讐するために天草嗣人本人を殺したのよ」

 私は自分の推理をプログラム相手に披露する。

「ふ、ふははは! いまさら俺が自分を殺した動機なんてものを推察したとしてなんになる? それこそ無意味なことだ」

「とても重要なことよ」

 私はいまだに理解していない天草嗣人に答えを教える。

「天草嗣人は天才と評される人物だった。彼が自分の作ったプログラムにいいように殺されるだけで終わると思う? マリアが打ち込んだプログラムはMotherのプログラムじゃない、あなたのプログラムを壊すためのプログラムよ」

 私がそう告げると天草嗣人の体に歪みが生じる。どうやらプログラムの破壊は成功していたみたいだ。

「なぜ、俺の邪魔をする。俺がこの世界を終わらせて――」

 言葉を言い終わる前に天草嗣人のプログラムは消えていった。私はほっとしてその場に座り込み電子端末を取り出す。

「安田さん、終わりました。プログラムの削除を確認しました」

 私は安田にそう報告する。なぜ安田と連絡を取っているのかというと、プログラムデータを見つけた私はそのデータを安田に見せたのだ。別に血迷ったわけではない。安田もプログラムを見たときは驚きを見せていた。すぐに私に背を向けて「任せろ」と言った。その後、マリアのもとを訪れたのだ。

 私は静かに部屋を出ていく。後ろは振り返らない、扉をくぐりエレベーターに乗り込む。私はゆっくりと閉まるエレベーターの扉が完全に閉まりきるまで一面が真っ白な部屋を見続けた。

 

 

『どこで間違えたのだろう。後悔ばかりが頭の中を駆け巡っている。自分のしでかした過ちをどう償えば許されるだろうか。きっとあの時からすべてが始まったのだろう。私の大切だった者が殺された日、私の中である決意が生まれた。この世界に復讐する、それがMotherを作るに至った理由だ。

 気づけばMotherは完成し、私の目的は目の前にまで近づいていた。私はマリアを生み出した。今思えばマリアを作った時から私の心は変わり始めていたのかもしれない。彼女が何かを覚えれば私に嬉しそうに教えてくれる。それが今はいない、妹と重なって見えていた。私は世界への復讐をやめようと決めた。

でも私にはすでに時間が残されていなかった。マリアとともに生み出した私自身のプログラムが暴走を始めた。止めなければ。そのために二枚のプログラムを残す。一枚は暴走した私のプログラムを削除するデータ、もう一枚はMotherのプログラムデータだ。私は残された時間で私を止める。いつかこれを見つける者に託す。』

天草嗣人が残した三枚目の紙にはこう書かれていた。私はこれを読み安田にプログラムを見せたのだ。天草嗣人は本当に世界を変えようとしていたのだと知った。

 Motherは今も稼働している。私たちを監視し続けている。体の中に埋め込まれたEveから精神状態を送られ行動を監視されている。私が嫌いな世界だ。


 私はエレベーターに乗っていた。そのエレベーターは下に降りていく。やがてどこかの階で止まる。ゆっくりと開いた扉から見えたのは一面が真っ白な部屋だった。私はエレベーターを降りてセキュリティーロックがかけられた扉の前に立つ。個人IDを打ち込み、網膜認証、指紋認証を行う。すべてを読み込みロックされていた扉が開く。私はその中に一歩足を踏み出し中に入る。

 そこにはあどけない少女が座っていた。モニターの中、白いワンピースを着ている。寝起きのように目をこする動作をする。少女は私を見つけて不思議そうな顔をする。

「あなたは誰?」

 静かに私は歩み寄る。

「私は桐下聖です」

「ひじり?」

「はい」

 少女は私の名前を確認するように復唱する。私の名前を聞いてうれしそうにはしゃぐ。

「私の名前はね、名前は……」

 自分の名前を私に伝えようとするが名前を言えない。そもそも、彼女には名前がないのだから答えられるはずがない。

「マリアです」

「へっ?」

「あなたの名前です。マリア、いい名前でしょう」

「マリア、マリア。うん好き」

 私は少女に名前を与えた。たった数日しか話していない、彼女の名前を彼女と同じ姿をしたプログラムに与えたのだ。

「マリアはこの世界が好きですか」

 私はそう尋ねると少し考える素振りを見せて答える。

「うん、好き。ひじりは」

「私は」

 この世界が嫌いだ、ひどく生きにくい。どこに行こうと私から離れてくれない。そんな世界が私は大嫌いだった。

「私は、マリアが好きなこの世界が好きですよ」

 私は微笑みながらそう答えた。

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Mother 志央生 @n-shion

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