弱小公立野球部 ~甲子園までの道のり~

カツマタキ

始球式 日本一の山

          2016年 8月9日 14時02分


 雲一つ見えない真っ青な上空。日本全国の気温は30°を超えていた。アルプスにいる女性が着ているTシャツの隙間から見える肌の色には境目があり、日焼け止めも意味を成してはくれない。沢山の人々からは大粒の水滴が顎をしたたり落ちる。その大半は汗であろう。しかしこの場所には様々な水滴が落ちていた。試合前に着替えたはずのアンダーシャツは既に僕の肌にピッタリと纏わり付き、紺色が真っ黒になっている。


 グラウンドに目を向けるとホースを数人で抱え持っている。先頭に立っている人の近くでは虹が見え、茶色い土が僕のアンダーシャツのように色が徐々に変化していく。


 普通に生活しているだけの平凡な高校生にとって、普段では感じることはできない経験。数えきれないほどの視線を僕は感じている。分かっている、分かっている。僕自身の活躍に注目をしている人はいない。皆が注目しているのは僕の背中だけだ。そう背中にだけ一瞬、視線が集中するが見窄らしい体に気づくと消えていく視線。

 背中には大きな数字、縦に一本の線、それだけが書かれている。僕の背中はあまりにも見窄らしい。僕は憧れていた。格好良かった。大きく見えていた。目標にしていた。偉大だった。そう、僕はあの時に見た背中に憧れていた。


 僕は僕自身の背中など見ることなどできない。だけど、纏わりつくアンダーシャツから肩甲骨や背骨の位置など、骨の形まで薄く分かってしまいそうな体に落胆されているのが分かる。僕は白球を追いかける後ろ姿に憧れた。それだけで憧れたのだ。僕の背中を見た誰かは憧れを抱くことがあるのか。元気を、勇気を、憧れを、希望を、未来を見てくれるだろうか。何かを与えることが出来るのであろうか。僕はこの姿を見てもらうことで、何かを与えるためだけの奉仕活動を目指しているわけではない。そう、僕の憧れた背中もそうだったはずだ。それでも僕は、あの姿を、あの後ろ姿を見たから。憧れたから。そう、ここまで目指した。やり直しがない、勝利だけをただ直向きに貪欲に目指す、あの背中に。






 最後の調節として少し指先に力を入れてボールを投げる。うん、今日は調子が良い。人差し指と中指の指先にピリッとした痛み、暑い気温よりもはるかに超えた熱さを二本の指に感じる。僕の帽子はボールを投げると左目を隠すように傾く。右手でつばを持ち、内側に書かれた2つの言葉、異なる筆跡の文字にそれぞれ目を通すことで、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。帽子を被り直し、左手で後頭部付近を抑えて帽子の位置を直した。少しだけ身体が軽くなった、そんな気がした。


 いつも通り、試合前の僕たちはベンチ前、一列に整列をする。僕はいつも通りに一番後ろに並び体勢を低く構える。審判員がバックネット付近で横一列に並ぶのが見えると、解いたはずの緊張感を再度、感じてしまった。


「行くぞ!!」


 先頭に並び右手にグラブをはめた190cm近い背丈だけは一丁前の男。その男が大きな声でかけ声を言うと、


「「っしゃぁ!」」


 全員で返事をして走り出す。相手チームとホームベースを挟むように一列に整列をする。整列した姿を見比べる観客からは普段とは違った雰囲気も感じた。

 

 相手は優勝候補。僕たちのことを見下しながら疑うように見る。それもそのはず、僕を見た人は誰でも”もやし”とか”爪楊枝”とかつけるような体格だったからだ。


「これじゃあ中学生VS高校生みたいだな」


「あっちのチーム、本当に勝ち上がってきたの?」


「全く、次が楽しみなんだから早く終わらねーかなー」


「あのチーム絶対負けそうじゃん! これは大穴じゃね? 俺、こっちに賭けようかな!」


 僕たちを罵る声、憐む声、蔑む声。


「あの初出場のチーム! 勝ち上がったら面白いよね!」


「ナイスゲームを期待してるぞ!」


 僕たちを鼓舞する声、激励の声。


 僕の耳にはその全ての声は届かない。そんな声を聴いている、いや、聞こえてくる余裕すら僕には既に無かったのだ。主審の声を合図に上体を折り曲げ、帽子を取り、大きな声であいさつをした。


     ついに、ここまで来た


 僕は今、頂上に立っている。この山は日本一低いのに、日本一登るのは難しい山だ。今でも思っている。この山に登りたくても登れなかった人は、僕には想像が出来ないほど沢山いるだろう。そんなことを思うと、自分が立っていることがどれだけ素晴らしく、誇らしいことであるのか言葉で表すことなど出来ない。


 そんなことをしみじみと考えながら、僕はバックスクリーンに正面を向けていた体を反転した。すると既にボールを受け取っている防具に身にまとう姿が、僕を待っているのが見えた。待たせた罪悪感から、右手を立て、少し首をすぼめて軽く謝る。左手にはめたオレンジ色のグラブを掲げ、グラブの内側を見せると僕の胸元に投げてくれた。そのボールを受け取ると、いつも以上にボールがツルツルしている気がした。


 1球投げ終えるとボールを受け取り、僕はまた反転をする。左足の足跡が付いた場所を見て、足跡のかかと付近を右足のつま先で蹴るように掘り、投げるのと掘るのを繰り返しながら足場を固めるように穴を作った。

 7球目を投げ終えると捕手が二塁上にいる遊撃手に投げ、捕球をする。僕がボールをもらおうとすると、ニヤニヤした顔が目立つ。いや、元々口角が上がっている遊撃手にとって普通の顔をしているのかもしれない。それでも今までに無いほどの緊張をしている僕からしたらそう見えたのだ。僕はボールを返してもらうと、ロジンを拾う。ギュッギュッと右手で握ると元の位置にそっと置く。両手の手首で後頭部当たりの帽子を抑え、帽子の位置も整えた。


 気持ちを落ち着かせ振り返る。すると既にしゃがんで準備をしている捕手。左打席に入り、足場を掘る縦縞ユニフォーム、黒いヘルメットをした男が準備をしていた。

真っ白なプレートの上にかかってしまった土を右足の甲で払い落とす。プレートの一番右端の部分を両足の内側をピッタリと揃えて踏む。グラブを口元に運び、右手をその中に入れボールを握る。


 主審は右腕を前に軽く伸ばし人差し指を突き出すのと同時に声を発する。




      試合開始の甲高いサイレンが僕を襲った。

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