黒い光
君野七葉
第1話
光を強くすれば影は濃くなる。黒い部分はより濃くなっていく。正しすぎる人間はときに隣人の悪を産み、美談の裏には醜い真実が隠れている。それらが美しければ、美しいほど。影は黒く、暗く、深くなっていく。
色は光の反射で生まれる。木々の葉は赤と青を吸収して、緑を反射するから緑に見える。すべての光を反射するものは白色に見える。すべての光を吸収すると黒色に見える。または光が遮断されれば黒く見える。ゆえに影は黒い。
だとするのならば、黒い光は存在しているのだろうか。吸収しているのに光を放っている。まるでブラックホールのような、すべての光を吸収する光。光でありながら他の光ると相反する「何か」。まさに暗闇そのもの。黒い光の影は黒いのだろうか。あまりにどす黒い光はその影を落とすことができるのだろうか。影と光の境界は黒い光を前にして揺らぐ。きっと影は光で光は影だ。だからきっとその境界ももはや何色でもない。
橋崎歩は暗い路地裏でゆっくりと、ため息を吐いた。いつまでこんなことを繰り返すのか。橋崎は自問自答する。なぜこんなことをするのか、自分でも分からなかった。多分、惰性と衝動に動かされて今日も『彼女』の尾行をしていた。細かいメモをつけ、『彼女』が捨てたゴミを回収してジップロックにしまう。橋崎は有り体にいえばストーカーだった。
多くのストーカーは自らがストーカーであるという自覚がないといわれるが、橋崎に限って言えばそんなことはなかった。むしろ自己嫌悪に陥るほどの自覚が橋崎にはあった。それゆえに自己処罰感情に襲われたが、その痛む心が恋愛感情を証明し激情とまで言える快楽が橋崎の原動力だった。
今日も『彼女』の行動をメモにつけ終わって大きく伸びをする。既にメモ帳は三冊目に突入していた。『彼女』の家の二階についた明かりを満足そうに見上げる。街灯の光が寂しそうに点滅していた。橋崎の心に甘美で邪悪な黒が広がっていく。それは『彼女』という光の魅力がどんどんと増していくたびに、『彼女』への純粋な好意が増していくたびに、破壊衝動というにも似たどす黒い影が増していった。街灯の下に落ちている蛾の死体を踏み潰す。メモの最後のページを開いて、相合い傘を書き込む。傘の下には自分と、『彼女』の名前を書いた。橋崎歩と伊坂心美の名前が並ぶ。橋崎の口から笑みが漏れた。
石永は転校早々、面倒ごとに巻き込まれていた。目の前のカップルが不安そうな顔を二つ並べている。彼らこそが石永に面倒ごとを持ち込んだ当事者だった。内容はストーカーの相談だった。
「だから、さっき何度も言ってるけど、僕たちみたいな高校生にどうにかできる話じゃないから。親御さんか学校に相談したらいいだろ」
「それができないから困ってるんだ」
カップルの男の方、原卓也が憔悴しきってそう吐き出すように言った。女の方、伊坂心美も苦しそうな表情をしていた。
「まぁ、学校は恋愛禁止だからな。それでも親御さんは?」
「それは……」
「俺はいいんだけど、心美の両親は結構厳格な家で付き合ってるなんて知れたら……」
「何よ。私が悪いみたいじゃない」
二人でいがみ合っている。伊坂はクラスではもの静かな女子で通しているが、案外とそうでもないらしかった。
「じゃあ、学校に交際のことは伏せて相談したら?」
「それでも多分バレるでしょ」
この二人は何かを隠している。見定めるような眼で石永は彼らを見た。
「じゃあ、警察は?」
「結局親にバレちゃうじゃん」
伊坂が不貞腐れたように言った。喉まで上がってきた科白、「じゃあ、ストーカーされ続けるか、親にバレるかどっちのほうが嫌なんだよ」、を何とか飲み込んで石永ため息を付く。
「そもそも、なんでこの相談事、僕にしたの?」
石永は呆れながら問う。一方的にこのワガママカップルの話を聞かせられていただけで、これほどの根本的な疑問を解決できさえしないでいた。
「えー、うーん。いやー、なんか解決しくれそうな気がしたから?」と伊坂は誤魔化す。
石永は不快そうに顔をしかめると、何となく真相を察した。つまり、彼らは自分の学校生活に支障が出る人物をチョイスするのを避けたのだ。だから転校したての上にお世辞にも社会性に優れているとは言えない石永に相談した。彼の冴えない見た目に反して意外に切れ者であることも好材料となったのだろうと思われた。
「あー、はいはい」
当てつけのように石永が言うと、原は真意を察してきまり悪そうに顔をした。間抜けそうに見える原のほうがしっかりしているのかもしれないと、石永は考える。
「で、マジで引き受けてもらえないかな?」
仕切り直しとばかりに原は石永に頼みこんだ。石永は実のところ、そのキャラクターに反して押しに弱かった。
「はぁ。まぁいいよ。詳しく話を聞かせてよ」
疲れたように吐き出すと、ここぞとばかりに二人は相談内容をわめき始めた。
石永は頭の中で二人の支離滅裂とした話を総合した。ストーカーの存在に気付き始めたのは今から二か月ほど前のことだったらしい。デート中、原のほうが奇妙な視線を感じ、誰かにつけられていると直感したらしい。その後、伊坂の方も注意してみると日常的に視線を感じるようになったそうだ。もちろん、その時点では勘違いか何かだと思っていたらしいが、ことはストーカーのほうはエスカレートしていった。ありがちな話だ。最初は伊坂家のポストに真っ白な葉書が投げ込まれていた。それが一週間ほどしてメモが、正確に言えばメモのコピーが投げ込まれるようになったという。そこには彼女の一日の出来事が詳細に記載されており、気味が悪くなったという。ここに至って二人はやっと、ことの重大性に気付いたという。尾行者を追いかけたこともあったが、逃げられてしまったという。
そう言った話を口々にしかも複雑に長々と二人はつづけた。やっと話が途切れたところを狙って石永は「うん。わかった」と無理やり話を切り上げる。面倒な相談事を引き受けたな、と今更思い直して、一度押し負けて、請け負った自分を呪った。その後も何やら言っていたが、あまり興味がなかった。聞き流しているうちに満足したようで、とりあえず明日、方針と進捗を聞かせてほしい、というようなことを言われて、解散となった。結局その日はいろいろな整理をつけるためにその日、石永はおとなしく家に帰ったのだった。
翌日、いつもは始業寸前に姿を現す石永は、いつになく朝早くに学校へ到着する。クラスメイトに話を聞くためであった。なんのリターンもなかったが、彼は意外にも前向きであった。転校する前に通っていた学校の友人である君野への土産話にしてやろうという腹積もりだったのである。石永と最も仲の良い友人の一人である彼は小説家志望というもの好きなのである。
小学生くらいの時にどこかに置いてきてしまった社会性とコミュニケーション能力を引っ張り出してくる。インターネットで調べた表情筋のトレーニング方法を一通りやってみてから、前の席の男子生徒に話しかける。
「ねぇ、君。えぇと、前田君」
「前川ね」
初っ端から名前を間違えて、石永は自分にため息を付いた。一応相手が自分を認識しているかを確認する。
「僕の名前知ってる?」
「知ってるよ。結構話題だぜ。おたく」
前川は呆れたようにそう言った。転校生というのは往々にして好奇の目に晒されるだろうか。
「まぁ、それはいいんだけれどね。あのさ、伊坂心美という子を好きな男子って何人くらいいる?」
「え、何?心美ちゃん狙いなの?彼氏いるよ?あの子」
いきなりの質問に面食らったように、前川は応えた。
「いや、それは知ってるし、狙ってない」
「あ、そう?でも、心美ちゃん狙いは多いと思うよ。人気だからねぇ」
「あぁ」
石永はクラスでの伊坂の様子を思いだした。確かに男子受けのよさそうな物静かな雰囲気を演出している。
「具体的には?」
「なんで、そんなこと知りたいんだよ?」
「え、うーん。いや、人間関係をちょっとまとめたくて」
「いやいや、だからってなんで伊坂なんだよ」
「原君をいろいろ調べてて」
「へぇ。あいつ。人気者だからね。結構人間関係知るには大事かもね」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、石永のトリッキーなキャラクターが幸いしたか、前川は案外すんなりと納得した。
「まぁ、何度も言うけど伊坂は人気だからね。原はもちろん、あいつと同じサッカー部のやつらも大抵好きだって話も聞くけどね」
「それは面白いな」
「つーか、もともと原の友達の村井の彼女だったらしいぜ」
ストーカー相手が元交際相手なんて話はよく聞く。
「他にはいる?」
「あぁ、あと『あいつ』か」
「『あいつ』?」
「うん。まぁ、いじめられてるやついるじゃん?」
転校してきてすぐに、石永が見た残酷な光景。クラスの端にいる男子、橋崎の椅子の上に置かれた大量の画鋲。
「あー、橋崎君ね」
「あぁ、知ってた?」
「そりゃ知ってるでしょ」
「橋崎が昔、伊坂のことが好きだったんだけど、あいつの友達がそれをみんなの前でいじったんだよ。それで公開告白みたいな流れになっちゃって……。もとはといえば、それがいじめのきっかけだった気がするな」
「酷いことするなぁ」
独りの狂気より、暴走したときの集団の規範のほうがよほど恐ろしいことを石永は知っていた。前川は「まぁ、これくらいかな」とつぶやくともう一度自分の言ったことを反芻した。
「それじゃ、調査、頑張って」と前川は話を切り上げて前を向きなおした。
石永はとりあえず前川が教えてくれた、村井と橋崎を軸に調べようと行動を起こした。
容疑者絞りくらいは自分たちでできたのではないかと、心の中でカップルに不満を垂れながら、石永は橋崎の行動に注視した。彼へのいじめは一旦緩んだものの、話しかける者は皆無で、クラスの端で無為に時間を過ごしていた。石永はそんな彼を盗み見つつ、本を読んでいるふりをした。
同じクラスの原は相変わらずの人気者ぶりで、周りには常に四、五人ほどの男女がいる。頭の悪そうな笑い声が聞こえてくる。石永は不快感を覚えて、教室を出る。とりあえずは、橋崎のマークに徹して、村井の方は原に任せることにしたのだ。校外に犯人がいる可能性はそれからでいいはずだと考えたのだ。石永は放課後、集まったときにはそう報告しようと漠然と思ったのだった。
概ね報告を終えたあと、石永は頼んだコーヒーを一口すすった。カップルの顔に現れた、納得したような不満なようなよくわからない表情は石永を不快にさせた。調査料を取ってやろうかと考える彼を傍らに、二人は何やらこそこそと相談していた。
「で、結局こういう感じでいいの?」
「うん。じゃあ、お願いしようかな。ごめんね」
原は申し訳なさそうな顔をしたが、一方の伊坂はふんぞり返っていた。会話に詰まって石永がトイレに立つと、原がすかさず「俺も」と後ろについて行った。トイレの前で追いつくと、肩を叩いて原が引き留める。
「いや、マジでごめん。迷惑なのは重々承知なんだけどさ。心美がどうしても、っていうから……。ほんとに申し訳ない」
振り向いた石永に、原は伊坂の視線を気にしながら謝った。案外常識的な男であることを石永は再認識して「いいよ。いいよ」と手をひらひら振った。
「ありがとう。マジでありがたい」
ほっとしたように表情を緩ませる原を見て、石永はまたも押し負けた自分に辟易としていた。
「まぁとりあえず、伊坂のためにも協力してよ」
大雑把に石永がまとめると、「あぁ。うん」と原は生返事をした。一応、二人ともトイレを済ませて席に戻る。
「まぁ一つだけ。伊坂の交友関係と習慣を聞いておいていいかな?」
石永の問いに伊坂は「男の友達なんて卓也以外にいない」と呟いた。面倒くさい強がりじゃなきゃいいが、と石永は怪訝そうな目を向ける。
「あと、習慣ってなに?」
「例えば、放課後の行動だよ」と原のフォロー。
「あぁ、それなら卓也の部活がある日は、元後輩とかと喋りながら帰ってる。ない日はもちろん卓也と帰ってるけど」
彼女が元テニス部員であることは、転校生である石永の耳にも入っていた。
「じゃあ、男との接触はないな」
「いや、俺が心美と帰るときにサッカー部の友達と一緒の時がある」と原が思いだしたように付け足す。協力的な姿勢に石永は心の中で感謝していた。
「なるほど。一応名前を聞いておこうかな」
原が手近なメモに走り書きをして石永に渡す。
そろそろ店が混み始め、ドリンクバーだけで居座るのは気まずくなってくる。そんな、場の雰囲気を感じ取って原が「夕食もここで食べちゃう?」と提案したが、石永は御免だった。
「馬に蹴られて死ぬ気もないから、僕は帰らせてもらうよ」
すかさず石永は言い放って席を立つ。一応ドリンクバーの料金を領収証の上に乗せて店を出た。後ろを振り返ると言葉の意味を理解できていないのか、伊坂と原がぽかんとしていた。大きく息を吐いて、ファミレスの階段を駆け下りた石永の足取りは心なしか、軽かった。
若干ハイになってふらふらと歩く石永の前方に、独特の仄暗さを持った少年を発見した。橋崎である。足取りを緩める。少し様子を伺うとかなり挙動不審である。自分も他人には、彼のように奇異に映っているのではないかと石永は不安になる。橋崎の歩く速度は緩慢で次第に二人の距離が詰まっていく。橋崎に手が届く距離に詰まって、仕方なく、一旦話してみることにした。石永は一度息を大きく吸って意を決したように話しかけた。
「やぁ。橋崎君だね?」
声を掛けると必要以上に橋崎は驚いた。その声に石永が驚いたほどだ。
「僕の名前を知っているかな?」
「あぁ、石永君でしょ。で、なんの用?」
不機嫌そうに橋崎は応えた。意外といい声だな、と石永は余計なことを思って、「随分ご挨拶だね」と嫌味を言った。意に介す様子もなく「俺といたら、お前もいじめられるぞ」と呟いた。
「意外といいやつだね」と石永が本音を言うと、橋崎は舌打ちをした。
石永は、不器用だな、と内心はほほえましく思っていた。
「君は……いじめられているのだろう?」
橋崎の眼が一層暗くなった。「知ってんだろ。そんなん」とつぶやく。石永は何も言うことができず、隣で黙っていた。
しばし、気まずい沈黙が場を支配して、不意に橋崎が通りすがった女子高生の肩を叩いた。急な行動に石永はびっくりしたが、当の叩かれた方の少女は無視して歩き続けた。
「おい。ちょっと待てよ」と橋崎が声を荒げると、少女は振り返って本当に嫌そうに舌打ちをした。
少女は端正な顔立ちだが、どこか橋崎のような、暗さを持ち合わせていた。それはあまりに不機嫌そうな表情も手伝っていたのかもしれない。肩に背負ったラケットをわざとのように橋崎にぶつける。
舌打ちをされた橋崎の勢いがなくなって、「待てよ」と消え入るような声で言ったが、少女は無情にも手を振り払って去っていった。
「妹?」
石永の問いに橋崎は弱々しく頷く。ただ辛そうに唇を噛んでいた。何か歪なものを石永は見せられたような気がしていた。
「はぁ。疲れた」
橋崎は小さな声でそう吐き出した。本当に彼は疲れていたのだろう。石永はただ魂の抜けたように虚脱している彼をただ眺めていた。
「そうか」
しばらくの沈黙のあと、その声だけが二人の間に残響していた。
「今日のところはちょっと帰らせてもらうよ」
途端に明るい声で告げて石永は歩き出した。橋崎の方はいまだに呆然と佇んでいて、石永のセリフにも「あぁ」と適当な返事を寄越した。その様子を石永は酷く心配に思った。
橋崎と別れて角を曲がったあたりで、今度は石永は小走りになり住宅街を駆け抜ける。再度、橋崎の背後に回って監視するためであった。
正直に言って、石崎がイメージしていたストーカーの犯人像と橋崎とはかなりかけ離れていたものだった。しかし、それと同時に、彼の中では橋崎が犯人であるという疑念が膨らんでいっており、橋崎を遠くから監視している間中、結局その感覚の矛盾が石永の頭から離れなかった。
自分は何か決定的に間違えているのではないか。そんな不安を抱えつつ石永がしばらく虚空を睨んでいると、橋崎が突如として血相を変えて走り出した。石永も慌てて追う。尋常ならざる様子の橋崎の足は案外と速かった。全力疾走でも差は縮まらない。石永もその華奢な見た目に反して運動能力には一応の自信を持ち合わせていたが、途中でさすがに息切れし始めた。橋崎を視界に収める程度の速さで走りつつ、原に連絡を取る。
「原。伊坂は今、どこにいる」
『あぁ、石永。あの後レストランの前で、分かれた』
「わかった。一応伊坂に連絡とっといてもらえる。なんてことはない安否確認」
荒い息が聞こえたのか、原の声はどこか心配そうだ。しかし、石永にそれを気にしている余裕はなかった。橋崎は走るスピードをさらに上げた。おぼろげな記憶を探り出して、橋崎の走っている方向が伊坂の自宅があることに気が付いた。
「不味いな」と石永は呟く。
橋崎の真意がわからないだけにより不味い。口の中が乾ききったころ、橋崎が立ち止まる。眼鏡をかけ直し、目を凝らすと表札には伊坂の名前。石永はひとまず、彼と伊坂の接触がなかったことに一安心する。ここで橋崎がメモでも投げ込んでくれたら万事解決なのだが、なかなかそうはいかなさそうであった。橋崎は落ち着かなく視線を移す。
先ほど走ったからか、石永の喉が悲鳴を上げて、突然空咳が出る。しまったと思ったころにはもう手遅れで、橋崎が石永の存在に気が付いた。
「なんで……お前が……」
橋崎は目を見開いてそう絞り出す。石永の方は観念してゆっくりと街灯の下に移動し姿を現す。
「君はストーカーかい?」
これ以上になくストレートな質問だった。
「ち……違う」
動揺したような橋崎の否定はともすれば肯定にしか見えなかった。
「なんで……なんでいない?どういうことだ?まさか……」
意味不明な言葉だった。石永は表情を消して、「君じゃあないのかい?」と問うた。逆光で映った橋崎の表情は厭に深刻だった。
「なぁ、なんで俺ばっかりこんなことになると思う?」
唐突に橋崎は問うた。石永には『こんなこと』の全貌を知らなかった。しかし、否、だからこそ石永は彼の暗さが理解できた。
『影』。不意に石永はそんな心理学用語を思いだした。アーキタイプの一つ。どうでもいい知識がよみがえる。その人の『影』の部分。まさにイメージ通りの言葉だった。橋崎は皆の影を一身に背負っている。人の醜悪な部分が彼に集めっている。いじめ一つとってもそれは明らかだった。彼は既に彼の『光』の部分で人の影を負っている。ならば彼の『影』は果たしてどうなってしまうのだろうか。『影』を背負った彼の『光』はまさに『黒い光』だった。
彼の『光』と『影』の境界が溶けていく。橋崎の『影』は何色に歪んでいるのか。石永は怖かった。橋崎は『黒い光』だった。彼を黒く染めたのはクラスメイトだけだったのだろうか。果たして彼に『影』を背負わせたのは……。
「そこをどいてくれないか?」
橋崎の眼は暗かった。気圧されて怯んだ石永を押しのけて、彼は駆け抜けた。
「不味いな」
もう一度石永はひとりごちた。再度、原に電話をする。
『もしもし。やっぱり何かあったのか?』
「いや、とりあえず、伊坂の電話番号を教えてほしい」
『突然だな……。いいけど、何かあるなら伝えておくよ』
「いや、至急確認したいことがある。わざわざ原を返して往復するのは面倒だろ」
確信があった。橋崎は犯人ではない。そんな気はしていたが、だが、だとすれば……。
原に伊坂の連絡先をもらってから石永は橋崎の姿を認めて、走り出した。
「橋崎。申し訳ないけれど、君のお宅に上がってもいいかな?」
石永の意外な大声に驚いて橋崎も後ろを振り返る。その貌には明らかに恐怖の色があった。石永の言葉の真意を彼は理解しているのかもしれなかった。
「それは……」
「君はそれでいいのか。そのままで」
愚鈍な科白だった。しばらくの沈黙ののち、橋崎は大きくため息を付いたのだった。
その後ほど近い橋崎の家に上がり『証拠』を集めた。子供のような隠し場所で石永は大変助かった。橋崎は絶望という言葉を体現したような暗い目でそれを眺めていた。伊坂の盗撮写真や彼女が使ったと思しきストローまでもを回収して撮影していく。すべての『証拠』を集めて、すべてを終わらせる準備を終えた。
次の瞬間、橋崎は思いだしたように、石永を押しのけ玄関に向かう。何を思ったのか。まさか、これでは危ない。「待て」という声を振り切って、外へと駆け出した。急いで、石永は伊坂に電話を掛ける。
「伊坂。君は今何をしている?」
『「何」って、帰ってるけど』
「まぁとりあえず、誰かと一緒に帰ることをお勧めする。至急だよ」
『マジで?まぁいいけど』
気乗りしない返事に石永はいらいらとしていた。
「あと今の大体の所在地教えてもらっていい?」
返事を聞いて、電話をすぐに切ると橋崎を追って外に出る。すっかり暗くなった空に月が静かに輝き始めていた。石永は全速力で追って、橋崎を視界に捉える。
「少し待て。君は伊坂がどこにいるかなんて知らないんだろう」
図星だったのか、橋崎の足が緩まる。「仕方ないだろ」という呟きが聞こえる。すべてを悟っているのだと感じた。
「僕はおおよその場所がわかっている。この追いかけっこに意味はない。大体追いついたところでどうするっていうんだ」
橋崎は言葉に詰まる。次第に二人の距離は縮まり、やがて並んだ。そうしているうちに重い沈黙が伊坂のもとに連れて行った。伊坂の様子を見て指示不足だったと今更ながら、石永は反省する。
伊坂はこっちに向かってひらひらと手を振っている。隣には少女。橋崎は今にも、その二人に飛びかかろうとするのを、石永は押さえつけていた。どうせすべてが終わる。この短い物語を終わらせるべくは自分であることを石永は自覚していた。橋崎のためにも。
すべての元凶を終わらせるために、『黒い光』をいつも一身に受けていた、そして、『黒い光』を形作った張本人を暴くために、石永は伊坂の方に近づいた。
「石永と……橋崎?」
伊坂の表情が曇る。橋崎の方も顔を背けるが、その手には汗が滴っていて、葛藤しているのが見て取れる。伊坂は「結局近くにいた元後輩の子と一緒に帰ることにしたんだ」と報告してきた。後輩の女の子が怪訝そうな顔をしたのち、驚いたような表情を見せた。石永はもう一度、橋崎を手で制して、大きく息を吸う。真相を、事実をいう準備をした。
「伊坂、まずちょっとこっちに来てもらえるか」と石永が言った。
彼女もさすがにおとなしく従う。テニス部の後輩の女の子が怪訝そうにこっちを向く。背後から原が近づいてくる。流石に気が利くようで状態の異常を察知して、伊坂のもとにやってきたのであろう。石永は彼に、隣に来るように促す。ちょうど、原と石永が伊坂を守るような形位になる。石永は自分を落ち着けるようにもう一度、今度はもっと深く息を吸った。
「単刀直入に言おう」
少し躊躇いがあったが、原の不安そうな表情に促されるように石永は告げる。
「ストーカー犯は君だね。橋崎歩」
次の瞬間、石永の言葉に皆が理解できないという風に顔面を硬直させる。橋崎歩がただ一人膝をついて点を仰いでいた。
「盲点だったんだよ。犯人が女子だったなんて。そりゃ目星もつかないわけだ」
「どういうことだ?」と原が理解できないというようにパクパクと口を開く。
「つまりさ。ストーカー犯はそこの君さ。伊坂のテニス部の元後輩にして、僕たちの同級生、橋崎康介の妹、橋崎歩(はしざき あゆみ)ちゃん」
石永は冷静に言い放つ。伊坂は後じさり、橋崎歩は熱に浮かされたように「心美先輩、心美先輩」と繰り返す。橋崎康介も絶望したように、うつむく。確かに、彼が歪んでしまうのはわかる。彼の『影』を極限にまで、ゆがめてしまった『黒い光』は彼の妹だったのだろう。
全員が放心したように、突っ立っている中で、石永は「橋崎康介。君は歩ちゃんの歪みだよ」と呟いた。最初に動いたのは原で、橋崎歩を伊坂から遠ざけて、連行していった。
きっと君野には酷く善い土産話になるな、と一人、石永は漠然と考えていた。
黒い光 君野七葉 @arimayii
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