第2話 ハロー、リンゴ

 暗い世界から右足を踏み出すと、最初に冷たい土の感触があった。少し湿っているような感覚。そして小さい砂利のごろごろした感じ。

 左足も踏み出し、完全に向こう側に行く。天井は低く少しかがまないといけない。カビっぽいような土の臭い。洞窟って感じだ。しかし20m程で出口で、そんなに大きくはない。今かがんでいる所はせいぜい大人が一人入れるくらいの大きさで狭いが、外に行くにつれて広くなっており、出口の所は幅5m、高さ2mほどだ。

 振り返ると暗い空間はまだそこにあった。さっきまで乗ってた平面もそこにある。

 改めて暗い空間をのぞき込むが、何も見えない。延々と床だけが広がっているのだろうか。手でさっきの平面に触れると、確かにそこにあった。本当に、これは何なのだろう。

 暗い空間への興味は尽きないが、俺はひとまず洞窟の外に出ることにした。ここがどこなのか調べなければ。

 地球ならいい。どこか外国であっても、多分日本に帰ることができるだろう。だが異世界なら? 不安は募るが、まずは確かめなければいけない。

 大して長くない洞窟を抜けると、外には森が広がっていた。うっそうとはしていない。木の高さは20mくらいだろうか。広葉樹が生えていて、木の間隔は広く、葉は茂っているが適度に日が差している。

「太陽は……一つか」

 太陽が二つだったら、二連星のどこか別の惑星という事になる。とりあえずそうではないようだ。しかし地球かどうかは分からない。

 そもそも呼吸ができているが、大気組成はどうなっているのだろうか。苦しくもなんともないから、地球と同じっぽい。重力も特に重くも軽くも感じない。気温もちょうどいい。二十五度くらいだろうか。適温だ。

 草花がその辺にたくさん生えている。白い花が咲いているが。ハルジオンだろうか。しかし何の変哲もない花という感じだ。植物には詳しくないから、その辺の草を見てもどういう種類なのかさっぱりわからない。植物からこの場所を特定することは俺には無理そうだ。明らかに別世界の植物、例えば羊の生る木、バロメッツとかがあれば別だが。

 幸い、洞窟の前から森の方に向かって踏み固められた跡があり、それは道になっているようだった。それなりの頻度で人が通っているという事だろう。ここで待っていればそのうちだれかが来るかもしれない。

 でも武装していたら? 一抹の不安がよぎるが、出来れば物陰からいったん様子を見たいところだ。怪物のような見た目だったら、姿を見せるのは危険かもしれない。

 洞窟の出口、というか入口の両脇には木製の台があった。人の背丈ほどの三本の棒を交差させて、三脚のように金具で束ね、上に丸細い筒のような金具がのせてある。黒くすすがこびりついている様子からすると、どうも松明のような火を乗せる台のようだ。

 少なくともこの辺の人は、火を扱えて、木材も加工する技術を持っている。それに金属も加工できるようだ。電気はあるのだろうか。無いとしても、いわゆる中世っぽい、せいぜい産業革命以前までくらいの文明水準といったところか。

 周りには他に文明を示すようなものはない。だが考えてみると、この洞窟は人の手で掘ったもののようだ。壁面は粗くごつごつしている。ハンマーとノミで削ったか、あるいは火薬だろうか。それなりの技術をもっているようだ。

 文字の痕跡はないかとその辺を見てみたが、特に見つからなかった。

 今この場で分かるのは、それなりの文明を持った人が近くに住んでいるらしい、という事だけだ。それ以上のことは歩き回らないと駄目のようだ。

「でもどうするかな。この道を行けば……どっかの村とかにたどり着くのかな」

 もう一度周囲を見てみる。草木でほとんどわからないが、煙や建物は見えない。音も聞こえない。頼みの綱は、この踏み固められた道だけだ。

 歩いて探さなければいけない。そう思うと、急に腹が減ってきた。そういえばパソコンで作業していたのは昼前。まだ昼飯は食べていなかった。

 せめて食後であればよかったのに。そう思ったが詮無いことだ。

「食い物なんて……落ちてないよな。ゲームじゃあるまいし」

 パンやケーキが都合よくその辺に落ちている風ではない。期待できるとすると果物だが、ざっと見たところ実を付けている木は見当たらなかった。

「リンゴでも生ってないかな。柿とか山ブドウとか……」

 ひょっとしたらこのまま餓死するのでは? 嫌なことを考えてしまったが、ふと思いついた。

 Blenderで作ればいいんじゃないか?

 俺は自分の両手を見た。俺はついさっき、立方体やら平面を出していたのだ。あれがBlenderだとすれば、リンゴそのものは出せなくても、リンゴを作ることはできそうな気がする。

「え、ちょっと待てよ。どうしよう」

 周囲には誰もいないことを確認する。作業中は集中して周りが見えなくなりそうだから、できれば隠れて作業したい。

 そう思い、俺は洞窟の前の茂みの中に入った。裸足なのでチクチクと痛いが、幸いにも鋭い棘はなかった。なんとか5mほど奥まったところに入り胡坐で座る。草木がいい具合に陰になって姿が隠れている。これでいいだろう。

 俺はリンゴを作ることにした。

 リンゴ……丸いからUV球か、いや、立方体でいいな。

 と、3Dカーソルのことを思い出した。メッシュはカーソルの所に出てくる。今あのカーソルはさっきの暗い空間にあるから、呼び出しても向こう側に出ることになる。

 呼び寄せられるのだろうか? 出来なかったら向こうに戻らなきゃいけない。

 ……来た。良かった。念じたら来てくれるから、これなら安心だ。しかし移動するたびに呼ばなきゃいけないのか。電車とかに乗ったら始終呼び続けるのか? 大変そうだな。まあそれは今は余計な心配だ。

 カーソルが来たので改めて立方体を出す。出た。

 目の前に出てくると結構でかいな。邪魔だ。縮小して……リンゴサイズ。これでいい。

 スムーズシェードして、モディファイア―からサブディビジョンサーフェス。ビューポートのレベル数とレンダーは3。これで角が取れてほぼ球になった。

 ループカットでリング状の辺を追加して、下に寄せてカーブを丸だけど少し台形っぽく、リンゴみたいにする。Sでちょっと縮小。いいぞ。

 もう一回ループカット、今度は上の肩も四角っぽく。これでなんとなく逆台形のリンゴっぽい形だ。

 もう一回ループカットして、中央より少し上で広げてふくらみを作る。

 うん。横から見た形は大体リンゴだ。上と下の中央部分に面を差し込んで内側に押し出してくぼみを作れば、リンゴだな。

 あとは円柱を追加して、縮めて、上端をEで押し出してちょっと横にずらす。あとはリンゴのくぼみに押し込んで……ヘタになった。これで……お、リンゴだリンゴ。

 後は色付けだ。あんまり得意じゃないが、とりあえずビューをルックデブに。着色などのマテリアルが反映されるが、ここではまだ白いままだ。

 マテリアルからプリンシパルBSDF、これはこのままでいい。メタリックは0だな。光沢は0.5。粗さも0.5でいいかな。色を赤に。ちょっと黄色くて輝度もちょっと下げて……お、いい感じじゃないか。ヘタも茶色で塗って、これで良し。

 リンゴだな。リンゴかな? まあリンゴって言われたらリンゴだ。

 さて、これを……どうすればいいんだろ。

 リンゴっぽいオブジェクトは完成したが、それは俺の手から離れて宙に浮いている。触れられるが重さはない。地面に近づけたらそのままめり込んでしまう。それにメッシュ一枚だけで中はスカスカだ。果肉も作らなければいけないのだろうか。

「レンダリング……したらどうなるの?」

 と聞いてリンゴが答えるわけもない。とりあえず他にできることもないし、俺は作ったリンゴをレンダリングすることにした。

 レンダリング。ポチッ。

 頭の中で、グルッと何かが動いた感覚があった。一瞬のめまいのような、脳が揺れる感触。

 何だ? と思った瞬間にリンゴは地面に落ちていた。

「うぁ……何だ今の気持ち悪い……リンゴは……お、ちゃんとリンゴに……なってる?」

 手に取るとリンゴらしきものはひんやりと冷たかった。重さはあるし、表面はつやがありリンゴっぽい。匂いを嗅いでみると爽やかなリンゴの香りだ。

 これはリンゴ……?

 表面を見ると真っ赤だ。本当のリンゴは皮の表面に粒粒の模様とか筋みたいな模様があったような気がする。ちょっと不自然な見た目だ。異常なほどに赤一色だ。でも俺がそう作ったからだ。シェーディングでノイズテクスチャでもかければよかっただろうか。

 だが、戻れと念じてもリンゴは元のオブジェクトには戻らない。手を離せば落ちるし、宙に浮くようなことはなかった。

 どうやらオブジェクトをレンダリングすると、この世界の物質になって物理法則にも従うようだ。それは不可逆のことらしい。

 となると後は……食うだけか。

 フムン。いざ食うとなると度胸がいるな。

 だってさっきまで宙に浮かんでたんだぜ? メッシュ一枚のスカスカのはずが、こんな立派なリンゴになってる。そういや中身はどうなってるんだろう。持った感じでは中身も詰まってるっぽい。

 爪を立てるとクシュと少し抵抗があるが簡単に傷がつく。傷からは透明な汁が出て、甘い香りが一層広がる。指についた汁をなめてみると甘い。リンゴの汁だ。

 俺は思い切ってリンゴにかぶりつく。簡単に歯が通り、力を入れてパキッと実をかじり取る。断面はうっすら黄色い白色。リンゴの果肉だ。

 口の中の断片を取り出してみると、そっちも同じ断面。リンゴだ。煙になって消えたりしないし、泥になって崩れたりもしない。口の中に残った甘みもリンゴそのものだ。

 断片をもう一度口に入れて咀嚼する。シャクシャク。心地よい触感、歯ごたえ。皮が少し口に残るが、それも噛んでると気にならなくなる。飲み込む。

 すごい! これはリンゴだ。

 見た目がちょっと気になるが、この味わいはリンゴだ。もう一口かじる。美味しい。

 そうして俺はリンゴを食べ終わった。芯と種が残ったが、作った覚えはないがちゃんと内部はリンゴと同じだった。

 よく分からないが、ある程度の精度でリンゴっぽいものを作ると、それはこの世界におけるリンゴに生まれ変わるという事のようだ。都合が良くて助かる。

 良かった。まだ俺は難しい形の物は作れないが、とりあえずリンゴは食べられることが分かった。最悪、飢え死にはせずに済みそうだ。

 さて、腹ごしらえが終わったら探索だ。リンゴの芯はその辺に投げ捨てる。

 ちょっとその辺を歩いてみよう。

 そう思ってガサゴソと茂みをかき分けて外に出る。

「ほわあっ! 熊ぁ?!」

 そこには男の人がいた。ちょっとおじいさんで、白髪交じり。毛皮っぽいジャケットを着ていて、紺色の汚れたズボンを履いている。

 そして、右手には小さいが斧を持っている。

 何という事だ。リンゴを食うのに夢中で、人が来ていることに気が付かなかったらしい。気を付けようと思っていたのに、これでは茂みに隠れていた意味がない。

「な、何だぁあんた!」

 斧を持ったおじいさんが叫ぶ。エンカウント。おじいさんは村人Aなのか殺人鬼なのか。俺は一体、どうなってしまうんだ。

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