Cupid shoots to kill (Definitive Edition)

06.Heartbreak Hotel

　本番までの時間はもうそれほど残されてはいなかった。その短い時間をベラは最大限に利用した。バンドのメンバーとのリハーサルを重ねていくうちに、歌唱と演奏とは着実に一体化していった。そうすると自然に彼らとの関係も深まってきた。これがもし彼らとの間の溝を埋めることができないままであったなら、プレッシャーに押し潰されていたであろうことは容易に想像できた。幸いなことにベラは彼らを頼り、また信じることができた。その反対にバンドの側に立つと、未だ舞台を踏んだことのない歌手を迎えて演奏しなければならないのだから、そこには強い不安があったはずだ。しかし、やがてベラの秘めた大きな可能性を見いだすことができるようになってくると、彼らもまたベラに大きな期待を抱き始めた。

　人というものが短期間に変わることは簡単なことではない。ベースのニックは相変わらず寡黙で言葉が足りないと思われることがあったし、ドラムのマットも何度も大事なところでミスをした。そうした中で、ベラは大きな飛躍を遂げようとしている。ギターのジェイミーたちとは息が合ってきて、ベラは彼らの奏でる音楽に身を委ねることができるようになってきた。それはベラの成長の証であるといえるだろう。他人の演奏を信じることは、その人そのものを信じることであるから。

　そうしてリハーサルをしているところへ、たまにビルが顔を出し、ベラやバンドのメンバーにアドバイスなどをしていった。

「ベラ、歌うのに没頭するのはもちろん悪いことじゃないが、観客を楽しませる役割を負っていることを忘れてはいけない。ステージ上の君はバンドを背負っているのと同時に、観客を前にしている。だからもっと、君自身が楽しむんだ」

　ベラはそうしたアドバイスの一つ一つに素直に応じた。真剣な面持ちは崩さないものの、肩の力を抜いて余裕を持った振る舞いをしようと努めた。演奏をしっかりと受け入れながら、その上で自分なりの歌唱をする。そして、そうした体験を楽しむ。ビルの言いたいのはそういうことだとベラは理解した。

　他方、マネージャーとして契約してからずっとベラを見守ってきたジェームズにしてみれば、ベラは驚くほど着実に成長している。それは歌唱の技術に限ったことではなくて、他者との関わり方や目の前の物事に持続的に取り組む意欲についてもいえることだった。今までのベラであればとっくに投げ出していてもおかしくはない局面がいくつかあった。初舞台の会場が思い描いていたようなものではないと知ったとき、主演ではなく前座としての出演であると知らされたとき、そして自分自身の実力に気付かされたとき。それでも、今のベラなら、きっと前座であっても人々に大きな印象を与えることができる。ジェームズは自信を持ってそう断言することができた。

　いよいよ本番前日の晩になると、ビルが彼の率いるツインズやレイを始め、ベラとそのバックバンド、それからジェームズなどを招いて、前夜祭のような催しを開いた。会場は次の日に本番の行われるラウンジであった。

　ベラとジェームズが会場に入ると、既にビルはワインで出来上がってしまっていて、真っ赤な顔をして二人を呼び寄せた。その隣には静かにワインに口をつけるレイの姿があった。

「ベラ、いよいよ明日は本番だな。君たちがこれまでに積み重ねてきたものを披露できるたった一度だけの舞台だ。そのたった一度の舞台を、しつこいようだが、楽しめるように頑張ってくれ」

　赤らんだ顔に反して、ビルの語り口は平素と変わりないようだったが、僅かに饒舌になっているようにも感じられた。

「それから、さっきレイと話していたことなんだが、君たちには――」

「ちょっと待って、ビル。あなた少し飲み過ぎているみたい」

「そうかな。ううん、どうだろう」

「ベラ、ここはあなたのマネージャーに任せて、少し二人で話せないかしら」

　ベラは戸惑いを見せたが、断る理由もなく、

「いいですけど……」

　と答えることしかできなかった。どこか後ろ向きなその返答の理由は、言うまでもなくレイという歌手への尊敬からくる緊張だった。それまでレイが座っていたところにジェームズが座り、酔っ払ったビルを相手にしなければならなくなった。

「ジェームズ、ベラはよくやっているよ。もちろん技術的には未熟だし、ミュージシャンとして生きていくだけの心構えも不十分なところがある。しかしまあ……、全てはこれからさ」

　前座を務めるに過ぎないベラについて、ビルがここまでのことを言うのは異例なことに思われた。曲がりなりにも努力してきたベラが、ようやく認められつつあるのだ。親心のような気持ちで以て、ジェームズは心を震わされた。ビルがこの後に起こることを予知していたというわけではないだろうが、ベラの歌声には彼らのように聴く者を魅了する何かが確実に育ってきているのだった。

　レイは舞台に最も近いところに配置された椅子にベラを招くと、グラスを合わせて赤ワインを口に含んだ。ベラは酒を嗜む習慣を持たないので、明日に備えてフルーツカクテルを飲んだ。

「ねえ、さっきの途中で遮ってしまった話なんだけれど」

「はい」

「緊張しなくていいのよ。肩の力を抜いて……、そう、そんな感じ」

「はい。……ところで、話というのは？」

　重大な話が待っているという感じはなかった。が、レイは今までまるで考えたことのない事柄について触れた。

「あなたたちのバンドにも、ツインズのように相応しい名前が必要ね。ベラドンナさん、そう思わない？」

「ベラ、で結構です。でも、……今までそんなことを考えたこともありませんでした」

「バンドの人たちと話し合って、ちゃんとした名前を決めるべきよ。ベラドンナと彼女のバックバンド、なんて呼び方だと不格好な感じもするじゃない。それに名前を付けるということは特別な行為だから」

　ベラは頷いてみせたが、すぐに相応しい名前が浮かんでくるはずもなく、半ば上の空になりかけたところへまた異なる話題が飛び出してきた。

「今回の舞台で歌う曲、全てカヴァーで済ませるつもりでいるの？」

「ええ、候補を絞って練習してきました。アレンジを決めて、今は最後の調整段階です」

「絶対的なリーダーがいないから、決定に時間がかかるのね。じゃあ、この話はしない方が良いかしら」

　レイはそう言うと視線を逸らせたが、ベラが興味を示すと、単刀直入に言うべきことを言った。

「オリジナルの曲を演奏してみる気はない？」

　ベラは絶句した。それは本番の前日になって提案されてもどうにもできないことだ。だから、ベラはきっぱりと否定した。

「今から新しい曲を準備することは無理です。それは……あなたも分かっているでしょうけど」

　しかし、レイはベラが予想していた以上の提案をしてきた。

「実はもう曲は出来上がっているの。後はそこに歌詞をあてるだけ、難しい話ではないわ」

「あなたの曲に、私が詞を……？」

「そう。既にあなたのバンドのリーダーに同じ提案をしているの。検討はしてみると言っていたけれど、どうなったかは分からない。もしもの話だけれど、曲がバンドの中で形になっていたとしたなら、あなたはそこに自分の気持ちを織り込めばいいの。どうかしら」

　とても有り難い話だと思った。ニックがこの話を伝えてこなかったことには不満がないわけではないが、しかし彼のことだから曲が形になるまでは余計なことを言わずにおこうとしたのだろう。ベラの気持ちは決まっている。しかし、一つだけ疑問があった。

「どうしてそこまでのことをしてくれるんでしょうか」

「さあ、どうしてかな。何か、予感がしているのかもしれない」

「予感？」

「それを詳らかにするのは野暮だと思いもするの。だから、今は何も言わないことにするわ。……ああ、私も少し飲み過ぎたのかしら。そのカクテル、美味しい？」

「ええ、悪くはないです」

　レイは笑って立ち上がると、咳払いを一つしてからカクテルを頼みに行った。その後ろ姿を眺めながらベラは、自分はここに来て良かったと、初めてそう感じることができた。今までどこか自分事として受け止められなかった出来事が、ようやく自分の中に重なったようだった。

　翌朝は本番当日の日曜日だった。夜中に降った雨が地上の穢れを洗い落としたのか、いつになく朝日の輝いて見える朝だった。信仰らしき信仰を持たないベラには、一つだけ心に抱いているものがあった。故郷に帰るときにも持っていたあの赤い化粧箱を開くと、一片の白い羽が大切に収められている。それは、やはり母からの贈り物だった。母曰く、単なる羽ではない。それは天使の羽なのだ。寝物語として聞いた話では、ベラがまだ母親のお腹の中にいたとき、虹の彼方から現れた天使から授かったものだという。

「虹の彼方ってどこ？」

　その話を聞いたベラが尋ねたことがある。

「ここではないどこかよ」

　母は笑ってそう答えたのだった。

　故郷に帰る列車の中で、ベラの歌声はそこで出会った老婦人から、天から降り注いでくるようだと形容された。あの老婦人は感じたものをそのまま口にしたのだろうが、それは驚くべき偶然だった。何故なら、ベラの母は何度も同じ言葉でベラの歌を褒め称えていたのだ。

「あなたの歌声はどこか遠くから、……まるで天から降り注いでくるような響きがあるわ」

　ベラが歌手としての第一歩を踏み出そうと努力を重ねてこられたのは、そんな母の言葉があったからだった。その言葉を信じながら、あるいはその言葉を真実にするために、ベラは歌い続けている。ベラはその、天使の羽を大切に掌に収め、しばらく瞑想をしていた。

　やがて起き上がってラジオの電源を入れると、昔の大ヒット曲が流れてきた。それはもしかしたら何かの啓示であったかもしれない。しかし、人は往々にして啓示や予兆といったものを見逃してしまう。ベラもまた、ベッドの上に腰掛けてその曲を口ずさんでいた。

「ベラ、ベラ！」

　まだ朝も早いというのにジェームズが部屋まで押しかけて来たのは、ちょうどそのときだった。身支度を調えていないベラは、ドア越しに問いかける。

「どうしたの？」

「大変なことになった。前座は中止だ！」

　それはまるで、長い一日の始まりを告げる合図のようだった。