05.Summertime

 ビルのバンド――彼らはツインズと名乗っている――とのセッションは、ベラにとって満足のいくものとはならなかった。無論、バンドの演奏に不満があったわけではない。彼らに上手く合わせて歌唱のできない自分の無力さを痛いほどに味わわされたのだ。この体験がベラの精神状態に良からぬ影響を与えるのではないかとジェームズは危惧していたが、一晩経つとベラは却ってすっきりとした表情で姿を見せた。

「よく眠れたかい」

「そうでもないわ。思い出したくもないくらいに悪い夢も見たしね。でも、このままでは良くないと思っているの。むしろ課題がはっきりした、そう考えることにしたの」

 ベラは塞ぎ込むどころか旺盛な意欲を見せたし、前座であることを隠していたジェームズにも特に悪感情を抱いて言えるわけではないようだった。ジェームズは思わず安堵の表情を浮かべかけたが、ベラの前では平静を装った。

 今のベラはプロの歌手としての実力を十分に備えているとは言い切れない。また、それ以上にジェームズがベラの課題として考えているのは、精神的な安定を欠くことだった。世間一般の若者として考えればその不安定さは特筆すべきものでもないが、これが一流の歌手を目指しているとなると話は変わってくる。スポーツほどに直接技倆を競い合う場面などは少ないが、それでもたった一つの椅子をめぐってオーディションが開催されることもある。そうした場にベラは幾度も参加したが、持ち前の歌声を披露できさえすえばと思われたときでも、その実力を発揮できずにきてしまった。そうした挫折が積み重なって、ベラは目に見えない壁を自らの手で築き上げてしまっている。その壁に囲まれて逼塞してしまっているというのが、ジェームズの見るベラの現状だった。

 一方でエージェントとして今回の仕事を調整したジムも、ベラの現状については同情すべきところがあった。まずはどのような舞台であってもそこに立ち、小さなものであったとしても観客の拍手を得ることで、ベラはもっと成長できると考えている。ジムとしても職業としてエージェントを務めている以上、可能性のない者に時間を費やすことはないのだ。

 そうした経緯があって今回の初舞台が決まったのだったが、ジムと同じ考えを共有しているジェームズには、その全てをそのままベラに伝えることはできない。そんな自分の立場が歯がゆく感じられることもある。それでも、ベラは一歩ずつ自らの手で前進していかなければならない。だから今のジェームズにできることはアドバイスをしながら、ベラが自分自身で決定していくのを見守ることだけだった。


 ベラは前座のために集められたバンドのメンバーたちと互いに挨拶を済ませると、時間が許す限り何度でもリハーサルを重ねたいと告げた。

 昨日のツインズとのセッションが散々な結果に終わったのは、まず自分自身の力量不足によるものとベラは自覚しなければならなかった。その上で原因を突き止めていくと、綿密な打ち合わせができないまま演奏に合わせなければならず、バンドとの意思疎通が上手くいっていなかったことにもよると分析できた。よく聞き知った曲でも、そのアレンジが少し違っていただけでバンドの演奏に上手く馴染めなかった。そのため、今度はバンドのメンバーと徹底的に話し合うことにした。そこでまず重要なことは、演奏する曲目をどう決めるかということである。

「いくつか候補を挙げておきたいの」

 と言って、ベラはいくつかの曲を挙げた。いずれもスタンダード・ナンバーとして知られている曲ばかりで新鮮味はないものの、メンバーたちは今回の楽器編成でできるだけのことをやろうと言った。彼らはツインズと違って元からこのバンドを結成していたのではなく、今度のショウのために集められた無名のミュージシャンたちだった。彼らはベラと同じように今回の前座を足がかりにして少しでも上に行きたいと望んでいる。そうしたわけで、短い期日でバンドとして結束できるかという不安要素はあったが、ベラも彼らも強い意欲を持って望もうとしているのだった。

 さて、議論を重ねた末にベーシストのニックがバンドのリーダーとなった。リーダーを決めずに何でも話し合って決めることもできたが、そんな悠長なことをしている時間はないし、意見が割れたときに誰かが決定権を持たなければ話が進まないことが予想された。ニックを推す声が強かったのは、彼が年長の二十七歳であったことが影響している。当のニックは寡黙で必要以上のことを口にせず、リーダーとしての振る舞いに不安があったので気持ちの良い表情ではなかったが、他のメンバーの説得に折れた。

 そんなニックを支える屋台骨のような存在となるべきなのがドラマーのマットであった。打ち解けやすい性格をしているし、演奏の面でも重要な役割を期待されている。しかし、彼には一つ大きな欠点があった。

「さあ、今日こそは頼んだぞ!」

 彼らと最初のセッションを行ったとき、リズムギターのジェイミーがわざわざマットを振り向いてそう言うので、ベラは最初は不思議に感じた。一曲目の演奏を終えてみると、その理由が分かった。

「何かが足りなかったわ」

 ベラが指摘したのは、曲が盛り上がるここぞというとき、マットがリズムを刻むだけで終わってしまったことだった。本来ならば畳み掛けるようにして演奏を盛り上げなければならないところである。ジェイミーに促されてベラが振り返ると、

「やっぱり何かが足りない」

 とだけ呟いた。マットの手に握られているべきスティックの片方が彼方に転がっていた。

「マットはすぐに力んでしまうのさ。特に大事な場面で力が入りすぎて、スティックを飛ばすのも珍しくない。……おい、笑い事じゃないぞ」

 笑っているのはマットだった。

「ごめん、悪いとは思っているんだ! でも、笑っちまう、こういうシリアスな場面になると笑っちまうんだ!」

 ベラとジェイミーは顔を見合わせた。寡黙なニックも機嫌を悪くしているようだった。最初のセッションは、結束というにはほど遠いところで終わってしまった。


 練習を重ねていたある日、ベラたちはツインズのリーダーであるビルから呼び出され、本番の舞台となるラウンジで行われるリハーサルを見学させてもらうことになった。ところで、ツインズというバンドは、メイン・ヴォーカルを置かずに活動している。そうすることで歌唱を必要としない落ち着いた雰囲気の舞台でも柔軟に対応することができ、またヴォーカルが必要な場合でもその時々に必要とされるタイプの歌手を招いたりしているとのことだった。尤も、ジェームスがこっそり教えてくれたところによると、ツインズがメイン・ヴォーカルを欠いているのには、何か特別な理由があるらしいとのことだった。

 さて、ツインズはレイという名の女性歌手を伴って舞台に上がった。レイはベラとはちょうど十歳違いで、大きく名が売れているというわけではないものの、熱烈なファンが数多くいる実力派だ。シンガーソングライターで、ベラも彼女の作った曲をいくつか聴いたことがある。本格的にカヴァーをしてみようと思ったことはないが、まだ田舎町にいた頃に鼻歌で彼女の曲を歌いながら家事の手伝いをした記憶がある。ベラが甘く柔らかな歌声であるとするなら、レイは甘美でありながらも力強さのある歌唱で知られている。客席に座って彼女のたちのセッションを目の当たりにすることになったベラは、いつになく興奮している自分に気が付いた。

 ビルの合図で演奏が始まった。それは、ジャズのスタンダード・ナンバーとして知られる名曲だった。物憂げな調子で始まった歌唱は、低いながらも芯の通ったものであった。徐々に声の芯が帯びていく熱につれて、ベラはそこに力強い自信を感じた。レイは、数々の経験を積んできた歌手として、そして一人の女性として、そこに立っていた。生まれ育った田舎町と決別し、新たに生まれ変わったつもりでいたベラは、強かに頬を叩かれたかのような気分になった。経験や努力の差というものを感じずにはいられなかった。今の自分ではレイに太刀打ちできない、立っている場所が、見えている景色がまるで違う。そう考え始めると、内臓を手で掴まれたかのような気持ち悪さが襲ってきた。それでも、ベラは席を離れようとはしない。決して長くはないはずの一曲目がようやく終わったとき、ベラの背中には汗が滲んでいた。そうしたことからベラはある違和感に気付けずにいたのだが、その夜、同じホテルに用意された自分の部屋のベッドに横たわったとき、とてつもない体験をしたことをようやく実感できるようになった。観客をこのような興奮へと誘うだけの力量は自分にはない。それはそれとして、ここで立ち止まっているわけにはいかないとも思う。決心を新たにしたベラはいつしか眠りに落ちていたが、いつかのような悪夢に襲われることもなく、新しい朝を迎えることができたのだった。

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