第2話

 こうして、2人の関係は深まった。どのように深まったかを測る尺度がある。それが、おセックスだ。女の痛みを伴う神妙な儀式が、無邪気な戯れに変わり、部屋の明るさも気にならなくなれば、本物だ。おセックスは、相手の気性や気持に入り込む。100%は無理だが、やっぱり入り込む。朋子と純哉の間の紙一枚は情熱で燃え、燃えカスはハラリと落ちていた。

『選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り』とはフランスの詩の一節だ。恍惚。恍惚は肉体的な事ばかりではない。世界が薔薇色に輝く、とは陳腐な言いようだが、実際そう言う事はある。生活や気持の輝きは、愛の噴霧器で艶めき恍惚を実感させる。そして朋子が感じていた恍惚を、箇条書していたら、何行になるか知れない。それに、欠伸の出るような語彙が続くだろう。ならば、不安の方を語ろう。恍惚が引き立つかもしれない。……、不安は3つ半あった。詩にあるような不安とは趣が異なっていた。

 不安の1つ目は、オナラの事であった。朋子が純哉の部屋に行っても、純哉が朋子の部屋に来ても、どちらの部屋も狭かった。ワンルームの部屋と言うのは、薄い壁で居間とトイレが繋がっている。状況によれば排泄音が居間に轟(とどろき)渡(わた)る。多少の音は、豪勢に水を流せば掻き消せる事もあろう。しかし、オナラは情け容赦ない。純哉のトイレ音がどうなのかと言えば、水を流しながらではないので、ジャージャーとプリプリは、聞こえていた。朋子は聞きたくて耳をそばだてていた訳ではなかった。自分のトイレ音が、どう聞こえているかを、純哉のそれで探ろうとしていたのだ。しかし、オナラの音は聞こえなかった。

思い出せば、祖母のオナラも聞いた記憶がなかった。誤魔化し方が上手い人だったのかもしれない。「朋子、おばあちゃんのきれい好きには、何か陰があるズロ」朋子は母親が口にした言葉を思い出した。そして、少し不気味になった。

話を戻そう。朋子のオナラの話だった。純哉はまだ我慢をしているだけの事かもしれなかった。それに男だ。気が緩んで『ボアッ』と発しても、笑って済ますだろう。また、朋子も一緒になって笑うだろう。では朋子自身は? 朋子の純情は、オナラを許してくれないのだった。音だけではなく、臭いの問題もあるのだ。朋子は気が抜けなかった。そして、しばしば体調を悪くした。笑ってはいけない。朋子にとっては大問題だったのだ。これが1つ目の大きな不安であった。まだ2人の間の、紙一枚は完全に燃え切っていなかったのだろうか。

 不安の2つ目は、おセックスの事だ。なるほど、皮膚と皮膚の重なりは、生クリームが溶けるように甘く、表に出ている内臓、つまり口同士と陰部同士の接触は、豪華なパフェが崩れるような衝撃だった。種の保存と進化のために、神様はこんな御褒美を用意して、七面倒くさい行為を、夢中に変えてくれたのだ。素晴らしい仕掛だ。ただ朋子には、快楽の最中にも拘わらず、その仕掛けに引っかからず冷静になる瞬間があった。

例えばこうだ。純哉は1つの行為から次の行為に移る場合、あるいは執拗な愛撫の最中、自身の陰茎を頻りに擦っていた。純哉は、瘦身で色白であった。しかし体毛が濃かった。特に陰部は真っ黒であった。そこに突き出た陰茎を擦るのだ。その行為は、純哉のマスターベーションを想像させた。そんな事はどうでもいい。現に、朋子もやっていた。彼女は、その気配をおくびにも出していないだけの事だった。もし女が、やっていないと言い張れば、それは、嘘をついているか、マスターベーションと認識していないか、認識しようとしないかだ。聖女だって怪しい。女のマスターベーションは曖昧なような気がする。

話を戻そう。純哉がおセックスの合間にする行為の話だった。深く考えれば、マスターベーションの事など、拘るに値しない事かもしれなかった。ただ確認しておきたいが、朋子の気質は、真面目で神経質。そんな彼女には、純哉の行為はおセックスがマスターベーションの延長線上にあるような印象を与えた。目の前でやって欲しくはなかった。見たくもなかった。不潔で不快。それにその瞬間、彼女は取り残されたように不安を感じた。些細な事ではあったが、純哉のこの行為は、朋子の気質に馴染まず、快楽の最中に冷水を掛けられたような気分にさせ、ちょっとした不安を残した。

おセックスついでにもう1つ。つまりこれが3つ目の不安だ。純哉は愛撫が上手過ぎた。時間のかけ方、丁寧さ、徹底ぶり。純哉は朋子の微細な反応も見逃さなかった。何処を如何したら一番反応がいいか学習していた。ここぞの時、ここぞの事をする。舌と指の技。焦らし、緩急、タイミング。全てが絶妙だった。これが不安を煽ったのだ。これは天性なのだろうか、それ以外のなにかなのか? 朋子はこの疑問を、『気のせいだ』『考え過ぎだ』と、線引きして向こう側に置いた。ただ、純哉への愛は、独占欲の満足と、母性的な衝動であった。となれば、このおセックスの精緻な術は、線引きしてもなお、彼女の不安材料だった。

 3つあった不安とは、まあ、この程度の内容だ。あと半分の不安の話が残った。もっともっと些細な内容だ。何かひっかかる、何かちょっと気になる、その程度の内容だ。この半分の不安を、書き留める必要があるか、微妙だ。しかし、そもそも、朋子の無上の恍惚を引き立てるために書き始めた不安だ。すべて記す事も、大事かもしれない。では話そう。それは、留守番電話のライトの点滅であった。あの赤い点滅だ。2人の週末は、基本、朋子の部屋で過ごしていた。それを純哉が好んだからだ。しかし、映画やコンサートで遅くなった時、交通の便がいいと、純哉の部屋で過ごす事も、稀にあった。そうして、2人して外出から帰った時に、留守番電話のライトの点滅がある日もあった。それは、3度ほどだっただろうか。純哉は、2人の時間の邪魔になると、いつもコンセントを抜いて、おセックスを始めた。純哉の言葉通りに違いないのだが、卵巣が産む女の勘に従えば、朋子は、なんとなく、ちょっと、それに不安を感じていた。

 ところで、先程から、セックスに接頭語の『お』を付けているが、これはある人物の口癖である。その人物の名前は北沢(きたざわ)勝彦(かつひこ)、通称カッチャン。朋子の学生時時代からの、唯一の異性? の友人であった。カッチャンは、17歳の時、長野県佐久地方から、青雲の志を抱いて、家出同然の形で、上京して来たそうだ。高校は、中退だと聞いている。朋子が、カッチャンと知り合ったのは、女子大生の時のアルバイト先であった、新宿の蟹が名物のとある和風レストランで知り合ったのだ。朋子がお店に入った時には、カッチャンは働き始めて4年目で、アルバイトをまとめるチーフ格であった。同じ長野県出身の同郷の誼、奇しくも同じ歳という親近感から、この2人はウマがあった。そして何よりも朋子がカッチャンに気が許せた理由は、カッチャンが、おとこおんな、ホモ、おかま、GAYであったからだ。初心で奥手の朋子であったが、カッチャンには、異性として臆(おく)する感覚はなく、違和感や畏れも抱かなかった。何でも言い合った。何でも相談した。カッチャンから、ズバズバズバと、歯に衣を着せない助言が出た。それがまた、目から鼻に抜ける快刀乱麻。朋子と相性が合うのだから、根は真面目。しっかり者で、レストランの宴会の残り物など、包んで持ち帰るようなしまり屋でもあった。そしてカッチャンは、女子高を出て、女子大を出て、都立の民族博物館の事務員になり、お茶を趣味とする、籠の中の鳥の朋子にとって、下世話な言葉の教師であり、下卑た世間との唯一の窓口でもあった。

カッチャンは、25歳の時、たまたま手伝いで入った、新宿2丁目のとあるゲイバーがキッカケとなり水商売に足を踏み込んだ。そして、しっかり貯めたお金で、27歳の時、お店を持つまでになった。お店の名前はゲイバー『コッコ』 朋子は『コッコ』には行った事はないが、カッチャンとはよくランチなどを共にした。

 さて、愛の恍惚の絶頂期であった朋子は、人にのろけたくて、ウズウズの毎日。かと言って、この手の話し相手は、選定に注意を払わなければ、痛い目にあう。親にも姉たちにも話していなかった。カッチャンはしかし、その相手として申し分のない恰好の人物だった。

「いいわねぇ。うらやまシコ。トモコにもできたんだぁ、彼氏が。奥手のあんたがねぇ。ブス子のあんたが、きれいになったはずよ」カッチャンは、デザートの白玉あんみつを崩しながら言った。このおとこおんなの声は、劣化した粘着テープのようで、朋子以外には、神経にさわる種類のものだった。

「それで、どうなの、あっちの方は?」カッチャンは、今起きたばかりのような腫れぼったい目で朋子を見た。その目はいつも濡れていて目力が強かった。

「あっちって?」

「おセックスよ。何、カマトトぶってんの」

「ああ、そうね。それがね、ちょっと気になる事があるのよ。カッチャンに聞いてもらいたくって」

カッチャンは、急に眼を輝かし、身を乗り出して来た。このおとこおんならしい好奇心が顔を出した。

間違わないで欲しい、根は真面目なおとこおんななのだ。

だが、特定のおとこおんなには、占い師のような、物事を見透かす能力のある者がいる。どのように見透かしているかと言うと、意外にも直感に頼ったりしていない。コンプレックスと言うパンナイフで刺身を鋸挽くように、グニャグニャと手間取った思考で見透かしている。思考と言うより手探りしている感じだ。見透かしながら、攻撃と防護を同時に練っているのだ。つまり、怯えながら戦おうとしているのだ。だから、口から出る言葉は、茶化しの鉄壁と、自虐の鎧に包まれ、計算高く、遠回りしていて、真実、核心、痛い処をグリグリ抉ってくる。これを『意地悪』と呼ぶ人もいる。ただこれは癖であって。真面目さとはまた別のもの。

さて話を戻そう。ここで身を乗り出したカッチャンの好奇心には、そんな特定のおとこおんなの気迫があった。

朋子は、カッチャンに話した。下半身を、舌まで使って執拗に愛撫する彼氏に、その下半身の臭いを気付かれたのではないか、などなどを。

「あんたの、マン臭餃子、きつそうだからねぇ」

「シャワーを浴びていなかった、最初の夜のことが、気がかりなの……」

「最初のイメージって、気持ちの上で後引くからねぇ」と言った時の、腫れぼったい目の上目使いは、その言葉以上に朋子の心に入り込もうと意図した表情だった。これが、意地悪と誤解されるものだ。

「そうなの、実はそれが、一番気がかりなの……。生理後の臭いって、そんなに強くないけど、流石にシャワー浴びていないとね。わたし、ちょっと、あれなの……」

「あれって?」

「人より、臭いが強いかも……、カッチャンが『きつそう』と言う通りで……」

朋子の声は小さかった。

「フフフ、大丈夫よ、男はみんな、そんなものだと思っているし、分かっているわよ。あたしは、例外よ。マン臭餃子は勘弁よ。あれ、キツイわぁ!」

「男って、そんなものなのかしら……」

「だいたい、あんた神経質だからねえ。異常に自分の臭いに敏感になり過ぎるのよ。気を付けた方がいいわよ。ところで、あんた、御返ししてあげてんの?」

「……」

「おフェラ、してあげてんの?」

「いやだぁ。やめてよ。出来ないわよ」

「あんたのことだから、やっていないでしょうね。どうせ、女がしたって、気持ちいい訳じゃあないけどね。でも、喜ぶわよ」

朋子は、それは違うと思った。多分、純哉は、朋子がそんな事をすれば、相当嫌がるだろうと思った。しかし、それは口にしないでいると、

「やり方、教えてあげようか……」とカッチャンは舌で結んだサクランボの枝を、指で摘まみ出した。

「その内、お願いするわ。授業料取らないでよ」

「でも、あれね。マン臭餃子がふやける程、ペロペロするのは、あれよ」

「なに?あれって?」

カッチャンは、外の景色を見ながら、あんこを啜った。この間(ま)は、おとこおんな独特の勿体付けだった。「あれ」についてなかなか口を割らない。朋子は知っていた。やがてカッチャンに我慢の限界が来て、「あれ」について話し始める事を。カッチャンのお根性をとっくの昔に知っていた朋子は、こう言う場合のいつもの手で、興味なさそうにケーキをフォークで崩した。

カッチャンは、わざとらしく、別の話題を振って来た。

「あんた、太らないからいいわねぇ。あたしなんか、飲みたくもない酒太りで、お腹周りぶよぶよ」

確かにカッチャンは、店を出してから急激に太り始めていた。2人は、しばらくデザートに集中していたが、

「あれってね」とカッチャンは、「あれ」を催促しない朋子に根負けして口を開いた。ここで、朋子が興味ありそうに身を乗り出せば、また勿体付けの沈黙が始まる。彼女は気のない振りを装い、カッチャンに顔を向けた。

「Mね」

「エム……?」

朋子の頭に、なぜか、純哉の卒論『マルキ・ド・サドの文章構成における幾何学性についてとその考察』と言う題名が浮かんだ。

「あんた、また、ペロペロされて、キャキャしているでしょう? それが嬉しくてやるのよ。ご奉仕ね。マン臭帝国の皇妃様万歳よ」

「そうかしら……」

「十中八九、当たっているわよ。だいたい人間って言うものはねぇ」

カッチャンの粘質の声が高くなってきた。おとこおんなは、ストレートに対して、尤もらしい事を言う時に、やや高圧的な高揚感を滲ませる。

「だいたい、SかMなのよ。人間は、どっちかの傾向を持っていてね、それがまた、年齢で変わってきたりするのよ。日よって変わる馬鹿もいるかもね。だから、どうしたって言うダニ。関係ないわよ。みんなそうなんだから。S極とM極があってね、その間は、SからMへグラデーションになっていてね、みんな隙間なく、どこかに当て嵌るのよ。あんたの彼氏が、鞭で叩けって言う訳じゃあなきゃあ、どうでもいいのよ」

朋子は黙って頷いた。

「トモコも、Mね」

それも当たっているかもしれない、と思った。MとMのカップルなのわたしたち? とも空想した。その空想の翼に乗って、気持ちが大胆になった朋子は、思い切って知りたい事を、カッチャンに切り出そうと思った。首の皮一枚でも、まかりなりなりにも男なのだからカッチャンは、と。

「あのね、カッチャン。わたし、男の人の気持ちが分からないから、教えての欲しいのだけど……」

「あら、あたしに答えられるかしら」

「彼がね、わたしの下の処をね、口で愛撫する時ね、彼、自分のアレを頻りに擦るの。何だか不潔っぽくって、わたし、嫌なのね。Mって教えてくれたけど、関係あるのかしら。男の人って、あの最中も、やっぱり相手だけに集中している訳ではないのかしら?」

「面白い質問ね」

カッチャンは、白玉をつるりと口に入れると、おもむろにクチャクチャと噛み始めた。朋子は、何を言われるかと、ドキドキした。カッチャンにドギツイ事を言われても、なぜか腹立たしくなかった。それは、おとこおんなの存在そのものが、王侯貴族を取り巻く侏儒(こびと)や道化師のように感じられるからだ。正直な心の奥底では、見下しているのかもしれない。ひょっとすると、朋子が、茶化しの鉄壁と、自虐の鎧のマジックに、かかっているだけなのかもしれない。とにかく、腹がたたないのだ。それに、何を言われても、純哉を愛する気持ちに変わりはない。その事を、朋子自身が一番よく知っていた。

「男なんてものはね」

例によって高圧的な高揚感を伴って話が始まった。

「頭でおセックスしてるって、よく言うでしょ、トモコ。でも、それがどうしたって言うのよ、トモコ。彼が何考えて、ヤッていても、いいじゃない。女って、ロマンチストで、気持ち悪い動物ね。男ってさぁ、一応、あたしも、ソレだけどね、オシッコ出すみたいに、精子出さないと、オツムが変になっちゃうのよ。あんたもヤッてるでしょ、オナニー。男は、女なんて比じゃないのよ。だからね、男は昂ぶるとね、つい出るの。一番身近で、一番気持ちのいいところを知っている自分の手がね。そうなれば、相手に集中しているかどうかは、謎ね」

「そうなのね」

「でも、器用な男ね、トモコの彼って。片手は自分のお股シコシコでぇ、それでもう片方は……。でも片手で、あんたのお股を広げる事は難しいから…、って事は、トモコ、あんた、お股、相当、おっぴろげているのねぇ。ひょっとして、自分でひろげてんの!」

朋子は顔を赤らめた。

「アラ、赤いペンキ、ぶっかけられたような顔になったわよ、トモコ。でも、おセックスの最中に、アレ扱(しご)く人は少数派だとも思うけどねぇ。ズーっと、扱いてんの?」

「そうではないの、時々、手がアソコに行っているって感じ、だと思うの、多分」

「そうだったら、そんなの、普通よ」

「そうなの。わたし、他の人との経験がないから、びっくりしたのよ」

「あら、トモコ。そんな事で、びっくりしてたら、おねんねよ。男の頭の中身を、かち割って覗いてみてご覧よ。と言っても、覗けないけどね。神様は、アラ、誤解しないでよ! あたし神様なんて信じていないから。方便で神様使っているだけよ。神様は、他人のオツムの中が見えないように、都合よく人間を作ってくれたものだわ。平和で呑気に生きられますようにってね。ありがたや、ありがたや」

「純哉さんの頭の中も、凄いってこと?」

「変態かもよ」

カッチャンは、黒目を真ん中にして、ギョロッと目全体を大きく開いた。

「純哉さんが、変態? あの真面目を絵に画いたような人が」

「真面目だから、よけい怪しいのよ。ビデオデッキに、見終わったエロビデオが残っているかもよ。それも射精したところで終わっているテープよ。あんた、今度、確認してみたら」

さすが、おとこおんなだ。気が付くところが細かく、そそのかす言葉が甘い。

「GAYビデオが入っていたりしてね」

「あら、やあね」

「あんた、男とも女ともデキる変態が、この世にはごまんといるダニ。これもアレよ、男と女の趣向の極(きょく)と、男と男の趣向の極(きょく)があってね、その間は、グラデーション。S極M極の話と同じよ。疑ってんの? あたし、金かけないで遊ぶでしょう」

朋子は頷いた。

「伝言ダイヤルでね、ひっかけた男がいるのよ。久しぶりに喰ってやろうと思ってね。それで蜘蛛の巣を張ってたら、引っ掛かったのよ餌食が。新宿の西口のトイレの前で待っているって伝言が残ってたから、店に行く前に、覗いてみたわけよ。そうしたら、そこに、さえない感じの30がらみの男が立っていてね、合図したら、それなのよ」

「あら、その人、コッチじゃないの?」と言って朋子は掌を頬の横に立てた。

「あんた、話はこれからよ。トイレの個室の鍵をしたとたんに、ファスナーを下げてきてね、あたしの目の前に、お宝ポロンよ。その男、あたしに何て言ったと思う?」

朋子は首を横に振った。

「『今、女房とヤッてきたところだけど、出し足りないんだ。それに、やっぱり男の方が、コツ分かってていいや。マンコ臭いけど、咥えてくれよ』ってね。トモコ、アレ、臭いわねぇ。オェって。あんな臭いもの、上の口も、下の口も、ツルカメ、ツルカメ」

朋子は、純哉はカッチャンの言う「男とも女ともデキる変態」にもGAYにも該当しないだろうと思った。朋子に対する執拗な愛撫もそうだが、時には、彼女のお尻の穴にまで興味を示す純哉だ。GAYがここまで、女性を愛撫できるだろうか? それに、例えば街を一緒に歩いている時なども、純哉の視線は、しばしば女性の脚を追っていた。男に視線が行くことはなかった。これからして「男とも女ともデキる変態」でもないと思った。

さてさて、それはさておき、朋子は、他の女の脚に目線をやる純哉を、いやらしいと思っていた。ちょっと哀しいとも思った。しかし、恋愛には忍耐と寛容が必要だ。朋子は、男とはそんなもの、目くじら立てる程の事ではない、と固く固く目を閉ざしていた。朋子にしては上出来だった。

朋子自身はどうなのか。同性に興味があるのかないのか。女子高時代に、女子同士の恋愛を間近に見た。ただ、朋子には全く理解の出来ない恋愛だった。では、他に何か、自分の奥底に、隠されている性癖があるだろうか? ジッと、深く深く、客観的にジッと深く、自分を見つめてみた。敢えて言えば、敢えて言えばだが、アレだろうか、と心当りがあった。それは、マスターベーションの空想の内容である。女子高時代は、憧れの男子や芸能人に優しく愛される空想だった。それが、いつの間にか、見も知らずの男性に無理やり犯される空想になり、時には、泥棒、夜道、電車、トイレなどなどと状況を設定するようにもなった。そんな空想は興奮を昂めた。カッチャンが指摘するまでもなく、わたしはやはりMかもしれない。しかし、それ以外に何が隠されていると言うのだ。鬼も蛇も出て来ない。

純哉もM……、「鞭で叩けって言う訳じゃあない」Mとカッチャンは言ったが、じゃあ、そのM以外に、純哉に何が……。

朋子がそんな思いに耽っていたら、

「トモコ、あんた、そんな事より、他に不安なこと、あるでしょうに?」と、カッチャンが眉間に縦皺を寄せ、腫れぼったい目を三角形にして言った。

「他って?」               

「コレよ」カッチャンは小指を立てた。

「あんたの話を聞いていると、あんたのコレ」と親指を立てて、「おセックス、上手そうじゃない。AVの見過ぎか、他のオンナに叩き込まれた成果ね。大丈夫? 他にいない、オンナ?」と言って黒目だけを朋子に残し、顔を横に動かした。

確かにそうなのだ。純哉のおセックスの精緻な術は、彼女の独り占め感を不安にさせた。女のプライドから口にしなかったその不安を、おとこおんなはグリグリ見透かし、鼻歌でも歌うように口にした。

「そんな人じゃあないのよ。地味な男で、モテたりなんかしないわ。ご心配なく」

「あら、人は見かけによらないものよ……」

カッチャンの声は、のろけたい朋子に水を差し、幸福な気分を面白がって転がし、そして少し妬み、あくまでも粘り付く、そんな感じの音だった。

「二股なんて、そんな器用なことができる人じゃあないわよ」朋子は、自分に言い聞かせるようだった。

「ハハハッ。初心なトモコに意地悪言い過ぎたかしらね。おセックスが上手いのは、あんたに喜んでもらおうとしている気持からよ。まあ、他のオンナと同時進行でなかったら、あんたも上手い相手の方がいいでしょう? 万歳、万々歳よ。もしね、もしよ、他にオンナがいるか不安になったら、いつでもご相談ください。あたしに一晩貸してくれたら、正確なご報告ができるわよ。ご検討あれ。フフフ」

おとこおんなの粘度の高い含み笑い声が、朋子の顔に貼り付いた。


 朋子の顔に貼り付いていた、カッチャンの含み笑い声は、1週間経っても剥がれなかった。カッチャンに、ウズウズ溜まったのろけのガス抜きをした積りが、思わぬ宿題を彼女に課したのだ。精緻な術のおセックスは、卵巣が産む女の勘に従えば、ただならぬ不安をやはり醸成する。『気のせいだ』『考え過ぎだ』と線引きして済ますのは、甘い考えだったかもしれない。朋子は、そう思うようになってきた。おとこおんなの含み笑い声が、純哉の地味な容貌の幕のコッチ側から、朋子の背中を押した。不安はこの際、すべて払拭しておかなければならない、と思った。幕の向こうに、何もない事を祈りながらだ。何しろ、おセックスにまで進んでいる2人なのだ。……、

幕の向こうに留守番電話のライトの点滅があった。赤い点滅。

コンセントを抜く純哉。

不自然な行動。

実しやかな言い訳。

あの3つ半の、その半だった不安は、彼女の不安そのものに化け始めた。

よく考えてみれば、純哉の希望で朋子の部屋で過ごす事が多い。すべて悪い方で辻褄が合う。そんな思考連鎖をしていたら、居ても立っても居られなくなってきた。彼女の弱点・不幸のひとつは、裏切りに免疫がない事だ。裏切り、嘘、欺瞞。彼女がこれらに,全く縁のない生活だった訳ではない。しかし、そんなものを仕掛けられても、気が付かなかった程に、穏やかな日々を過ごしてきたのだ。

 さて、どうやって、あの留守番電話のボタンを押すかだ。まさか彼女が押す訳にはいかない。純哉に押させる事も無理だ。となれば、偶然に押すチャンスを作る以外にはない。女の緻密な計画が始まった。

 朋子は、化粧ポーチを、あのボタンの上に落としてみようと思った。偶然、落ちたと装ってだ。何度も、自分の電話機で試した。なかなか思ったようにはいかなかった。重さが足りないのだと思った。観葉植物に敷きつけていた小石を洗って、化粧ポーチに詰めてみた。そうすると、10回の内4回は成功した。今度は、落とす力加減を色々試した。その結果、10回の内8回は成功するようになった。

 次の課題は、純哉の部屋に出来るだけ行くように仕掛ける事だ。土曜の昼に会って、朋子の部屋で過ごし、日曜の夕方に純哉が帰る、それがいつものパターン。これを、何かと理由を付け、池袋で会い、その流れで雑司ヶ谷に行くように仕向けようと画策した。その際、ビデオデッキの中身も確認しよう、と朋子は思った。

 さて、この危険な冒険を実行しようと、純哉の部屋で過ごす日は増えた。ただ、留守番電話のライトが点滅している事は、こう意識してみると無かったのだ。朋子は、やはり、『気のせいだ』『考え過ぎ』だったと思った。付け加えると、ビデオデッキの中も、いつも空っぽだった。

 クリスマスイヴは、純哉の提案で、池袋の東京〇〇劇場でバッハの『クリスマス・オラトリオ』を鑑賞した。イヴを2人で過ごすこと自体、他にオンナがいない証拠だった。やはり、『気のせいだ』『考え過ぎ』だったと朋子は確信した。コンサート後、遅い夕食を済まし、雑司ヶ谷の純哉のマンションに向かった。

 空気の澄んだ無臭の純哉の部屋は、留守番電話のライトで赤く点滅していた。朋子は、純哉からプレゼントされたカシミヤのストールを脱ぎながら、ライトの点滅を見つめた。そして、あの危険な冒険を試みようと決意した。ストール以外に、恐ろしいプレゼントが待っているかもしれない。イヴだけに、リアルで、怖い。朋子はバッグを電話機の台の下に置き、震える手で、化粧ポーチを取り出した。そしてライトの点滅に鋭い視線をやって、「あら、」とポーチを落とした。

ポーチはボタンを掠り、床に落ちた。

ボタンは押されなかった。

「ごめんなさい。手が滑って」朋子はポーチを拾うと、洗面所に行き、化粧直しの真似をした。

今日こそは確認しよう。どう言い出せばいいのだろう。言葉の小細工はしない方がいい。そのまま、自分の愛している気持を伝えれば、純哉は分かってくれる筈だ。

 純哉はソファーに座っていた。テーブルに飲み物が2つ用意されていた。ヴァイオリンの音楽が流れていた。純哉は朋子を見ると、薄い唇の口角を吊り上げて、白い歯で微笑んだ。あどけない笑顔。可愛い人。

「この曲、何?」朋子は純哉の横に座った。

「バッハだよ。無伴奏のソナタだよ」

「純哉さんって、本当にバッハが好きなのね」

純哉が唇を求めて来た。朋子は素直に応えた。

「ねえ、純哉さん。今まで何人の人とお付き合いされてきたの?」

「えっ、突然! イヴに変なこと聞かないでほしいんだよね」

「ごめんなさい。でも、わたし、純哉さんのこと、本当に好きだから、知りたいの」  

「嫌だよ。こんな夜に」

「お願い、教えて。拗ねたりなんかしないわ」

「……」

「わたしは、純哉さんが、お付き合いする初めての人よ。信じて」       

「信じているよ」

「3人ぐらい?」朋子は妥当な数を口にした。

「それぐらいだよ」純哉は白い歯を見せて笑った。この歯に、オンナ3人の細菌がいるのかと思った。でも、許そう、過去の3人。

「最初はいつ?」

「もう、いいだろう。」

「お願い」

「最初は高校生の時。次は大学の四年の時。それから26歳ぐらいの時。以上、報告終わり。」

朋子は、その3人に、やはり軽く妬んだ。純哉を理解したオンナが3人いたのだ。純哉にも妬みを感じた。朋子は分かっていた。むしろ、誰とも付き合わなかった自分の方が変わっている事を。だから、やっぱり、3人を許せた。許せないかもしれないのは、赤い点滅。純哉がコンセントを抜く、あの赤い色。

「純哉さん」

「なに?」

「どうして、留守番電話のメッセージを聞かないの?」

純哉の顔色が変わった。

「ごめんなさい。本当に許して。わたし、本当に、心から純哉さんのことを愛しているの。だから、わたしの不安を払って欲しいの。分かって、お願いだから分かって」

朋子は涙目になった。純哉は、朋子の涙を指で拭いた。

「お願い。ボタンを押して」

純哉は、白い歯で薄い下唇を噛むと立ち上がり電話機の方に歩いた。そして、躊躇わずボタンを押して、キッチンの方に行った。

「2件の新しいメッセージをお預かりしています。最初の新しいメッセージ。12月24日午後9時3分。『ガチャリ』。」朋子の鼓動の状況描写は、作者の力量では無理である。朋子は、キッチンで冷蔵庫を探る純哉の背中に「ごめんなさい」と心で言った。

「次の新しいメッセージ。12月24日午後9時34分。「純也さん、メリークリスマス」それは、若いオンナの声だった。……、と言うのは嘘だ。その声は、年齢で言えば60歳手前かと思われる女性の、高い、澄んだ、上品なものだった。そしてこう続いたのだ。「お仕事、毎日遅いのね。大変ね。ところであなた、今度のお正月は帰ってくるのでしょうね。お盆は、なんだかんだで顔見せてくれなかったけど、お正月はお父さんも楽しみにしているのだから、必ず帰って来てね。お願いよ。お仕事、頑張ってね、だけど、無理をすると、身体がもたないからね。ほどほどにね。じゃあね。おやすみなさい」

 何度も言うようで、恐縮なのだが、現実とは決して期待するように、ドラマティックなモノではないのだ。びっくりするようなコトが、生身の人間に、そう簡単に襲い掛かって来るようでは、純哉の母親が心配するように、身体がもたない。主人公朋子の隣には、いつの間にか、キッチンから戻った純哉が座っていた。テレて、キッチンへ行ったのだろう、手ぶらで戻って来た。

朋子さん、良かったね。

すべて、『気のせいだ』『考え過ぎだ』だった訳だね。めでたし、めでたし。

 

 年が明けて、1月4日の夕方、純哉と朋子は目白駅で待ち合わせをした。大晦日を一緒に過ごし、元旦の朝に、千葉と長野に切り裂かれた2人だった。その4日間の寂しさを補うように、2人は手を繋いで、目白通りを歩いた。

 部屋に入ると、抱き合い長いキスをした。

純哉は、「ちょっとシャワー浴びてもいいかなぁ。気持ち悪かったんだ」と言って、郵便受けから取り出した年賀状の束をテーブルに投げた。

「ええ、わたしも後で、シャワー浴びさせて」

「一緒に浴びようか」

「バカ。エッチ」

純哉は、コートとジャケットを脱ぎ、クローゼットのハンガーに掛けていた。

「ねえ、年賀状、見てもいい?」

「ああ、いいよ」

朋子は束の輪ゴムを外した。分厚い束だった。純哉の交友関係の広さに驚いた。バスルームから、シャワーの音が聞こえて来た。

 年賀状は、月並みな挨拶ばかりだったが、中にはチラホラ、写真付きで、結婚報告の幸福や、赤ちゃんが出来た喜びなど、家庭的な暖かみが伝わる言葉も混じっていた。読む朋子は、他人事とはいえ、自分の未来の空想が広がり、明るい幸福な気分に浸っていた。

 そこへ、差出人のない年賀状が出てきた。裏返すと、黒の縁取りがしてあり、上半分にベターッとカラー写真が貼ってあった。その写真には、箱根の案内板の前に立っている男女が映っていた。男をよく見ると、それは純哉だった。

ドキリンコ。バク、バク、バク、バク……。

朋子の心臓の鼓動だ。上手く書けない。擬音語でまた誤魔化してしまった。こう言った場面こそ、気の利いた一行を挿(さ)したいところだ。まま悩まないでおこう。物語の先を急ごう。

横のオンナは、幸せそうな笑顔で頬を純哉の方へ傾け、その手は純哉の手と繋がっていた。美人とは、お世辞にも言えなかった。白い蛾のような化粧をしていた。流行の赤いタイトなワンピースから細い脚をむき出しにして、微笑んでいた。微笑んでいても、性格と意志の強さが滲み出ていた。写真の下に、次のように書かれていた。

『恨んでいます。でももういいです。ここまであなたに無視されたら、私にもプライドがあります。あなたの事は、きれいさっぱり忘れます。年末にあなたとの思い出はすべて捨てました。最後にこの写真が残りました。これは差し上げます。そしてこの写真が新しい恋人の目に留まるよう念じて投函します。お幸せに。謹賀新年』。写真の日付を見た。2か月前の11月6日だった。

朋子は、年賀状をベッドに投げ捨てた。そして、コートとバッグを手にすると、クリスマスプレゼンのカシミヤのストールは置いたまま、純哉の部屋を出た。速足で歩く目白通りは風が強かった。

めでたし、めでたし、ではなかったのだ。


 「まあ、おめでとうございます」

「おめでとうございます」

岡本先生のお宅で『初釜茶会』があった。

朋子は、お手伝いで、台所と点心席を忙しく行き来した。

点心席では、半オクターブ高い、取り澄ました女性客の挨拶が「おめでとう」「おめでとう」と幾重にも交わされていた。

朋子はその中を、膝をにじらせながら働いた。

あの1月4日から2週間が経っていた。

どんな2週間であったか、簡単に話そう。

1月4日。朋子が自分の部屋に着いたのは、夜の8時だった。留守番電話のライトが点滅していた。彼女はなぜだか、留守番電話の点滅に振り回わされている。

朋子はコンセントを引き抜いた。

それから、年賀状のオンナの細菌がなくなるまで歯磨をした。

夜の10時前、就寝しようとしたら、玄関にベルの音とノックがあった。朋子は照明を落とし布団を被った。

10分後にまたベルがなった。

今度は耳を塞いだ。

翌朝、玄関のドアーに紙袋が置いてあった。カシミヤのストールが入っていた。

ストールの上に紙が一枚。紙には『ゴメン。許してください。話をきいてください』と走り書きがしてあった。

朋子はためらわず、それを袋ごとゴミ箱に捨てた。

週末は松本に逃げた。

驚く両親に、急におばあちゃんが心配になって、と無理な理由を繕った。

2週間の間に手紙が5通。その内、1通は玄関へ置手紙。手紙は封を切らずに、すべて捨てた。

電話はコンセントを抜きっぱなし。

玄関先に人がいる気配が2度あった。気配があっても、ドアーの覗き穴には行かなかった。

朋子は、会いたくて、会いたくて、会いたくて、顔も見たくなかった。

憎くて、憎くて、憎くて、やっぱり好きだった。

可愛くて、可愛くて、可愛くて、卵巣が泣いた。

それでも、恨んで、恨んで、恨みの匙が卵巣の未練を抉(えぐ)った。

 『初釜茶会』のお客様がみんな帰り、朋子はひとり、台所で片付けをしていた。流しの隅の、ガラスのコップに、紅白の椿が一枝ずつ挿してあった。床に飾られなかった椿だ。彼女は洗い物の手を止め、その白い一枝を鼻に持っていった。匂いは薄かった。

朋子は虚ろを見ながら、椿で首筋を撫ぜた。

 「朋子さん。」

ハッとした朋子。

「あっ、はい、先生。今日はいろいろ勉強になりました。ありがとうございます」

岡本先生が朋子の後ろに立っていたのだ。

「こちらこそ、助かりました。ありがとう。ところで、〇〇先生がね、帰りしなね、八寸の、海の物山の物(茶懐石での八寸の食材)の位置が逆さまだったって、おっしゃっていたわ。他のお客様からも、海の物山の物を付ける時、両細箸を使い分けなかったって、ご指摘いただいたのよ。朋子さんらしくないわね。ホホホ。後のお片付けは、私がしますから、お茶室で、一服いかが。私が点てます」

「でも、先生。もうすぐ片付け終わりますから」

「いいの、いいの。私がやります。お茶を頂きましょう」

朋子はエプロンを外し、茶室への廊下を歩いた。

 釜からは、しーしーしーっと松風が聴こえた。

床柱に掛かった青竹の花入れには、紅白の椿一輪ずつ、そこから畳に、結び楊が滝津波。軸は、先代お家元の筆で『寿』一字。

楊の枝の切り口から水が一滴、ポタリと畳を打った。

 「はい、どうぞ」

朋子は膝行して茶碗に寄り、茶碗を持って座に戻り、茶碗を回してひと口。

「結構なお福加減で」

岡本先生は、頬骨を上げ笑顔でお辞儀をした。そして、仕舞茶碗に湯を注ぎながら、

「この前の日曜日に、うちに、色川さんがいらっしゃったのよ」と一言。

朋子は、茶碗を口にしたまま手が凍った。

「全部、伺いました。お辛いでしょう。可哀想にね。私と須藤先生とがお合わせしたのだから、責任があります。本当にごめんなさいね。気持ちはまだ、落ち着いていないでしょう。分かります。分かりますとも。本当に、ごめんなさいね。私、ううんと色川さんに、お灸を据えておきましたからね。純情な貴女を裏切るなんて、許せませんからね。でも、朋子さんね。もし、もしよ、貴女に、色川さんを思うお気持ちが、ほんの少しでも残っていたら、色川さんを許してあげて欲しいの。ごめんなさいね。泣かないで、泣かないで、朋子さん」

「……」朋子は言葉なく、頷いて泣いていた。

「男の人は、色々あります。色々ありますとも。だからと言って、色川さんのした事は、許される事ではないわよね。分かっていますよ。分かっています。でも、許してあげる事は出来ない? あの方は、根は良い方よ。私と須藤先生の目を信じてね。ただ、ちょっと、男の人の弱さに負けたのね。私は、貴女より、長生きしているから、分かるのよ。亡くなった主人も、色々ありました。ありましたとも。今では、あれも、ただの思い出、笑い話です。笑い話で過ぎ去っていく事に囚われて、大事な物を失ってしまうのは、とても残念な事よ」

「……」

「私がね、はっきり言える事はね、色川さんは、貴女の事を、それはそれは大切に思っていらっしゃる、って、その事よ。太鼓判を押すわ。心底から愛していらっしゃるのよ。だって、考えてご覧なさい。そこまで思っているから、須藤先生に私の住所を聞いて、わざわざお訪ねになったのよ。中途半端なお気持ちでは、これは、出来ない事よ。色川さんの、畏まった、切実とされたご様子、朋子さんにお見せしたかったわ。丁度、貴女が座っているその場所に、縮こまっていらしたのよ。貴女、色川さんからのお手紙とか、読んでいらっしゃらないでしょう? 当たり前の事です。当たり前の事ですとも。でも、今日は、少し落ち着いて、もう一度、考えて頂きたいのよ。お願いします」

岡本先生は、畳に手を突き頭を下げた。

「先生。先生が、頭を下げられる事ではありません。それに、須藤先生の事も、岡本先生の事も、まったく責める気持ちなんて持って

いません」

「いえ、責任があります。ありますとも。お合わせしたのは、私達なのですから。ただ、少しは色川さんのお話も、聞いてあげて欲しいのね。あのね。実は、色川さんからのお手紙を預かっているの。そんなに、びっくりなさらないでね。これなのよ」と懐から抜き出す封筒。たじろぐ朋子。

「今、ここで、封を開けて読んで欲しいの」岡本先生は、朋子ににじり寄り、封筒を差し出した。

「家に帰って、読ませていただきます」

「いいえ、ここで読んでいただきたいの。どうしても、ここでは、読めませんか?」

岡本先生は、俯いている朋子の顔を、優しい目で見上げた。

「……」

「……」

「先生……」

「どうしても無理なら、いいのよ。本当にいいのよ。どうしても無理なら……」

朋子は、封を銀の菓子切りで開けた。岡本先生は点前畳に戻り、お点前の仕舞の所作を始めた。

朋子は、三つ折りの便箋を開いた。そこには、次のように書かれていた。

『封を切ってくれてありがとう。

まず謝らせてほしい。ごめんね。

許してもらえないだろうけど、本当にごめん。僕が全部いけない。あなたのように、純粋な心を持った人を傷つけてしまった。最低の男だ。この最低の男が、これから言い訳を書く。続けて読んでほしい。

年賀状の女性は、あなたに初めて会ったお茶会の3週間前に、友人の紹介で知り合った。仲間内でやった多摩川のバーベキューパーティーで紹介されたのだ。

須藤先生から、お茶会のお誘いをもらったのは、バーベキューパーティーの2週間後だ。須藤先生は、そのお茶会で、あるお嬢さんを紹介したいと言われた。それが朋子さん、あなただ。

お茶会の日、僕はあなたに惹かれた。この話はもう何度もしているね。繰り返さなくてもいいよね。

お茶会の日は、土曜だった。その日の夕方、年賀状の女性から電話があった。

今、目白駅にいるから夕飯を一緒にどうか、と誘われた。僕も、夕飯前で、丁度タイミングがいいと気安く承諾した。本当に気安くだった。友達として紹介された女性が、たまたま近くにいるから声を掛けてきた、とそう思った。

彼女は、僕より2つ年上だ。いろんな意味で、積極的な女性だった。僕は、彼女の押しに負けてしまった。僕はその時、あなたとこんなに深い関係になるとは、想像していなかった。電話番号まで聞いていて、想像していなかったとは、情けない言い訳だが、正直なところだ。

僕が、一週間近くもデートの誘いの電話をあなたに出来なかったのはこのためだ。電話番号は間違っていなかった。ついてはいけないウソだった。ごめんね。

彼女と別れたのは、あの年賀状の写真を撮った箱根の帰りだ。だからその間、二股を掛けていたと責められれば僕に言葉はない。でもこれだけはハッキリ言える。

僕はあなたが好きだった。あなたは優しい素敵な人だ。あなたと過ごす時間は、とても楽しかった。

あなたは、僕からの優しい言葉を待っていたね。手に取るようにわかっていた。いじらしくて、可愛くて、1日も早く彼女との関係を切ろう、切って身も心もきれいになって、僕の気持をあなたに伝えようと思っていた。僕は、その機会を作ろうと必死だった。でも僕は弱い人間だった。彼女の強さに引き摺られた。あなたを裏切ったまま時間だけが過ぎた。本当にごめん。

あなたと初めて一晩を共にした時、僕は決意した。今後こそ絶対に関係を絶つと。

別れは箱根の帰り、新宿駅で告げた。一生懸命に話した。でもなかなか理解してくれなかった。不意にマンションに訪ねて来ることさえあった。僕は徹底して彼女から逃げた。週末をあなたの部屋で過ごそうとしたのは、そのためだ。やがて、彼女は訪ねて来なくなった。

イヴの夜、あなたは留守番電話のボタンを押して欲しいと言ったね。僕は、彼女の声が流れるのではないかと恐れた。もし流れたら、どう説明すればいいのか分からなかった。分からなかったけど、これ以上の誤魔化しにも耐えられなくなっていた。僕は、言い訳の言葉も整理できないままボタンを押した。

2つメッセージが残っていたよね。最初のメッセージは、多分、彼女からのものだったと思う。しかし、そこには僕を罵る言葉なく、無言だった。彼女はイヴの夜、本当に別れてくれたと僕は思った。

あの年賀状に書いてあったとおり、彼女との関係は本当に終わっている。自分勝手な事を言うようだが、もう一度、僕のもとに戻ってきて欲しい。

僕は、生涯、あなただけを愛し、大切にする。

それでももし、あなたが許しくくれないのなら、その時は潔く諦めるつもりだ。

僕は今また、あなたに決断を求め、あなたを苦しめているかもしれない。

でも、あなたを失いたくない。

僕のもとに戻って欲しい』

 岡本先生は、水指に水を注いでいた。そして、水次薬缶の口を閉じると、朋子の方に身体を向けた。

「お読みになりました? 私は、お2人の間の細かい事は分かりません。でも、だいたいの事は、色川さんからお聞きしましたし理解します。生きていると、色々あります。ありますとも。でも、朋子さん、色々あっても、それはそれ、です」

岡本先生は、頬骨を吊り上げて微笑んだ。


 通夜が明けた火曜日の朝、朋子は6時に目覚めた。白っぽく乾いてひび割れた午前6時だった。蚊取り線香のような香は、まだ、おっとり燻(くすぶ)っていた。純哉はと、棺を覗いたら硬い強張った表情のままだった。

朋子はその硬い表情に「おはよう」と声をかけた。

排泄物の臭いが鼻を突いた。

純哉の気難しそうな顔は、このせいだろうか?

朋子は、自宅マンションに戻る身支度を始めた。祭壇を見上げると、遺影の優しい眼差しが寂しそうだった。

「ちょっと留守にするだけよ」

朋子は、実際に口にして言った。

一階のフロントには誰もいなかった。

朋子はベルを押した。チン!

「おはようございます」

眠気(ねむけ)眼(まなこ)の男性従業員が出て来た。

「おはようございます。2階をお借りしております色川です」

「色川様、何かご用でございますか?」

「朝早くから申し訳ございません。一旦、自宅に戻ろうと思いまして、タクシーを呼んでいただけませんか?」

「畏まりました。今、すぐお呼びしても大丈夫ですか?」

「はい、お願いします。あと、それと、今朝、主人が臭いますの。排泄物が漏れているのか気になったのですが、確認していただくことは可能ですか?」

「畏まりました。申し伝えておきます」

「すみません。朝早々に変なお願いをして……。主人は神経質な人だったので、お願いしますね」

「承知いたしました。ドライアイスの確認もさせておきます」

朋子は、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

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