第34話 予告

「こうして、おにいちゃんと一緒に帰れるなんて思ってなかった」


 最寄りのバス停からの道中、幼馴染がしみじみと呟く。

 ちらりと横目で見ると、とても穏やかそうな表情がそこにはあった。


 地元の駅からはバスに乗った。ギリギリ歩ける距離だが、電車の中での姿を思うと、その提案をする気にはなれなかった。

 実際バスの車内でも、葵ちゃんはかなりうとうとしていた。それでも、歩いているうちに少しずつ目が覚めてきたらしい。


「小学校のときなんかは毎日一緒に帰ってただろ?」


「そうだけど。かなり昔の話だし、それにあのときは――」


 不自然に話すのを止めると、葵ちゃんは結局そのまま押し黙ってしまった。口を真一文字に結んで、視線をやや下向きに固定する。


 続く言葉はなんとなくわかった。

 あの頃登下校を共にしていたのは、この子だけじゃない。藤代とだ。

 たぶん俺たちの関係が最も穏やかだった時代。ほんの数年前なのに、今でははるか昔に感じてしまう。そして、もう二度とあの頃には戻れない。


 嫌なことを思い出させてしまった。昔のことを持ち出すことは、俺たちの間ではずっとタブーなんだろう。共通の話題が眠る宝物庫なのに、その鍵は固く閉ざされている。


 幼馴染の異変には気づかなかったフリをして、俺は気安い笑みを作った。


「正直、俺も少し不思議だ。ちょっと前までは、同じ高校だってことも知らなかったのにな」


「それは……ホントはね、合格発表の日に伝えに行こうかとも思ったんだ。でも、家の前まで来て結局引き返した」


「……全然知らなかった」


「今初めて話したんだから、当たり前だよ」


 おにいちゃんってば、と声を上げてお隣りさんは笑う。

 ちょっと大げさに。一瞬立ち込めた重苦しい空気を振り払うように。


 その脆い感じのする笑顔を、俺はじっと眺めていた。

 あっけらかんに明かされた出来事に、少し心が痛む。俺はどれだけ、この小さな女の子に気を遣ってもらっていたのか。無自覚を恥じて、悔いる。


 やがて、仙堂の家と藤代の家が一直線上に見えてきた。

 バス停は小中学校とは違う方向にある。つまり、この道を誰かと共に歩いたのは本当に初めてだ。

 遠い過去にこの子と登下校したことはある。でもそれは、今この瞬間と似たような出来事であって、全く同じ経験じゃない。


 ここから始まるのかもしれない。幼馴染との新しい関係が。

 いつまでも、過去にこだわっていてはいけない。いい加減、未来に目を向けるべきだ。

 そのためには、避けては通れない関門がある。最近は、そのことばかり考えている。


「なあ、最近あいつどうしてる?」


 藤代家まで1分もしないところで足を止めた。

 せっかく遅くまで残ったのだから、この子と一緒に下校したかった。

 それは本当だ。でも、確かな用事が――打算がそこにはあった。


「あいつって……姉のことですか」


 葵ちゃんもピタリと足を止める。

 けれど、決してこちらを振り返ろうとはしない。


 一気に堅いものへと変わった口調。丁寧な言い回しには、確かな棘を感じた。

 それは果たして、誰に対してか。


 それでも、自分から切り出したのだから、ひっこめるわけにはいかない。それじゃあ同じことを繰り返すだけだ。


「ああ。妹の目から見て、あの頃から少しは変わったのか。その、昔のことを反省しているとか。実際のところはどうなのかなって」


「どうなんでしょう。もうずっと、ちゃんと口きいてないから。絶縁したって、言いましたよね」


 他人行儀な口ぶりには、どこまでも感情が籠っていない。機械のアナウンスと話している気分だ。

 その背中は、ひどく遠く感じてしまう。


 あの女の話を持ち出してはいけない。

 それはさっき実感したばかり。

 俺と同じかそれ以上の嫌悪感を、この子は姉に抱いている――


 仲のいい姉妹だった。

 少なくとも俺の目にはそう見えた。

 姉妹は共に、互いのことを想っていた。姉はいつも妹を気遣い、妹はいつも姉に甘えていた。記憶の限りでは、特に大きな喧嘩もなし。


 全てを台無しにしたのは、間違いなく姉の方だ。

 そもそも、俺とあいつが付き合わなければこんなことにはならなかった。果たしてこれは、自意識過剰な見方だろうか。


「そんな顔しないで。おにいちゃんが悪いことなんてないよ」


 言葉を探していると、いつの間にか、葵ちゃんはこちらに振り向いていた。

 その声は、どこまでも優しい感じがした。


「……ちょっと前に似たようなこと言われたよ。浮気した側が、問答無用で悪いってな」


 例のクラスメイトの顔を思い浮かべながら、意識的に笑いかける。

 きっかけはあいつとの出会いだった。それが紆余曲折を経て、俺の心をこんなにも捻じ曲げた。

 それでも、前へ進むと決めたのは自分だ。それだけは譲れない。


 こちらの答えに、今度は向こうの方が少し微妙そうな顔をした。何かを言いたそうな雰囲気を感じる。

 それでも、向こうがそれ以上言葉を発してくることはなかった。視線を逸らして、ただ時間だけが無機質に流れていく。


「あいつとちゃんと話をつけようと思うんだ」


「どうして? おにいちゃんはもう十分、あの人と向かい合ったと思うよ。あの直後に一回、つい最近、向こうからの暴走で一回。それでいいじゃない」


「どっちも、ただ俺の感情をぶつけただけだ。ちゃんとした幕引きにできてない。だから、いまだに引きずってるんだ。あいつの本当のところは知らないけどな」


「必要ないと思うけど……」


「かもな。だから、結局は俺の自己満だ」


 元恋人の妹は、じっとこちらの瞳を覗き込んでくる。

 言葉の真意を探るように。決意を確かめるように。

 一つしか歳が変わらないのに、本当にしっかりしていると改めて想った。だというのに、この姉は……。


 それ以上の会話はなかった。

 ほどなくして、相手の方がくるりと背を向けた。

 そのまま自分の家へ向かって歩いていく。


 ゆっくりとそれに続く。

 見慣れた隣りの家を一瞥して。二階の部屋のカーテンが全て閉まっているのを確認して。


 この家の前を通りたくないから、雨が嫌いなのかもしれない。

 今初めてそんなことを想った。


 先を行く少女が曲がったところを、そのまま素通りする。

 二度とその門を潜ることはないと思ったが、今後どうなるか今の俺にはわからない。

 でもたぶん、訪問先は変わるだろう。


「おにいちゃん!」


 家に入ろうとしたところで、呼び止められた。

 相手からそこまでの大声を聞いたのは、初めてだった。


「また一緒に帰ろうね。あと、約束忘れないでよ?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべると、その姿はあっという間に家の中へと消えていった。


 ふと空を見上げると、どこかの部屋のカーテンが少し揺れた気がした。

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