第33話 帰り道

 夕暮れが迫る校舎の中、急ぎ足に玄関を目指す。待ち合わせ時刻は数分前に過ぎている。

 思いのほか長引いてしまった。具体的には、生徒会長の長々とした最後の挨拶かもしれない。

 というふざけた逆恨みと、ひりつく焦りを抱えて、玄関を飛び出した。靴ひももろくに結ばずに。


「悪い、遅くなった」


 外に出てすぐのところに、待ち人は立っていた。

 声をかけると、その顔がゆっくりとこちらを向く。つり目がちで、少し勝気な印象を受ける顔立ち。


 こちらに比べて荷物が多いように見えるのは、やはり部活終わりだからだろう。

 ただ、髪型や服装には小さな乱れもない。特にその印象深いポニーテールは、今日もまた魅力的なカーブを描いている。


「ううん。大丈夫。あたしも今来たところだよ。練習ちょっと長引いちゃったから」


 にっこりと微笑んでくれたが、どうにも気を遣っている感じは抜けない。

 おそらく、今のは俺に話を合わせてくれただけなんだろう。昔から、この子にはそういうところがある。


「じゃあ行くか」


「うん!」


 肩を並べて歩き出す。

 横目に確認すると、ぴょこぴょこと束ねた髪が揺れている。


 高校生活で誰かと一緒に下校する日が来るなんて、少し前の俺なら全く想像できなかったことだ。しかも、その相手がお隣りの幼馴染だとは。

 人生何が起こるか分かったものじゃない。というのは、ちょっと皮肉が過ぎる。


「ところでさ、おにいちゃん。今日は自転車じゃなかったんだ」


「……え、ああ、まあたまにはいいかなって。なんだかんだしんどいし」


 いきなり問われながら、努めて冷静にはぐらかす。

 実際には、我が相棒は狛籐の駐輪場に放置されたままだ。雨降りでもないのに、初めてだ。


 同時に、ふとあることに気が付いた。


「って、なんで知ってるんだ? 話したっけ」


「部屋から見えるから——あの、その、偶然目に入っただけで! そんなずっと見てるとかじゃないからね!?」


「わかってるって。そもそも何も言ってない」


 真っ赤になって慌てふためく幼馴染は、ひたすらに可愛らしい。すっかり成長したと思ったが、子供のころの名残がこんなところにも。


 ちょっと視線を上にずらして、藤代家の見取り図を頭に描く。

 二階に上がって右手が葵ちゃんの部屋だったはず。知ってはいるが、入ったことはない。子供のころはリビング、中学時代は違う部屋が訪問先だった。


 ともかく、構造上はうちの玄関先の様子は見えるだろう。事実、大きな窓がついているのには気づいていた。

 しかし、見られていた、とは少しだけ恥ずかしい。そんなこと、今の今まで全くわからなかった。


「部活はどうだ。結構、大変そうだけど」


 動揺を気取られないように、さらっと話題を切り替えてみた。

 葵ちゃんにも気にした様子は無かった。顔に手をやって、少しだけ何かを考え込っみ始める。


「まあ、練習は厳しいかなぁ。でもようやく慣れてきたところ」


「そっか。楽しい?」


「もちろん!」


 こちらを見上げてくる表情はキラキラとして眩しい。楽しさがよく伝わってくる。

 リタイアした身としては、少し嬉しい。それが筋違いな感情だとわかっていても、心がほっこりしてしまう。


「お兄ちゃんは、もう全然バドミントンしてないの」


「体育の授業ぐらいだな。そもそも独りじゃできないし」


「じゃあ、やりたいとは思うんだ?」


「まあそれは。久しぶりに、思いっきり身体を動かしたくはあるな」


 今日は特にそう感じた。

 終わってみればそこまでの重労働ではなかった。

 それなりに、俺の身体はすっかりくたびれている。我がことながら、本当に情けない。


「そうなんだ。だったらさ、今度一緒に……バドミントンしない?」


 おずおずと誘ってくる瞳は、ちょっと不安そうに揺れている。

 心なしか、まばたきの回数も多い。上目遣いは、こちらの前向きな答えを期待しているようだった。


 同じ部活だったのに、葵ちゃんとバドミントンをしたことはない。もとより、中学時代は姉の方との関係が中心だったわけで。

 軽く考えただけでも、とても魅力的に思えた。一つ問題があるとすれば、俺の方にあまりにもブランクがあることぐらい。現役のこの子に、ついていける気はしない。


「悪くないけど、俺でいいのか? 練習相手としては物足りないぞ」


「じゃなくて、おにいちゃんがいい。おにいちゃんじゃないと、ダメなの」


 葵ちゃんの顔はもう真っ赤だった。それでも、一途にこちらの瞳を覗き込んでくる。うるうるとして、とても熱っぽい。


 体温が微かに上がった気がする。少なくとも、顔には熱を感じている。

 とうとう、逃げるようにして視線を外した。年下の幼馴染のまっすぐな視線を受け止め続ける度量が、俺にはなかった。


「……まあそういうことなら」


「やった! 約束だよ」


 パーッと輝く表情。先ほどの不安そうな感じは、余韻を残らないほどに吹っ飛んでいる。歩いてなければ、ぴょんぴょんと跳ねだしそうだ。


 そんなに喜ぶことだろうか。

 疑問には思うが、悪い気はしない。葵ちゃんには、なるべく嬉しそうにしていて欲しい。それが確かな本音だ。


 そんな風に雑談を繰り返しているうちに、駅に着いた。

 電車はまだ来ていなかった。軽口を叩き合いながら、葵ちゃんと一緒にホームで待つことに。時間帯もあって、周りに狛籐生の姿は多い。


 行きも帰りもいつも一人だった。

 だから妙に慣れなくて、むず痒い。吹き曝しの中、隣りに誰かがいることに。軽やかに言葉を交わしていることに。

 けれど、意外と心地よく感じる自分もいる。幼馴染は無条件に気が許せる相手……というのは、やはり当人によるだろう。


 ほどなくしてやってきた電車の中は、ひどく混み合っていた。

 なんとか居場所を見つけて、幼馴染と共に一息つく。その距離は肩同士がぶつかるほどに近い。


「この時間、いつもこれくらい混んでるのか」


「そうだよ。そっか、おにいちゃんは帰りもっと早いから知らないのか」


「ああ。付け加えるなら、電車を使うのは雨の日だけだしな」


「なるほど。うーん距離考えると、どっちが楽かはわかんないね」


 ちょっと考えるような仕草をして、葵ちゃんは呆れたように笑った。首を傾げた時に、高い位置で結んだ髪が揺れる。


 それ以上、会話が続くことはなかった。電車の走る音だけが、車内に響いていた。

 互いに手持無沙汰で、やたらと視線が交差する。その度に、どちらともなく微笑み合う。そしてまたあらぬ方向を見る。その繰り返し。


 やがて、乗客が減ったのを見計らって、適当なところに腰を下ろした。


「ふぁあ」


「眠いのか」


「やだ、おにいちゃん、見てたの。ごめんなさい、あくびなんかして」


「今更気にするような仲じゃないだろ。着いたら起こしてやるから寝てもいいんだぞ」


「ううん、大丈夫。いつものことだもん」


 言葉とは裏腹に、声に力はほとんどなかった。

 横目で窺うと、必死に意識を繋ぎとめているご様子。しかし、ふとした瞬間に緩んで、瞼が閉じかける。


 あるいは、話し続ければ。残念なことに、そこまでの話題は思いつかないのだが。


 電車の揺れに身を任せていると、いきなり肩口に重量感を覚えた。遅れて、甘い匂いが鼻をつく。

 見ると、そこには幼馴染の可愛らしい頭がちょこん。その瞳は、外界との接触を断っている。


 よほど疲れていたらしい。当人に言わせれば、いつものことらしいが、少し心配になる。

 同時に、そのあどけない寝顔を見て、どこか心が安らぐのだった。

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