第19話 弱り目に

 まず感じたのは、激しい倦怠感だった。同時に、ズキズキという頭痛を知覚する。そして、かなり熱っぽい……。


 何とか起き上がると、咳が出た。反射的に額に手を当ててみる。

 やはり、いつもより熱い気がする。


「完全に風邪だな、これ」


 身体の不調はもう疑いようがなかった。

 もう7月は近いというのに、なんてザマだ。我がことながら、馬鹿らしくて、情けない。


 原因も完全にわかっている。雨の中、自転車を飛ばしたせいだ。

 あの女の発言はある種フラグ、と益体のないことを考えてため息をついた。これを知ったらどういう反応を示すことか。今となっては、少しも予想がつかない。


 しかし、去年は一度もこんなことはなかったんだけど。それは単に、非常に幸運だっただけか。

 ともかく、ここまでの不調ぶりはしばらくぶりだ。


「もしもし、今大丈夫か?」


 とりあえず、枕元のスマホに手を伸ばして電話を掛けた。


「うん。どうしたの、凱。電話してくるなんて。なにかマズいことでもあった?」


「なんか風邪ひいたみたいで、学校休むわ」


「えっ、大丈夫なの! 母さん、すぐ戻ろうか」


 ひときわ声のトーンがあがって、慌てぶりがよく伝わってくる。


「……大げさだって。いくつだと思ってんだ」


「でもねぇ」


 電話越しの声は重く渋い。悩ましげな表情までありありと想像できる。

 こうなると、本当に帰ってきそうだ。相手の心配性具合は、一時期から加速傾向にあった。


「薬飲んで寝りゃたぶん治る。ただの風邪だと思うから」


「何言ってるの。風邪は万病のもと、油断したらダメよ!」


「へいへい。とにかく、俺のことはいいから仕事してくれ。じゃあ切るぞ。学校にも連絡しなきゃだし」


「それくらい、母さんがやっておくわよ。全く、変なところで遠慮しいなんだから。ホント、思春期ってむず――」


 長くなりそうなので、途中で切った。たまに話すとすぐにこれだ。

 いつもなら黙って聞いておくが、なにより今日は具合が悪い。こうして、座っていることすらしんどいわけで。


 スマホを放り、軽く気合を入れてから立ち上がる。

 ちょっとクラっときたが、構わず部屋を出た。ここまで酷いのは、本当にいつぶりだろう。つくづく、昨日の自分が恨めしい。


 いつも通り、家には誰の気配もない。

 俺以外の家族は、とにかく朝が早いのだ。朝食に全員が揃うのは、それこそ休みの日くらいしかなかった。


 リビングはひっそりと静まり返り、食卓には1人分の食事が用意してある。

 普段なら腹は減っているが、食欲は少しも湧かない。なんなら、胃の中がムカムカさえしてきた。


 スルーして、部屋の隅にある戸棚を漁っていく。たぶん、この辺に適当な常備薬があるはずなのだが……。


 どうせなら、確認しておくべきだった。

 いつにもまして回らない頭に軽く絶望しながら、ようやく見つけた風邪薬を飲み込んだ。



    ◆



 自然と瞼が開いた。


 気だるさは残っているが、朝ほど身体は重たくない。ひとまず、頭痛と熱は収まった感がある。

 薬ってやっぱりすごいんだな、と変に感心してしまう。


「……腹、減ったな」


 ぐーっと、腹の虫が存在感を発揮する。

 朝から何も食べていないから当たり前だ。

 のっそりとベッドから抜け出て、扉を開ける。立ち眩みはもうしない。


 瞬間、香ばしいにおいが鼻をついた。


 ――まさか、母さんが帰ってきてしまったのか。


 申し訳なさを感じながら、ひとまず階下へと向かう。無理しなくていいのに、過保護というか、なんというか……。


 しかし、リビングに入ったとき、その推論が間違っていたことに気づいた。

 キッチンにあるシルエットは、決して俺の母親のものではない。


「…………おばさん」


「あら凱君、お目覚めね。ちょうどよかったわ、お粥作ってたのよ」


「ありがとうございます。あの、どうしてここに」


奈津美なつみ――あなたのお母さんから頼まれたの。息子が具合悪いから、ちょっと様子を見てきてくれって。こういうとき、お隣りって便利よねぇ」


 おばさんはしみじみした口調で言った。面倒な頼みだったと思うが、少しも気にした様子はない。昔から、おおらかというかのんびりしているというか。


 しかし、母さんも余計なことをしてくれる。

 さすがに、全く予想ができていなかった。こんなことでお隣りさんに迷惑をかけるなよ、と思う。

 ただ、俺のことを心配してくれたのはありがたい話だが。


 この人に会うのは何年ぶりだろう。

 葵ちゃんほどの隔絶はない。それでも、あいつと同じくらいではある。

 隣り同士なのに、いつの間にか一番遠い存在になってしまった。


 こうして見ると、やっぱり娘のそれぞれと似ていて……いや、もちろん逆なのはわかっている。特に、2人共に最近あったばかりなので、余計にそう思う。

 柔らかい雰囲気はどちらかといえば、姉の方に似ていた。妹要素はとりあえず、声のトーンか。


 座ってて、と言われたので、大人しくテーブルの方へと移動した。自家製の麦茶が入った容器とグラスを持って。今は死ぬほど喉が渇いている。


 自分の家のはずなのに、かなり居心地が悪い。おばさんがウチに来るなんて、今まで数えきれないほどあったのに。


 ――あいつと一緒に来たのが、記憶の中で一番最後。時期的には、例の騒動から1週間後くらいか。

 謝りに来たということを、後で母さんに聞いた。そのときに、なんで言ってくれなかったのか、と言い争いになったのをよく覚えている。


 ともかく、その際に俺は2人に会っていない。

 部屋に籠って、母さんが応対するのをなるべく聞かないようにしていた。親まで巻き込んで、あの女への怒りに震えながら。


 だから、おばさんが来るのはそれ以来になるはず。もちろん俺が知る限りでは、だが。

 口ぶりからすると、母親同士は依然として仲がいいのかもしれない。


 渇いた喉を潤していると、ホクホク顔でおばさんがキッチンから出てきた。


「はい、おまたせ~」


「いただきます」


 湯気がたっぷりと上がり見るからに熱々の粥を、そっと木のスプーンですくう。卵が混じって、べちゃべちゃの白米は艶っぽく輝いている。


 息で冷ましながら、静かに口へと運んだ。

 薄味だが、とてもおいしい。優しい味とは、こういうもののことを言うのかもしれない。


 空腹に急き立てられるように、次々にスプーンを動かしていく。


「よしよし、だいぶ体調戻ったみたいね」


 満足げに頷いて、おばさんは俺の正面に座った。束ねた髪を解いて、エプロンを外していく。


「はい、寝たらかなり。――すみません、うちの母がこんなことを頼んで」


「そんなこと気にしないでいいのよ。もう長い付き合いじゃない」


 言った後、珍しくおばさんは少し浮かない顔をした。気まずそうで、どこか寂しげいにも見える。そんな表情。


 理由になんとなく察しがついて、俺は食事の手を止めた。


「……ごめんなさいね、楓のこと」


 つい最近もどこかで似たような言葉を聞いたっけ。

 やっぱり親子なんだ、と少しだけおかしくなってしまう。


 グラスに入った半分ほどの麦茶を飲み干すと、熱くなった身体がすーっと冷えていった。

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